スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

呼吸するスピリチャル,

日が明けては,天台の題目朝課=精神呼気=上昇より下降, 暮れて夕方は,同じく念仏晩課=精神吸気=下降より上昇の, 朝には,霊的な食事を,晩には,精神的な排泄を,それぞれ。 栄養の摂取のように,霊性にも同じく排出吸気や,摂食呼気などの, 分野が,ちゃんと呼吸しているように決められている。 けだし, 題目一座の,呼気をするのみで精神的な高みを目指す宗派もあり, 僕は,どちらかとゆうと,循環サイクルや,整理だった統合美は 性に合わないから,詰め込み詰め込み,破戒して気付くような。 そんな一般的芸術論に肩を寄せたい。情熱,情熱だ。と,言って 普段より頭の破裂しそうな抽象思考態で居るのは,もちろん。あの,
”平和”を装う,絢爛美々たる豪華な衣装に,シュタイナーの初期の
”自由の哲学”に,思想を与したいがため。その情熱,情熱だ。と,
六月の梅雨明け初夏に向けた動きの天候気候。窓を明け放し,そろ,と。
ムカデのいつの間にか,ストレッチ・ポールの間になんて挟まれている。
寝る前になってごそっと音色を感づけば,普段よりムカデ・コロリなどで
対策をしている分,ムカデ・キンチョールも我が家にはあった。
そうして,
階段まで持って降りて,シューとひと吹き。けれども,夜中にはうなされる,
うなされる。うなされるも良いところで,やっぱりそんなところでは,自然の
付き合い方とは様々だけれど,シューとした夜なんかは,情熱だ,情熱だ。
と,言って,回避する。生きているものは尊いのだし,僕も腹を括らなければ。

括り方もいろいろあるので,僕は,やはり情熱一座に掛けて,もう一心に, 危うきは君子も近寄らず。妖しさ=怪しさ=危うさにどんどん近づいて行く。 愛だ,愛だ。愛は,生きるものの情熱=危うさ=尊さだ。って,どんどん。
その”業の泉”に浸って,廻るダルマ・シールド・リンギングに鳴って,あの, 神とも,悪魔とも付かない,生命のダルマ・シールドにエンコードする,では。 情熱の行方は?天の裂け目に黎明のみえる,優しさは充満している。している? では。 思考の貫く,身体性の堅固な”果皮は,どこまで果糖を抑えられる?”リンゴの 落ちた,ニュートンの樹からは,イエスの滴血のように,リンゴ・ジュースの 溢れて止まることを知らない甘い匂いを漂わせているので。 思考の堅実な循環サイクルは,その果汁の溢れる時に,”運命”の…
最近の投稿

シンプルなコダワリ。

誰のためとも想わないで,左回しに珈琲を淹れる。この
シンプルなコダワリしか,伝わってゆかないもの。わかって
いるけど,思考が現実次元への橋渡しで,堅実な嗜好を持とう。
水風呂の半身浴をして,その思考のコダワリとゆうものと対峙して,
あのヒステリクスなシンプルさを研究してみては,”残酷”さへは,
それになってみないと,解らない。コダワリはシンプルさへ,
堅実な思考は,残酷なヒステリクスへと,嵌入してゆく。それは,
大国主にとっての天照さんのくびき。大物主にとっての卑弥呼の。
そうして,太宰にとっての芥川。今川義元については東照宮の。また,
イエスにとってのヘロデ王の。弘法大師空海にとって,伝教大師最澄の。
そして,九郎義経についての頼朝公のような,知性と体的論理もまた,
堅実思考と,知性的桎梏の間に立って,常に,橋渡しする,思考の論理は
業のヒステリクスと対峙するための,必至な理論で,不屈の態勢。

つまりは,必然の堅実な思考によって,偶然の脆弱な世界へと対峙してゆこう。 今は圧倒的に,世界のほうが神の意志を現す堅固な残酷性に映るけれども, その心眼には,きっと,もう思考の眼には映っているはずだ。脆弱な世界, これを支えてゆけるのは,堅実な思考以外にあり得ない。何らかの脆弱さを 支える,支点の要るのだから,シンプルなコダワリには,思考の支点。
思考自身でモノを言っていけば問題はないのだ,抽象思考,あるいは,また。
コダワリに具象の地下源を通り抜けて,抽象の泉へと湧き上がってきた清水の,
お茶を呑む,珈琲を淹れる,喫茶の源流はこうした,抽象思考のOwnerによる,
思考に切り裂かれた,どん帳の明るさは,舞台のOPENなのだ。思考,思考の
純粋さは古今より叫ばれて来たのに,その明るさは垣間見えた気はしなかった。
純粋抽象思考は限りなく明るく,具象の混沌とした網目を潜り抜けて,すえの
開かれた幕明けなのだ。思考の明るみ。

