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12月, 2016の投稿を表示しています

餃子,イルカ,せんぶり。

事実が認識できれば,正しい?
事実が認識できなければ,正しい。
耽美と,審美。
おチャロと言う砂嵐がいて,
砦と言う隠れ家の
あって,

固有の種は
根っこから,原植物なんて。
固有種の僕は,そこから
如何に搾取者から役に立つか
ぐんぐん伸びて一年草。
ペンは,剣より。確かに,
強いかも知れない。固有種の
認識できないことは,確かに
考えるそのこと。固有種の
事実が認識できないことは
正しいのはその。固有種の
餃子,イルカ,せんぶり
その良薬は苦い。固有種の

事実が認識できれば,正しい?
事実が認識できなければ,正しい。
耽美と,審美。
おチャロと言う砂嵐がいて,
砦と言う隠れ家の
あって,


ベタニヤの香油

Franceオブ芥川。
PhilosophiaMagMara
ベタニヤのマリアと,
マグダラのマリア。
ポール・ヴァレリと,
ステファヌ・マラルメ。
イエスの妻とも言われる,
マグダラのマリアは,
フィロソフィア。
香油を注いだ,メシアの
ベタニヤのマリアは,
香油売りの港町。
夏目漱石は,ロンドンで,
アナトール・フランスと,
芥川先生の,香油売りの港町。
ヴァレリと,堀辰雄さん。
香油売りの,マルタ・フィガロ。
マラルメと,太宰治は
マグダラと,イエス。
マラルメと,ヴァレリは
ウィリアム・ブレイクと
ウィリアム・ターナー。
田舎者でも何でも,
田園風景を描くには
マラルメとイエス,
マグダラとヴァレリ
ヘロデとヘロディヤ。
Franceオブ芥川。
PhilosophiaMagMara


自分の鏡。

ようやく,世界は鏡で,
サマーランドの芥川先生,
えびす顔の家康公,など
沖ブリを食す,神功さんなど
とにかく,厳しくもとられる,
非常な女神性を,自分の鏡。

何故だか,わからないけど,
芥川小説を読むように促される
女神性,現代版の暖炉は,
パネルヒーター。現代の祝祭は
コンロ焼き肉。もう,どうしたとして
沖ブリを食す,神功さんの

新時代,大航海日誌しるす。

恋愛ショコラティエ,だと
思っていた。このあいだみた,
ドラマは,どういたって,鑑賞後
失恋ショコラティエじゃないか,
って,心のなか,呟いてたら,
やっぱり失恋〜,だった。

いまは,恋仲,というのを
準新作だったけどみていた。
妙に,自分の鏡とは離れて,
それも,そのうち感じる,
感受性は,鏡なのだ。とは
世界と自分の鏡で,つながる
所。


親知らずポーズ,

ストックホルム症候群,とゆう,
苦しみから,それを受け容れるばかりか,
食わず嫌いの”逆”になるようなこと。
僕は,被虐者と,ゆうテーマは,
自然に対しておこなわれるべき,時と
思って,”ストックホルム症候群”に対する,
自然一体化,自然を受け容れ情感さえ抱く,
この災害の多い自然に対する,愛情をさえ
抱いてしまう自分の,自らの食わず嫌いの”逆”

KARMA SPRING,とゆうストックホルム。
アニミズム,とゆうストックホルム。
忘我の告白,とゆうストックホルム。
苦行からの,脱落,脱落。とゆうのも,
ベリージュースにハチミツの,シャーマンからの
脱皮。とゆうのも,すでにそれをして,理想主義を
超えた行為の発端は,ストックホルム症候群。
よく心のフィルターは,ないばかりか,魂が
露わである。その僕の繊細さは,修道院の姿。

すこしずつ,
少しずつ,頭の皮が厚くなったけれど,
もうすぐ,シャーマン・シンドロームがどう,
頭脳の皮が分厚くなったとして,
どうして,それが健康なのか,
難しい,けど。虚弱体質だったんだなぁ。

シシマン,とゆう箱が置いてあって,最初は
激しい着火剤か何か,かと思ったら,猪肉の
肉まん,だから猪まん,だった。最近,夜の
日が変わるころに,頭がぼーっとして,眠たく
なるなぁ。と,お肉を食べても消化がすこやかだなぁ。
そう思って,不思議がって,休日に夜更かしをして,
なにが健康なんだろう。文学の出汁,業の泉の
とりあえずクランベリーのハチミツ割を呑む,
するめになっていったように,噛めば出汁がでるのは
消費者がいるからで,グラウンディング,とゆうテーマ
から,すれば。一夜干しから,活きたイカの姿に戻って,
噛めずに墨は吹くけれど,するめから『烏賊』に戻る,
それがシャーマニズムである訳で。

するめにはなる必要は,ないから。食べては活き,その
食べては墨を吹き,消費者は必要とせず,その消費者は
捕食者であるから,生産者になる必要なく,
捕食者とゆう自然者に対して,
自ら,”捕食者”になって,消費者となる『烏賊』。

するめにとって,出汁の文学やクリエイティブな業の泉は
必要ない。
ぼくは,活きた烏賊でありたい。自然者はそのままで,
捕食者がそのままで,でも,消費者はいて,生産者も,
アニミズムはそのあたりを模索して。ただ,そのまま
哺乳の慣性の続く感性は,はたしてありうるのか,どうも,
朝はやってくる。朝は来ない,そのあたりは考えない,でも
続い…

スピリッツ・マグダレーナ。

思い出よりも,品質なのか,もう
思い出よりも,よいものはない
20年使っている,ゴワゴワのカーペット
アールグレイのミルクティー
種田山頭火。
品質とは,モラル・ハラスメント。
品質とは,ヒステリー気質。
品質とは,陶酔的神性。また
モラル・ハラスメントとは
なぜ起こるのか,寂しさ故の没頭。
ヒステリー気質とは
なぜ起こるのか,寂しさ故の没頭。
陶酔的神性とは
なぜ起こるのか,寂しさ故の没頭。
河童は,白子玉を取る,と言われて
現代版の河童は,神性を履き違えた。
ここで,スピリッツ・マグダレーナ。
R.シュタイナーは,ヨガの思想を反対の
立場から,見ていたと感じるが
”アートのスピリットからは
和風の情緒は理解できない”とゆう
ような,立場からでもないのかな
『全ての見通しができる,”神性”』
「業の泉から,眺める”神性”」
芸術の中に自由があるか,と言えば
不満足の中に自由があるのでは。
思い出よりも,品質なのか,もう
思い出よりも,よいものはない
20年使っている,ゴワゴワのカーペット
アールグレイのミルクティー
種田山頭火。
千里眼を持つのなら,ヨガの精神でも
アートや芸術に活きてほしい。
不自由な立場で,業の泉に湯浴みに
出かける,不思議な生活からすれば
河童の神性を履き違える,現代には
地底よりの,その妙な神の居心地を
スピリッツ・マグダレーナ。

普通の人間。

結局,普通の人間に戻ってゆく。
栄養失調とは,酷いもんだな。 修道士を志した,思春期の,その 志したこと自体が,現代には合わない 結局,普通の人間に戻ってゆく。 不断の進歩を続け,冬にはボア・フェイク の敷布を掛け,なぜ珈琲をのむと, 目がさえるのかを,知らずに傾ける。 栄養失調が先か,シャーマン気質が 初めなのか,果たして,思春期そのもの 『珈琲をのむと,目がさえるのか』, 理由を知らない自分には, シャーマンの気質はない。
巫病(ふびょう),と一説にはゆう。 それは,抜けたときには,神性を宿す そんな宿した神性は,きっと。多分, きっと星を眺めて,ダイヤモンドを想う いつも薄着で,笑っている。自然には, セミや,カブト虫,クワガタを飼って, いつの間にか,仮面ライダーや,また バルタン星人になっている。 本当に,ベリー果汁とハチミツとは, 腑の抜けるくらい,感じ入る 栄養失調が先か, シャーマン気質が初めなのか,それは 思春期そのもの スモークドチーズも良い,
不断の進歩を続ける人類は, シャーマンたちから制裁を受ける, それは当然だ,シャーマンとは, 地球への愛より産まれるもの。 不断の進歩を続ける人類は, 月並みながらどこへ行く,神性 巫病を抜けたあとの神性。 神性とは勝手ながら,普通の, シャーマンの制裁を抜けた後の 人類である。 今は,想うけど,アーシングって,
大切なのだなあ。

類比する人間。

<類比は,二つの錯誤を恐れなければならない。 一つは,機知に耽って無に帰すること。 もう一つは,隠喩や比喩で身を包むこと。 しかし,後者のほうが害は少ない。>
「箴言と省察」より,大ゲーテ

類比する人間は,いつも,無に帰する。 笑ってしまった。悪いこととは思わない。 その先にある, 何かをみてみよう,そう思った。
一念集中,常に思うこと。 情熱的な常識。常識に支えられる, 科学的精神は,一度開放する。 気絶する瞬間に,自我のあれば, 気絶しない,とはゆうけれど, 気絶するまで渇きに飢えなくても, さらに言えば,そこまでゆくのならば 既に,科学的精神は,ない。
無に帰することばかり,考えている。でも
<もう一つは、隠喩や比喩で身を包むこと。>は,
<しかし後者のほうが害は少ない。>のである。
ニーチェと,ファーブルの対比のような,それで
虫とは,量子の姿ゆえの,それは人の趣味以上の
趣味。しいて言えば,スモークドチーズ。

飢えを求めるヨガ的精神よりも,

効果音,

豚肉のミンチ100パーセントで,パスタの
ミートソースを作るのが,好きだ。では,
お肉食に関しては,もともと関心が高いのか
とは,訊かれれば,何故だか先入観として,
殺生に反発したい向きも。でも,白ワインを,
大さじ2杯くらい入れて作る,ミートソース。
最近は玉ねぎも入れるように,また,トマトも
煮込むように心がける。調味料は,お醤油を,
昔はと言えば,使っていたのだが,お塩のみ。
ペンネーと混ぜて,浸ってしまうくらいの味わい。
昨日は,しかし,クリスマスパーティー用に,
保存してあった海老を背ワタ抜きして,ホタテの
刻んだものと,玉ねぎ,白ワイン,胡椒で
粉チーズを加えて,ペンネにした。すこし,
やり過ぎかな?冷めても美味しく召し上がって,
キッシュやパンなどと一緒に,コトコト・スープと
合わさって,ブロッコリーのサラダなどと,共に,
本当に,楽しんでもらっていたら,嬉しい。

美しさを,禁じるキュイジーヌ(調理)から,
すこし目が覚めた気がする。金柑とマーブル。
のテーマでも書いたとおり,極彩色には,
フェニックスが後ろにあるのではなく,マーブル紙の
先には,雨の音に,お掃除の時間に感じる,
美的観照への入り口が含まれている。
5年先の自分よりの意見を伺って,しっかり,
美的観照に浸っているほうがよい。それは,
一念集中のことわりに幸せは含まれているから,
カーマスプリング,例え迷っていようと,
おやすみ,キュイジーヌ。迷っていようと,
業の泉にしっかり浸かって,非凡なる,
物事を眺めよう。

セミの幼虫,セミの辞世。

知性は不断の前進を続けてゆく,
盆栽も,それでカットしてもらえる。

セミの幼虫,セミの辞世。

スマホ・エリート。
スマホの,エリートなのでは
なくって,
スマホは,エリート。
だって,いとしのエリーだって,
何時までも,
リピートしてくれるんだもの。

セミの幼虫,セミの辞世。

計算しない無意識より,
計算できない無意識とは,
やはり,
知性への不断の前進から,
なるもの。

セミの幼虫,セミの辞世。

いちばん,安定しているのは
不断の努力のなかで,
やはり,
ひとつ事に,
集中していること。

セミの幼虫,セミの辞世。


頑是ない恬淡,

めぐりめぐっては,回転する,
同じ地点には戻ってはこない,
けれども,何かを諭してくれる。
そんな,トマトの煮込み,あと,
豆乳のグラタン。そうして,また,
コロッケの具になる,カボチャの,
そうした繊維質の何らかのモチーフに,
ただ恬淡と向かい合う,そのうち,
忘我する,我を忘れる恬淡として。

