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少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。

大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=光明皇后=持統天皇=推古天皇は, 日本の白玉のイザナミをあらわしてはいるけれど,それは少彦名。 少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。性愛や,龍神の玉の あの,燕尾服の似合う初老の紳士において,きっと吉宗公にも, 随分と紳士服はお似合いであったろう,と思うのだ。女帝,と 言っては,確かにそうだろうけれども,このツールを以て,その ルーツを道具として捜って行けば。イザナミとゆう発想の女神は 原初の地球にあって,国土そのものであった,その大地母神に, イザナギとゆう浅葱色のUFO来訪者によって,開拓されていく パイオニアのあの客神の,男性性とは来訪者で,
一方,スペシャルティなオリジナルの女性性は,
人格とゆうより,もっと大地と親和した, そうゆう母性な地球そのものなのだった。
なぜだか,一体となる,そんな気のする,
少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。また, その一体化する大地母神の文学ツールなのだった。
そうやって,この大谷崎の全集や,朗読ファイルなどを,
電子書籍版に,そうして,デジタルストリーミングなどに,試みて。
その,太古より女性性のオリジナルなのだった。このツールを使って
情報を旅すれば,文学における,グルメや,性愛の発想,そうして,
犠牲や,歓喜などの循環は,多分のことを以て,喜捨しきった所に,
還元されるといった,そのイザナミ・大地母神は,そんな枯山水に
海外からのサビの論理を吹聴されるような,ほんとうに侘びた風潮を
個々の所に蒸かしてくれる,まるで饅頭にはセイロを必要とする昔の
茶屋のあたりに聴こえる,女性たちの甲高い声のように。

ミシンのカタコト辛い音の連続は,ようやく落ち着いて,この晩は
そういった,谷崎の文学などを捜る気配の,静かな灯油ストーブの
音もない,電気を必要としないストーブのそういった無音の熱源の
喜捨することのなかに,日々の繰返しは多分支えられて存在してる。
廻り巡ってそういったことを感じながら,大谷崎に至るときには,
少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。サドよりマゾッホに,
ずっと親いこの文人のグルメによる茹で卵の笑顔を眺め入った時には
大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=光明皇后=持統天皇=推古天皇は,
日本の白玉のイザナミをあらわしてはいるけれど,それは少彦名。
この発想はやがて,遣って来たのだっ…

バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。

ぼくの好きな歌手のひとは,町中をあるいて,返って一瞬で 描き上げる瞬間を,歌詞や作曲に転用昇華してクリエイトされる ようなのだけれど,そんな瞬間は,どうなのか本当に幸せだろう。 頭の上より電気の蚊は飛立ち,肝臓の疲れは丹田を開くことで治る。 この,睡眠時に放つ,昼間の教訓を,学習塾より帰る子供の気持ちで 米麹のような香りを浮き立たせる夕暮れの路上には,夢の中の幻燈。 バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。その夢の中で 再現するように,再現性の高い,学び取った高次元の,処世訓として。 身に着いた,夜の間の,蟲のような脱皮と,酔い覚めのように肝臓は しっかり,湯舟に浸かって,ヘア・トニックも付けて,歯ブラシ河馬さんの ようにゴシゴシしたらば,そうやって,身に着いた,バツの悪い中学生の ような気持ちと,高校生の知性を。再現性の高い,高次の処世訓に換えて。 ハワイアンのポチキを夜食につまんで,ブルー・チーズを間に挟むのだ。 その前に,豆乳オーレを頂いて,もっと軽い,クリーミーなチーズも。 そうやって原点を探れば,金つばを食前にたべたい欲求はかなわず,兎に角。 お茶をぐびっと呑み込んでは,ミカンをひとつまみして頂いて,待ってた。 コンニャクをラーメンのようにして,おでんのつゆなどで頂く夜の, どんなにか,幸いなことだろう?バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。
奥さんは,マスクを沢山つくっていた。口につけるマスクである。ミシンを,
誕生祝いに買っていたのだ。そう,ぼくは今まで,手つむぎ等を趣味として豪語。
していた代わりに,やっぱり彼女のミシンに躍起になった。率先して,小学生ぶりに
上糸,下糸の準備をして,きっちり縫い方まで調べ上げた。そうやって,合い間に
ジーンズを2本,コール天を1本,裾上げや,マタ下の補強など素晴らしく熱中し,
なんだか,冬の手前にクリスマス・ギフトを早くも頂戴した気分で,本当に良かった。
『お茶です』それが,お茶々です,に変わり,いつのまにか「お茶々おす」と言って
言葉遊びに興ずるようになって,『お茶々牡,お茶々牝。』とゆう造語にまで至った時
ああ,ヒトは,ふと,立ち止まって空を見上げて,そのまま直立歩行したのだ。など
あまり見上げる事のなかった青空の中に,何か虚空の,寂しさとも付かないあの空虚な
ブランクを眺め入った時には…

幸せを煎じると,桐の葉スギナどくだみの味。

燦々と照りかがやく,落葉前の木の葉たちは,またもう, 飛翔する西洋の天使たちにも似て,にこやかに晴れ晴れとした 笑顔で,この天上の楽園にも見まがう秋日の午後を彩って。 奥さんの誕生日が,もう親いのだった。大掃除をはじめて, 毎年のウツワを贈ろうとゆう想いはすこし陰を潜めて,なので チーズを,どれがいい?と訊いて,地元の加工品のそれを択び, 薄めの豆乳オーレと共に,前夜祭を祝うことにしたのだった。 ほんとうにグルメ・レポートみたいになるけれど,高級品と一口に 言ってみては,信じられない程デイリーのモノとはちがうのだな。 そうやって,地元の加工業者さんの食品などを口にすると,それは やっぱりクラフトの想いで造られているのだから,香り,透明さ, この澄んだ部分に関しては,やはりモノづくりに関する作品には 敵うものはいないのだ,と気づいた。そうして,いまは,祖父母の お家より借りている,ホーローの古い鍋を,昨夜ミルフィーユ鍋と ゆう,白菜と豚肉を交互に挟んで敷き詰める,無加水の(直前に焼酎 を,ひとかけするのだけれど)蒸し鍋のような調理で大分底を焦がして しまったのを,重曹でコトコトしながら,奥さんの帰りを待っている。
誕生日には,秋の日の情景を描いた,絵本にすることにしたのだった。 いつも,もうそれは中学生の頃より通っている古書店があって,大手の 文庫本などもシリーズでずっと揃えられているようなところだから,本当に 参考になって,この間は久しぶりにゲオルゲの詩集を購って帰ったばかり。 その時分に既に目を付けていたモノだったのだけれど,ずっと人にオススメを しておいて,僕自身は持っていなかったその秋の日の絵本は,気にかかって, そうだ,これを誕生日のお祝いにするのはどうだろう?オススメする自分のその 気概は,きっと,こうゆう時のために取ってあったのだった。思い込んでは, 自分で趣味にしている写真の水彩加工などで,得意のラッピングを試みては よしよし,と。この日には九州に旅行にゆく事にはなっていたのだけれど,ひょんな 不幸よりちょっと,中止にしたところで,お花代に,と母より預かった費用を使い, 食事に出かけることにして。まだ,時間はあるので,ラッピングを開いてもらって コーヒーでも呑んでから,すこしカッパを着て外出するような体裁で,今日は雨。 九州,と,ラッピングには青い…

