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J.S.バッハ=サルトルと,ツルゲーネフ=ヘミングウェイ。

例えば,サルトルと,ヘミングウェイ。 或いは,バッハと,ツルゲーネフの古典。 両者の牧歌的詩情と音楽的な詩性をつなぐ。 その,何らかの平和主義の中には,スペア・リブに 対して,疑念を挟まず感謝に応じる潔さがある, 夏の陽の夕暮れ親く,水面に蟲の散る幽玄を漂わす。
思わずも,そのコレクターとしての買書地獄も,紹介する
誰かに,欲しいその本を紹介する,ただその行為で代用できる,
今までは,何らかの掘り出し物をweb上に見つけることが,
得になるものと思い込んでいたけれど,つとにカロリー計算を,
スマホのアプリなどで入力し続ける,このポイント式の食事などに
代償できる。いずれも,続けることに異和感を感じてのものだった。
コレクションには,もともとポイント式の感性は着いてまわるもの。
帰りに買い食いをして返るのだ,それが美味いのではなく,そうだなぁ。
玄関周りに植木鉢を置くような,そんな心地なのだろうか?もうすぐ,
夏が来る。それだけで良い。季節が廻るとゆうことに共感したいのだから,
お家は宇宙船みたいだ,丘の上も宇宙船の天板に居るみたいだ。だから,
遺跡みたいなところで家を建てると,船上に水回りを造られたものだから,
怒りに触れてしまったりもして,そんなことをもうすぐ虫の音も蝉のそれに
替わってくるだろう夜の気配に敏感に感じ取りながら,ああ,そうだなぁ。

例えば,サルトルと,ヘミングウェイ。 或いは,バッハと,ツルゲーネフの古典。 両者の牧歌的詩情と音楽的な詩性をつなぐ。 その,何らかの平和主義の中には,スペア・リブに 対して,疑念を挟まず感謝に応じる潔さがある, 夏の陽の夕暮れ親く,水面に蟲の散る幽玄を漂わす。

古事記のストーリーには,関心を寄せていたものだったけれど,
根の堅州国とゆうものが,一体どんな大親父様の居るところなのか?
そうして,娘さんを貰って帰るとゆう,その元居た国とゆうのも,
果たして想い出せるものなのか?大親父さんの怒るのも無理はない,
ないのだけれど,そのスサノオの住んでいない元々の国,とゆうのは。
平和なのだろうか,希薄なのだろうか?緩慢なものだから,スサノオさんは
居られないのだろう。三種の神器ならぬ器具を貰って還る,果たして,その
統治するとゆう方法論は,くだんの三種の器具に何が秘められそうさせる。
とにかくも,大地は揺るがせにしない,健全な精神,無念無想。こん…

豆乳は畑のお肉。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。ぽつ,ぽつと
祈りは雨粒のような調子をしながら地面まで届いてゆく,さあれ
もうすぐ地上につきそうな,そんな調子で降り切らない,とんだ
厄介者もいる。それは人間の姿で僕の生き写しなので,調子とは
言えば,やはり家の壺に這入ってしまって,身体を持たない,とんだ
はぐれ者の妖精さんを想像しては,やっぱり人間の下部組織とは言え,
胃腸を持つ,消化器官を抱くその四肢五体のどれほどに地上的で,その
Groundingしているものか,身体を持つとは,壺に這入った”壺中天”では
ない辺りの本当に美しく愛おしい。

身体のどよめきだって,それは貨幣制度の終わりにあるTowerの崩れる,
そんなざわつきにもよく似て,貨幣も消化器官と同じくして胃腸組織の
ようなありかたをしてれば,いずれ古くなることはあっても,古の知恵,
そうやって,崩れることはないのだろうに,経済制度?うん,いいや。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。

