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投稿

ヴァレリーのエーテルオーラは擬人化された地球。

アベルやアブラハムの肖像を描くターナーのような、あの人格はベタニヤのマリアの香油そそぐ、擬人化された地球のオーラ。 エーテルの殻を剥いだ時には、真空の青い円盤が、弧を残して 輝いている、芝草の上を歩いたソックスの置いてあるこの人格に。 ヴァレリーの草稿をモノにして、この篆刻にも似た活版印刷のまた。 薄いコーヒーをウーロンドリップでいれながら、この世界の不思議は 結局SKY DISHをSaucer of Socksで運ぶ人格神の心地は、その結果。 世界のDAZAIが、ベタニヤのヴァレリーに、エーテル態の香油を、 存分に沢山そそがれて、潤沢に性格の心地を無我恬淡に忘我させられ。 この夕べの湯上りにはシャボンの全体的主観性の発露されるので、 温かい、夜辺の猫達は呆然と眠りこけて。その代り、蝋梅の匂いする。
LONDON ONEとは誰なのだろう?漱石山人?だとか、あれ。 ツタンカーメンのまた、モーツァルトの、またミレーの、そうして シュペルヴィエルさんの、そういった、系譜の存在を夢想する。 ザルツブルクのベゴニアの花、岩塩とともに頂く、スコーンの 紅茶にまざった、香りの含む、巌になったよう、巌になった。 ヨゼフのマンと、マリアのヘッセ。バプテスマのシュタイナーによって 太宰のイスキリの大部分存分に、この謎解きLONDON ONEを。 プリンキピアを解読する、ラッセル教授の辛苦を想えば、あの トマス=ダヴィンチ=ブロッホの、桜見に1月の夜桜スコーンに、 酔うのであって、神秘とは、一枚岩になった二重人格の、 とりあえずは、ヴァレリーエーテルの殻をめくっては、また。 春の夜の微睡み。これは、ずっと獅子のmoleの謎解きよ、彼の LONDON ONEの正体を捜すのだった。
人の酔うのは、みずから異星人であるとか、異邦人であるのだと、 そうゆう、一瞬の忘我を求めてのことだろう。と、しては 一度、惑星をはなれてゆく、放心して放棄する地図の上に、とある 異質な自己ならね自我をみとめる地点、このポイント部分を、 わたしである、とみとめよう、とロマネスクの語るのだった。 はっとして、業とゆう、必要以上に、とゆうか、平均以上に、とゆう、 執拗な真面目さを持った、業の上に知悉するLONDON ONEの、 この枕にヨダレのこして起き上がるときの、あの顔面寂寂として。 真面目さとは誰か?この問いに換わって、切なさは誰か?とは 哀切さとは誰なのか?とゆう質問に替…
最近の投稿

ロマンスにミルクティーかざしてながむるは朝。

ロマンティシズムに知悉しすぎて、リンゴの皮をむくのには
例えば、アマデウス=ミレー=シュペルヴィエルなどのような、 やはり、それも思考の果皮に過ぎず、歴史の趣味に変わりはしない。 獣神の親父さんのルシファーパパの面持ちが浮かんでも、ただの 宇宙船地球号の乗員としては、昼夜の自然法則に適うように、 夜には就寝に床に横たわる、この気持ちを果皮をむく、知悉画蒐の 歴史の趣味は、天然理念=自然の証拠集めである。として、 ロマンスにミルクティーかざしてながむるは朝。なにごとも、 なかったかのようにして、サディズムは攻撃性ではない、愛の表現とゆう そのあたり、芸術はずるいところをいだいては、その大海原には 難破した船がたゆたっているだろう。どんな、木片にも、あの うるしくらいの勢いの強さはあるのだから、生姜と焼酎と胡麻油の 即席湿布で、木片の毒による腐敗を抑えるとゆう、あれはまた ただの生姜焼きのレシピだったそうな。かぶれを避ける生姜焼きの "うるしよりかぶれを避ける生姜焼"と来て、季語ははたして わからずも、はからずの秋めいて、あの青空はまた彼の紅潮を呼ぶ。