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…

恍惚とゆうのは,柿と春菊のヨーグルト・サラダ

早くも,冬の気配を感じるこの頃の,何故だかこうもはやく, 落ち葉は散りきってしまうもの?とは,そうゆう感覚にして, 早くも,冬の気配を感じるこの頃の,恍惚とゆうのは, 柿と春菊のヨーグルト・サラダを,試みに造っていただく,また。 豚キムチとゆうこのストレートな表現にニラも加えて頂いた,その 翌朝に,豚キム丼を造っては,絹ごしにひきわりを載せてまた,頂く。 すこし秋のにおいのような感じの減ってきた気のするのだ,下手に 猫の機嫌を窺って無視されるような変な気の使い方を始めるような。 こんな季節に,冷たい絹ごしは何故だか秋の余韻を強烈にしてくれる。 幸せに,言葉の記憶を紐解いて,恍惚とゆうのは,柿と春菊のヨーグルト・ サラダ。こんなメッセージを,ヨーグルトは塩加減を合わせて,より単純に 熟柿に親い身をほぐして,生の春菊と。そのヨーグルトの酸味に柿の甘味が ドレッシングの作用を担って,春菊に和えて頂いているような,そんな感じで そろそろ,珈琲豆も切れてきたのだけれど,うちはデカフェのものを所望する, 夜派の珈琲習慣の着いている昨今の。シンプルに加工しているモノでも良いから, 美味しく呑める,とゆうことだけは大事にして,珈琲を日々淹れてゆきたいのだ。
ミカンも終にはお茶の間の卓上に昇りだした。ほんとうに,炬燵はもうひと月も
前より出していて,炬燵で寝てしまうこともあったのだけれど,ミカンの昇り始めると
ここまで落ち着いて目の前を直視できるのか?とゆうほど,安らぎの効果を,この
たまのミカンは与えてくれる。非常な世間体の嵐を感じていて,それは,きっと。
メーターの振りきれたように,悩みの尽きるときには,ああ,安らいだ。冬のミカンは
こうした,悩みの振りきれたときに起きる,不可思議な酸味の効いた芳香を発生させる。
発生とゆうより,発声と言ったほうが正しいか?いいや,正しくはないけれど,発生の
発声するように,たまねぎよりも目に沁みるような柑橘系の飛沫には,こんな目頭の堅い
気持ちのような冷徹なココロにも,それはほんとうに美しい声楽のように,目に沁みる。
キャタピラーの木目のようなコロコロとした形で,皮をむくと現われて来る身のミカンは
ご老人の諭し方のように甘い囁きで。とつとつと,うつろうとうつろと,そして安穏とし
ぼやくようにつぶやくような甘さで。それでいて,酸味ときたら,若…

都市街と,山脈地と,個体性と,なんだか疲れた時には,眠たいモノ

お豆腐も,納豆も,ミカンも,ピンからキリである。そうゆうのは, 生産者に対して失礼だ,とゆう文言も想定されるので,使わないのが, 常なのではあるけれども。決して,美味しくないモノのある訳ではない, こんな言いワケじみた,メッセージは,あながち鵜呑みにしておいては, はて,やっぱり地元の工場の,大豆加工品や,地物の野菜市などのミカン。 たまに,そんな食材にありつけると,言いワケじみた気持ちも鵜呑みにして いつも頂いている常用食品に対して申し訳ないながらも,優劣を付ける癖に, 都市街と,山脈地と,個体性と,なんだか疲れた時には,眠たいモノであるので それは,縮小された自我じたいの,拡大された,街や山麓や個人の問題に照らされた こんな,コピーである自分自身のそのままで行きたいと思う。コピーするには, インクは必要であろう?インクとして,必要な,ぼくのコピーなりわいは,こうして グルメに対しても,感謝の第一に,とにもかくにも地産地消のグルメを摂りたいと望む。 地物のミカンなんてシャープな怜悧であるほどの酸味と,酸味の中に鮮やかな甘味は お庭で出来た果物。といった印象でしか語られない,あの独特の鋭さのあるものなのだ。
糖質制限を励行する食習慣を,家庭内に感じて,その風潮を豚肉に先行されて旨味にただ 興じて,お腹周りもスッキリしてきたように感じていたこの頃,龍馬の軍鶏鍋ではないの だけれど,そんな鳥鍋を食べたいなあ,など言ってみたところ,聞いてない振りの彼女は 何かの拍子に一言,豚肉がいいなあ,とつぶやいた。あれれ,そんなにコダワリはないの だけれど,水菜と,春菊と,豆腐に,鳥団子を入れてもらって,豚汁用に取ってあったの を,加えてから,ニンニクごま油の塩鍋にして頂いたところ,結局ぼくは水菜や春菊を, ばかり口にして,鳥や豚は取らなかった。こんな気持ちだったのだ,軍鶏を食う気は全く なかったのだ,龍馬さんはきっと正月に南天の実をほお張るツグミのような気持ちで逆に 鳥をほふって自らの逝き場所を飾ったのだ。すでに青菜の鍋に,清流の感じや,その間の もうクリスマスを祝っているように,感覚をホクホクさせながらも,顔の周りは,すこし 肉づいてきたのが,さらに慶事の時間帯であると思わせながら。この,期間に鍋を頂いて 地物の野菜を砕いてお腹に詰め込んで,さあ,サンタクロースにこんな良い腸…

芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べ

シヴァとサラスヴァティ,また龍馬と小五郎,そうして, 太宰と三島文学の,この和合の杉のような相対する女夫の 芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べに,やっぱりお米を 頂かないと妄想は発生してこないので,お肉ばかり頂いて スッキリと思考の整理の付くような何のハミダシ加減もない, そんな夕べには。『ああ,もうモノを描くこともなさそうな』 と言った,そんな頃合いに,自分の中にある三島文学,その 時代的系譜なのか,熟柿の身をほおばる気持ちの良さを保存して
いまは凍えているのです。と言わんばかりの,熱い珈琲を啜って
現代病のように思春期よりまとわりついて 離れなかった,女神のような三島文学に至って,ああそうか? もう,そのどちらともつかない龍馬=太宰=シヴァのように, 男神のような形式で,ザックバランに,実に人格芸術論を闘せ, ほんとうに身につまされる,この人格哲学を始めて行ったらいい。
珈琲は,熱湯に親い程,鋭いような芳香を発しはじめ,いつも 温湯で淹れてしまったりして,それを常温の豆乳と割ったりして 酵素たっぷりな珈琲豆乳を造っていたりもするのだけれど,いつも お肉を避けていた奥さんは,肉食も受け容れられたりもしはじめる, そうして,今夜は手ごねハンバーグをコテコテと弾いていると何故か とっても心地よかった。玉ねぎを炒めてから混ぜてこねるのだと教わり その熱の伝わりから,真っ赤な挽き肉は絵の具のような発色で,僕には ルビーが耀くようにみえる。皿あらいは予想以上に大変だったけれど
馬油の製品のように,手も潤うのかと思えば,肉料理に冬の天候も体験して すでにアドヴェントのクラスを立て続けに受講しているような天然自然の 暖かい日暮れなのだった。そののちの芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べは 何だかもう喉元を通らないような気さえして。
どこか三島文学に浸された思春期に,身体の芯まで凍えて冷えてしまったような 神功の影さえみえる,その辛辣な教えをもとに,供にしたこの身体の冷え様ざま。 特に,それに気づいてしまえば,至って普通のザックバランさで行けば問題ない, そうタカを括って,臨んでしまう。秋の夕暮は,時に春の訪れさえをも錯覚させて, さて,冷えて凍えた,ふくらはぎや背中の各所のところどころ,すこしずつ,薄明に 向かって,温めて差し上げましょう?デトックスとは我が物顔に言う,身体の各…