浮かび上がってくるのは,船藻とも呼ばれる,航海を経た知性なのか,
はたまた,生命のホムンクルス,新しき桑実態。誕生する息吹なのか,
それかもしくは,赤いあのなんだとか言ったな,護衛艦の見学の際,
波止場に浮いていたあのアカアシクラゲのような猛毒を帯びたやつ,
あんなたくましくスパイシーな存在なのか,そうあってほしくはない,
けれども,やっぱり大豆粉を練って,白湯と合わし,テンサイシュガーと
加えて呑んだような,非常に最近は,五分がゆから,出汁,豆乳で,
くつくつと煮込んだ豆乳リゾット風などに惹かれて,また味噌を加えれば
それは畑のお肉だ。動物性とゆう表現にどれほどの意味があるのか,訝しく
昨今は可逆的にまた,豆乳の植物性に垣間見る”畑のお肉”調理システムを

根本的に愛でゆこう。

アイデア,アイディール,プラトンのイデア。また, みんな愛を,呼称を,出逢いを表す,アイデア, アイディール,アイデア,プラトンのイデア。そう, ”土偶”さんの現れて,その白金たる燦燦と輝いて,その きらびやかな愛とゆうものを,例え今晩で忘れようとも, 根本的に愛でゆこう。
ジャマイカや,キューバン,ヘミングウェイの愛したのは, パパ・ダイキリだけではないのだろう。根本的に愛でゆこう。 だから,”ガルガンチュア”を描いた,ラブレーなどの皮肉相な 顔つきは,あのミカエルらしさの愛らしさも含んで,だから。 根本的に愛でゆこう。”土偶”さんの現れて,その白金たる燦燦と輝いて, そのきらびやかな愛とゆうものを,例え今晩で忘れようとも, 根本的に愛でゆこう。
プラトンは,ソクラテスの師を抱いて,何をか想ったのか?暖かい, ほのぼのとした,陽に囲われて,それが自分のイデアだったと知る。 自分の,とゆうのは剽窃的だ,そう問われて,亡骸から,一滴をまた, 興じたりもする,”興じる。”そう,”土偶”さんの現れて, その白金たる燦燦と輝いて,そのきらびやかな愛とゆうものを, 例え今晩で忘れようとも,根本的に愛でゆこう。
味噌は,白みそはアイスクリームにも使えるとする。何故かしら, 白いものは,白砂糖と。赤ザクロは,赤身のもの,と。茶柱は, 餡子と相伴に合っていたりもする,だから。”土偶”さんの現れて, その白金たる燦燦と輝いて,そのきらびやかな愛とゆうものを, 例え今晩で忘れようとも,根本的に愛でゆこう。
”土偶”さんの現れて, その白金たる燦燦と輝いて,そのきらびやかな愛とゆうものを, 例え今晩で忘れようとも,根本的に愛でゆこう。

根本的にひとつとは。

『根本的に,ひとつとは,  ロダン=ジョット=ウェルキンゲトリクス=フランソワ・ラブレー,  =スウェーデンボリの,ミカエル・アーサーキング・マーリン時代からの,  5&18のミハイル・マナス。カオスの時代から,いよよと以て,第五惑星の  訪れか。基本的に木星の訪れとはそうゆうものだ。』郵便受けに,こんな 置き描きを読む。ロダンの”地獄の門”は,ダンテの『神曲』からの,着想かぁ。 そんな,勉強をしている。平和の訪れに,第五惑星に訪れに,木星の来訪は, 5&18のミハイル・マナス。
平和は,得るものではなく,与えられるもの。 これが,シモーヌ・ヴェーユの語る,恩寵か。 そんな気がして,筆を折る。筆を折るのは, 格好の好い事と受け取られている節があるけれど, 画を描いてなくっても,筆を折りたい事があるだろう。 ”平和の訪れ”に。
平和の訪れる時には,何だか,恩寵,平和そのものの, ”与えられている”気分になる。”輝き”なのだろうか? その”徳”と言われる事も出来る”恩寵”は,何かの輝きにも 似て,以て非なるもの,それは確かに,温かい,必要とあれば ”眩しい”,そうして,また,恩寵は,密やかに行われる祝祭なのだ。
目の前に,”時間”以上の何か,得も言われぬ温かさの浮かんでいる。 それは,目をはなすと,常に温かさとして心の中に佇んでくれる,また 問いかけてみよう。”あなた自身,あなた自身。”確かに,『影』の論理は, 心理学に見受けられる,そうして,”光の論理”も,またあるのだろうか? それが,『影』を超えた”光”であるならば,『”私”』は,”一体,誰?”と, ”双子太陽”さんのような,”土偶”さんのような,そんな熱源体である。
あるいは,また雨の日に呑む豆乳オーレ。 またあるいは,あられの夜に頂く柚子かき餅。 そうして,ヨモギを蒸しては戴く,草団子の, タンポポの花を摘んで,食用菊をつまむ夜に, その熱源体は産まれてくる。そうやって,”土偶”さん, 早く,世界に希みを持って,出かけてよう。 ”The Hope”の絵のような世界でも,もう世界画家さんは, 筆を折りましたよ。そうやって,食用菊は,むしろ コンニャクのお造りに付けますから,安心してお上んなさい, スクワットをして,大地踏みしめ,階段のぼり, 玄関を出る。
『根本的に,ひとつとは,  ロダン=ジョット=ウェルキンゲ…