抽象思考だけに傾注していればよい。そうだな鯛焼きの餡は粒あんで,あの, 珈琲シロップは,ブラウンの,白い鯛焼きじゃないよ,そうゆう意味ではないの,あれ あれは,薄皮のパリパリのだよ。もちろん牛皮は這入ってないやつね。そんなことを 考えながら,牛皮は這入ってないやつね。とか,言いながら抽象思考できる訳ない。 もちろん,思考に活きるには痩身で,背筋の入った,ヨ…

放心して繋がる。

洗濯モノを干すのが苦手だったのは中学時代。まさか,
自分が,放心して忘我して喜捨して,洗濯モノを干せるように,
そんな無我恬淡の大人になれるとは,想いもよらなかった。ただ,
本当は苦手なのだ。日用品作業とゆう,地道なコツコツ型の仕事。
なので,放心して繋がる。喉仏には自己と繋がる鍵の隠されている,
そうやって,ストレッチ・ポールなどを使って,センタリングする。
それだけで,黙想しているときなどは,自分に戻られるし,いまや,
目を瞑るだけで,一緒くたに全部,包括して許せるような気さえしてくる。
だから,つまるところ,放心して繋がる,この月の出の満ち欠けのような,
循環サイクルの必ずしも要るものだろうか。循環は必要なのか?朝も昼も,
夕べも深夜も,入れ換わっては,風の声も変わってくるのだろうけれど。

甘いものが欲しくなってくる。センタリングして繋がるためには,失調気味より
甘いものが欲しくなってくる。愛の感情は,砂糖からも摂れる,と聴いたけれど,
センタリングして,繋がる。これが愛なのか。攻撃的に,先鋭的な前衛芸術の中に,
むしろ,直接的な”愛の生起”する気のしていた僕は,どちらも愛だろうか,もしくは
センタリングしている,中心の温かい愛とゆうものに,健康の精神衛生をみるのだ。

センタリングしている,愛の感情と。前衛芸術の行動にみる,鋭い知性と。それは,
例えば,ひとの見えない,ある別の宇宙の人たちをみることのできる,チャネルを
もっているとして,そのチャネルをまた別次元にひねまわす。音量や,画質はむしろ
換えないで。閉塞的に,物質主事に閉じてしまうこともできるだろうけれど,チャネルは
閉じるものではない,廻すものだから,もし”電源を消す=閉じる”行為に及ぶときは,
それは,”音量=周囲の生命感”や,”画質=意味だらけの世界”に,辟易してしまった,
そうゆうときなのだろう。そうでもなかったので,チャネルを廻すことにした”彼”は,
ふいに,憑き物や,鎧の張った身体から,執着展着の瓦解してゆく様をみるのだ。

砂糖のシロップには,べとべと着いて回る,そういったアイス・コーヒーの爽やかさとの
裏表。口にしていては,熱さも感じない,酸っぱさも沁みない,けれども,また触れると
刺激物だったりするそんな砂糖のべとべとした執着のような触感は,もうすでに,表の,
爽やかな,サマー・シー…