頭寒足熱と,心頭滅却する湯舟の中で。

寒暖の差の果てしなく,ただ,冷える事と,それを温め直す事の 両極についてだけ考えて,後のことは言い訳なしにそっちのけに そうやって出来ることが,何より嬉しい。『お風呂に浸かるのは, 身体を煮るようなそんな心地。冷えているから,カチコチなのだ』 そうして,糖質制限を試みて,初めてご飯を炊かなかった夕べの, 何だか妄想はお米より来ていたのではないか,と風評にもなるような そんな気概を持って,なんだかすっきりしている気持ちの清々しさを 晴れやかに頭寒足熱と,心頭滅却する湯舟の中で。例えば,オシャレ なんてものは何とゆうものだろう?と,考える。お腹で考えることの 出来れば,それはオシャレでも土着の勢いのあるモノでも,すでに 心地よいものだろう。と,月が杉の樹に翳って非常に良い晩である。
朝の掃除をしていて語ることのあるのだけれど,語る内容はいつも同じ そうして,語ること自体が,空っぽにするために非常に良い効果を出して くれるので,『モテる床拭き=ファンタジーの床拭き=狙わない床拭き』, など,いきがって普段にない語りをしてしまうのも,空っぽにして床拭きを するのには,いつも決まって無欲に透明なシートを敷いて行くようにして, その一日の行方を願う。それだけなのである,身体=お店の,リンパ=運気の 流れを良くして,帰りには,快調=アウトプットの健やかな結果を願って 一日を過ごすのである。そんなに体力のあるほうではない,いつも眠たいし どちらかと言えば,リンパの流れを良くしたいと願いつつも,そんなポジティブ でもないほうである。嗜好品と言えば,酵素ドリンクや,たまに珈琲豆を購って ジリジリと堪能する程度の,あまりにそこまでは刺戟性を求めないタイプの, 通常通りいけば時間通りに快速でも鈍行でも駅には着くであろう,きっちりと 運行する電車のような性格はしている。そのぶん,レールから外れると,訳が 解らず,動けなくなるようなそんなプロトタイプにテンプレートをかぶせたような 変な平常心を大事にしている形式的に従順なタイプの者である。だから,こんな 杉の樹に香りまで沁みてくるような月夜をみると,何故か思う事がある。
革命は,いつも想っていなくても遂行されるものだろうか?頭で感じることは, いつも現実味を帯びて万人に通達される共有項でもあるか?行動する事,実践家は 明るくされることで,そ…

飴玉の女神と,蜜柑の女神と,珈琲の女神。

ヒステリクスにテーマを置いて,結局は自分にヒステリーを, 鏡のように鑑みて,そこに映った自分は,ヒステリクスだと。 本来の観光などをして,大地の親和性を持ち帰ったまま,その リンパを流すように,心のストレッチをして,その試みののち, 土地爾来の,自分のヒステリーの対置融合などこころみるのは, 最高の旅の土産話だったりする。それは,旅に行った自分への。 旅の途上では,時間の無駄を最大限に遊興するその感慨に浸る, そうして,人間性や現地の親和性を感じて,それぞれに蓄電し, それらを持ち帰って,やはり鏡のように鑑みるヒステリクスと 対置させる。勘違いだって思うけど,そのヒステリクスの姿は 変容させられて,それは,旅の最高のお土産になったりするのだ。
勿論,土地のヒステリー=鏡としてのヒステリクスなどは,旅の 前もってでも,既に洒落っ気などでカワしては来たものに違いない。 違いないがしかし,ヤマタノオロチ退治の伝承のように,旅よりの 土産物のように,スサノオが退治するオロチ=ヒステリクスの姿は 洒落っ気でカワしていた自分も含めて爽快の一途を,垣間見させる 非常にスリリングな旅のお土産話の道程である。飴玉の女神と, 蜜柑の女神と,珈琲の女神。正直に旅のお供はこんな非常に甘い, 一粒一粒の,一かけ一かけの,一滴一滴の,甘い甘い女神の恩恵で, 例えば,女神とは,スサノオと対峙するように双竜として機能する, 月の女神に違いない。そうやって,旅より持ち帰るお土産じたいの, それは月の女神以外の何者にも違いないのだ。それでは,いつも洒落で カワす,お子様としてのヒステリーの逃亡者は何か?それはまた自分の オリジナリティでもあって,旅は,親神を連れて帰る,さとがえりとは ある意味親い関係を持っていると思う。飴玉の女神と,蜜柑の女神と, 珈琲の女神。退治するのは,また意味合いの違う話には,なるけれど。
それは,決して逃亡者は,オロチより逃げているより,そこに居ながら 避けているのだ,飄々と逃げながら,お洒落にカワしている可愛い者。 太宰が,マント姿で呑みながら,ニコニコと街頭をあるいていたような, 彼はヒステリーよりの逃亡者だったろう?けれども,旅に出ると,百景の 要旨で,あんな御坂峠の不可思議うつくしいイチ・シーンの描けたりする。 秋の行楽に,イチ・シーズンは,まるでそんな逗留執筆を…

段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。

眠気を抑えながら,抑え込みつつ低血糖のような気怠さを。 突き進みながら,癇癪を受容して,三島文学とゲオルゲの。 ゲオルグとゲオルゲの違いを調べても上手く説明できない, しかしながら,太郎と次郎の違い位なのか,タカを括って まだ,古書店には秋の小人の画文集の揃えてあるのを聞き耳を 置いて残しながら。いつか,段々と,エナジー・ボトルのように 扱う大地の礎。二時間も独り待ちぼうけを喰らって,その双方向。 双方向を求めて,結局辿り着くのは,自分で,いくらでもエナジー。 エナジーを操作するように体幹をコントロール調整することを,一貫。 一貫して,怒りに託さず,応酬にも天然頼らず,そうして武者震い。 段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。ブルブルと,心の ココロの,体幹を揺らしながら心中起こったことを綴りたい,そう思う。
会話の弾みと,気の応酬を行きつ戻りつ,往復させて。赤いビーツの 果汁のようなのを,ボルシチのシチューだけではなく,赤シソジュースの ように,ただ順々にゴクゴクと呑み干す心地。意外と,野草・西瓜・葡萄の ブレンド酵素などを,豆乳と割って深夜に呑んだりしていると,その鬱屈と 心理開放されるその情感を,ああ,それはタンパク質はバナナのように, 酵素を,デンプンと合わせたものに違いないのだ。納得して,プログラム上, 例えば,珈琲豆や,バナナなどを設計図を描いて品種改良された叡智人類の 食べやすくとゆうより,その願いのうえで達成した,本来の設計図のあるとして, バナナは酵素と豆乳を割ったようなモノとゆうことと,何が例えばなのかは, 良く解からないけれども。豆乳珈琲などを毎晩晩酌のように造って口にして, これがなきゃね,など桃園の誓いのようにして,三国志の義兄弟の絆を約束したり もしかしたらこんな習慣的な奇特な発生の縁より,珈琲を割って豆乳と呑むにして, やっぱりデンプンからタンパク質を数珠つなぎのように追求しているのではないか? 多分,継続的な気怠さや,低血糖のような目眩に親いフラフラは,新鮮なタンパク質に よって,フイゴのようにクサビを淹れられて,生命力をあざやかに復帰させられるのでは? こんな反射機能的な順序で。時期的な段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。 段々と,身体の機序もすこしずつ回復するように帰納順応して行く。こんな,写真を撮る 事に対…

