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シマチョウと神の匂い,その論理的ゆえん。

一昨夜のドライブでは,古今東西”関の大明神”と言われる岬まで, ほんとうに,古式の灯台の現役で回っているのをみて,唖然とし。 遠くから見守るには,『ああ,回っているなあ,』だったのが, こうして親くに,尖塔に放射線状にひと筋のラインの伸びているのが みえると,えっ,としてしまった。そうして,翌日の昨夜はもつ鍋を 頂いて,頭の牛頭みたくなっている自分の,『自然は一緒くちゃだ。』 など,ほのめいて無我呆然とする我が典拠なき真情には,もっと偽りを, こうして自然一体化する,そのエゴ=自我を失うのが,自然一体化である。 たくさんいただいた,慰労会などのキャベツのひと玉分あたりが,その, もつ鍋にしようとゆう,きっかけだった。腸にたまりそうだなあ。いや, でも,自然一体化だ。そんな理念がどこかしら,あったようで,灯台を みて帰った自宅の部屋に横たわって,脳のほぐれは,腸の論理も動かすとゆう そのことに気づいて,そうしてもつ鍋を頂き終えて,さあ論理などあったもの, ではないのだから。なので,エゴ=自我を失う事こそ,その自然一体化である。
キャベツがあったからと言って,良いホルモンの手に入るわけではないのだから,
外国産の小腸などを眺めていて,わからないなりにそれが生だしいいんじゃない,
と言っていると,隣で奥さん,あるカップをながめながら,ひたすら考えている。
みれば,シマチョウ,国産で,半額とある。新鮮さは良さそうだけれど,考えて,
グラム計算してみても,国産の良質なもので,従来の食品概念と変わらないのだから
半額ってすごい。半信半疑ながら,シマチョウってなに?とも感じつつ,それを,
等量分あがなって,帰ることにした。僕は,コツコツと,その昼間に汲んできた,
ひょんなことでいつもの水くみ場のいっぱいで避けて訪ねることにした,温泉場の
温泉水(ここは従来良質の温泉水。)を人気が居ないことに幸運を憶えつつ,汲んで
帰ってきたので,その温泉で,モツを湯引きしながら,二度ほど油抜きをしていた。
結構たくさんの分量のあって,ほんとうにいっぱい平らげられた。いままでのものより
ほんとうにさっぱりきれいで,鍋も温泉で造ったから,調味料で自家製のつゆをもって
炊き込んで,きれいな食事のできた。ここで初めて,素材重視の意味が解ったのだった。
シンプルでいいから,素材を大事にしたほうがいい。…
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ウッディな神の匂い,ラベンダー&ティートリー。

うちの可燃ごみの扱いは,月・木の週間だから,なので, 今日は,地域のオードブルの可燃ごみなども預かっていたので 木曜日までは置いておけない。そさね(仮眠)していた奥さんも 4時ごろに起き出してきて,お風呂に入れる準備など請合ったのだから もう,起きていなければ,と言って,早朝より三袋のゴミ出しをして, 帰って,石けんで手を洗うさながら,これも化学の実験と相似形だ, いや,形式は一緒で,似て非なる者ではない,同じものだ。などと うそぶきめいて,ほぼ,酩酊だ。いいや,呑んでいないが,この芳香。 ウッディな神の匂い,ラベンダー&ティートリー。昨夜は,そさねした, 奥さんの横で,この芳香を炊いていては,横になって,神の匂い,そうか。 ウッディーな,と,ある”植物性”は生長力だが,木目調は,『神』である。 木目調の『神』は,加味する匂いであり,241,見世意などと当て字して, 何だか,全然の相似形なのだけれど,とにかく,ウッディ―な匂いは『神』。
だから,愛の神は,愛を攻撃し,ウッディ―な精神は,ウッディ―な被害者を 産む。いつも,裏と表のように本体を刺激する,何らかの精神体=自然物のあり, 愛は生きる事と同義なれば,やはり,植物性の生長力=愛は,人間を攻撃する。 でも,アロマテラピーをしていれば,腸は第二の脳。頭脳にそれによって,感謝の 解除作用の起これば,必然的に裏から表へ返る,被虐への感謝の気づきは,整腸の ごろごろへと繋がり,どんどんとヨガの行者みたいに最近は脱落,脱落など,禅の 僧侶みたいに叫んでみたくもなる。咆哮するそういったこのBlogの言葉も,本来は こうゆう芳香を炊いて眠りたいさながらに,どうしても,頭脳の整理の付く前に, 神は匂いだと,掴んで離さないでいたかった。実際に,愛の天使,また神性の精神に よって,僕自身は至って純粋培養の少年みたいな倫理=論理性に戻ったとしても,この 発見は忘れないでいたかったし, もう,眠くって仕方のない。けれども。
愛が生きることは至上か,いいや神性のあるとして,平凡なスピリチュアリティーは, クラフトの木地師のような存在か?そうして,そのウッディなクラフト性はやはり神。 そうなので,だから,そこには戻らずに,いいや,言ってみれば,生命力に活きること などにも戻れずに,次に記事を寄せさせて頂くことになったら。どうゆう,心情…