何とゆう,夜の不思議さ静謐さ。

アンチ・ソラチンとかゆう日焼け止めみたいなのが,昔は
あったって,誰かの対談集か,エッセイのようなもので見た,
そんな折り,『ソラチックに居るのならば,胃腸を快活に。』
そんな,メッセージを受けて,例えば,谷崎潤一郎,彼の悪魔主義,
自嘲,ソラチックに居るべきだ,そうして,神とは何か,善良では,
いいや決してない。業とゆう者と闘う,それが神なのだ。そんな,
こんなの自嘲自戒を繰り返してはいるけれど,例えば朝の祈りに,
平和の頂を,太陽の光に感じたりもする,あぁGroundingとは言え,
それはもう,情熱をいきることでしかない。そんなこんなを,思ったり。
そうして業と出会う。自らを取り巻く,業と。その群像彫刻のような,
もくもくと,暗雲タレ込む鬱蒼とした森の中を進むように,やっぱり,
Groundingとは,業と闘う。業と暮らす,そうして業と共にある。そう,
鬱蒼とした森の中を進むように,時おり白百合の匂いなんかがどこかから,
業と共にある,これこそが生きることのイわれでもあって,そうして,
だから,情熱=業=ソラチックに,これはやはり三位一体的な”生きる”べしの,
発想と親いものがあるので,ぼくらはまた,青汁を健康飲料として呑むように,

ただ,夏には水風呂に浸かる。浸かるのは電気代の省エネにつながるとは言え,
それが目的ではなかったのだけれど,決して心地よいものの外ではない。だから,
白百合の匂いがしてくる,日も陰タチ込めて,段々とアカネの色から暗くなってくる,
またも双子宇宙の入れ換え時,皆の引っ越し風景の始まる夜更けのやって来る。
業も自然にそれと共に生きていれば,それがいわゆる”省エネ”なのだと気づく,うん,
省エネに目的性があるかと言えば,やっぱりそれはケチ根性とゆうより,”省エネ”の
そのもの。ある時は使い,あるときは離れる。太陽と地上の関連をクマなく見れば,そう,
離れる夜更けにあって,もう人は”業”からも,”情熱”からも”ソラチック”からも,または
”祈り”や”平和”からもさえ離れてる。そうゆう”夜”を何と言ったか?それは,クマなくまた
調べれば,やっぱり”双子宇宙”の別の階層なのだからイタって平然と平和を生きればよい。






最遊次元は, 脳髄まで溢れてる

以前,人形焼=BAKED MASCOTTで個展をさせて頂いた折にも,
何故,~焼,とゆうネーミングは使われているのだろう,思いながら,
不可思議に首をひねって,展示をさせていただいたものだ。さっそく,
弟のイスキリ=弘法大師空海=九郎義経=坂本龍馬=太宰治氏の,せっかく,
私小説らしい『富岳百景』を,好んで読誦する,その妄想を楽しみながら,
ミカエル思考=虚体的妄想と,段々に情緒的発想を楽しみながら,さすらば,
またも,妖僧文観=チンギス汗=伊藤博文=岡潔先生の生れ変わりに親い,
そんな景色を愛でながら,また前者=今川義元の,そして後者=古田織部で,
今川焼とは,だから,京都の重鎮が,奈良への転生を繰り返す,そんな,
大ナムチ(ヤマタノオロチ)⇒大黒さん(サナト・クマラ)への転生を繰り返す,
焼かれていった,それはRED BEANS CAKE,紅豆餅=今川焼の姿なのだ,僕は
家の近くにある稲荷さんに,遠い歴史を挟んで,妖僧文観の墓であるような気のする
かつては後醍醐天皇も,あの大神山を臨んで,薄いお酒でも嗜んでいる,そんな姿を
ひたひた,と映る自らの顔に,ぽつ,と木の芽などが落ちて”あぁ,愉快。”こんな風