非常に護られた空間で運筆す,珈琲豆乳啜り

むしろ護られた空間でなければ,ロゴスを運搬する役割など, 任せられる訳はない,何処かのスペースシップの船長さんは, そう言って,港町より頂いたスルメなど美味しそうにたべている。 何だか,宇宙空間のごっそり反転するような夢をみて,眠られずに ぼーっと目を開けながら,これは,風邪でも,ぶり返したか?また 案の定,朝掃除をやすんでしまって,ネギ抜きも雨天中止をよいことに 一日中ぐったりと,寝具に横たえていた。何か,胃腸の大掃除でもして 免疫機能の総入れ替えをしているような,そんな不可思議な感慨を以て, フシギでもなんでもない,日常の静かな室内をながめて,やっぱり一息。 夕方には,お茶を三リットルわかして,お米を三合ほど炊いてから,ああ そうだなあ,まだやり残してはいないか?とくに静かな室内からはそんな, オファーは届かないものの,けれども,夕食のお買いもの用に着替えたり, 今夜は,気分を一新してタートルネックとジャケットなど合わせようとして, ネイビーの組み合わせで髭を当たってから,チャコールグレーのデニムなど 履き込んで,奥さんの先日髪の毛をカットしてくれたので,余計に似合ってる, そういぶかしく自ずからなにをそんなに気張っているのだろう?靴下には穴が 開いているのを,すこし可笑しく感じながら。お茶は沸いて,ご飯もうまい具合, まだ六時だとゆうのに,夜は早く訪れて,何か焦ってる,なにも無いはずなのに。
『今日は,豚肉と白菜のミルフィーユ鍋にしよう,』そう提案されて,珈琲豆と, 豆乳も欠かさず,しかし白菜は用意せずに帰ったため,すこしの芯の周りの白菜と あとは,キャベツ,そうしてイレギュラーの春菊を多用して,豚バラで肉厚の鍋を また,焼酎やお酒もなかったため,みりんをすこし加えて約束通りの無加水で蒸す ようにして,ひと煮立ちさせると,良い具合に水蒸気の春菊の香りがしてきて,さて。 あとは,ブラックペッパーも最期のあたりに,すかさず振りかけて蒸してゆき,さあ, いただきます。とっても,美味しく。シンプルなんだけれど,一層何だか永遠に続く, 病み上がりの体質には,野菜のミストのように滲み渡って響いた。簡単に浸け置きで 鍋を片付けておくと,所望される珈琲豆乳を淹れながら,上手くいったぞ。湧き水も あるし,三拍子揃って,珈琲豆・豆乳・湧き水も思い通りに用意万端,アフター珈琲。 …

青い珈琲豆乳と,存在遊戯

どうもヒステリーとゆうのは,人道的なヒューマニティと親い, そうゆう関係性には,どうしても情熱と,優しさの必要なようで, 青い珈琲豆乳と,存在遊戯を試みるうちに,だんだん三種のストーンを ブレスレットで,ガチャガチャと着けている作文途中の自分の風景にも 微笑み可笑しさを投げかけてしまう,客観的な青い珈琲豆乳と,存在遊戯。 今日は白ネギの収穫作業の初日で,何だか,調子がくるってしまうほど, 暑かったし,せわしなく気だるくなる夜半のこんな内省のうちにも,豆乳を 珈琲と割って,青いまま頂く豆乳のアイスの半々に珈琲を薄く淹れて混ぜ, 半生な酵素のたっぷり摂れる珈琲豆乳で一服する。静電気の多いような1日, 僕は一瞬のうえにも我を忘れるほどのリフレッシュを,こうして文章を表す ことで行えているけれど,家族は溜め込んだまま頭が痛いなど言っている。 そんなような,妄想に親い,けれども。それを眺める自分の視点からすれば, そうゆう時,家族は妙に焦って,何かをしなければならないとゆうような感じ, せわしなくしていたのは一緒なのだろうけど,ああ,溜め込んでいるなあ。と, そんな印象で観察している。焦る必要はないのに,いいや,もうちょっと水分を 摂らなければならない,叫びを上げているのが,焦っているように見えるだけだ。
だから,転機は急にやってくるとは言うけれど,一生懸命になるべき一瞬は唐突に 瞬間的,瞬発的に訪れるもの。何か,ほかのことに,しかもそれはとっても重要な ほかの何かに集中しながら,エッセイの感性を試みて,一生懸命になる心地は, やがて豆乳オーレのなくなってしまう器を横目にやりながら,さしおいては,そう。 この,お茶を運んでは,お灸をすえるために,駆け回り,やっぱり最近も,家で灸を するときに限っては,あまり火災報知機など親い所にある部屋は外れて,そうして, こちらの寝室でなど窓を開けて,と。パートナーを誘導して,お茶を摂って,お灸を すえながら,もう眠ってしまわれたらよろしいようで,別に疲れてるわけじゃない, いいや,いやいや,はいはい。それはオツカレのしるしなのです。ゆっくり,睡眠を。 ぼくの場合に限ってではないようです,やっぱり手先を使って,準備や算段を図ること より,何か,エッセイを描くような,こんな心地でエッセイを造るように,頭の中を, ある意味からっぽにして,そ…

夕焼けには酵素ドリンクを掲げて,天に地に情熱の挨拶

以前,六十センチ幅の卓上機で,結局五十センチ位には なったけれど,割と大きなキャンバス生地を織って,彩色を 試みて,飾らせてもらったことがある。手織りキャンバス画, とそう題して,展示をさせて頂きました。今でも,部屋に飾って 大事に写真に撮っては,さらにそれを画像加工して,遊んだり。 念入りな作業には,心地いい余韻の残るもので,そのなかには バテてしまって,低血糖のような情況で途方に暮れることもあり, 決して,良い思い出には,など思っていたとしても,それはもう, 情緒の溢れる感じで,甦ってくる。夕焼けには酵素ドリンクを掲げて, 天に地に情熱の挨拶を投げかけるような感じ。交わすエモーショナルに 交わすパッショネイトする,農作業に当って帰る道すがらの,そんな 夕日には一瞥の,挨拶ならぬアイサツを,交通状況によって投射しても 殊更の,程よい酸味と芳醇な香りに至って,情熱は切なくても温かい。
シンパシー,とゆう言葉について,情緒はやはり,確かに実存であって, 妄想虚実の区別は付かなくとも,それはやはり確立された人間性である。 艶っぽさはなくっても,情緒に至って,それは,色と空の,あいだに いつも佇んでいる,そんなエモーションの実在形態なので,ときには 発酵食品にヨーグルトなど欲しくなる時でも,夕日を背に受けて,おにぎりを ひとつカブりつきながら,ゆっくりと自家製のお茶を啜って,ハンドルを 握り廻している。夕焼けには酵素ドリンクを掲げて,天に地に情熱の挨拶を, 攻撃的であることはリーダーシップには乖離した事柄で,むしろ控えめで, 遠心力を用いたひとの方が,ずっと統率に向いているらしい。最近,気づき ぼくは,そんななかでも,リーダーとゆうより,こまごまとした,皿洗いや 荷造りや,掃除の役目を担って,それは1日千円ほどで成り立ってしまうような そんな役割であってほしい。それは,ぼくの人生の課題である,しかしながら, 自信のなかに,願望を以て,ぼくの願いは,リーダーシップの支え役である。 さておいて,珈琲豆は切れてしまって,ひさしいが,なかなか次のストックには めぐり会えずにいる。それは出逢いである,珈琲豆は多分各種の産地にしても きっと神さまを帯びて,ひとを択んで出逢っている。ぼくは,しばらく距離を 置かれているらしい。暴飲暴食ほどの,消費を適えてしまって,やっぱりすこし 新…

ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の

今日は,筆が重い。こんな格好いいことを言おうとしては, ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の, ほんとうにお風呂につかることだけを楽しみにしているほど。 ちょっと1日愉快でもあったけれど,感情的に緊張度合いの 強い日だったようだ。帰って,お買い物をして,上の空とゆうか 火照ったような,つらうつら,と歩いていたのだけれど,そうか 夕食に,チーズフォンデュをしつらえて,パクパクと口元に運び, 急に,その張りつめた糸のほどけたのか,お手洗いに駆け込んで, ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の, ほんとうにお風呂につかることだけを楽しみにしているほど。 あんまり真面目になったことは,なかったし,自分でもそんなに 緊張しているほど,真剣な事柄だけではないと思っていたのに, そうゆう人間ドックのような検診には,したすらに全力投球によって ぶち当たっていたようだ。スムーズに,ほんとうに万全な運気の様子で 抱えていた問題もクリアして,新しい爽やかな健康を維持保存していけそう。 みな医療従事者も,30代の方が多くなった。同時代人として,世知辛くは ない,その潔癖ともいえる噂話のない仕事ぶりを見ると,ほんとうに世相は 医療にしたって替わり始めて,それは屹然とした現実なのだから,否めない。
薬とゆうのは何にせよ,良性に敢えて言うのなら,良薬口に苦しと言えども, 快方に働くものとは,言わざるを得ない。副作用のある時ほど,治癒過程なので ある程度細胞レベルの回復してくれば,それは良薬口に苦しと言えども,やはり 快方に働くものとは,言わざるを得ない。依存などしてはいないけれど,それは 薬学は,確実に文化的素養も内含して,好奇心を満たす,知的にも快癒への働きかけ にも,両面において。金剛杵(空海などが持っている)を,川端康成翁も傍らに 置いていた,とは言うのだけれど,昔通販でたのんだ金剛杵は手元にあって,ぼくは 新しくタイガーアイや,オニキスを巻き付けて,変った呪具みたいにして,文豪の如く 側において離さなかった。けれども,奥さんがお土産に名刹のクリスタル念珠を購って 帰って来てくれた節,ぼくは,全部ほどいて,3種の巻き付けを,両手首につけてみた。 何が換わることでもないのだけれど,とっても豪華な気がして,ソロモンやダヴィデの 宝石リングのように悦に浸って,ほくそ…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう

開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しない

ふくらはぎのマッサージ機のようなものが出てきて,それは 掃除した後の戦利品のようなものであった。親くの,神社の 奥の宮まで,友だちを連れて参った,台風後の杉の葉,枯れ枝。 故郷に帰ったような心地で,そこの幣殿に昇殿観光させて頂き, 脚が痛くて,一日たった今でも,なんだか鎖に結ばれたように, ジリジリと,根気の良い観光案内を余韻に浸るほど感じさせる, そうゆう,開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しないことを 感じさせる,イベント用に沸かした3クールの珈琲豆使い果たして, 要らないとなったので一日で呑み干したその嗜好の曳波を,ずるずる 引きずっていないかの疑いを晴らそうとゆうかのように,秋の日は。 珈琲豆がなくなってしまったのだ。欲しかったので,行きつけの大事な 珈琲屋さんでは,しかしながら,観光途中だったので所望することは, なかなか控えめに適わず,開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しない しかしながら,掃除の際にもそうだけれど,一瞬のタイミングのうちに, 珈琲豆を本当に,きっちり使い切る刹那のリセット力は,一瞬はかどる位。 その感じさせる,感じさせる位の,珈琲には感謝を以て,一礼二拍手。
ホログラムとゆう指向のあって,極端にピュアなエンパス指向とも言える, 大国魂とゆう概念は,古来より日本にあって,その使い方は,各自国民の フラクタル構造を指示した,そんなミクロ宇宙は,大国マクロな,日本の 支点に,暮らしは,そのまま生活の基準を基盤とする,何らかの清潔さの そんな生活水準を支える個々の想いのありように,少しの願いを嵌めながら。 何だか,脚の筋肉痛に思うのは,やっぱりそうゆう,大地の磁気のようであり, 人の願いのような,そういった国土親和性のようなモノが,常に生活体である, 僕たちの周囲を取り囲んでいる,とゆうような,地元観光以来の余韻のように。 なので,ふくらはぎはとっても大事と聴きながら,そういった,身体の軸に, 脚がコテコテ筋肉痛になる位,歩いたり,地味に腰を据えて,意地の張りようの ある,キツキツの概念を,頭頂に昇る位の堅持していても良い。意志の問題, キチッとした,意図の在処に,テーマは収束されるようである。大地と親和して, あまり海外を体験していないので解らないけれど,自己同一性は,地磁気同調する 国土親和性として,もともと,生活者に備わってい…

台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。

とんでもない様相をしてきたものである。この台風に,無力なる
人為の,嵐に対する虚脱的インドア・ステーション。虚脱的とは,
台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。珈琲の苦みほど
身に滲みてくる,或いは骨肉に沁みてくる。年末さながら,明日は
お蕎麦を頂きたいものである。気持ちだけでも落ち着いて,五穀の
豊穣さを追憶していたいものである。さように,スーパーは雨漏りを,
傘は骨の折れて,いつの間にやら暴風警報。思わず,落ち着いて,とは
言ってみたものの,電子書籍にて『吾輩は猫である』を手にして,嬉しく
最初のヤカンの顔にみえる,あの節は,小学生の時に目を通してさっぱり,
理解も意味も露ほど分らなかったあの時よりこんなに嬉しく触れられる,
昨今の猫ブームで更に読みやすくは,感情的に浸っていられそうな感じ。
珈琲が不味いほど苦く感じるのである。その苦みはしかし後になって旨い。
この渋さは解るまい。漱石山人にはそう言われているかのように,飄々と
語って聴かせる,イロニー・ヒューマニズムの名手にして,さながら渋い。

暴風域の中では,ほんとうの想いも筆もすすまない。身体の心理的な作用に, 非常事態の染みてきて,やっぱり流暢な言葉遊びは可能性として,それどころじゃ ない,って言われてるようなので,読書に興ずる気休めも,そろそろ,眠るように 促される。促されるのは,苦い汁を啜った後のような,感情的に渋みのある重みの そんなさながら,眠りにしたって,何だか落ち着かない。嬉しくはあるはずはないが, なぜ顫動するように,はらはらドキドキしている?こんなに,無意識に響くくらい, 台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。氷を六個も入れてしまって,渋味も ひややかに消えてしまうような思惑を無視して,もう無感情に親いこの感じは,何だ。 正直に,赤信号の,武者震いだ。レッドカードのチリペッパー・ビーフジャーキーだ。 何だか,パートナーの手を付けてない,軽いカフェオレさえも,手を伸ばして,一気に 呑み干してしまおう。そんな気概で,こんな時にライトな味わいはどうしたって呑めない とは。思っていたのに一番旨いのは,クリーミーな豆乳ラテの,ぐいぐい勧むこの感じ。 無理をしないでいいのだ。はらはらしたって,ドキドキしていても,軽快豆乳な感じで。 今日は,半分休止となった公民館祭の出店で,初めてのミカン…