ドライブと会話の中心性と,音楽と文学の中立性。

弥生と縄文のあいだ,とゆうのだろうか?差別感で捉えれば, (それは,決して差別しながら”みる”とゆうことではないが,) 裏を返せば同じことと思われるのだけれど,弥生的農耕性は, 実に,区別したがる癖のある,ように感じる。噂好きな,また フッァショナブルでお洒落で大衆的,そうして,評判する区別。 僕は,ずっとそうゆうのを否定したくて,自我を,顧みてきた。 自己否定は縄文的で,自己じたいの弥生的なところがあるのだ。 自己同一性や,自分探しは,そういった国譲りの縄文神が旅立つ ための,自己と自我を結ぶ,弥生文化への皮肉めいた響きを持つ。 そんなことにコダワる自分を見つけながら,ドライブに出たので どんな皮肉めいた会話になるやらと思っていたら,昼間に運動会に でた奥さんの,嫌な役回りを実際に家の父より申し渡された話で, 皮肉めいた状況をみるに付け,笑いに受けて”ほぐれてしまった”。
始終,その話は尾を曳き続け。結局,音楽を聴くような中立性,と。 たまたま,小学校以来の友だちのお兄さんを想い出せなくて食事し, 共に食事を早く促した自分の皮肉とが相まって,『明るい方へ』と, 題された太田治子氏の作品を読んでいて,その文学的な中立性へと 話題は移って行き,太宰の愛は,太田氏へのその愛に優るモノなし。 など,と急に哀切めいた響きで,格別皮肉めいた,情熱の縄文式へと, 一言訣別し覚悟を決めたオオナムチのような面持ちで,”愛について”。 そうして,その中心性と中立性は”愛によって”,忘れられ,そうして, 途中までだけれど,太宰は,多分”愛に掛けては”情熱的で,いられた。 ひとは誰だって,何かに付け,特定の事柄に対して,情熱的たるもの。 批定されるべき特定の噂話だって,そうだ,彼は,いったじゃないか? 『真の正義とは,親分も無し,子分も無し,そうして自分も弱くて,何処かに  収容されてしまう姿において認められる』こうゆうイロニーの堪らない。 革命精神?いいや,そんなことをゆうと嘲られる。アンニュイな思索?いや, そうとも言えば,叱られる。他の名句を読んでいてもそうだけれど,太宰の ほんとうに好きなことは多分。『眠る事,と。微睡む事。いっぱいのお茶。』 だった,はず。お茶も限りのあることだから,水増しすれば構わないとは言え, 手洗いもそうそうない時代だからね,モラルもないけれどさあ。な…