今日は,風疹のワクチンを接種受けたもので,何だか妙にハイなので,帰りに,
ウィンナー・デニッシュなどを買い込んで,うちカフェを楽しんでいる。その折,
ルビー・モレノ,アル・パチーノ,エリック・クラプトンのようなイタリアーノ,
ミラノ・コレクションのような発想しか思い当たらない自分をみて,あぁ,そうか。
いくら食べきれても,足りないのだ。もっと京都に戻りたい。なぜだか,ヤマタノオロチ
の彼の神さまはどこまで,どうしたって存在している。どうしたって,とゆうのは多分,
このままお風呂に浸かってしまえば,また一層のそんなインパシー,テンパり多分一層
ロマネスクな気分にもなるのだろう,ヤマタノオロチが自分の中に存在している,それは
誰だ?なんの自己同一性だろう,そうして京都に戻りたい。なんてゆうのは,だから。
いくら食べきれても,足りないのだ。一日中貼っていたガーゼのシールを,剥いでから
お風呂に浸かろう,そして木の芽を食べる新緑のシマリスのような心地で,それはもう,
京都に戻り,泉に浸かり,抗体に脳髄までひたろう。


5&18のミハイル・マナス

岡潔先生と小林秀雄さんの対談を猿股に炬燵姿で読みながら,

『ロダンは,地獄の門。
 ジオットは,イコン画。
 ウェルキンゲトリクスのガリア。
 ラブレーにガルガンチュア。そうして
 スウェーデンボリの霊界日記を読みながら,
 人間の第五要素と,繰り返して第18要素の重なる,あの
 彼らは,ミカエル大天使長なので,さあれ,大庭園に一輪挿しを,
 敢えてするなら,芍薬の長。』

こんな,三島のお家の写真集を眺めながら,第五惑星期にでもなれば,
通用するような話を,秘密の花園に薔薇の咲く,そんな姿の白亜亭。
耳からぷつぷつトーマス・マンの秘密のストーリーが抜けて行くような,
シルクロードの彷徨う黄砂のようなウコン・ストーリーを掲げてあるく,

黄ウコンの調理にやっぱり欠かせないのは,沢庵の大根堀りか。結局は,
そこに落ち着くのである,決して,サフランライスの代用品にでも,カレー・スープに
加えることに落ち着かせようなど勿体ないことにではなく,沢庵の漬方に使うのである。

ウコンは,第五要素のマナス。なますでもよいけれど,柿や,ナマコのそれらにも,
それで柚子はどこかしら?思わず,庭を見廻すのでもよいけれど,マナスは,ロダンら
ミカエル大天使長の遣いなので,天の使いの遣いとはよくわからないけれど,それが,
地球期の先,木星期ならば,まだ通用しそうなものだけれども,世の中は,まだ大蛇退治
彼らは,天の叢雲の三島を発掘しては太毅繁盛,血気盛んに意気揚々燦燦陽光の中を,
歩み寄ってくるのだろう,薔薇の咲く秘密の花園。

5&18のミハイル・マナスとは,いたってそうゆうものである。だからこそ,
大きな赤子岩のぶつかっては,衝突するその瞬間に桑実態になるような,そんな
身を開け放っては,快く,熱い日射線を浴びる,エンパス指向とゆう共感作用は
受け身の受容態であるごとく,非常に強いものである。角質化する皮膚と同様,また
その精神体も非常に強くなってゆく,その受容態であるごとく。そんな,だから