明け方に親い,淹れるレアリズモの

現実主事,その響きは,ロマネスクより産まれた強さの証。その, 明け方に親い,淹れるレアリズモの,虫の響きに酔っぱらうよりも 安い珈琲豆の美しさの豆乳を割って頂く,淹れるレアリズモの。 強さは欲しがったわけではないのに,ロマネスクより,産まれきて, 安い珈琲豆は,何か割った方が旨いとゆうのは,アメリカーナにも 多分,割っていただく方の好きなかたは,たくさんいられると思う。 その,高躁状態にあるのが必要なのではなくって,何か描く場合, 外側への出入り口の通り抜けて,現実主事に到る道程のすくなからず 要り様とされるのであって,強靭さロマネスク=現実主事なのだった。
ちょうど,ポピュラー・ミュージックに親い,輪郭はハッキリしている それに引き換え,輪郭を凌駕して拡がる,さりげない宇宙大の表現には 大衆派のカンムリを頂戴して,さらに演繹する奉仕精神の他者への音楽。 強さは,最大の防御のようにして,他者のためにあるものなのだ,って 結果論は語るだろう。そろそろ夢をみて,忘我のスタイルよりはなれて, 独りで,前世ゲームを語り合った日々より出発してゆかなければならない。 それは,一時的なものにはせよ,強さの,とある奉仕精神の終着駅へと。 それは,強さを持つとゆうことは,ポピュラー・ミュージックのように, いっときにせよ,他者への儀礼的精神である。と,そう,思うのだった。
教えは,身近なところにある。もう,教えを請いたくはないだろう,って
自分の精神は,昔から語ってきたのだけど,そんな精神にも,そんな教えは,
身近になところにあるって,伝えてくれたポップスの,あながち嗜虐的な
放射線状を描いて響きわたる,奉仕の精神。西部劇の面白さは,つとには,
もうあまり見る機会のすくなくなった今でも,その大衆性に,ロカビリーの
素敵な,放縦な芳醇さを,聴いては反復する,手織りブランケットのゴワゴワ。

自分で,珈琲を淹れるように。お腹は,空けば何かを食べたいと感じるように。 風邪を引けばやすむように。昨日は,我流旬彩,自分で料理をしてみたのだ。 丸い手で絞ったようなコンニャクを,白菜の細切れと,ごま油&醤油&みりんで, 煮つけにして。あとは,わかめと,あごの焼きと,大根を擦って,強めの米酢で, さっぱり酢の物。それから,トマトパックと,キュウリとタコの身を,にんにく, 油をしいて,海鮮煮込み風。…

窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。

ひさしぶりに仮眠を取ることのできた昼間の安寧。それは, いまだかつて,病の時ほど寝られず,安寧とゆうのは昼間の 仮眠にあらわれる,健康の証だと気づいた三十路の夜明けなり。 こころの調子も良いとゆう事だな,こんな感じをもって,午睡の できる精神的な調子,サードアイチャクラとゆう第六チャクラなる ものは,第三の眼と言って,松果体と関わりのある,うんぬん。 何だか,調子の悪い時,夢の中で母親が,家庭とゆうスペースシップの 船長さんで,ちょっとやつれたおじさんだった事を思いだして,そんな 夢の情報に,夢うつつの朝方には夢の現実との境の付かず,そうゆう価値観も あり,か。と,心中つぶやいた時だった。ふっと,それは松果体なのか,この 開いた感じ,ぱぁーっと,ロマネスク開いて,カラッと健やかな妄想癖より 離れるこの視界の開けた感じ。サードアイか,何かはわからないけれど,ぱあっと それは,”ひらけた”のだ。なので,風邪のクセのある咳は残るけれども,だいぶ ブリ返しよりは,距離を離して,快方に向かっている。なので,昼間の仮眠に 非常なる安寧を抱いて,ああ,これぞ昼行燈,世も平和なる証なり。自他共にある。
春菊を炒めて頂いた。ご飯を炊いて,塩昆布を加えて,昼の食卓は以上に健やか。 フライパンが,鉄鍋のようにしっかりしたモノに換わり,近くのスーパーのフェアで ポイントによって半額になるとゆうお目玉の品。ところが,家に来てみると,この 重厚感は民芸風で実にすこぶるコレクター精神に適う。青菜を,油で炒めるのが今の ところ一番旨い。ほんとうにそうなので,ご飯に乗っけて食べる。アジアの家庭料理の 一味唐辛子などを加えて頂くあの食卓にお邪魔して,ほんとうに青菜炒めのレシピを 是非教わってきたいものだ,などうそぶいてみては,面白いほど旨い,昼の青菜炒め。 窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。病が治るとは,気の持ちようも強いのだけど それに関わらず,ほんとうに一様に平和を感じる,ホログラムは共鳴して,ぼくは平和に いま健康になる,とゆうことに,平和を感じる。銀行の振り込みなどに出掛けて,夕方の 下校中の子供たちに『こんにちわ』,あいさつ交わす。「アカシアの雨」の現代カバーを 聴きながら,現代には違いないけれど,過去の時代の何が素晴らしいって,ロマネスクの 重みの果てしない,松果体パラダイス。み…

搾乳するように珈琲を淹れる秋の日に

いよいよ堰を切ったかのように,珈琲をドリップする習慣の 再スタートで,しばらく保存してあった豆は,実際にはあまり 美味く感じられなかった。三島由紀夫のインタビューなどを, きつっと聴いていて,急に呑みたくなったし,限定的な,その 口調の良く言えばハッキリしたモノの喋り方にしても,本当に 良い面しか受け取られない,そんな夕べをシトシト降りながらの 珈琲も,搾乳するように珈琲を淹れる秋の日にと言った,そんな 感じに,一気飲みぐい呑みに,したたかに喉を通る,粗挽きの ドリップしたその苦汁の一滴一滴には,桎梏の作文作業の映る。
小説は,潮騒ほどしか実際の所,読んだことはなかった。むしろ, 触発されるのは,若きサムライのために,など人文的な論壇における 口調に到って思春期のかくあるべく触発されていたので,本当に され過ぎない程度に,書を置いて,なんだか,しっちゃかめっちゃか 動き廻っていた二十代には感謝しつつ,今となって,まだ三十代半ばの 今更サムライになれる訳もない,とゆう体力に限界を設けては,実に 電子書籍には著作権の問題なのか,ほぼ三島文学はないのであって, なので,ぼくはフラ・アンジェリコの画集や,サド侯爵の著作検索など 行きあたって君主論など探ってはみたものの,今より三島文学の面から 文芸的な,歴史著作群に思い当たる所はないはずだったので,さては 美しい星などの,最近の映像作品などを当たるか,このヨーロッパ主義の 苦汁のロマンチシズムの匂いのする,雨の日の淹れる珈琲の余韻に浸って, とにかく,神棚に三島文学を形骸的にも据えて,ぼくも精神的に復活しないと いけないのではないか?
珈琲は出口を造る。快楽物質の感受性ポイントを,少なからず開いてくれる。 美味しくない珈琲などありはせぬ,自然の象徴は人間にとっての美味の成否よりも, そこに現象化する珈琲豆の神秘そのものだ。 モカの産地は,エチオピアとイエメンの両者に渡っての生産者によるモノで, イエメン産は,あまり量販店では目にかかることのないように感じるのだけれど ドイツ的なイエメンと,フレンチなエチオピアの印象のする,そんな感じによって, エチオピアのキリスト教会遺跡群に,地下に渡って掘られた礼拝堂にて,イマジン, 祈りに徹する機会はことごとく消えた。なので,ドイツ的なイエメン産の豆によって 祈祷よりダンシングして,…