”逃げ”のテーマ。

エスケイプとゆう言葉の”意味”の流通していた時は, 良かっただろうと。自己否定=エスケイプ。こんな, 当たり前の自己教育の忘れられた時代性。実際は,そんなに ”逃げ”のテーマに活きている訳ではないのだけれども。 意志だけ残って,無意識下の行動だけ遺る。融合したとは言え, 表現は,自由のもとでもやっぱり珈琲を呑みながらするものであるし。 限定vs.非限定を行きつ戻りつしながら,のこるものはやはり,その 表現そのものであって,無意識下の行動だったりするものだ。なので, モノづくりの思考態である時は,扇風ファンなどの音は要らないものだ。 焦るのも徳のうち。効率化は摩耗させるもの,けれども,瞬発力は一瞬。 摩耗させるより,瞬間の轟きの雷鳴のなる夜に稲光を観た。それは, 電気は停まる事を知らない回遊魚なのだから,一瞬で片を着けたい自己扇風。
床拭き掃除を毎朝の日課にしている,モップ履きの真っ二つに割れて道具を
失い,ゆるりゆるりと,水拭きのさらりさらり,道具の故障で磨けずに,
おさらい拭きをして思う。『こんなこともあるのかあ。』そうして,実家の
棚にしまってある,瞬間接着剤を見つけて拝借。モップ履きを修復した際の,
なぜだか『こんなこともあるのかあ。』道具や日常のツーリズムに必要なのでは
なくって,ひたすら,無意識下の行動に裏打ちされていたのだ。って,気づく。
何かに追われている?いやあ,感情と”逃げ”のテーマは,裏腹なのだ。だから,
過去と未来性でもあるのだけれど,エンパス指向には,思考の禁じ手も,また
結局,意志だけ残って,無意識下の行動だけ遺る。融合したとは言え,
表現は,自由のもとでもやっぱり珈琲を呑みながらするものであるし。
限定vs.非限定を行きつ戻りつしながら,のこるものはやはり,その
表現そのものであって,無意識下の行動だったりするものだ。なので,
実際は,健康状態の維持には,扇風機のファンは廻り続けるし,灼々熱々,猫の
ファンを必要としている様子を垣間見ながら,心配する,暑さには強いらしい,
けれども,暇なときに扇風機のない気配を見て取れる,自らの生き写しのような。
融合と,”逃げ”と,またエスケイプと,自己否定。そんな意志の残る,活動の源泉には,
時々に,汗かき,また内輪の茶会の心解きほぐされた感慨にはいたって時代性エスケイプ。

もちろん,猫ちゃんの涼しい夜を想っては…

人間性の過去=未来。

人間性における,過去と未来,伝統と空白虚空の,これを, 例えば,ヒステリクス。一語に置いて考える,胃腸=腺組織の 何らかの関わりを現す消化線の,あれやこれや,これを,例えば, ヒステリクス。一語に置いて考える,胃腸組織と考える脳髄のこれを, 消化=思考の嗜好態として,ひとっつにしてしまえば,一言に楽。なのでは? コーヒーを呑みながら,一服して想うのだ。やはり,栄養失調や,暑気あたり。 憔悴昏睡まぢかに,マヂか,身体の応えて,業のヒステリクスとの寄合いを, 想定内に考えて策定します。オプション,オプション,”メイデイ”のように, 囁いては消えてゆく。人間性における,過去と未来,伝統と空白虚空の,これを, 例えば,ヒステリクス。一語に置いて考える,詰まりは,逃げ切りたいのだ。 ”逃げ”をテーマに,逃げ切ることを考えては想って彷徨う。咆哮の芳香。それの 見事なる,”逃げ”をテーマに,甘藷の割下より逃げようとしている,そんな僕の ”彷徨いつつ行く”のが,”逃げ切りゲーム”の醍醐味なのか?なかなか,レースの 終らない。終わった時には,きっと,腺組織はすでに,筋肉と化して,鉄板の心を 夢に見て,レース振り返れば,逃げ切りなんてありえない,結局,そんなの嫌だ。 酔っているのか,業の泉。
答えは,愛だとも,ジョンは言ったけれど,答えは,自己同一化,きっと,”ない”から
求めるし,逃げ切りのテーマに,自己を自我より避けて,逃げ切るから,ライフはおもろい。
過去性とゆうテーマにしたって,オリジナリティは本屋さんにゆけば,ごまんとたくさん。
自己同一性?そんなの退屈だって,ジョンも言ってたじゃんか?三島文学の由縁も,
文学の消滅を想って描かれた,って論評で見詰めたし,未来性?これにミカエルの宿る,
アントロの言説にも前もって,書かれた言葉は無きにして,そんな”恒星言語”を以て。
対峙する,求める,答えを追及する,廻る惑星は空っぽの中心のない,では実践は,
行動するのは,栄養過多だから。絶食して,業のヒステリクスの浮かび上がり,それらと
アイデンティファイするようなそんな感慨には,多分もう,逃げ切りの終わる。

ROLL ROLLER HOUSE,そうだ,そうなのだ。転石苔の廻れば時間の消滅する。いっぺん なくしてみる,栄養失調が終わっても群れ為すよりも,ないほうがいい。集団性の皆無。 …