墨汁を例えにするとき,それは
山頂より,海に届くときの頑是ない,
トマトの煮込み,ってゆう甘酸っぱいのは
眠りに就く時の放心。また,倫敦の鐘音。
豆乳のグラタンは,無添加ツナ,カニカマを
豆乳と合わせるほど驚きのクリームに。
今日は,それを海老があったので造りたかった。
めぐりめぐっては,回転する,
同じ地点には戻ってはこない,
けれども,何かを諭してくれる。
カボチャの風味と来たら,もうトマトと豆乳を
合わせたほどの繊維質である。何だか,
世界が,追ってくる。イザナミなのに,その,
イザナギが追ってくる,男性性の潮流に
巻き込まれて,鳴門の渦潮は真っ盛り。
もう少ししたら,平安のやってくる,

めぐりめぐっては,回転する,
同じ地点には戻ってはこない,
けれども,何かを諭してくれる。
そんな,トマトの煮込み,あと,
豆乳のグラタン。そうして,また,
コロッケの具になる,カボチャの,
そうした繊維質の何らかのモチーフに,
ただ恬淡と向かい合う,そのうち,
忘我する,我を忘れる恬淡として。

何かしら,忘我し自らを預けられる,
DUST BOXのような,領域がある。それを,
私の脇腹,とゆう辺りに
見付けられたのなら,他力本願の
始まりである。私の隣には,大きな幹の,
株の下にできる,雪の溶けた
穴の開いている。



朗々と,柚子供養。

健康になる,その手前に,つい,と思う。
熊さんクッキーを,食べよう。太宰治は,
アフォリズムの連続のような小説も書いたし,
もともと,単一表現とゆうくらいなので,前もって
ストーリーテラーを目指していなかったのかもしれない。
『現代は,文学より,映画だな。そういっても,
真空状態のストーリー造りより,アフォリズムの映画も,
あってよいのかもしれず,それは,きっと写真だろう。』
など,朗々と,柚子供養。熊さんクッキーを食べるまで,
柚子風呂に浸かっていた。上がって,蜜柑も頂いた。
自然の神は,すごい。身を焦がしてまで,陽光に捧げ,
栄養果を実らせるのだもの,どうしたって,小麦の酵素は,
分解性の強い強烈な香ばしさを漂わせるけれど,自然は
コミュニケーションとして,ありのままを要するもので,
つまり,健康になる,その手前に,つい,と柚子供養。

業の泉,というテーマで,KARMA SPRING,カーマスプリング,
名付けてみたはよいものの,やっぱり,ありのままを,泉に
浸かる思いで書き綴ってゆく,こんな姿が,文筆らしい,あの
悟ったからと言って,市場に身を隠す正覚者の想いを,まだ
身の憶えさえもないのに,市場に身を隠したいとゆう,健康の
手前に,熊さんクッキーを食べる。波動干渉,何故だろう。

とにかくも,変な言い方でもあるけれど,”ある程度”,健康に
なってみて感じたのは,コミュニケーションは,ありのまま。
波動干渉するのは,つまり,それが”ありのまま”であるから。
パクパク,と口に運んで,あぁ,あと,チョコのが2つ,プレーンも
ふたっつ,合計四個,止まらない,3個。2個,今日は風の強い,
お掃除もしやすそうだ,余計なことは止まることを知らないのだから
ちょっとや,そっと,強風に押しとどめてもらいたいので,そんな
あと1つとなった熊さんクッキー,もたげる窓べりの樹々。あれか,

急に,こんな勢いで,食糧が尽きてしまう,本当に,もう。おやつ,
おやつも,欲しいのだけど,健康の手前に口上を述べる程度,別に
普段から健康でいるより”ありのまま”で,いいじゃない,って。
普段から,普段より,”ありのまま”のコミュニケーションを,
そうして,段々と日の明けてゆく朝方の空は,冬至の夜に連れて,
柚子や,蜜柑の,むらむらとした春の予感を”桜の森の満開の下”より,

もう,正月も,うどんを頂いて,クリスマスもケーキを頂いてから,
年越し蕎麦にしても,早めに頂い…

金柑とマーブル。

豪奢であるのは良いことだ。
アナローグのインターネット。
デジタルのドリップ珈琲。
アナローグであるのは酔うことだ。
金柑を甘露煮にして,
陽光を身に,とり込む。そして,
デジタルでゆくのはいいことだ,
マーブル用紙を使って,光沢のある
宇宙一体全体マーブル空間に旅出る。
デカフェ豆乳と,プリンを頬張って,
年賀の季節に文したため,ダイエットは
図らずも健康にまで高められ,そうして,
他力滋味栄養豊富な,民藝の大黒さんにまで
誘発し,滋味栄養な豆乳デカフェと,プリン。
ほんとうに他力行とは,すごいものだ。
他力本願,悪人正機と聴いても,正直に言って,
よくわからなかった。それでいて,やっぱり,
計算しない無意識より,計算できない無意識。
業も悪も,それでは一念しましょう,って包む。

マニの宝珠って,やっぱり包括することに無限の
魅力があって,金柑やマーブル紋様に親い,
肉まんや,小籠包,シュウマイなどは,あれは,
マニの宝珠の姿で,だから,豚まん,と
呼んで”響く”のだ。赤い薔薇も,白いカスミソウも
ベネチアン・グラスも,実際は身体がわるいので,
アールグレイのミルク差して,それを眺めるのだって,
今,すべてはプリンターの印刷機に,ものごと含まれる,
絵を飾るのなら,すべてクラウド・プリンティングで,
印刷機から発信してしまおう,と,そうゆうことまで,
そろそろ薄着で笑うより,メランコリックよりも,より一層,
座禅組んで念じてしまおう,と,そうゆう
マーブルの色彩には,オレンジのレンガ色,夕焼け小焼け,
金柑の甘露煮,天津甘栗,カブと柿のなます,うん,そうだ,
夜明けには決まって鳴く鳥たちの,今夜もよろしく,
果実の世の中は,その枝先に星々を結ばせて,
月は,やっぱり,にんまり,と
それを眺めて,お腹鳴らすのでした。

墨汁の極み,

海は,炭化した墨汁の極み。
体内の事は覗き込むことはできない。
それでいい,けれど,私たちの目の前にある,
海は,カニは,海老は,あさりは,何と
墨汁の極み,だろうか。さしあたっては,
他力に移ろう,諧謔にも聴こゆる,
他力に移ろう。それまでの波間に,
移ろう,『ヴェニスに死す』の波間の景色,
僕は,持論があって,インスピレーションでも,
目前にでも,あなたは(前世で,)『○○だ。』って,
言われたもんなら,彼が,それは発言者のそれは,
彼が『○○だ。』とゆう事なのだ。さしあたって,
白昼夢で,『あなたはトーマス・マンだ。』って,
言われれば嬉しいけれど,たぶんそれは,彼が,
『トーマス・マンだ。』と言って,妙にノスタルジー。

結局は,未来世,過去世の論題は,皆無だ。本来,
それを了解する,とゆうことは現在返りとゆうことなのだ。
そう,現在返りしてみて僕は,僕。夢の中より帰る。
『太宰治,坂本龍馬,源義経,空海,イスキリだ。』そう,
僕は,僕に向かって話す。夢の中では,アナトール・フランス。
至り来たっては,三島由紀夫。芥川先生や,エビスの夢も見た。
しかし,現在返りして,そうやって海に乗って,日本に来る,
イスキリの現在返り。どうやって,現在に帰るかと言えば,
それは,バプテスマのようなものだ。謎々を掛けられたのだ,
諭されたのだ,自己教育を促されたのだ。遠回りをして,
信州の旅行の白樺リゾートを通ることになった帰り,お手洗い
へ寄って,ふと,思い付くような,誰にだって,そんな普段に
ふと,訪れる瞬間とゆうもの,家の目の前に祖父母の頃より,
杉の樹が残してあって,冬も冷える頃となりそうな,車まで
忘れ物を取りにゆく帰り,夏の針葉樹林の香ばしさなどが伝わって,

あぁ,こちらにいても『妙にロマネスクな気分にもなる。』ってゆう,
堀辰雄先生の気概にも触れるそんな矢先,すべては与えられ,
他力に移る現代,念仏などは,往生を遂ぐなどとはゆうけれど,
あれは現在に帰ることなのだ,ふと,思い当たっては,あぁ,
そういえば,昨日までは,『夏目漱石だ。』って,自分に言って,
文豪めいた気にもなっていたなぁ。『漱石の思い出』なる,
あれは,本当に,苦悩とゆうのはロマネスクの源泉だなぁ,など
思い当たっては,筆を置く。弘法も筆の誤り,すでに物忘れ,
勘違いなどはなはだしい故に,もともとあったストイックの,
振れに振れてさぁ今日も一念に夢より帰る,現在返り。

ストイック・クロワッサン。

何でも,被虐と嗜虐の間でゆくものだ,など
ストイシズムは,悪人正機と親く,そしてまた,
楽しみを,求めていたかと思えば,黙祷し,また
極楽浄土かと思いきや,失墜する。それは
それら禁欲的な,動きの中で,生命は躍動し,
そうして,揺らぎの中に,着陸する。むろん,
尊大な意味で,従順に食事を準備する私の意思は
喜んでもらおうとゆうエゴイズムだ。極楽鳥は,
夜のしじまの中で,やはり震えながら眠るであろう,
仏法僧も,樹々の間で打ち震える,何時なこうか,と。
こうして,ストイシズムに震えだしながら,ブログを
打ち込む,僕の背筋もふるえている。なぜか,なぜ。
美しさに,感動することもない,禁じられている。
グルメに感嘆することもない,眠たいのだから。
視力は衰え,背中の筋肉もゆるんでいる,夜だから。
永遠の夜,行ったり来たりとゆう意味の往生ならば,
もう脱落,脱落。現世的な意味で,ストイシズムは,
耽美的な趣味を,与えてくれる。ある意味,恬淡とした。
地球が,金星に替わるとする,ヴィーナスというだけ,
金色に輝いた,美しい星だろう。しかし,恬淡として,
『いつ替わるのだろう。』ぼーっと,しながら夜明けまで。
スタンスとしては,むしろ何時までたっても,地球だろう。
それは,いい。地球である,現状の”いま”を生きる。
この意味で,生きるとは,在ると同義になる。それで,
また,回転する地球の,本来の輝きは,動きのゆらいだ
本来の輝きは,微動だにしない,そうして昼と,夜。
脱落,とは禅宗の働きではあるまいか,とも,
脱落しきるとは,果たしてストイシズムであるまいか,とは
やはり地球は地球である,まるまる,にじゅうまる,はなまる。
よく,あの肉まん型の,ニンニク型の,マニだっけ,宝珠とゆう,
あれは,グルメだな。美しさを,輪にかけて上ゆく,グルメだ。
果たして,豪華さとは,美しさに加えて,幸せも含む。
在る,に比べて,非常に成るもので,昼の文学である。
幸せは,夜ではなく,昼に逢うもの。昼の文学とは,地球の
最も輝く時でもあって,まさに,昼とグルメ,夜と美しさ。
あぁ,どちらかといえば,ストイシズムは夜に親い。つまり,
だから,夜に眠るわけだ。昼に起きて,夜眠る。夜には,
寝床でみんな,祈ってる。昼には,幸せ,グルメ。そうだね,
ストイシズムは,夜に親い。打ち震えて往生願うのなら,やはり
昼に,しっかりグルメする”べき”だ。これが,ストア派の哲学。