かかる調子の,トマトソースにベーコンを,

すこし調子にのってしまい,書店などを訪れた際には,喉の 乾燥して誘発したのか,咳のすこしブリ返してしまった。やっぱり すこし,この乾燥性の風邪みたいなモノは,ちょっと流行っている位, それでも,届け物があったので,片道五分位の道程を歩いて,渡すために 散歩しながらフラフラしてゆく。外の大気を吸い込んで,楽になるのはいい, 気分転換に身体も動かさなきゃなあ,そんな気持ちで歩いてみるのだけれど, 道程その道のり,意外と軽い気持ちで,帰って来ては,昨今三島文学の,その ファッションとゆうものに惹かれて,サド侯爵や,フィレンツェの光景など, あるいはフラ・アンジェリコの天使像を思い描きながら,上滑りして,業の 上にも三年,淡々と軽快な,渡り歩いて行く文学性の姿を想像しながら,遂に その切なさ,胸の痛み,茫洋とした感受性のくびきより,何か統合されるような そんな,幸せと喜びの邂逅を,僕自身の想いを連れてきては反芻する文学性の そんな最中に美味しい珈琲を,頂きたくなる,茫洋とした感受性とは,晴れる前の 霧の摩周湖,晴れる頃には本当に日本晴れの空気を漂わせて,かかる調子の, トマトソースにベーコンを,半生のチーズを加えて,酸味だけを体験する,その かっちりと,グッタリした身体の骨組みを直すような感性で,帰り道を歩いて行く。
カマンベールチーズとザクロ果汁,厚切りベーコンと完熟バナナの取り合わせなどを
イメージしては,実際はザクロのジュースを呑むだけで満足し,ベーコンはそのまま,
完熟のバナナにいたっては,まったく普通に豆乳とミックスして頂く次第,単品からも
色々な取り合わせに感じられる食材の神秘は,実際にするかどうかではない,そう何かの
物語り性を潜めて持っている。こんな食材談義を病み上がりの中でしながら,本当の
休息とは何か?を考えてすすんでゆく。散歩は良かった。歩き過ぎはキツイかも知れない
けれども,喉も変声期みたいに潰してしまってこの方,表現はこの位何気なく始められる
タブの樹の大きく実る親くの公園に行っては,上を見やりながら握り飯をほお張る気分は
家の中に滞りながらだって,感じられる。そうやって,無理にでも出かけて,今の時期は
急に冷えたりもするでしょう?おにぎりも,冷めてしまっては,美味しくないはずなので
いや,いやいや。冷めて頂くのがおにぎりとゆうものでしょう。だ…

終電間に合うように,お抹茶啜りドアを蹴る

あまりに神経質になっていたせいか,肝臓の疲れなのか,また プライドや,思考癖に潔癖症を付け加えたものも,その肝臓の 疲れによるもの,と独断に断定を加え,また終電間に合うように, お抹茶啜りドアを蹴る。揚げ煎餅か,あられなのか,あまり区別の 付かないお茶菓子を頂いて,実際にお茶を啜り,帰りに会釈して エシャロットの塩漬けなどをパリパリ噛むことを心待ちに楽しみに, パスタも細麺であれば,ツルツルとコシのある(,とゆうのか) のど越しを感じながら食べられそうだ。茹でたてのパスタの事を 想像しながら,帰途に着く。
珈琲を,病み上がりに,どうしても受けつけなくなってしまった。 多分,あまり良い豆を択んで来なかったせいであろう,そう合点は いくのだけれど,本来,情報産業のPCを点ける位なら,当然のように 行う事のできる感性にも,なかなか自動車を駆け出させて, 行楽にゆくというような気分には,悠長にも,そうして,うかうか, 言ってられないような,そんな気分なのである。
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お茶を,啜る。本来水分を摂る目的の生理欲求に親い行為のその事は,
いかに贅沢に映る,まるで小春日和,春一番の吹き荒れそうな,こんな
のどかな秋の昼間に,Wi-Fiが入ったり,はいらなくなったりしている,
端末の選択画面に構うことなしに,実は,焦燥感にあふれた我が感性も,
ちょっとは睡眠に興じてみたくもなるのである。昔は,すこし暇のあれば
スヤスヤと仮眠を執っていたものだ。けれども,実に五年くらいのこの方,
緊張感に苛まれて,なかなか,リラックスしてないのは,肝臓の疲れの,
昼に頂く,おにぎりに具を何を挟むのかさえ悩んでしまうのである,それは
美味しさへの追及か?はては,すこし眠りを誘うような,消化の心地いい
そんな具合いを目指しているのか。

脳内のはみだす勢いを,とりもなおさず快楽と称して,暴飲暴食していたのを 祟られてのことだろう,風邪を引いたのも,そういったすこしのちょっとした, 隙の空いての事で,罹ってしまったので,その脳の調整機能は,はみだすことを 躊躇して,敬遠しているようなのである,だからこそ食事が旨いので,もう, そんな空腹時以外の嗜好は,誰かと楽しむ以外にはさておいてとっておき,ある 諦めのムードといったもののなかに,ミニマルな自…

幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。

表現,とゆうあふれだす何かの想い,エゴイズムより,もっと
何か繊細で,吐露してしまうような,自他一体となっているような。
表現自体は,恢復期によく産まれてくるような感じで,病み上がりの
克服して,憔悴からの燃え尽きてしまった塵灰の精神からはあまりに
みずみずしい潤った表現は,発生しにくいようである。そうなので,
もう,あまり欲しなくなったアイスクリームを朝ご飯の代わりに,
それでも何か摂っておこうと口元まで持っていくと,すこし黙想する。

ヒステリックと呼べば,悩み多く感じられるとは言え,そんな尖った, いたずら心を,強気に隠しているような所は,魅力に感じるし,そして 賦活されて惹かれるし,精神的な問題にしても,そうゆう,いたいけな 悩みのほうに,悩み自体のヒステリックさの方へ,段々みちびかれてゆく。 ヒステリックな悩みとゆうもののあるとすれば,それらは,細胞分裂の豊かに 起こっている,身体の節々に,何らかの酵素などの誘発されて感じる,あの 生命力の一部を,とっさに,そうゆう風に感じているだけなのかもしれない。
相変わらずも,まだ,身体のコンディション調整は終わってないと感じるためか 珈琲を挽いてドリップするまでの習慣は戻ってはおらず,始まっていない。それで お茶を目の前に置いて,パシャパシャと,眼前の情景を写真に,撮ってみては その裡,何かに感情を加えて加工して投稿しようとゆう気で,自然に置いている。 アイスクリームをつまめば,すこし食べておかないと,くらいの前向きさは浮かんで ほんとうに不可思議である。食欲はないことは,ないこと自体の不可思議さである。 そうめんを堅めに湯掻いて,ひきわりの納豆とぶっかけで合わせて頂く。すこしの 元気は出てきそうで,なんだかほんとうに気力も萎えているのか?よくわからないほど。
ヒステリックな悩みとは,言ってみたものの,朝の外気に,樹々の囁き掛けてくるような そんな気概も,そういった,爽やかな鋭さを感じさせて,それらの尖った感じでさえも, すこし強烈に火傷してしまう点,自然が換わってしまったのか,はて,自分自身が懐疑の 精神に寄りかかって,鋭い視線を他者に向けまくってしまっているのかさえ,それ自体の よくわからないままなのだ。幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。月の明りでさえ, 肌の灼けることを,つい最近のお月見で知った。お茶の香…