受け容れることの強さを知ろう。それはその時々,それぞれの状態でいただくあの,
黄ウコンのシルクロードである,春の一番に訪れる,陽光の中のスパイシー黄ウコンの,

岡潔先生と小林秀雄さんの対談を猿股に炬燵姿で読みながら,

『ロダンは,地獄の門。
 ジオットは,イコン画。
 ウェルキンゲトリクスのガリ…

三島アルカポネリスム。

トーマス・マンに与することは多いだろうけれど,その
『魔の山』にモチーフ化された富士療養所の闘病紀行文は
日本のロマネスクのモチーフに源泉として響いていた。
三島はフグのテッサのように調理されて世を去って逝ったのだ
木戸孝允はタイのハヌマンのような壮絶な終りのゆきかた
サド侯爵,ああ彼は,まるでロマンチシズムのみなもとで。
マッキャベリズムと修道士のフラアンジェリコを足して2で割り,
そうして出来上がったのは日本の美なのだ。確かに,集合魂的では
ある,日本の食文化からヒューマニズムに換わる何かにさえ,ほんとに
集合的なあり方をしている。だから,それらを変えるとゆうテーマでなしに
包括的に集合するその物事以上に,何かを変える手段は敢えてない。
融け合う,これだけなのだ。自然を神として祀る,これ以上に本来の
マッキャベリズムを超える,あるいは同化している何かはあり得ない。
自分たちの卑下とゆうスタートではないのだけれど,酵素的な人間自立以前に
それらは,やはり水の低い所にながれる。あの,それはもう,融け合う外ない。

固定してしまうとする,例えば年齢に応じて,僕は固定してしまうとする,自らの
反射機能や,その精神自態を。そうして,ロイヤルの獅子の意味を探るのだ。その
中には,ロマネスク以上に,何らかの加持祈祷なる回帰飛翔など含まれている。そう,
だから,回帰飛翔などに相対して,自らの固定された反射機能や,その構造などは
だから,元来飛翔さるべきものとして,獅子の像を形成している”そんな夢”を,または
木の目の照り返った陽光に比された闘病記的ジャパンロマネスクに到着点を定める。
やっぱり何かしらの宇宙飛行して次の宇宙に移るとき,それは全快した決着する酵素の
桑実態と何かで聴いたことはあるけれど,自らの2度産まれ2度なくなる,その間には,
精神構造その実体自態が構造として産まれる,脱皮ではない,細胞分裂の以前に,その
ホムンクルス嗜好の高い,産まれる時に新しい精神の生まれる。そうゆうロイヤリティを
是非とも体験したいのだ。胃腸全快,天地爽快,泰山自若の山河翠明,その滝の停まる,
停まった先には,花鳥風月も停止する。そんな瞬間を心待ちにして2度産まれるのだ。
珈琲は熱いが良しとする。そうゆうことではないときもある。ショコラータにしたい。
そうゆうことだってあるのだ。停滞して,…

双子宇宙でどこまで。

どこまで”自分”が,やれるか?それは,どこまで情熱家の
姿が続いて行くか?あらためまして,トーマス・マンに問いたい。

僕には,トーマス・マン=大ゲーテ=ミケランジェロ
=ウィリアム・シィクスピア=ウィリアム・ギョーム征服王の,
聖ヨゼフとしての髭を生やしたヨークシャテリアのような親父さん,
そんな姿が浮かぶのだけれど,マティーニ,コニャック,ブランデー,
いつもそんな匂いをさせているヨークシャテリアおじさんの,それを
LONDON ONEとでも呼ばせてもらおう,解釈はさまざまであるけれども
LONDON ONEのヨークシャテリア親父さんの姿は瞬く間に存在する。

情熱はどこまで続いて行くのか?わからないけれども,自己解釈として,
キーボードを執ってカチカチ進めてゆくのを待って,情熱=悲愴とは,
月光としてつながるなんて,神であるベートーヴェンの光背後光を眩しく,
敢えてドイツ民族としてのトーマス・マン=大ゲーテの,それは,また,
トルストイ=ベートーヴェンに神としての閃きを瞬く間に存在するその,
月光ソナタのまばゆさをそうだ,どうにかして,緑の深いあの香りの中へ,