(余談になる…

嚥下干渉,

奥さんが,トットちゃんのインスタグラムが
あるって,妙にしんみょーに嬉しそう。
という感じで,カランのタイル張りのお手洗い。
寒くって,喉に一味唐辛子の詰まる嚥下干渉。
という感じで,それは,実際そのままある。
物自体は,しんみょーに実際そのままある。けど,
炬燵に入って電波干渉ばかり,飛び交う部屋
の中で,ふっと,お風呂を止めたり,それと,
世界に干渉してみる世界はそのままある。

それは蓮華回転する,ほとけのような,
太陽が,そっくりそのままのぼる,
僕自身は,僕自身ではなかった,大きな
やんちゃもの,でっかいおでんの具のような,
そして地球,月の太陽が身体から抜けていく,
夜には,そっくり抜けてゆく,眠っている
間に,泥棒さんは大変だなぁ,しずかに,
抜けていくのだもの,僕たちは抜けているのに。
詰まり世界は空洞化してゆく冬の降雪の,
手前に,ぽっかりとした梢を残しながら,
太陽は地球は月は。


湧業の織布,

歌唱の取り込み学といって,
思考の影や,世界の仮象をダウンロード,
そうして,取り込んでいるから,といって,
実は,インストールとはベクトル真逆に,
業の機織り,湧業の織布を,染み出させて
流し込んでいる。
湧業の織布,とは業の流し込み。
影の取り込み,とは業布の染み出し,
はて,そうして,ダウンロードのなか,
世界の熔けだしがはじまる。世界が熔ける,
私が熔ける,そのなかで,
世界が私があらわれる。業の熔出,とでも
呼ぼうか,神さまが,悪でも善でもなく,
ただの,絶対知であるとして,彼は
どんな知的窮極だろう,ハンス・カストルプは
バートランド・ラッセルだとゆう謂れを
ついこの間,人類の代表者はトーマス・マンだって,
言うようにして以来,絶対知とは,
客観視できる,絶対知とは,
確かに,BIG BENの,モンスター。
BEN REDのような,ヴェニス,プラハ,
ハルシュタット,エマニュエル・レヴィナスの
ような,モーリス・ド・ヴラマンクのような,
フランス貴族のような,彼は,
アントナン・アルトーみたいな。
彼は,あぁ,ロジカル・シンキングな
ヴィトゲンシュタインかあ,今の絶対知は
ヴィトゲンシュタインのような,そんな感じ。

とにもかくにも,
世界の湧出なのか熔出なのか,融けだし
取り込みのちの,インストール・クラウディングの
始まると,歌唱の取り込み学,彼に
とって,唄っていることは,イントゥイション,
霊的業一であって,善悪の彼岸である,
そうゆう,硬水を吞んで,
酔っぱらいのような寝返りを始める,
それはヴィトゲンシュタイン。


敗者の美学,

人は,歌唱している時ほど,
思考を,取り込みしやすい。
人は,生きてるだけで,美しいから
美しいひとは,悪いわけない。
伊藤左千夫さんは,強者の文学だな。
アナトール・フランス,太宰治,
三島由紀夫らは,みな悪事の搾取と
闘ってた。

昼食は,古くて新しいカフェで,
カレーと珈琲とパンを頂いたので
もちろん,霊的合一などは,
ユングの取り込みなどと一緒で,
外に散らばる思考の影を,取り込み取り込み,
必死で歌うその姿なのだ,意味の論理ではなく
歌唱の取り込み学なのだ,ひとさじひとさじ,
口にしながら,珈琲もうまい,

敗者の美学も,
強者の文学も,同じこと。
思考の取り込み,また
歌唱の取り込み学も,同じこと。
今日も,文学の歌唱して
世界を取り込もう。思考の影を,
敗者の美学を,咳込む環境学を,
発酵する文学の歌唱によって,
取り込もう,
これこそが霊的業一なので,
和風の情緒たる耽美的文学は
やはり,強者の文学だなぁ。


ひと粒の麦,

よくルーツを探ると,
彼の,肉体の学校,とも呼べる,
人生の師匠はある,と思う。
『ドイツの薬草学における聖ヒルデガルト。
 靴底を打つ,神秘学者ヤーコプ・ベーメ。
 ディビット・コパーフィールドのディケンズ。
 人間不平等起源論のジャック・ルソー。』
彼らは,
”木槌で銅鑼うつ,三島由紀夫。
 右足を上に組む,木戸孝允。
 竪塔の牢獄でも書き続けた,マルキ・ド・サド。
 現代の備蓄庫のような修道院で描き続けた,
 フラ・アンジェリコ。
 フィレンツェの教会の鐘の音はレンガ色,
 マッキャベリ。”らの,『師匠』で”弟子”で,あった。
三島由紀夫について,ひと粒の麦でしかない,そう
感じている僕の,ルーツから言えば何だろう,か。と,
それは,ヒルデガルトから与えられた穀物種,
ヤーコプ・ベーメのなめし皮,ディケンズのクリスマス。
ジャック・ルソーには,狂人を狂人ともせず,思想家をして,
思想家で終えた彼の静謐清冽さ,そうゆうものを,ただ,
ひと粒の麦,とゆう。ミンス・パイの紹介がTVでされていて,
昔,Minch Pie,と英語で見て以来,実際のミンチのパイ生地に
包まれたお肉料理かと思いきや,そうゆう名残において,
ラードなど入れる,フルーツ・パイ。と知って,なんと,
ルーツと,リアルとは,紙一重だ。天才と,狂気。常識と睡眠の
あいだの常に裏だけをかいくぐって,表みずしては,
結局のところ,平和を言葉によっては創られない。そう,感じて
ミンス・パイに換わり,ロッテ・ラミーと,カフェインレス珈琲を
豆乳で割って,放送終了の日の丸を眺めつつ,この記事を
投稿する。

湯たんぽが温かい。

極度の自由は,鉄から与えられる。
サプリメントなど,口から供される成分より
みんなの免疫構成,循環要素など測られる。
ミネラル珈琲,牛乳,豚テキ。ヘム鉄など,
さまざまな食品かずあれど,レッグレスな,
貧血など,鉄から救われる障害はほんとうに
多々あって,一度”巫病などシャーマン障害は,
鉄で一発だ。”など表現した憶えはあるけれど,
ほんとうに,極度の自由は,鉄より,もたらされる。
湯たんぽが昔の鉄製のもの,
節電心掛けて使っているけれど,そんな使って
いる最中にも,鉄って良いものだ。あれ,むしろ
アルミなのかな。なんて,確認もせずに,
有機金属などの言葉とともに,障害より復帰する
極度の自由は,鉄から与えられる。って,
口々に,夢のなかで輪唱させながら。


平和にならなきゃいけない,

なんでも,なきゃいけない,って
recommendの状態までいかなきゃあ,
動けないもんだ。その,recommendの
状態ってゆうのは,必死こいての,
クリーニングを活動言葉として活かしてきた,
そんなさなかの,平和を生きる言葉,のテーマ
と出逢って,あぁ,もしかして,クリーニング,
むしろ活動より,自分が平和になったほうが,
得だ。とゆう,10円玉があったら,5円チョコ×2枚か,
うまい棒を,もしかしたら迷うかも知れない,
そんな楽しみに,お菓子を求める気分と,
親いものだって,気付いたのだ。


ぐるぐる,

クロックムッシュと,珈琲。
ベーコンと牛乳,雨水と珈琲豆と,
生活の中心軸が欲しいと言って,
いつもイザナギ神話のようにぐるぐる,
軸は回り続けている。駒は倒れるけど,
中心軸は,倒れることのない,回る。

分解酵素は,耐えることのない。
西洋文化は,前進を促す。
消化酵素と,洋食文化の組合せで,
現代は,めぐってる。
クロックムッシュと,珈琲。

集団自壊vs.自然

文化が頭打ちになってくると,
集団自壊が始まる。だからこそ,
造血剤としての,自然が必要だ。
白血球は,汚れた血を流す。まだ,
雨水は,落ち葉の後を染み込まず,
湧水になりきっていない。大いに,
ミネラルウォーターを,呑むべきだ。
加熱しない伏流水を呑むべきだ。
その造血剤たる分解酵素を,よく摂り
常に,風穴を意識するべきだ。それを,
プラーナと呼ぶのかは,よくわからない。
眠れぬ夜は,眠れぬままに,
天上の星辰に向け,オリオンの放つ,
さそりの毒矢を大いに,受け止めよう。
今ね,キューピッドは,オリオンなのだよ,
星辰に語りかける,酵素をよく摂り,
雨水は珈琲にも活かせる。そうして,
こうしたメタファーにもよって,
星々からの嚆矢を受け取ろう。


霊的業一,

霊的合一,わかるイントゥイション。
しかし,わかり続けるのが,幸せなのか,
僕の中の業一くんが,むずがり始める。
あきらめるのを,よしとする恬淡さ,
そうして,追い続ける実際には幸せ。
ひとつひとつ,目標達成をして,夜には眠る。
イチニチイチニチの,業の達成をして,
夜なうどんを啜る。タピオカをココナツミルクで
呑むより,よっぽど沢山タピオカ摂ってる。
夜なうどんを啜る。霊的合一とは,タピオカ粉と
うどん粉の融合のようで,夜なうどんを啜る。
または霊的業一とは,その加ト吉の冷凍うどんを,
そうやって,夜な夜な啜るような,
Soulと,業をひとっつにする,行為そのものの
ような。


雨水珈琲。

人に酔う,って普段からドラマで
使われているのかぁ。と,
病気も完全に治った時は,自己受容。
人に酔うのも,醒める時は,ほんとうは
その”人”を受け容れたとき。
失恋も,恋を失う,とゆうより
”敗けた”とき。それは,細胞壁が
破れたとき,フルーツの果汁。
感受性の豊かさは”自由”だけれど
その表現は気難しさにも使われる。
人に酔う,のは
半分は人を受け容れ,許しているのだから
気難しさより,そう見えるくらい心優しい。
心優しさは,破滅するとき
個人の幸せを初めて願う,考えない幸せ。

友だちの彼氏を好きになる,ってドラマで
言うけれど,ショコラティエのドラマを見ていて,
ラミーを冬季限定で更に惹かれて,頂いて
Blendyのカフェインレスのドリップ豆をどれだけ
印象的に文章にも作風に活かせるか,習慣は
メルヘン,ファンタジー,珈琲を豆からずっと,
習慣的にドリップできる幸せ,男のファンタジーは
習慣化珈琲豆。
むしろ,ストーリーテラーより,ときめきより,視覚より
表現より,むしろ習慣化珈琲豆。
タンニンが,雨水湧き水が,のどの渇きが,
お風呂上がりの,極上の一杯が。例え,
幸せが考えないしあわせであるとして,喜びが
考えないこととして,人酔いの中でラミーを頂く気持ち。
珈琲を呑みながら,十字を切る,
それはカトリックではなく,手を動かしながら
『雨水で珈琲を淹れられたら。』と
ずっと思っている。神様は,幸せだな。
いつも雨水を蓄えている。

当たり前。

人はあんまり考えてない。
だから,ストーリーテラー。
腐葉土が,落ち葉からなり,
伏流水が,地下よりあふれ,
その湧水で喉うるおす,
雨雫が陽光に散らされ。

考える時期も必要だ。人は,
妖怪人間になる。世界の傷が
そうさせる。それぞれの傷に
応じて,芸術,エンタメ,自然など,
感性は,傷に応じたpassionを,
感受する。傷に応じた夕焼けに,
傷に応じた夕日の色がある。

当たり前の幸せは,考える発明と
考えない行為の影と,そうして,
それを受け取る物質体の三者でなる。
幸せは,”考えない”とゆう。
それだけのことで,分離し油の
浮いてくるように。
発明はだから,分離前の撹拌で
受け取ることは,撹拌しきること。
幸せは,”考えない”とゆう,
ただ,それだけのことで。