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』と, こんな一節を諳んじてみては,確かに起きた頃は女神のような と,ある種ヒステリックな情感ほども感じさせる情緒を体験して 段々,覚醒してくる毎に,業のエネルギーとでも言うのだろうか? なにかしら轟音を携えて何かの天体の廻る気のする,そんな日頃。 気にならない場合も,多々あるかもしれないが,肩の凝りのピークに 達した頃には,神経の尖って,繊細なこんな事さえ気にしてしまうのだ。 だから,何故?を繰返して,自分のオリジナリティやルーツの謎解きに 矛先を傾けて,そっちのルーツ探しに躍起になっている振りをして, その神経質な風体から逃れるようにして,潜りこんでしまう精神衛生。
ひとつは,妄想癖についても,空気が読めないなど,昨今言われた状態に, 似ている部分はあるにせよ,妄想癖によって,他者とのコミュニケーションが 計りにくくなることになってくることについては避けたいし,そうゆう自然との 息の取り合いや,コミュニケーションとは言っても,世間からの風当たりに, まったく放屁して逃げるような体裁で対処するのは止めたいとも,感じるのだ。 傷ついた心は,傷の消えるまで,覆いかぶさるように被虐する他者を必要とする, それは,感情の処理の問題で不思議な事でもなんでもないのだけれど,何故? この傷ついた心に,一瞬の自己否定の産まれて,何故?と自問したココロのあれば, それは,妄想癖はあったにせよ,空気は読めているだろう,このふたつの結び付く時, ひとのこころは,分水嶺のように,我が精神の似たところへと結びついて拡がって行く。 感情のあふれるところに,ひとに届く奔流のあれば,やはり氾濫には違いないのだ。
感情の氾濫の人に届くところには,やはり当人に返って行く,奔流の戻り道もあって, それは,ぼくにとっては,恐ろしい姿でもある。そのシステムを,伝えてあげたい。 と,常に,『幸福は,耽溺しても良いものか?』とゆう議論は平行線をたどって来た。 喜びの絶頂は避けるべきだ,脳天にまで達してしまえば,忘我を超えて,我を失って, それは,退廃を産むだろう。とは,自論であった。家族の中には,いちばん身近な者の なかに,思春期の姿でもあるのだけど,喜びを否定するなんて,おかしい。と,有頂天の 喜びを追い求める兄弟など居たのだが,やはりそれは間違いだとも…

身体の中心をすえて読む,羅生門とトロッコ

このまま,外部との連携の取れた,ちょっと風邪っぽい時の,
何も考えずにひたすら自然だけ眺めている,そんな時には珈琲を,
とも,思うのだけれど,そんな遊興に時間を費やすことよりも,
風邪を完治させていたほうがいい。そうやって,身体の中心をすえて
読む,羅生門とトロッコを,ふたつを半分にして合わせたような心地。
二十幾らかの時に,書き上げてしまっているとゆうのだから,そんな
ロマネスクを,日本の土地にしっかりと,そうして文学としてちゃんと
座らせている,彼の文体に驚きをいつも隠せず,正直には朗読のような
感じで聴き入っているのが,いちばんロマネスクの感じがして美しい。
沢蟹なんて,特にお好きでいらしったのじゃないのか?芥川先生の好物は,
東照宮の茄子の天ぷらのように,また恵比寿さんの持つ,シカと鯛のように。
すこし風邪気味である,とゆうのが猪鹿蝶の大事な所だ。元伊勢宮の籠神社に
行った時の,ごみ拾いをして天橋立で持ち帰った中に,青磁の瓶底がまじって,
それをドライブにいつも傍らに置いていたことを忘れはしない。最近には,
初めてお伊勢参りをすることのできた折,岩戸開きをしよう,しようと既には
されてしまってるじゃないか?とは念頭にありつつ,何か持って帰りたい,と
感じてはしたすらに拘泥していた神事的な感性は,我ながら忘れることは出来ない。

羅生門は,実に雨の香りのするようで,秋の感覚に以てピッタリだ。それから, トロッコは,甘露煮のようなくすぐったい匂いの夜に親づいてしてくるよう。 このふたつの作品はテーマの惨めさに比べて,情緒のある香り高さの,白眉で とっても好きなのだ。これらの感性を早くも二十代やそこらで著しているのだから, 嗜好性の早熟度は如何なものか,相当の当時にしてもはやかったのではないのか? 朗読を完全に揃えてしまって,秋の夜長でもなくって,秋雨の朝にでも聴いていたい。 早く,金柑もほお張ってみたい,とそんなことさえ考えてしまう,驟雨の朝には, やっぱり,珈琲の一杯は呑んでいて欲しいと,この願望を授かって,手挽きしながら, ゆっくり雨水で淹れるような心地で,お土産の湧き水によって,ゆっくり沸かしたい。 漢方の観点では,喉風邪などには,鍼灸を合わせて,のど飴などで,潤すことは大事と 聴いていたのだけれど,飴は用意してあったのに,ごく普通のご飯と合わせて,くだん…

複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。

人の世は,難解な姿をしてはいないと言っても,とってもな 複雑形姿をしているのは確かで,それぞれの業を担っては, そこに漂う,業の芳香をかおらせているのだから,ぼくたちは とってもな謎解き以前の受容を試みるべきなのである。それは, 当然と言えばそうかもしれないけれど,ただ陶然と,それを 受け容れるのには,ある一定の覚悟を持って謎解きに挑む勢いの あって,そうなるのだろう。だから,歴史の中に,あるいは転生譚 らしき,そういった謎解きの組み合わせを拘泥しては想像するのに, 複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。具体的な答えはない, とまず言い合って確認したうえで,その答えを眺めやる。そうだ, 歴史の中に,自分の組み入れる必要があると感じるのは,転生譚に 具体的にエゴを組み入れる,そういったざっくばらんな適当さに加え, 自らを業の中に放り込む,そういった,カオスのうちに揺蕩う決意の そういった楽しむ余裕のあるところに,歴史は眼前表れてくるとゆう, 複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。こんな,楽しむ余裕を 与えてくれたのは,複雑系の世界ではなくって,病み上がりの孤独感。 複雑系とゆう言葉が,あるはあるにしても,やっぱりシンプルさに任せて ロゴスがロゴスを語るくらいの,筆致における,シンプルな答え合わせを 言葉上の,論理によってツジツマや動機の合うようにしておく,この同期感は きっと,文学上も必需なものであっては,理由ときっかけを把んでおく。この きっちりハッキリとしたシンプルさは,答え合わせにピッタシくるよな気のする。
業を楽しむこと,と。シンプルに答えることは,余裕めいた体力のある時ほど,
余裕を持って,遂行できるよな,そんな『何もしないでは,意味を持たない』領域より
確固たる離れて距離を置きながら,ほんとうに何もしてない,そんな時に出来る,
なので,余裕とゆうのは不可思議きわまるもので。病み上がりほど余裕めいていたり。
そうして,食欲も,発作もなく眠れる夜も,だんだんやって来て,ほんとうに良かった。
ゆっくり休める,と時間の余裕より体力的な安寧のそれを促してくれるのだから,それは
ほんとうに,余裕である。時間の使い方もだけれど,体力の配分や,睡眠の気質のような
そんな状態には気を付けないといけないなあ。と,そう思うようになってきた。

納豆たまごかけご飯は好物…