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投稿

搾乳するように珈琲を淹れる秋の日に

いよいよ堰を切ったかのように,珈琲をドリップする習慣の 再スタートで,しばらく保存してあった豆は,実際にはあまり 美味く感じられなかった。三島由紀夫のインタビューなどを, きつっと聴いていて,急に呑みたくなったし,限定的な,その 口調の良く言えばハッキリしたモノの喋り方にしても,本当に 良い面しか受け取られない,そんな夕べをシトシト降りながらの 珈琲も,搾乳するように珈琲を淹れる秋の日にと言った,そんな 感じに,一気飲みぐい呑みに,したたかに喉を通る,粗挽きの ドリップしたその苦汁の一滴一滴には,桎梏の作文作業の映る。
小説は,潮騒ほどしか実際の所,読んだことはなかった。むしろ, 触発されるのは,若きサムライのために,など人文的な論壇における 口調に到って思春期のかくあるべく触発されていたので,本当に され過ぎない程度に,書を置いて,なんだか,しっちゃかめっちゃか 動き廻っていた二十代には感謝しつつ,今となって,まだ三十代半ばの 今更サムライになれる訳もない,とゆう体力に限界を設けては,実に 電子書籍には著作権の問題なのか,ほぼ三島文学はないのであって, なので,ぼくはフラ・アンジェリコの画集や,サド侯爵の著作検索など 行きあたって君主論など探ってはみたものの,今より三島文学の面から 文芸的な,歴史著作群に思い当たる所はないはずだったので,さては 美しい星などの,最近の映像作品などを当たるか,このヨーロッパ主義の 苦汁のロマンチシズムの匂いのする,雨の日の淹れる珈琲の余韻に浸って, とにかく,神棚に三島文学を形骸的にも据えて,ぼくも精神的に復活しないと いけないのではないか?
珈琲は出口を造る。快楽物質の感受性ポイントを,少なからず開いてくれる。 美味しくない珈琲などありはせぬ,自然の象徴は人間にとっての美味の成否よりも, そこに現象化する珈琲豆の神秘そのものだ。 モカの産地は,エチオピアとイエメンの両者に渡っての生産者によるモノで, イエメン産は,あまり量販店では目にかかることのないように感じるのだけれど ドイツ的なイエメンと,フレンチなエチオピアの印象のする,そんな感じによって, エチオピアのキリスト教会遺跡群に,地下に渡って掘られた礼拝堂にて,イマジン, 祈りに徹する機会はことごとく消えた。なので,ドイツ的なイエメン産の豆によって 祈祷よりダンシングして,…
最近の投稿

かかる調子の,トマトソースにベーコンを,

すこし調子にのってしまい,書店などを訪れた際には,喉の 乾燥して誘発したのか,咳のすこしブリ返してしまった。やっぱり すこし,この乾燥性の風邪みたいなモノは,ちょっと流行っている位, それでも,届け物があったので,片道五分位の道程を歩いて,渡すために 散歩しながらフラフラしてゆく。外の大気を吸い込んで,楽になるのはいい, 気分転換に身体も動かさなきゃなあ,そんな気持ちで歩いてみるのだけれど, 道程その道のり,意外と軽い気持ちで,帰って来ては,昨今三島文学の,その ファッションとゆうものに惹かれて,サド侯爵や,フィレンツェの光景など, あるいはフラ・アンジェリコの天使像を思い描きながら,上滑りして,業の 上にも三年,淡々と軽快な,渡り歩いて行く文学性の姿を想像しながら,遂に その切なさ,胸の痛み,茫洋とした感受性のくびきより,何か統合されるような そんな,幸せと喜びの邂逅を,僕自身の想いを連れてきては反芻する文学性の そんな最中に美味しい珈琲を,頂きたくなる,茫洋とした感受性とは,晴れる前の 霧の摩周湖,晴れる頃には本当に日本晴れの空気を漂わせて,かかる調子の, トマトソースにベーコンを,半生のチーズを加えて,酸味だけを体験する,その かっちりと,グッタリした身体の骨組みを直すような感性で,帰り道を歩いて行く。
カマンベールチーズとザクロ果汁,厚切りベーコンと完熟バナナの取り合わせなどを
イメージしては,実際はザクロのジュースを呑むだけで満足し,ベーコンはそのまま,
完熟のバナナにいたっては,まったく普通に豆乳とミックスして頂く次第,単品からも
色々な取り合わせに感じられる食材の神秘は,実際にするかどうかではない,そう何かの
物語り性を潜めて持っている。こんな食材談義を病み上がりの中でしながら,本当の
休息とは何か?を考えてすすんでゆく。散歩は良かった。歩き過ぎはキツイかも知れない
けれども,喉も変声期みたいに潰してしまってこの方,表現はこの位何気なく始められる
タブの樹の大きく実る親くの公園に行っては,上を見やりながら握り飯をほお張る気分は
家の中に滞りながらだって,感じられる。そうやって,無理にでも出かけて,今の時期は
急に冷えたりもするでしょう?おにぎりも,冷めてしまっては,美味しくないはずなので
いや,いやいや。冷めて頂くのがおにぎりとゆうものでしょう。だ…