太宰の好きな,爛熟香景,金木犀の匂い

西日のまだギリギリに,熱い感じのゴミの仕分けなどしていると それだけでも,金木犀の匂いのホカホカとすべての楽しくなって。 のどかに,穏やかに。そうして,PCを開いて,グールドの演奏に よる,リスト編曲の田園交響曲などを聴いていると,いままさに, もう天の岩戸開きの始まりそうな気だってしてくる。正直に,内臓の 疲労などは,すこしバテ気味に胃疲れ腸もたれなどして,いそうで。 イライラするときだって,これが残暑の顕れだと気付けなかったように 珈琲を珍しく昼から沸かして,香景だ,これが爛熟香景,太宰の好きな 金木犀の匂いだ,などと,やっぱり,パートナーシップには正統的に 純粋な,堀辰雄ロマネスクの活きてくるのはわかるけれど,遊びと人生, このふたっつに掛けては,太宰の求心力に勝るものはないから,勝るとは 好奇心を湧かす,その程度の興味をそそるもの,といった具合に,自分の フリークとして持てば,太宰=龍馬的な何か,太宰の好きな,爛熟香景, 金木犀の匂い。
こうやって,天の岩戸開きだ,と言っては,この秋の陽に爛熟する金木犀の
ここに掛けては,一層の円熟味を持ってほしいとは言いつつ,そこまで,の
暗さは必要とはしておらず。これからの暗く向かってゆく,つるべ落としの
秋日にゆくゆくは,ここまでで良い。とゆう酸味の匂いにまで留まってくれたら。
蝉の音まで聴こえなくなったけれど,相変わらず扇風ファンの回るチルチルとした
機会音はつづいてゆく変化の裡にも更に轟いて,風の音,ファンの音,コオロギの
鳴く声は,次第にグールドのピアノの響きと,風の音に合わさって,含まれては
そのまま夜にもたれ込んでゆく。

さらには,今夜で湧き水のストックはなくなった。けれども,ご近所のおばちゃんより 新米のお米をいただくことができたので,生命線,生命線。こんなにも,お礼の言いたく なる瞬間,ってあるのだろうか。と,しっかり袋より,タッパーの三箱分にしまい込んで キッチンに並べていたのだった。そういえばなぁ,堀辰雄さんのあの芥川氏の付き合い方 には,どこか金木犀の季節の酸っぱさみたいなものがよく感じられる節のある,これは, 詩情とゆうモノがああゆう出方をするに当って持つ,必ずあるシニカルさ。それから,もっと ゆうならば,ロマネスクを発現させることに当って,必ず出るあの,シュールさイロニー。 悪言をゆうつもり…

DingDongいこう!澄角堂まで。

堀辰雄氏の傷痕まで,それを切なく,澄角堂まで。
呼んで,願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。

など,DingDongいこう!澄角堂まで。とをば,いわく。 甘いのがほしいな。口のさびしくなって。そういって,
皮つき裂きイカを頬張って,ちまちま,それで,いいや。 あと,烏龍茶ブレンドのホットティーを頂いて,そうして。
澄角堂とは,堀辰雄氏の芥川先生より夢枕に貰った号名の, そうして,彼は,風立ちぬの舞台で陽を浴びた陽転された,
芥川氏の麦藁帽をみた。そうして,堀氏は,織田信長の頃に
更に芥川氏=竹千代の時分であった,恵比須顔の東照宮をも

夢見に現れたのを,みた。こんな空想を考えては,澄角堂。 さらには,いつも神功皇后女神と,武内宿禰祖神の対照で。
堀辰雄氏の傷痕まで,それを切なく,澄角堂まで。 呼んで,願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。
願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。とをば,いわく。 山中鹿之助幸盛公の遺した名言ではあるのだけれども,そういった, 蕎麦の割子にドジョウの形でネーミングされるような幸盛の蕎麦の。 死霊を描かれた大作家の陰や,薔薇刑を撮影された大写真家の影像を 考えては,こういった武内宿禰の神のような祖神の例えば,蕎麦を 啜る,そのドジョウ蕎麦の七難八苦とは,それはホムダワケ!と叫ぶ, 彼らの中心の神さま,ルーアンの丘を顕された狐狸庵周作先生のような 織田信長=堀氏の,東照宮=芥川氏の対比に,神功&武内宿禰&誉田別の 関係性に及ぶあの,埴谷せんせいや,薔薇刑撮影写真の,ルーアンの丘, ここに,切支丹の苦しみの突端は中心に三島文学を据えて,轟音を鳴してる。
堀氏の切なさには,織田第六天=南洲翁隆盛=三筆嵯峨天皇の=平清盛, =フビライ汗のように本当に切ない傷跡を抱いているので,破傷風や風疹の ような辛いdetoxの必要とされる,あの特効薬に葛湯などをのんで,癒す, セロトニン・シータヒーリングに合うよう眠りにまどろむ精神的治癒の陰。 こうして,サイケデリックに非シンパシーを感じるような精神台風嵐の轟きの ある,とある,精神的治癒の陰に轟音を以て鳴らしまくる仏法僧のホムダワケ! この,緊張の轟音には密かにヒッソリ,切なさの白いセージを摘んでセージティー。 本当は,騒がしい何のノイズも要らないのに。そして可愛らしくセージ摘み。