水餃子には,油を使わず調理して,溶けだす小麦の皮包(かわづつみ)に 舌つづみをする心地。糸こんにゃくも,あまりローファットな食品であるから, それで,白菜のミルフィーユ鍋などこしらえて頂く際には,蓋をするようにして 上辺に置き,湯気の吹き出すまでゆっくり熱を加えて行くのだった。例えば,あの 世界全体を考慮しているものだから,吸血鬼のように寝てしまう,思考癖とやらを また,水餃子とミルフィーユ鍋のように,ノンオイルで調理するような按配で,さて お風呂釜が焚けてきたので,タイマーの鳴るように食後の夕べには,もう意味のある 何らかの夕餉の匂いなどは,寒風に去ってゆき,いまはウーロン茶によるドリップで 珈琲を啜っては,無意味の世界を包括する,その嗅覚を失うほどのあまりに,思考癖。 かと言って,チョコミントや,クッキークリームや,キャラメリゼに押されてしまって すっかり少なくなった,チョコレートのアイスクリームとやらに,なぜだか身体の暖まる そんな季節の変わり目を見詰める風情によって,その薔薇やラベンダーやジャスミンにも 並ぶようなフレーバーにて,チョコアイスを頬張る。
ポン酢は家でも作れることに気づいてからは,お醤油とみりんと…

愛する樹の葉が、光の子どもを宿す、木漏れ日の哀切こもごも

悪意は常に,攻撃的とゆうより,お節介で,なので善意は常に,
受け身でだから,攻勢にでるときなどは,その受け身のピークに
至った時である。とは確かならぬ,確信を不幸の裡に授かるモノ。
なので,逆に言えば,被虐の中にその”確かならぬ,確信”を得た
のならば,常にそれは,宇宙の引っくり返って,右脳が左脳に,
奴隷制が貴族社会に,また自由が絶望の内に失意より暗黒の幕を
引き,知性とそのグリッドに掛けて,耐えることを良とする法則。
零れ堕ちる目から鱗の数々。耐えることにより,知性をゲットし,
その逆説において,また,貴族社会が奴隷制に置換えられないよう。
ぽろぽろと,目から鱗に,絶望が諦念めいてあの,知性に換わるよう。

”自我の表明”は,他の区別なく『私』は,その世界であるとゆう宣言で。
カンディンスキーの抽象的な原色や,ロシアの知性にその源流を求める。
あれは,確かにドストエフスキー。『罪と罰』を借りて来て,朗読の
ファイルをスマホに移す。彼は,確実にキューバ革命の中にも,また,
サンクトペテルブルグの治世にも居たのだった。山師カリオストロとゆう
響きに,どれだけ震顫したことか?また,聖テレーズの宣言は”自我の表明”。
彼らに,うわさ話の集団魂の使命を聴いたのならば,一気に一括個的処理を,
その,知性に巌は打ち砕かれるので,転石苔を生ぜずとは,元来転ぶ石自体の
何処にもなかったのだった。
さては、女神のような上杉謙信公と、美少年の敦盛像に、あの 局長時代の近藤勇の肖像と、そうして、猫町の萩原朔太郎氏など、 自らの業は瑞々しく解けて行く、祟り神の因縁の想いに親くて、 まだまだ、身体の中には、そういった、フェミニズムの葉隠の、 蒼々と流れては行かない、堂々としながら、青くさい匂いの、 こんな、流動的な業の姿を見るに付け、眺めている山頂の景色に、 どれだけ、どれほどの、貯水源である雪原の積み重なるのかを、 椅子に座って、湧き水を啜りながら思い馳せるのだった。また、 大学の構内に、手すりの脂の載った木目調を見詰めることの、 また椅子に座りながら、おでんを啜り上げることの、薩摩揚げ。 あれが、一番いい。と。言って、とりもなおさず、雪原を 我が物顔に跳梁する、心地は、雪景情感の、事の由かな。と、
木目調の照り返す階段の手すりに触れてから、おでんの具に ありったけの赤貝や、ゆで卵などを、加えて、味噌と練り胡麻で、 …