終電間に合うように,お抹茶啜りドアを蹴る

あまりに神経質になっていたせいか,肝臓の疲れなのか,また プライドや,思考癖に潔癖症を付け加えたものも,その肝臓の 疲れによるもの,と独断に断定を加え,また終電間に合うように, お抹茶啜りドアを蹴る。揚げ煎餅か,あられなのか,あまり区別の 付かないお茶菓子を頂いて,実際にお茶を啜り,帰りに会釈して エシャロットの塩漬けなどをパリパリ噛むことを心待ちに楽しみに, パスタも細麺であれば,ツルツルとコシのある(,とゆうのか) のど越しを感じながら食べられそうだ。茹でたてのパスタの事を 想像しながら,帰途に着く。
珈琲を,病み上がりに,どうしても受けつけなくなってしまった。 多分,あまり良い豆を択んで来なかったせいであろう,そう合点は いくのだけれど,本来,情報産業のPCを点ける位なら,当然のように 行う事のできる感性にも,なかなか自動車を駆け出させて, 行楽にゆくというような気分には,悠長にも,そうして,うかうか, 言ってられないような,そんな気分なのである。
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お茶を,啜る。本来水分を摂る目的の生理欲求に親い行為のその事は,
いかに贅沢に映る,まるで小春日和,春一番の吹き荒れそうな,こんな
のどかな秋の昼間に,Wi-Fiが入ったり,はいらなくなったりしている,
端末の選択画面に構うことなしに,実は,焦燥感にあふれた我が感性も,
ちょっとは睡眠に興じてみたくもなるのである。昔は,すこし暇のあれば
スヤスヤと仮眠を執っていたものだ。けれども,実に五年くらいのこの方,
緊張感に苛まれて,なかなか,リラックスしてないのは,肝臓の疲れの,
昼に頂く,おにぎりに具を何を挟むのかさえ悩んでしまうのである,それは
美味しさへの追及か?はては,すこし眠りを誘うような,消化の心地いい
そんな具合いを目指しているのか。

脳内のはみだす勢いを,とりもなおさず快楽と称して,暴飲暴食していたのを 祟られてのことだろう,風邪を引いたのも,そういったすこしのちょっとした, 隙の空いての事で,罹ってしまったので,その脳の調整機能は,はみだすことを 躊躇して,敬遠しているようなのである,だからこそ食事が旨いので,もう, そんな空腹時以外の嗜好は,誰かと楽しむ以外にはさておいてとっておき,ある 諦めのムードといったもののなかに,ミニマルな自…

幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。

表現,とゆうあふれだす何かの想い,エゴイズムより,もっと
何か繊細で,吐露してしまうような,自他一体となっているような。
表現自体は,恢復期によく産まれてくるような感じで,病み上がりの
克服して,憔悴からの燃え尽きてしまった塵灰の精神からはあまりに
みずみずしい潤った表現は,発生しにくいようである。そうなので,
もう,あまり欲しなくなったアイスクリームを朝ご飯の代わりに,
それでも何か摂っておこうと口元まで持っていくと,すこし黙想する。