人は,考えないものだ。そうゆう,
テーマを思いついた時,人の
進化とはなんだろう。破滅と再生は
考えない所からは,グルメも前進も,
たった今の創意さえもないような。
ただし,考えない所からは,
筋力と,健康な食事,胃下垂の解消は
必ず,付随してきて,だから,健康は
考えないことである,

健康vs.進化。こうゆう図式のもとに,
健康とは,考えない故に,人間は自然物で,
自然とは,考える前の,泰然自若である。
進化すること,西洋文化とは言われるけれど,
それは,ベーコンと牛乳ではなかろうか?これ,
なくしては人間の進歩はありえない。強靭な
胃腸組織の賜物である。
健康とは考えないこと。ストーリーテラーの
後には映画の後の夢見る睡眠独語注意報。ただ,
ベーコンと牛乳を食べてみようかな



”もの”もらい。

ものものしく,もののけであり,
ものもらいのように,
ヒステリーとは,
”もの”もらいそのものである。
妖怪の話をして,あれは
搾取された自然,風水にそぐわない,
そうゆう自然気候など,破ってしまう
その哀しみを”妖怪”とゆう。
自然に対する,共感も
世界平和を願う気持ちも
まず,”夢の挫折”から起こった。
自然は他にない,
平和は元来ない,そんな
”夢の挫折”が妖怪を産み,
祈りを呼んだ。
闇は光をまとう,光は闇を,
原始は常識を覆い,常識は原始を,
とにもかくにも,喘息アレルギーなども
当事者からすれば,自然への慟哭,
妖怪化の一歩。私は,願いたい。
夢のない,平和を願う気持ちが,一つでも
安らかな眠りを頂けることを。
ヒステリーと向き合ってきて,
自然への叫びは,共感へと,
破壊を見詰める眼差しは眠れない。

どうか,眠りへと誘う,
たったひとつの平安を,どこか
知らない国の彼女彼らに。
例えシステムが世界を,
覆う日にも眠りの吐息が,
全てを和らげるように

スイッチ,ON!!!

お風呂の蛇口のしずく,
ポトポト。雨雫,ポトポト。
雨上がりの透き間風,なかなか
あたたかい。冬の月明り。
一瞬スイッチ,ONにして,
彼,あるいは彼女は誰なのか?
と,問いかける。

思春期とゆうより,小学五年くらいから,
みょうに右側頭部に成長を感じ,
今となっては,問題とゆう問題に深入りし,
ヒステリーが宿った,とゆう今までの歴史から
ごく一般的な状態が起こった,と
ゆうだけなのだけれど,

ヒステリーが宿った,とゆうのは,
ある程度,彼,あるいは彼女,もう一人の
人間性,とある,ヒステリー人格の宿った,
そうして非常に苦労した。当たり前のことが,
深入りしたせいで,非常に苦労をもたらす。
この,深入りとゆう,お節介。

そのヒステリー人格は,もしかしたら異性の人格の
事が,多いかもしれない。いよいよ,
彼,あるいは彼女は誰か,と問うことができそうな,
そんな情緒が復活してくる実感のある。
仏も神も33歳。出家するには33歳と。もしかして,
あれは,第二次性徴を含む,細胞分裂が修了とか
収拾されるのを,感情復興,情緒のルネサンスとでも
呼んで,ヒステリー学校を卒業証書いだいて,修了。
そうゆうことにしておいて,

その誰か,と感情ルネサンスの最中で,
絶望は,絶望を卒業して語ることのできる,
悲観は,楽観に前進してから話せるので,
平凡に,不幸に,牛歩の,マンネリで,

不足は進歩を産むかも知れないけれど,
ヒステリーを卒業して,思うこと。
それは,スイッチ,ON!!!
とにかく行為すること。卒業したヒステリーを
活かすには
『天津甘栗を剥いて,食すように』。

ものは,スピリチュアル。

スピリチュアルは,行為。
スピリチュアルは,シュタイナー。
スピリチュアルは,チェ・ゲバラ。第一に,嘆息。
第二に,咳払い。
第三に,髪掻き分け,
第四に,受容する。クロポトキンからトロツキーへの道。
霊聴よりイントゥイションの道程。我思う,故に我あり。は,
決してエゴイズムではない,
暮らしの支えではありつつ,揶揄される。
浸潤,とでもゆうのか,
硬化した肌色の,一挙に遠心的に
開放されるとき,その肌色は,
決して,治癒されない。やはり,
コギトに戻った時,治癒される。ここで,珈琲など呑んで,休んで
いらっしゃい。「いいや,先生。その
珈琲は,coffeeではありません」。
一握の砂。
村山槐多。
一房の葡萄。
ひとつの文章をかくのに,分離と
乖離を繰り返し,解を得る嗜好の
ように七転八倒する。
ようやく得た解を,かなぐり捨てる,
ものは,スピリチュアル。

融け合う,

”節電”とゆう傾向に,
もともと自然から頂いたもの
なのだから,幾ら万物の霊長といえども,
自然から恵みを頂いて,控えめな態度に
落ち着くのも,納得のゆくことである。
融け合う,自然一体化とゆう傾向に,
人体が硬化してゆく異化する動物なら,
異化する酵素を,人体の壁を取り除くため,
ミネラルウォーターを飲み,自然の酵素を
自然一体化として,融け合う,

親知らずポーズをして,現代版太宰の訓示を
帯びつつ丸い妖怪になったつもりで,背骨の
中心に力を収集して,おへその下まで集中する
こんな丹田集中のような,自然一体化は,
腹式集中型の,お腹に力を入れる,まるで
腹筋のようだ。

”節電”とゆう傾向に,
もともと自然から頂いたもの
なのだから,幾ら万物の霊長といえども,
自然から恵みを頂いて,控えめな態度に
落ち着くのも,納得のゆくことである。
融け合う,自然一体化とゆう傾向に,
人体が硬化してゆく異化する動物なら,
異化する酵素を,人体の壁を取り除くため,
ミネラルウォーターを飲み,自然の酵素を
自然一体化として,融け合う,

背筋を伸ばして,とはよくゆうけれど,
ピンと伸ばした背筋からは,湧水の香り漂う。
腹式呼吸をして,水晶をお腹の中に携えた心地で,
その水晶の香水に漬けた水晶漬のような
心地で,一種諦念,
忘れたなにもかも忘れた,っていって,
階下に降りる。お風呂に浸かって善悪も無くなる。
ただ,眠る前の歯磨きに,魂さえも,
天に還ってゆく。あとは,寝るだけ。
宇宙の天空星空。

”節電”とゆう傾向に,
もともと自然から頂いたもの
なのだから,幾ら万物の霊長といえども,
自然から恵みを頂いて,控えめな態度に
落ち着くのも,納得のゆくことである。
融け合う,自然一体化とゆう傾向に,
人体が硬化してゆく異化する動物なら,
異化する酵素を,人体の壁を取り除くため,
ミネラルウォーターを飲み,自然の酵素を
自然一体化として,融け合う,

善良形。

秩序のための善良。
依頼のための善良。
拘束のための善良。
何かをするために,善良とは
消化不良。
願わくば,サバイバルに
ようやく落としかけた,
カーテンの染みみたいに。

なにか悪い,とかそうゆうのは
ないのだな,サバイバルに
生きていれば,なにか役立つ。
接客さえも,サバイバルに
する視点は,温厚なのより
むしろ生鮮的。

秩序のための善良。
依頼のための善良。
拘束のための善良。
何かをするために,善良とは
消化不良。
願わくば,サバイバルに
ようやく落としかけた,
カーテンの染みみたいに。

ガンジーの,幸せは
悲しみと喜びを合わせた,
裏表の合わせたもの,と。
そうやって,言ってるのに,
ピッカーン,と帽子外す
思いのした。
善良とゆうのも,苦しみの
間から産まれたものなれば,
善良として人のあいだに
存在する。そうやって,
いわんや,幸せもなのかも

秩序のための善良。
依頼のための善良。
拘束のための善良。
何かをするために,善良とは
消化不良。
願わくば,サバイバルに
ようやく落としかけた,
カーテンの染みみたいに。

妖怪のなかにも,丸いベトベトさん
のような,丸いとしか言われないの
も居る。ああゆうのは,全体主義の
姿のようで,実は愛嬌のある姿。
こうやって,筆の重い,とゆうのかな,
丸い妖怪の訪問を受けた後の翌朝の
すすんで,彼ら枯れ草の萌芽を根下の
間にのぞかせるような,そんな朝開けには
すすんで,また彼らを訪ねてみたいとも,
思うのだ,目玉焼きより,茹で卵。
目玉焼きより,茹で卵。
と,呟きながら。


公共性の港,

individualな話しではなく,personalな話題として,『他者』の 公共性の,『他者』の中で,生きたい。 港町を,渡る潮の風に, 一本のハマチが揚がって, 捌くうちに,潮には,一筋の 陽光が流れた。存在の呵責には, 面倒のない会釈で避そう,もうすぐ 本当の陽が, 上ってくるはずだから, 本当の陽が。
”LONDON ONE”の作風には,アヴァンギャルド。 しょっぱなの展示だからではない,そんな 意気込みではない,しかし意気込みにも似た, 勢いの溢れていた。 ”redbeanspillow”の作品には,夢中無我の, 存在の呵責の溢れてた。禅道ではなく,手も合わさず 豆乳を食事として,飢えを作品に合わせていた。 ”BAKED MASCOTT”の展示には,熱意が情緒と 感情の情感と組み合わさった,言語と画彩の融合に 溢れていた。そう, 溢れていたのは,情緒だけではなく,三者すべての LOGOESによるもの。
individualな話しではなく,personalな話題として,『他者』の 公共性の,『他者』の中で,生きたい。 港町を,渡る潮の風に, 一本のハマチが揚がって, 捌くうちに,潮には,一筋の 陽光が流れた。存在の呵責には, 面倒のない会釈で避そう,もうすぐ 本当の陽が, 上ってくるはずだから, 本当の陽が。
ヤマタノオロチが怨霊ならば,何らかの 不幸があったからに,違いない。 TOP OF THE WORLDに,業の姿の, 噴き出すのなら,大きな穴の開いた火口には, 遠心的に拡がった,フラクタルの法則を, 東照宮の神の由縁や,イスキリとオオナムチの関連性, 大きな,公共性の港に吹く風の,港は潮風の 寄港する船員の息吹になるとゆうことを, 忘れないで居てほしい。
individualな話しではなく,personalな話題として,『他者』の 公共性の,『他者』の中で,生きたい。 港町を,渡る潮の風に, 一本のハマチが揚がって, 捌くうちに,潮には,一筋の 陽光が流れた。存在の呵責には, 面倒のない会釈で避そう,もうすぐ 本当の陽が, 上ってくるはずだから, 本当の陽が。




恐怖,業は,燻製に使う。

”見える”ことに気づかない,
そのことに,気づく。
ワンネスへと向かう,この宇宙。
KARMA SPRING主宰,として
何事をか,
思う。

恐怖,業は,燻製チップに。
大男さんが,切り株を持ってきて,
『食えねえか』と呟いて行く。
私は,食えねえもんは,くえねえ。
そう言って,狸寝入りする。そのうち,
こんな夢をみるのだ。どこかの工業都市,
ワンネスに向かう工業都市。私は,
恐怖に向かって,業の対処について,
ワンネスに向かう工業都市をみる。そうして,
『食えねえか』と呟いて行く,大男の背を追って,
眼を醒まし,切り株を切り刻んだ。『くえねえ訳は,
ねえ!トントントントン,Cutする!くえねえ訳は,ねえ。
うーん,たしかにくえねえな,たぶん。』
じゃぁと,薪にくべる種火に点けようと,燻るうちに,
鍋の上の,豚干し肉が,黒ずんでいた。あぁ,
うめぇ,くえねえ訳は,ねえ!