知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。

猫分けとゆう世界の不思議は,最後すこし残りをあげる事によって, その先に食べるかどうかは別として,残りものの福としての,あの 世界の不思議。知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。 なので,業とゆうものを見分けた際の,猫分けのような,自身の透視は 『残っている福とゆうのは,”結局,赤の他人で,また自分自身である”』 と,そんな,”ギフト”であり,歴史の遺香のごとく自動的にデジタルな, 僕にとって,この一概に青豆の薄皮みたいな記憶の触感は,こんなまるで 記憶領域内のデジタルな贈り物なのだった。さては,分け入って,こんな デジタルな自分史の扉を紐解いてみよう。
桜田門外の井伊直弼翁は,非常にてっちり鍋のような分厚い,重厚な,その
徳の篤さに,頭脳の厚さも幾重にも強い将軍様だったように感じるのだ。
薩摩藩士の1人含まれていた,と伝わる,水戸脱藩藩士による企てによって,
この,雪の夜の考察の時間には,あの事件の経過が,ふと想い起されるのだった。
雪景を,ながめて諦念する呼吸の,また一概に言えない景色の無常さに, また僕は,異様なほどの太母の介入めいた精神を感じて,井伊公は, 本当に,諦念のかたまりだった。など、相槌をその高杉晋作や龍馬の 面々に打っているのだった。この,雪の降る太母の夜更けに,僕は 何だか,珈琲の抜けて行く真実味のある,しんしんと降雪音を感じ, 免疫とは,記憶の交錯に内側から語りかける,そんな物語りなのだ。 合点のゆくまま,ノートを閉じて,ふたたび,プーアールドミルクなど 傾けて,諦念。諦念,のこの二文字によく,時と情緒の十字架を みるのだった。時間は横軸,縦軸に情緒の来て,ようやく切なさは晴れる。

晦渋の切なさが身に滲みて溜息に換わる,雪の夜の話しに,むしろ渋い珈琲豆乳を 組み合わせの悪い,ジャスミン珈琲などに替えて,センブリ茶のように啜るとき, またこうして寒さも感じないほどに珈琲の抜けてゆく感じを物ともしないさらには 雪の夜の静けさよ。もう,渋味は諦念とゆう,性格のシブに換わって行くのだから, さては,言葉通りのあきらめて,ふっと一息ついて,ダンディーな嘆息に更けよう。 究極の所は,記憶の残らないところに,過去とは隠れるのだ。
あきらめ,あきらめ。溜息,嘆息。珈琲の抜けて行く感じは,こんな風景を身体に 染み入れさせる。ヴィジュアルで言え…

狐のDomestic PropertyとハートのWhite Holeは宇宙ボムを交換するのだった

珈琲を深夜に淹れて呑む多幸感を、例えばスサノオの天詔琴や、
オロチの尻尾より現れ出た宝剣のごとく扱って、総称して、 宇宙ボム、と呼んでしまう。或いは、イザナギの黄泉返りによる、 産土の祝詞と替えても良いだろう。なぜなら、Domestic Property野の、 このヒステリクスによる側頭葉より、宇宙ボムは、破壊神にしか 扱われないので、(以前、右側頭葉は、Domestic Propertyと描かれて、) そんな扱いを、避けて宝剣を振りかざすのなら、White Holeの、例えば ハートの優しさや諦念によって、ただ、概念交換にだけ想い馳せて 取り扱う。そんな岩戸開きのような想いで、産土や天詔琴を鳴らす。 この祝詞のように響き鳴らす、開放的な宇宙開闢宣言は、やがて このKARMA SPRINGを明示して、僕の心の闇を照らす、珈琲の多幸感。 闇が深ければ、また光も輝き出すので、あって逆説的に"それ"を用いて、 情報運用をしていたのが、KARMA SPRINGだとゆう太母モノクローム。 イザナミ母神より乖離して、まるで、小さなインプラント免疫を付けて その闇より抜け出すのだった、けれど、KARMA SPRINGとは、 そういった、心の闇による、稲光りの輪郭を表現する作業だと 気付いた時には、その諦念も、これらの文章と共に薄明に消えてゆく。 いずれ、輪郭もハッキリする必要もなくなった、真昼の明るい世界には 宇宙ボムの幻影も跡かたなく希薄にかすんでゆき、その 多幸感による、深夜珈琲ドリップの鎮痛剤的な効果は、一瞬の 腰痛ばなれを達成して、良かった。寒さはエネルギーを奪うが、 けれども、記憶の面で、KARMA SPRINGは、宇宙ボムの 開放処理を試みたとゆう事だけ、明記する。なんだか、珈琲の メタファーは、あまりに複雑で、明示するにしても難解なのだった。
この先は、どこへ行くのだろう?あまりに、指先は冷えて、 お腹の空いた、脳内空腹感は、知的な観照だけで、 ひと段落した後は、ゆったりブランケットにくるまっていよう。 宇宙開闢?そうだ、そんな感覚を憶えた、記憶のリラックス領域は、 この冷えによるエネルギー消費も暖めてくれるから、もうその 冷えのようすは気にしなくっても良いだろう。雪が積もれば 郵便配達の大変になるだろう、と言ったことだけ気に留めて、 すこし仮眠を摂るのだった。水…