ヒステリックと呼べば,悩み多く感じられるとは言え,そんな尖った, いたずら心を,強気に隠しているような所は,魅力に感じるし,そして 賦活されて惹かれるし,精神的な問題にしても,そうゆう,いたいけな 悩みのほうに,悩み自体のヒステリックさの方へ,段々みちびかれてゆく。 ヒステリックな悩みとゆうもののあるとすれば,それらは,細胞分裂の豊かに 起こっている,身体の節々に,何らかの酵素などの誘発されて感じる,あの 生命力の一部を,とっさに,そうゆう風に感じているだけなのかもしれない。
相変わらずも,まだ,身体のコンディション調整は終わってないと感じるためか 珈琲を挽いてドリップするまでの習慣は戻ってはおらず,始まっていない。それで お茶を目の前に置いて,パシャパシャと,眼前の情景を写真に,撮ってみては その裡,何かに感情を加えて加工して投稿しようとゆう気で,自然に置いている。 アイスクリームをつまめば,すこし食べておかないと,くらいの前向きさは浮かんで ほんとうに不可思議である。食欲はないことは,ないこと自体の不可思議さである。 そうめんを堅めに湯掻いて,ひきわりの納豆とぶっかけで合わせて頂く。すこしの 元気は出てきそうで,なんだかほんとうに気力も萎えているのか?よくわからないほど。
ヒステリックな悩みとは,言ってみたものの,朝の外気に,樹々の囁き掛けてくるような そんな気概も,そういった,爽やかな鋭さを感じさせて,それらの尖った感じでさえも, すこし強烈に火傷してしまう点,自然が換わってしまったのか,はて,自分自身が懐疑の 精神に寄りかかって,鋭い視線を他者に向けまくってしまっているのかさえ,それ自体の よくわからないままなのだ。幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。月の明りでさえ, 肌の灼けることを,つい最近のお月見で知った。お茶の香…

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』と, こんな一節を諳んじてみては,確かに起きた頃は女神のような と,ある種ヒステリックな情感ほども感じさせる情緒を体験して 段々,覚醒してくる毎に,業のエネルギーとでも言うのだろうか? なにかしら轟音を携えて何かの天体の廻る気のする,そんな日頃。 気にならない場合も,多々あるかもしれないが,肩の凝りのピークに 達した頃には,神経の尖って,繊細なこんな事さえ気にしてしまうのだ。 だから,何故?を繰返して,自分のオリジナリティやルーツの謎解きに 矛先を傾けて,そっちのルーツ探しに躍起になっている振りをして, その神経質な風体から逃れるようにして,潜りこんでしまう精神衛生。
ひとつは,妄想癖についても,空気が読めないなど,昨今言われた状態に, 似ている部分はあるにせよ,妄想癖によって,他者とのコミュニケーションが 計りにくくなることになってくることについては避けたいし,そうゆう自然との 息の取り合いや,コミュニケーションとは言っても,世間からの風当たりに, まったく放屁して逃げるような体裁で対処するのは止めたいとも,感じるのだ。 傷ついた心は,傷の消えるまで,覆いかぶさるように被虐する他者を必要とする, それは,感情の処理の問題で不思議な事でもなんでもないのだけれど,何故? この傷ついた心に,一瞬の自己否定の産まれて,何故?と自問したココロのあれば, それは,妄想癖はあったにせよ,空気は読めているだろう,このふたつの結び付く時, ひとのこころは,分水嶺のように,我が精神の似たところへと結びついて拡がって行く。 感情のあふれるところに,ひとに届く奔流のあれば,やはり氾濫には違いないのだ。
感情の氾濫の人に届くところには,やはり当人に返って行く,奔流の戻り道もあって, それは,ぼくにとっては,恐ろしい姿でもある。そのシステムを,伝えてあげたい。 と,常に,『幸福は,耽溺しても良いものか?』とゆう議論は平行線をたどって来た。 喜びの絶頂は避けるべきだ,脳天にまで達してしまえば,忘我を超えて,我を失って, それは,退廃を産むだろう。とは,自論であった。家族の中には,いちばん身近な者の なかに,思春期の姿でもあるのだけど,喜びを否定するなんて,おかしい。と,有頂天の 喜びを追い求める兄弟など居たのだが,やはりそれは間違いだとも…