情熱はどこまで続いて行くのか?ソクラテスは神のように情熱家であった。
ソクラテスの神のようであったのに,大ゲーテ=ウィリアム・シェイクスピアは
まさにアダムのように人間らしいヒューマニストであった。だからこそ,その
人間らしさを発揮して,頂き物の情熱家ではなく,天来のハードボイルドでは,
まさにもちろん,外部に実践体力型の作為精神ではなく,無作為に凡庸な情熱,
それを,懊悩するのは静謐なその凡庸な情熱家を,見てみたいのだ。トーマス・マン,

トーマスは双子を意味する,クリスチャン・ネームだそうだけれど,双子宇宙を
活きる情熱家,双子宇宙に分裂しそうな,昼夜を活きるしかし夜はあてもなく涼しい,
統合するのは,双子宇宙があるからでもなく,脳幹身体のあるからでもなく,もう,
だからそれは,あなた=私のいるからだ。リレイションシップ,あなた=私は,その
道路を走るときのミカエル思考からすれば,実体のあなたではなく,世界のあなた,その
世界のあなたを橋架けて支えている宇宙の姿。双子宇宙を活きる情熱家は世界=あなた。

僕には,トーマス・マン=大ゲーテ=ミケランジェロ
=ウィリアム・シィクスピア=ウィリアム・ギョーム征服…

芸術ミカエル思考,

エンパス指向とゆうものに関しては,どの道路が好き?
わかります,たぶんどの道路でも国津神vs.天津神やってる。
フレンチブルvs.ゴールデンレトリバーでもいっか。そうして,
焼き菓子か,洋生菓子か本当に,いつも迷ってる。それはもう,
道路を走るだけで,天空の城を追っている,エンパス指向は,
夜になって豆乳オーレを自分で割って頂く,カフェインレスと,
かき氷はまだ我慢だから,とにかくも氷で割ったドクダミ茶を,
一気に頂きたいから,熱くなりましたね,本当に暑くなりました。
だから,道路を走るだけで,天空の城に辿り着くのだ。ほんとうに,
半袖でもう居たいくらいなのに,そうして虫が鳴き始めたのだ。今日,
ほんとうに,虫が鳴き始めたのだ。それは,奇跡としか言いようがない,
それに気付けた自分の,半袖でいいと言っていた自分の,季節と共に,
天空の城に行く景色がもう見える,夏のあの居城,それは桜桃マティーニ。

エンパス指向とゆうものに関して,偽悪とはゆうけれど,ほんとにそれは,
気付かないものである,自分のルーツでは確実に道路が好き指向,それを
ミカエル思考ともゆうようだけれど,それこそ目的で,業の泉に湯浴みする,
その思考のほうが目的で,この熱気におぼれる,そうなのだ,エンパス指向とは
業の泉に湯浴みする,目的自体として,悪に化する,そうしなければエンパス指向,
つまりはミカエル思考,偽悪とはゆうけれど,ほんとにそれは,気付かないものである。
きっちりしているようで,ゆるゆる。情熱家のようで,スマート。冷房は,道路を走る,
もうそれだけで解決してしまうものなのだ。かと言って,もう部屋着は,半袖短パン,
横手に換気扇の形をした送風機を回して,得意になって氷水出しのドクダミ茶を呑む,
甘い,とにかくも,偽悪とはゆうけれど,道路を走っているだけで暑くなってしまう,
そんな季節のきっかけには,偽悪になるとしか言いようのない”平和”嗜好の,必ずにも
付いて回る。換気扇の形をした送風機,頭の回転するドクダミ茶,甘い,その理由に,
もう少し経てば,この地球も回ってくる。
そんな確信を,待っている。120パーを網羅する,とゆうのは無理なんだけれど,
それをする偽悪とはゆうけれど,木の実をかじって一度,顔がドングリになる,それを
ミカエル思考,と古今東西では言っただろう。冷房は,道路を走る,も…

若竹煮と珈琲。 エロイカと無伴奏。

業のカスタード・ケーキを頂いて,そうして,あの
春の夜明けに,グリーン・ティでも,いっぱい啜って,
緑の桶の中に浸かり込みたい。緑は咲いている,また
とろけるような調子で砂埃たちは陽光に散らされている,