”見える”ことに気づかない,
そのことに,気づく。
ワンネスへと向かう,この宇宙。
KARMA SPRING主宰,として
何事をか,
思う。


Karma,Forever.

杉の樹から顔を出す月明りを,
レースのカーテンから洩れるその光。
レース通った月明りからは,織布を,
纏って,お部屋の温度の上がる。
三角座りをして,ただ膝を抱えて,
もちろん透き間風はあいだを通って,
そよふわりと,顔なでる。

酵母を育てるように,業のエサ遣りをして,
含蓄富む作品は次々に産まれてくるもので
エゴを育てることは,黎明のこういう新春近い
時節には,そのエゴを育てることは殊に必要,
このエゴとゆうものが,スウィーツを頂くくらい
お茶との相性の良いもので,含蓄富む作品とは
タンニンを摂った時の,あのスウィーツのレシピ,
お茶に合うスウィーツの勝手に浮かぶレシピの,
何故だか『余暇を持て余した時には,殊にお茶を
1リットル以上呑んでみると良い。』こんな,
お風呂の手前に,ふっと,Karma,Forever.

アナトール・フランスに飽きてしまった時は,
エゴを育てよう。トーマス・マン,バートランド・ラッセル,
人類の代表者と,ハンス・カストルプの行き来を
訪ねて,さぁ酵母を育てるように,業のエサ遣り。
ノルマンディーの,小麦畑を逍遥するのに,まだ
シャンペィンのマスカット頂ていないと,秘密の扉を
潜って跳び抜けて,ケルン大聖堂や,ベルフォールの
要塞すすんで,ピカソのゲルニカ,杉の樹の梢に。
アナトール・フランスの左顎に,獅子像のトーマス・マンより,
伝説の,岩塩を溶かしたお風呂に浸かって,アドヴェントの
カレンダーをめくる目を閉じる。

杉の樹から顔を出す月明りを,
レースのカーテンから洩れるその光。
レース通った月明りからは,織布を,
纏って,お部屋の温度の上がる。
三角座りをして,ただ膝を抱えて,
もちろん透き間風はあいだを通って,
そよふわりと,顔なでる。

どんどん磯辺どん。

相当な分量の粉砂糖を振らなければ,
『首長,大雪です!』とは,応答されない。

クリスマスのシーズンを目前に渦中に入る,
鶏肉の揚げたものなんかは特に,もう訳も
なく,話題に上る。

そう,粉砂糖を,
パウダースノーに見立てるその感覚こそが,
雨と飴の,同音異義たる由縁で,

天照など,
甘すぎて,もう年越しの初詣でだ。

例え,
大きな一枚カツの美味しいとしても,意外と
一口カツの方が,
お肉の匂いがして旨かったりする。

ヨモギ餅も出来立ての一日目の柔らかさに比べれば,
他の保存食としての製品は論外までとは言わないまでも,

そうゆうクリスマスらしい気分に浸れたりもして,
クリスマスには,パウダースノー,トナカイそり,
モミの葉など,

例えば,それは美味しいグルメにすべて
含まれていたりもする。

相当な分量の粉砂糖を振らなければ,
『首長,大雪です!』とは,応答されない。

天照など,
甘すぎて,もう年越しの初詣でだ。



生活を詩に。

詩のランドスケープ。
私小説の文学詩。
考える行為は,代用できない,
何物にも。んで,生活を詩に。
全ての文学は日記で,
俳句,短歌,生活を詩に。
情趣はそのまま,詩になって
個人はそのまま,詩になって
詩こそ,おろそかに。

意味はもう必要ではない,とは
確かにそうだ。崩壊してゆく,
その自我,自我の中の夜,そして
天に還す,とは瓦解してゆく自分の
その崩壊の中にこそ学び,
虚空蔵してゆくアーカーシャ。

詩のランドスケープ。
私小説の文学詩。
考える行為は,代用できない,
何物にも。んで,生活を詩に。
全ての文学は日記で,
俳句,短歌,生活を詩に。
情趣はそのまま,詩になって
個人はそのまま,詩になって
詩こそ,おろそかに。

崩壊してゆく自我を,眺められる
心地ほど,幸福なことはない。
彼は,もう時間のうちに,
そうして,意味のうちに,
そしてもう,右脳左脳の間に
いない。

詩のランドスケープ。
私小説の文学詩。
考える行為は,代用できない,
何物にも。んで,生活を詩に。
全ての文学は日記で,
俳句,短歌,生活を詩に。
情趣はそのまま,詩になって
個人はそのまま,詩になって
詩こそ,おろそかに。

あえて建設的に,そのものを
言うのなら,急に親友に似た誰かを
みて,ノスタルジーに覆される,夜の
郷愁。私の中に,哀愁はない,ない
けれど,哀しさの前に,懐かしさの
ある,それは『生活を詩に。』とゆう
私生活詩,とでも
ゆうのかな。



竜馬の軍鶏。

日本の鍋と言えば,竜馬の軍鶏。
けれど,やっぱり鍋と言えば,チゲ。
あの韓流ドラマの観過ぎだろうか,
だから,やっぱり鍋と言えば,チゲ。
西洋の夏目漱石が居るとしたら,
劇作家のアントナン・アルトー。で,
それは,現代のキリストと言っても良い。
夜に向かって,個性が崩壊してゆく,
その『人間は崩壊を望むべきではないが,
崩壊の中に何かを学ぶ事が出来る。』と,
R.シュタイナー。アナトール・フランスの知性や,
S.マラルメの呵責や,ランボーの疾風に,
穏健質実な彼らや,巨星勢墜なアーチストの
絢爛豪華な,トロピカル・アイランドの逍遥を,
フルーツの詰め合わせを頂いて,呑気に,
つらつらと,美味しいスモークドチーズを捜し,
呑気にフルーツを頂いて珈琲を淹れる。まだ,
しっかり合う,T字の替え刃や,ブレンディの豆や,
ロッゲンブロードなるライ麦の蒸しパンのようなのや,
パリの写真集,ユングの赤の書,結局はアフォリズム。
図録のような言葉しか持てない,と気づいたとき,
業の泉に呑みこまれてゆく。業の泉は,恣意的に
予見される恣意。快楽とは,崩壊ではなく,学び。
自分を信じる,は,他人のせいにする,と同義。
でも,その恣意に対義語があるとすれば,それは,
真我=無私,とゆう哲学。ロッゲンブロート,とは
知らず知らずそうして追及する哲学。アントナン・アルトー。
西洋の夏目漱石が居るとしたら,
劇作家のアントナン・アルトー。で,
日本の鍋と言えば,竜馬の軍鶏。
けれど,やっぱり鍋と言えば,チゲ。
あの韓流ドラマの観過ぎだろうか,
だから,やっぱり鍋と言えば,チゲ。

古書店主はブロガー。

現代の古書店主はブロガー。
出版,古書流通,店主構え,
現代の古書店主はブロガー。
トッポギを久しぶりに,
サムジャンとダシダの鍋で。
現代の古書店主はブロガー。
出版,古書流通,店主構え,
今のいままで,名文発掘。

サムジャンとゆうのは聞いていた,
ダシダもなかなかないけれど,それに合う
って,教えてもらってた。
トッポギは,父親はあんまり好きじゃない,と
言っていたけど,今日は是非とも鍋にして。
古書店の心地を,PCの前で感じて,
呟きをニューズペーパーのように愉しんで
トッポギは,昔の記憶よりまして,
父は楽しみにしてくれる。

今日は,鶏もも肉のつみれ。むね肉によくするのだけど,
今夜はもも肉で。舞茸も勢い余って地元産の,ラーメンも
生めんを用意した。近所のすぐちかくにある神社を横目に
お買い物。あそこは,映画『耳をすませば』の舞台に,
”とってもよく似ている”って,病気の時に気づいた。
『バロンのくれた物語』の物語。書籍の紹介をしていた時の
気になっていた絶版書籍を,取り寄せして,その名も
絶版堂より配達されて,姪っ子の誕生日祝いに。その,
病気の時に”あの神社は『耳をすませば』の,”と気づいた時の
あの気づいた,とゆうのは詰まり僕にとっては贈り物で,
近頃,あのアントナン・アルトーは基督の,とゆう似姿な感じ,
感想などと共に,堀辰雄らしいロマネスクーに寄せて,

現代の古書店主はブロガー。
出版,古書流通,店主構え,
現代の古書店主はブロガー。
トッポギを久しぶりに,
サムジャンとダシダの鍋で。
現代の古書店主はブロガー。
出版,古書流通,店主構え,
今のいままで,名文発掘。

ウチの三四郎。

ウチの三四郎が,脱出した。うん,
脱走とゆうものかな,いつもは吾輩は猫の
ように,捕縛完了ともゆう報告の電話など,
じっと興味げに眺めている,ぼーっとした三四郎。
外に出て見かけるときは,いつもよりでかく感じ,
抱きつかせて家に入れるまで,とりあえず猫なら,
家に入れて,何でもよいから,ウチの三四郎であれば,
それでいいと,入って,背中の斑と,シッポの白い先の
様子をみて,あぁウチの三四郎かぁ,呑気なもの。
ニコちゃん大王のように,先ごろ頭もdetoxしなければ,
頭の循環はしないのだ,と唐突に気づいてから,
どうやったら頭のdetoxなどできるのだろう,首を頭を
傾げて,赤ちゃんになった気分で,体操がてら,
頭の体操ならぬdetoxをしていた。ウチの三四郎が
逃げた,と聴いて,おぼつかないdetoxを中断して,
さぁ,頭のdetoxはどうするのだろう,首を頭を
傾げて,捜し始める前にまずは簡略味噌ラーメンを
啜っては,これも何かに役に立つとは思って,したたかに
簡略味噌ラーメンを食べていた。
落着き,おちつき。そう,
なんの役にだって立たないようなことが,三ちゃんの心を
落ち着かせ,頭のdetoxに効果を発し,そうして,三ちゃんは
ようやく簡単にも見つけられるものだ。颯爽と,庭をあるいて
三ちゃんを捕縛。躍起になって捜すより,味噌ラーメンを
頭のdetoxの途中まで終えてから,啜ってはすすって,
落着き,おちつき。初めての脱出劇だったから,相当に
動揺はしていたはずだ。そこに,味噌スープの美味しい,
鰹だしなんかの匂いがやってきて,ウチの三四郎は,
正気かコイツ,と我に返り落ち着いたはずなのだ。まるで,
パルテノン神殿のなかにピサの斜塔をさがす心地で,
実際には,藁で編んだ風呂敷みたいなもののなかに挟まって
動けなくなっていた。ガウディの教会のカタツムリやフィボナッチの
様々な形象に満ちているとゆうが,そうゆう世界だったに
違いない。初めての脱出,ウチの三四郎。

DaBUNGAKU,

朝の床拭き掃除は,
人類全体のクリーニング,
そんな健康診断で引っかかっていた
時分の,夢見心地の所存みたいなもの,
そんなものが,ちょっと醒めてきた。
DaBUNGAKU,クッキーが美味しい。
DaBUNGAKU,それで,反骨精神。
DaBUNGAKU,使命にはまったく反目しない。
健康意識の,夢意識。健康を意識すると,
醒めてくる。醒めてきたなら,お茶を沸かし,
まずは冷めた珈琲を持ってきながら,クッキー,
醒めてきた,とゆうのは夢さえ覚めるので,
健康とゆうのは不思議である。夢から覚めれば
健康なのか。覚めた”夢”こそ,”病”であった。
冷めた珈琲,半ズボンで,椅子に座り,ただ,
クッキーをつまむ。

キーボードを叩くのは,正直恬淡として,
何より頭を回転させているのに,身体の軸は,
回転していない。近くの遺跡の風景などが浮かぶ。
1500年も前から,祖父母の”1500”年も前から,
たたずんで,恬淡としている,庭石のように,僕たちは
その上に生す苔のような,非常に恬淡としている。
”死”,死が語られなくなってから,久しい。しかしながら,
自分のUFO体験やら,普段より霊界に足を突っ込んでいる,
そんな不可思議な経験を物語れば,苔生して恬淡としている。
Web,蜘蛛の巣が張られて久しい,シュタイナーの熟読までは
しない,1ファンとしてはWebとゆうのは,そのネイティヴ・アメリカンに
しては『予見』めいた,神秘学者としては”特許”的な何か。
フランス派としては,シュタイナーに対峙したときに,彼に
天体の輝きに,蒼穹に形姿を維持できる固有の輝きを
みるのだけれど,『もう,間に合わない』,と思っていた彼の,
天体の輝きとしての託宣,『とにかく,左に,左に行ってください。』
公共性の意義として,則天去私の漱石に見られるような,
”愛”を『喜捨』する,インド的叡智への擦り寄り,”愛”は帰ってこない,
けれど,”夢”よりは帰って来られる。Webの中でも,生きられる。
則天去私とゆう,BUNGAKUが成り立つのかはよくわからないけれど,
DaBUNGAKUとしては,とにかく堕天使でよい。自己弁護,
卑下憐憫,それが自己受容であったらば。

マグダレーナ・マラルメー

十年来の少女の影は,ステファノ・マラルメ。
ヘロディヤに対するマグダレーナのように,
つじつまの合わない何故だか追走を,やって
みては,困らせていたのだった。その,
緑茶を啜っている時の,味覚より香りに訴える,
抹茶アイスの売り文句のように,マラルメとの
付き合いは,非常に淡味なものであった。その,
諧謔とも,ゆかしきユーモアともとってつかぬ,
歴史は,諧謔とともにはなつ,ユーモア。存在の
呵責なき,呵責。イロニーたるイロニー。また,
チキン・オニオン・スープにわざわざクルトンを
欠かさず足して入れる律儀さ。彼の呵責なき,スープに
クルトン遣いはまさに,マグダレーナ・マラルメー。
コンセントから漏れる充電器の溜息の,お茶を
頂くにも,冬には何故か諦念繋がりの,妙に
関心,情趣をそそられない,しずけさのつどう
夕べ。ふっと,この十年来の知己は誰だろう,と
思ったのだ,金星の長老ともつかぬ,非常に
肝心な志向,思索,洞察を以てわすれない,あの
黄金の杯には,桜桃とマティーニの欠かさず,
遊行する,ささみには青じそ,赤身にはオニオン,
意識せず,無意識にも陶器を眺める,その眼つきの,
遊行するグラタンの調べは,ペンネーにしても
良いわよね,..ぉおう, 次はどこの,名水を汲みに
行こうかと,業の泉ハンティングをする,そんな
最中には,手作りジンジャーエールに,
メイプルシロップ・ヨーグルトと置いて,
さぁ,マグダレーナ・マラルメー。


画像通貨と革靴職人。

画像通貨とは,カードゲームのようなもの。
イメージを交換する,思考の交歓。
イントゥイション,霊的合一とはこういうものか,
『画像通貨』による試論。
現実的には,霊的合一とは,達成感による
自己実現欲求には関与しない思考態と
思われるのだけれど,それを画像交換による
イメージ交歓,さらに思考の経済とみると,
かつて,霊的経済原理とでも呼ばれて,嗜好した
その吟味したる呼び名の味を憶いだす。
ひたすらに,写真を撮ってデジタル加工していた。
水彩加工ソフトによる,画彩をメインにして,
版画風や,サーフ・ファッションなど,多種多様な
色彩を試みてきた,その中で,ふっと思ったのである,
画彩とは,個性のコードである,その個性は,その
個性の経済を帯びている。
画像通貨とは,カードゲームのようなもの。
イメージを交換する,思考の交歓。

未来の姿は,革靴職人の,槌打つ音の世界。
何故かしら,その槌打つ音に触発される,生活は
インテュイションと似つかわしく,むしろその革靴の
職工の絵を,画幣として発効して,車に貼って,
運びたい,それぞれの想いを霊的経済にして。
画像通貨を発行するのには,きっとPCツールの
インタラクティヴ双方向化は必要条件で,ただ,
財閥解体のような,インタラクティヴ双方向化は,
共産化の自爆スイッチでもあるから,ソヴィエトの
文化は自由で面白かったと,広告デザインに知る。
あれだけ,ドクトル・ジバゴや,内モンゴル自治区に
乳酸化のどれ程のグルメがあるかと思えば,推して
知るべし,また,何か祈祷の閃く一瞬のあったとみる。
そこが,思想革命の知るべき秘密で,もちろん画像通貨を
実現するには,もっとPCパイプの強ければいい,とゆうだけの
隠喩であるのではあるけれど。思考の実体,というテーマで
ものを考えてみると,思考の実体化は,電源をPCのそれは
切った瞬間にONになる何かで,ONになる何かは,思考の
実体である。革命思想は,思考実体化。

無黒縦輪。

MY LIT'ROOM, 僕の文学部屋を旅する
キリストの種は,麦芽や,生麦の青粒。
何か旅する。祈りによって死なずば,
沢山の街や人々みのらせん。として,
また,漆黒蹂躙する例えば国の柱に。
訳もなく,柱になる心地,また夢の告げる
あなたはもう意図ならず,やがて得心す
無黒縦輪,人柱になった者は,意図ならず,
縦横無尽に,疾駆する,その姿シシ神の
よう,果てはサハリン,ゆくえゆきつく,
無人島。レッド・タートルは,死後の世界の
看取りの物語り,シュタイナーによる神秘学は
死後の世界を渡るには,固執とまで採れる,
常識の強さを説いていた,俗説にそう思うが,
果てさて,認識を問わない現実にたゆたってみる
今の気持ち次第。固執の先の常識は,科学的精神。
その次には,ポエジー音楽のように詩情あり,
霊玄をたゆたうその想いは,個我より則天去私
霞のなかにカスミ喰いて,行き先占う,もう,
きっと水星領域に,太陽のめぐみ憶えて,太陽の
中に経済領域みえるならメルクリウス,キリストの
子供時代,妖精のフェアリー,ノームの,
秋の子供達でよい。なんだ,水星領域に入ろう
として居るのか,そんなこんなで,KARMA SPRINGの
フェアリーテイル化,見事に,フローラルな
夢中散歩に,出掛けよう。


不条理とゆう安定,

安心の冷や冷やの叶えた後に,
安定度は,叶える前に適って,その
この際には,一本のお線香の燃え尽きるまで
祈祷の時間など持った方がいいのではないのか,
この際には,色気色欲の類まで,安定度の
高い,ヒューマニストな感じに終着してゆかないか。
例えば,心理的な安定度が,ゆくゆく
電波抜きのような脱力に替わって敢行されたら,その
叶える前に被虐,とゆう安定度高い感性に到って,
例えば,感性の高い安定度が,それ一度っきりでは
なく,祈祷の時間を持つようなそんな感じで続いて,
色欲さえも失せて。

貧富の格差が嫌だったのか,
お茶をのみほして,嘆息。
貧富の格差が嫌だったのか,
お風呂沸かしながら嘆息。
貧富の格差が嫌だったのか,
おこづかい頂いて嘆息する。

不条理に,満足するその不条理に,その 不条理に,満悦するその低刺激の,その 不条理に,喜悦するその芸術観に,その。 安定度は,giftなので,閃く一瞬でいい,とゆう その不条理に。平和とゆうのは,やっぱり, 水のように世界を周る者なので,共同分配 されるそれは,いわゆる安定度は一瞬なのだ。
貧富の格差が嫌だったのか,
お茶をのみほして,嘆息。
貧富の格差が嫌だったのか,
お風呂沸かしながら嘆息。
貧富の格差が嫌だったのか,
おこづかい頂いて嘆息する。

通販サイトを,グローバル・サーフィンして,
その愉悦を楽しもう,として考えた。または,
外出しようとして,三度試み,三度着替えて,
外出しようとして,また試み,考えた。書店には
それに替わるなにか,ロマネスクー情報館の
詰まっているような,情報自体にロマネスクーの,
エコロジーは地球自体,情報は人類自体,その
エコロジー情報館のあるとするなら,それは
グローバル・サーフィンの中にあって,自分はその
一瞬の立場にあって,色欲はおこづかいによって
落ち着くものなんて,勿体ない考えを言葉に託して,
病気は,次に進歩を産むなんて言う。

貧富の格差が嫌だったのか,
お茶をのみほして,嘆息。
貧富の格差が嫌だったのか,
お風呂沸かしながら嘆息。
貧富の格差が嫌だったのか,
おこづかい頂いて嘆息する。


人間は電力,

記者霊媒としての,僕の感性は
独りぼっち,人間は電力,
片言つぶやく。
記者霊媒としての,髪の慣性は
伸びっぱなし,神は枯れ尾花,
掻き分けて呟く。
記者霊媒としての,お茶のひとしずく,
希望を灯す,リラクゼーションいのち,
一息して呟く。

ロンドンの汽笛は警笛のような,
うなりがなりひびきとどろく,
モンゴルの草原は夏草のにおい,
よもぎどくだみすぎなローリエ,
うどんの名店にはお品書きさまざま,
おそばてんぷら長いもガリしょうが。
人間は電力,呟いてさまざまな
エナジー模様捜す。


中途半端な完成。

何でも,中途半端な完成。
叶える前に,被虐である。
何でも,中途半端な完成。
叶えた後は,絶望なのだ。

中途半端な完成は,とっても
良いものである。森はそうやって
樹々の根元に茸を咲かせ,漱石の
あのギャグともつかぬギャグらしき
比喩にいたるのだ。

何でも,中途半端な完成。
叶える前に,被虐である。
何でも,中途半端な完成。
叶えた後は,絶望なのだ。

病気を治そうと,気を持ち直す,
そうして,detox如何と,本当に
努力する,あれれ完成間近に,
中途半端な安定度高い上の空。
青い空,白い雲,
青い耀き,白き反射。
ああなんて美しい,
呟いて筆を執る。
うーん,まんまる。

何でも,中途半端な完成。
叶える前に,被虐である。
何でも,中途半端な完成。
叶えた後は,絶望なのだ。

安定したら,中途半端で良い。
森はそうやってできる。
発酵も,いわんや。
人体は支えのうちに,不安定だ。
そうして,安定したら,
中途半端でいいのだ。




さくらんぼオーナメント。

あんまり問題視なんてない方で,
ひとつ記事にしてしまうと,一挙に
諸勢を組んで,話題は撤退してしまう。
結局,自分は記者精神で渉猟しているのか,
例えば記者にとっての幸せとは,
我思う故に我あり。の幸せではないのか,
自己認識を,自我で満たすあの瞬間では,
まっこと記者は霊媒のようなものである,
つらつらと,書店逍遥して,
あぁ,もとめる姿はもうここかしこには,
いない,本にもとめる私の影。それは
この場にいない。それでは,安定の裏にある
なんらかの不条理を個人の腸組織の
身体システムに証す,シンプルに,
私の読める本は,普通に訊ねる。
信実,みずからのもとめるみずからの
ジャンル放浪の,どこかしこ,見受ける
やっぱりこのジッとしている嘆声,
アンドレ・ジッドしている田園交響楽,
アントナン・アルトーしている,舞台より
演じる則天去私。安定をのぞむ,
身体は不条理をのぞむ,不条理では満足しない,
そんな,安定志向の生活をのぞむ自我に
我思う故に我あり,の充満する,
コケティッシュ・ロマネスクー。お水を
呑んで,ひと言呟く。こんな生活は
コケティッシュ・ロマネスクー。


聖母風船割り,

何故か不思議に,1人の女性の影に
とりつかれている。1人の女性に,
というのは,もう小学生くらいの前から。
9割型,その女性の好みになってしまうから,
音楽なんかもファンシーなものに偏る。
そういう若干のファンタジーに,取り囲まれ
今年の冬は始まるのである。
LONDON ONE,BAKED MASCOTT,
KARMA SPRINGの名付けの親なども,
居たとしたら,彼女だろう。
A Christmas in London,なような,
そんな感じなのである。ヘッセ,彼の
知と愛を,読んでからだろうか,なぜ
聖母マリアの影を踏むようなそんな
実際に強烈な聖母性に取り囲まれるように,
そんな経緯の起こってきたのだろう。
殊更に,ツリーの飾り付けに,
さくらんぼ大の姫りんごオーナメント,
ミニツリーに目前ながめながら,趣味を
そそられる自分の,特に地名のLondonでは
ない,なにかのロマネスク,
それは,風船割りをするよう,
9割型の聖母をしぼますような,
それでいて,僕趣味ではない,
聖母趣味にあずかるような,オーナメントは
食するのではない,飾り付けという
美の体験である,

聖母風船割り,
化学の結婚,
意外なりや,
聖母の花婿に
なるような。


業の泉なる,

今晩はとことん忘我して寝てやらう。そう,
思った,カーマスプリング,念仏唱題,下降上昇,
さまざまな方向性で溢れている,帯電中の世界。

それは,脱ぎっぱなしのセーターを,たたんで,
しまっといてあげる,そんなものなのだ。女性なら,
ワンピースでもよいだろうけれど,帯電中の世界に
身体をまとっていてくれる,この衣服を,たたんで
上手にしまっていられたら,朝になって,上手に
起きられる。お掃除だって,うまくいく。

だから,方向性は方向性だって,どういったって,
忘我の告白。とにかくシンメトリック・シンドローム
だからって,帯電しやすい身体を,下降中の祈りとして
カフェーにいって,忘我しすぎたうつうつの頭脳を,唱題の
上昇志向に知性的運筆に,カーマスプリング唱える。

絶対知性のくびきは,下降念仏を上昇知性と行きつ,また
戻りつするほんとにグラウンディングと知性の行き来は,
夜と昼のヴァージョンアップは,横臥忘我・睡眠覚醒の繰り返しは,
またほんとにそれは,非常に辛い。ほんとうに

ただのシンメトリック・シンドロームに,
辛いのは,業の泉なる,
普通の日常なのだ。

南無業乃泉,

他者は,抜けて行く。
詰まり,他者は自分だ。
他者は,抜けて行く。
共苦は出来ない,詰まり
自分とゆう,世界はひとつ。
陶器を2枚重ねて,上にiphoneを,
そうして聖歌をながす。なんでも,
自分が感じる自分は他者だから,
他者を通して自分をみるとゆう婉曲に。

他者は,抜けて行く。
詰まり,他者は自分だ。
他者は,抜けて行く。
共苦は出来ない,詰まり
自分とゆう,世界はひとつ。
キリン麦酒のジョッキふたつに珈琲。
個々の陶磁器に,お茶を淹れて。その,
他者として感じる他者は自分でしかない,
詰まり他者を感じることはできない,その,
他者とは,幸せを感じる自分の事。

コミュニケーションは,暇稼ぎ。その,
自らを観察せる,瞑目の時間にみているのも
自分。ならば,他者の中に自分を探そう。
きっと,
他者は,抜けて行く。
詰まり,他者は自分だ。
他者は,抜けて行く。
共苦は出来ない,詰まり
自分とゆう,世界はひとつ。

きっと,他者は逃げてゆくだろう。
観察する瞑目する,そんな自分の
みつめてきた,共苦せる他者は,
他者のカーマスプリングは,
きっと,
他者は,抜けて行く。
詰まり,他者は自分だ。
他者は,抜けて行く。
共苦は出来ない,詰まり
自分とゆう,世界はひとつ。


丹田鍛錬する帯電。

ブレンディのカフェインレス珈琲豆の,
普及的に販売されて,それだけで,本当に
日常を,日常として,安気に安心して過ごせる。
これは本当にすごいことだ。珈琲が,ドリップが,
そのタンニンの,その晩酌に換わる,その習慣
それを支える命の豆。
そうゆう日常を支えるのは習慣で,日常を安気に,
安心して過ごせる,
日常とは,デカダンスではなく,常に啜る珈琲。その,
切磋琢磨。丹田鍛錬する帯電。タンニン連帯する
諦念。経済の根本は朝食を摂ることだなんて,ゆう
休日は,食べずにゆったりしていて,もぬけの殻だ。
そんな時に,再び,経済の根本は,運筆することだ。
何故,珈琲の習慣がこんなに人の支えになって,この
外の換気による新しい循環気の何故そんなに新しい?
お風呂は止めているかな,お茶は沸かしていたけど,
湯は停めたっけ?あぁ,よかったと胸をなでおろして,
うつうつとした休日を,自我に再確認する。思考が,
存立するのは,習慣あってこそなる習慣は餅つきの
お米の匂い,階下に降りて胸なでおろし自我の再確認を,
昨年の手巻き海苔を,お餅を焼いて挟もうと,麺つゆ
タイマーを仕掛け,また階上に。焦げた香りすれば,とは
思いつつ,忘れないようにそのことばっかり考えて,自我の
再確認を推し進める。階下へは,降りるたびに考える,
ふっと,息ついたときにこそ,カーマスプリング。ゆえの
丹田鍛錬する帯電。アナトール・フランス。寺山修司。
三島由紀夫。外周を一回りして,求める自我に再確認。
お餅の焦げた匂いのしてきそうだ。麺つゆを着けて頂く,
海苔を巻いて。

言葉は比喩。

実現すること自体の,〜のような,
実現すること自体の,言葉は比喩,
そうして,実現すること自体の,冬。
おそるおそる,熱い珈琲に口唇を持っていく,
こーこー,ヤカンの熱を噴いて,けむり硝子,
熱い,熱い,冷ややかな,窓べりで。

実際には,レモンティーを呑んでいる。
こーこー,と言うヤカンは空調が天井から,
クロックムッシュを,半分ずつ,色合いは
当っているけど,ストレートのほうが,
よかったか。言葉は比喩,冬の間で,
自分色を当わす,秘密な世界と。

自己実現性とは,不思議なものだ。
冬の色を感じるだけで,復活する自分色の,
さて,本を読むように,世界を詠みたい。
KARMA SPRING,カーマスプリング,
唱えてみる,冬の朝,世界の秘密は
地球とゆう腸活母体のみでなく,
眠りの花園の,知的な行為星も含まれ,
これはひそかに,もうどうしようもない,
幸福である。天上の知性と,地球の腸活。
間に,豆の木を渡るジャックの,
とんでもない巨人の斧がわれわれを,
狙っている絶対的な知性とゆうもの。
さあれ,レモンティーを啜って,
りんごのコンポート同様,果皮は,
巨人の斧が知性のよう,カーマスプリング呟く
私たち豆の木。
ジャックのことづて。


業の泉さん刺激,

タイミングは,技術。
技術は,タイミング。
よき為政者による
よき政治。スーパーで買い物,
お弁当を見にきて,業の泉さん刺激,
基本的には,苦しみ,試練は
マイナスを自分の中に,
業の泉さんにいたるので,その中で
ゆっくり業の泉さん刺激,
幸福は,不幸の中に,
刺激は,業の泉さんのなかに,
学びは,感情の波に,
お弁当は,おそろいに,
りんごの,コンポートを,
あぐらをかいて,頬張る。
恋とゆうのは,業の泉さん刺激,
体温をあげるのに,業の泉さん刺激,
幸福もたらす,業の泉さん刺激,
ふっと,思った時に,業の泉さん,
幸せは,不幸せの中に,
幸せは,感情の波のなかに,
業の泉さん,って人の名前?


さらば倦怠の日々。

芥川の妻となって,
サタンの第二位となって,
王族の嫁となって,
さらば倦怠の日々。
右足の内側に,獅子のアザの,
それはそうゆうことなのだと思って,
倦怠の日々,純粋の日々,その
他の物事が見えない日々,または
スモークチーズをかじり,
さらば倦怠の日々。
食べることは,昼と夜なのだ。
拒食からくる過食ではなく,
食べることは,昼と夜なのだ。
さらば倦怠の日々。
芥川の妻となって,
サタンの第二位となって,
王族の嫁となって,
獅子のアザのそうゆうことなのだ。
お茶を啜り,スモークチーズを食べ,
胃腸は,活性化するだろうか?
食べることは,昼と夜なのだ。
妻の風呂上がりを待って,寝台を
整えて,一日の終わり。
今日は,寝る前によくそのことを思って,
白い獅子に戻ろう,さらば倦怠の日々。

販売ドリップ,剣術ラーメン,

夜の『鬼平犯科帳』を観ていて,
当時は,ライフルもないから,成敗すると
言っても,シシ神を狙いにゆける訳もなく,
役人の方でも,成敗される側としても,
剣術の立つ方が,強い,とゆう
そんなこんなを,エンディングまでみずに,
ラーメン茶碗×2杯,ビニール袋ふたっつ,
マヨネーズを腕に挟んで,階下に降りる
自分のバランスもあながち現代の剣術か,
って。

お風呂を沸かしながら,デカフェのドリップを,
常に,豆が高い高い,と冷や冷やしながら,
ティースプーンをかちゃかちゃしていると,
あぁ,そうだ。新しく,ブレンディの珈琲豆の,
ドリップ用でカフェインレスと,すこし普及用に
販売されているのを伺って,ほっと安心。
二つ股に,最後の一滴までの挿し湯が別れて,
2~4人前用のペーパーを,1,2人用のドリッパーで
がぼがぼに,淹れるのだけれど,紙の膨張力とゆうか
”紙面張力”とゆうような。

無理をしても,なんだかうまくいくようだから,
無理をしなくても,幸せかもしれない。
珈琲を啜りながらも,普及品でも絶対に美味く
淹れられる,と今でも自己企画には自信のある。
頂いたリンゴをすぐにでもコンポートにしてしまう,
換気扇を回さずに,家の中に染み付かせたい,
相変わらず,口を動かす,のムゴムゴ。

大きな大豆。

大豆ぬくには,骨の折れる。
カブを抜くのもだろうけど,
根を抜き出すとゆうのは,とっても
滑稽なものなのだ。根を抜くのも
殺戮と親いイメージだったけれど,
いつもネギ抜きなど試みるに,
根を抜くのは,滑稽な音色。
植物は,どうも死とゆうものを,
気絶と親いものとしてしか,みてない,
そんな感じの,滑稽さなのだ。
フルーツの皮むきを厭わない,
日射病には水浴びを試みたい,
実際は,ハイチューと,キャラメルアイスの
ご褒美で,つらつらと家路に着く。
ヒステリーとゆうものは,根の色,根色,
大きな大豆を,引っこ抜く時の音色に,
親いから,ジャックと豆の木の想像に,
大きなカブのペーソスを加えて,
フルーツの皮むきを厭わない家路に着いて,
表象を飄々と剽窃して,順次
自らに,ご褒美を加える。詰まりは
深呼吸,まどろみ,想像してごらん,
天国かみになく,ただこの国にありけれ,
と。


土のマコトなる。

朝食はたべたほうがいい。とは
言うけれど,やっぱり土からは
逃れられるものではない。また,
昼とゆう目覚めの土,それは,また,
日用品とゆう経済の土。そうしてそれは
諧謔とゆう塊の執着する土。

ユーモア,とはゆうけれど。またそれは,
土壁土蔵とはゆうけれど,土からは
逃れられない。意識が土によって,在る。
と,ゆうならば,ギャグは,土によって
なりたたなければならない,非情な意識。

意志の強さ,とでもゆおうか。意志は鉱石の
石とはよくゆう。それは,遺志とゆう土であり,
多種多様,千差万別,無智蒙昧な世の中を
渡って行くには,さらに,ヘリティジとしての
意識とゆう土くれに挑んでゆかなければ。

先日,妻の美容室を手伝っている時に,
お母さんが,お客さんの娘さんを連れてきて
くださって,僕は,お母さんと共に,扉を
通って会釈してゆかれた,お兄さんらしき,
学生服の子にも,挨拶をした。

寝るまえに,布団に横たわり,1日を振り返って
今日の出来事を思い返してみると,つじつまの
合わない,事が起こってくる。お母さんと,娘さんは
どうも2人で来られたとのこと。お兄さんの,
陰はなかった。不思議だなぁ,不思議だなぁ。
脚はあったんだけどなぁ。不可思議なことばっかりだ。

不可思議だけれど,意識はただしく持たなければならず
やっぱり,地球の上をヴェールのように覆う意識の,
その支えは土なのだから,しっかりと土くれを
意識して,経済の根本は,朝食。
そう考えて,土のマコトなる,そんな世界を,
地球号の上で生きてゆきたい,そう思う。


指向性と,諧謔性。

そんなに意識してはいなかったけれど
僕にとっての永遠のテーマである,とも
言える,指向性,つまり加虐性と,
諧謔性,その解放系について。うーん,

それは,マリ遊びをしていて,
パツンっとつぶしてしまう。猫との,
遊びで,お菓子をあげるのに預けてしまう。

絵を見て,それは画じゃなくて色である,とか。
美味しいのに,不味い。クサいのに,好い。
など,よく考えてみれば,加虐性をまとめたもの,
それを,まとめて解放系,としている。

組織,出版,企画,漫画などは,
プライバシー,個人,グルメなどにおける,悩みを,

指向性=加虐性のあつまりによって,
解放している。それは,諧謔性なのだ!(笑)

だから,ここそこにおいて,残酷なテーゼに,
なぜか,陥れる,個性の悩みに。

それは,工業デザインを眺めていれば,加虐性など
一発もろもろの,指向性は外れてしまう,

指向性×指向性=解放系,いわんや

解放系÷解放系=指向性,詰まり,個性。

個性の問題,突き詰めて,個人の課題は
『公共性』で,解消される,しかしながらも,
個性の問題,幸せのテーゼに限れば,何時も
身体は一つ,”ワンネス”ついて,指向性の違い
に,つきましては,指向性よりの”ワンネス”で,
公共性は,『ワンネスではない』という,持論に
よっては,やはり,個性は,『公共性』の上で,
達成される,John Lennonの”Imagine”にみられる,
”will be as one...”は,その貴重な証言である。
『公共性』は,解放系。
”ワンネス”は,加虐性。とは,詰まり
John Lennonは,諧謔性。それでは,
個性は,指向性。である,そんな,
お後も宜しくない様で。

祈りの飛躍種,

地球号にのれている,その
贅を尽くした感に,一服。夜は
過ぎて行く。何ごとも,フラットに,
素直にものを,みていれば,それは
飛躍種。想像に任せて,祈りは
空をとんでゆく。ゆらぎを,また,
揺籃を,地球号にのって,見あげる朝。
手を合わせ,心を合わせ,空と合わせる。
何気なしに,ゆらぎは,揺れて揺れて,
また,元に戻って行く。朝と昼と,その
揺りかごに乗っている,不可思議な感想。
夜に,尋ねて,朝に穿つは文学者。その
自然体より,理想に感情を支配されん。
自然一体化は,徐々にジョジョに,適って。
ようやく,届いた,ガナッシュチョコの
夜明けは,近いちかい,もうすぐツリーの
雪焼けパウンドケーキに,粉砂糖。それと,
果実のブランデー漬け。すぐには叶わない。
けれど,叶ったら,雪焼けもみられない。
祈りの飛躍種は,そのブランデーのヴェールに
覆われた,情趣の波を,高楼とともに渡って行く,
シガレット咥えた,ロマン派の先生が,または
香炉をくゆらせた,ローランサンのように,
熱帯夜に,サロメーの夢をみたルソーの,
プルコギ鍋を囲んだ,孫文の由縁に,
馬籠宿の,目覚めに浴した藤村の,それや,
津和野に,惨めな夢をみた,僕の少女の
また,稲荷神は,稲田姫の造る,おいなり。

そうして,今日もレコードを掛ける,
冬の昼夜は寒いさむい。不幸は,
連続の温かさによって,うしなわれる
から,もうすぐ冬だって,この夜明けに
したすらに,晴れるだろう。
したすらに,それは。


オオナムチ考,

僕なりの信実なのだけれど,
大物主とも呼ばれ,金星の大魔王とも
つかない,オオナムチとゆう神は,
ペイルマンとゆうクリーチャーの
ような姿。600万年前にこちらに,
地球号にやってきて,永遠の生命を
保持してる。彼が,悪いわけではない。
麦角や,きりひと讃歌の病いのような
強烈なパッションを持った,神。
パワフルで魅力的であれば,ある程
愛おしいものだ。オオナムチは,サタン神話
とも繋がると思うのだけど,とにかくも
神は,異形の何かと結びつく,魅力的で
まがわぬ,非常に個性の美しい存在で,
頼りがいのある,神が異形である,信実は
本当に,魅惑的に僕には映る。
危険性よりも,信頼度の高さを,信実は
教えてくれる。ペイルマンの類い,
非常に魅力的な啓蒙に富む姿の,オオナムチ。
付き合い方としては,個人的に想うのなら,
本当に信頼の一言に尽きる。

何にしても,神とゆう,
叡智の賜物に,不信で対するのは
値しない態度であるので,
殊に押し付けがましいけれど,
異形の存在である彼らに出逢った時には
彼らなりの,信頼を置ける知性的な
魅力に心酔されたい。
魅力とゆう,
清濁併呑的な何か,と出会う時,
そんな時には,心のフィルターは
取れてしまう,そんなものである。

妖怪集権,

『遠野物語+plus』をあるく。
遠野物語は妖怪集権。とっても,
魅力的で愛おしい。何故,って。
『悲しくてやりきれないCover.』を
聴いていて,しびれてくると,なんて
著作権ってものは素晴らしいんだ。ものを,
創りだすというそうゆうことに関して,発表されて
世に送り出すとゆうプロセスを経たものは,本当に
素晴らしい。 「歴史」だ。

妖怪集権とゆうのは,やはり精神安定の要は,
妖怪,神話,異形の存在に他ならない。そんな
感覚に訴える感受性を露わに映し出した,彼ら
妖怪集権の御霊は本当に美しすぎる。
目に映った,とゆう表現に如何なもの,と問うとしても,
そこが心眼やら,霊眼やら,心的妖精や妖怪霊とゆう
一種怪訝な改称のもたらされる,『遠野物語』をもう一度
読み直してみよう。妖怪集権,妖怪集権
デンデン,デデン,デン。
まだ,日の浅い妖怪Daysだけれど,
安定のためにそこに集約する自らの進路を,航海路とも,
マーメイドのセイレーンに敗けてしまう,あの
異形の霊験に。

さあ,帆を拡げて,とはゆうけれど。
なかなか産まれてきて妖怪集権には出逢えないものである。
神さまは妖怪の姿で,非常に魅力的な人間性とまで呼べる
美しい優しさのある,『自然』そのものと理解のするその時
までは,なかなかどうして,及ばぬものである。その,
嫌いは好きの裏返しとは,定理のように
この世界を覆う,
信憑性は,届かぬところに,
の表れでも,ある。

異形の天然。

自然は異形の天然である。
業の泉は異形の天然に溢れている。
囁かれるように,天然自然を感じたのなら
妖怪やケルトの神々を信じたらいい。
異形の天然は,アマゾンの極彩色を
さらに想うよりもつじつまの合う。
業の泉は異形の天然。異形に溢れ,
それは非合理に腑に落ちる何かを,
世の中の不思議と不条理,世界の秘密に
答えを与えてくれる,肉食性の何か。
命の不思議は,その秘密にいつも
ヴェールを掛けて,謎解きをよりも
さらに,残酷性を投げ掛けてくる,
天然自然に護られて,その実まよっている,
まよっているのは,ヴェールにおいて
見えない,その事実の上の不可思議で,
僕らは,ヴェールを掲げればよい。
異形の天然のみえる。彼が真実。
怖がるとか,避けるべきもなく,
獣神パンや,ひとつ目小僧など彼らは
きちっと重要な,真実の花嫁である。
愛するべき,異形の天然である。
天然自然は襲ってくる。天然自然の
業の泉は,ただ存在を知らせてくれる。
天然性にしめされた合理性つじつまは,
もう本当に,化学の結婚を促される。
音楽を聴いていたら,ノイズよりも
メロディを聴くだろう。ノイズよりも
合理性をとらえるだろう。しかしながら
音楽のすごいところは,合理性の裏に
ハーモニーというつじつまを合わせている。
人間というメロディーの裏にある,
旋律の合理性のたゆまぬ美しさを支える,
調和する天然性を垣間みるがよい。
彼らは真実における,ハーモニーの
異形の天然である。

芸術の領域,

他方のエゴイズムではない,
芸術の領域。健康のエゴイズム,
他方の高いとしか言いようのない,
芸術の領域。小鳥が巣箱に戻る。
私は修道士だ,と言っても,まだ
僧服を身に着けてなければ,そうは
みえないもの,そうして,小鳥が還って
芸術的な高い領域の黄金の領域。

昔は,と言って,昔は,好奇心も,その
芸術の領域も,いつの間にか着ていない,
僧服も,身の回りにはみえていたのだ,
そうしてそのまま,なりふり構わず,北風に,
いや,さらに日の光りに,やけになって,
水浴をして,あぁ。
って,池の鯉に,目をやりつつ,僧服を
搾るのだ。長い旅に,とっても長い旅に,
小鳥たちは立っていた,還ってきて,私は
もう祈る好奇心や,はまるようなヤケの気持ちさえ
日の光りにも,寒い北風にも,感じはしない,その
瞑想詩集に感化される,感じやすい感受性は,
細胞分裂,異化作用の角質異常の完成された,
熟年の身体には,通用しない,それは,領域は
芸術の領域は,もう小鳥の中には,帰る巣箱より
高い樹が実った知恵の実に照らされて,うっそうと
そびえている。彼は,棲むものかつての住人が還って
初めて,好奇心のより巣箱以上の,高い芸術性を
自身が届く範囲で適えてしまっていることに気づく。
タイマーが鳴って,鍋の調理が終わっている,と
気づく。そこには,あとは調理されたものを頂く。その,
喜びしか残っていない。自分の果実を帰った小鳥の
お迎えに,供するより以上に,自分たちも感得する。
燃え尽きないためには,芸術の領域より飛び立った,
小鳥を迎えること,自ら届いていた枝ぶりを,果実の
成果によって,満たすこと。

刈り取らなければならないか,
収穫を楽しめるのか,それから
苦しみを,収穫へ駆り立てたその苦しみを,
成果まで楽しめるのか,反骨心まで呼べる,
苦しみよりの浄化を,それを,成果として,
収穫までゆけるのか,燃え尽きないためには,
刈り取らなけば。収穫祭は,田畑にとっては
復活祭である,小鳥が還ってくるのも,むしろ
その収穫に呼ばれてのこと。放蕩している,
みな放蕩している,身体は放蕩している,そんな
健康のエゴイズムの,他方,高い領域の芸術。

身体の成長に促されて,めきめきと育った,
果実にいたる収穫までのあれやこれや,
香油を浴びるより,それもさながら,香油は
収穫によってもたらされた,燃え尽きないための
復活祭。

だから思う存分浴びればいい。
それは,樹も果実をまた着け始める。