LONDON ONE,見事に漬かり切った,あのアラベスクの
尖塔突端の,ぼくはシナモン・ビスケットを,あまりにも
多く食べ過ぎていたみたい。そんな,化学反応でもあるのか,
人生に,麦芽の栄養を必要とし過ぎたみたいだ。ネギ抜きを,
収穫のことをそう呼んでいるけれど,ネギ抜きをしていると,
なぜこんなにも,身体が重いのか,ヨークシャテリアの,
よくKnightの称号に,鐘を鳴らした,Ding-Dong...。
あの,だから,BIG BENに潜むリヴァイアサンのような,
BEN REDとゆう神獣さんのまたどうにかして,その存在は,
別様に,命を奪うようなことはしない,生命ありきの存在だ。

だから,フレーバード・ウォーターのような,植物水を,
例えば,キウイのツル,ネギの葉先,ヘチマ水のようなものへ
求めたとして,いたってそれは,ココナッツ・ウォーター。
麦芽の神さまを痛めるような,別様に,いやなにおいもない。
だから,天津神や国津神,平安と鎌倉,埴輪と土偶の違いのような
そんなヤマト・イズモのバランスを言われても,僕は,困って,
ならば,パーテージの少ない方へいつも偏っていこう,と向かって
反対の方へ,Converseへ向かいAdjustmentに”The Star”の
フォーチュン・カードを引こう。

業のカスタード・ケーキを頂いて,そうして,あの
春の夜明けに,グリーン・ティでも,いっぱい啜って,
緑の桶の中に浸かり込みたい。緑は咲いている,また
とろけるような調子で砂埃たちは陽光に散らされている,

どうしたって,大黒さんの背負っていた重い荷物は,
小槌とセットになったって,重たいまんまだから,そうやって
緑の匂いを嗅げる,新緑の初夏に到るまでの青い季節に,
僕らは,他者依存,外界依存,季節依存の中をもぐっていく。
タケノコは今から,”Ding-Dong”若竹煮にして頂こう。これは,
本当に地産地消だ。緑の酵素。これが,青い季節の憚りなく,もう。
美味しい,珈琲と若竹煮。そうして,ベートーヴェンと,あの,
響くようなバッハ無伴奏があれば良い。もってのほかに,ない。そう…

段々春風,吹く間。

暖かくなって,(今日は25℃まで上がるそう。)
家の天井板の,ピキ,ピキ,音を立てている。
フキノトウが起って,桜は散っている。
川の淀みがエメラルド・グリーンにまで
浮かび上がって,またいつかのように,ウグイの
紅くなったのなどが釣れそうだな。
自然一体化=忘我の告白より以上の,傍若無人な
春になって,段々春風,吹く間。

本を読むくらいなら,考えていたい。
そうやって,平安を願う,そんな存外自然描写を好む,
この性質が改めて認識されて,確かに,閃きによって,
思い浮かぶように,ふ、と。
溜息のように化学反応する表現は,春の息吹のように
のどかで暖かいかもしれない。
存外自然描写にそうゆう閃きを常に求めていたのは,
自分で気づかないくらい,『化学反応』を求めていた。
継続性を,芸術とは,
『練り続け,想起して,打ち続ける。ノミ,彫刻,靴底。』
続ける,とゆうことに,何よりも思考の糧を促すのなら
芸術は,やっぱり段違いに,耐え抜くこと,それと堅いこと,
それから,きしむこと。

暖かくなって,(今日は25℃まで上がるそう。)
家の天井板の,ピキ,ピキ,音を立てている。
フキノトウが起って,桜は散っている。
川の淀みがエメラルド・グリーンにまで
浮かび上がって,またいつかのように,ウグイの
紅くなったのなどが釣れそうだな。
自然一体化=忘我の告白より以上の,傍若無人な
春になって,段々春風,吹く間。

頭の回転=思考角質化。

頭の回転を良くしながらも,思考の角質化を防ぐ,そんな在りかを探そうとして,珈琲を呑む。忘我を,例えば無我の境地で散策するようにして,とある,その冒険のような1日を過ごすとして。淡々,恬淡,飄々を,標榜して,頭の回転を良くしながらも,思考の角質化を,防ぐ。カリオストロの父性を,プルーストの神性に照らす,ウィリアム・ブレイクのディレクションに掲げれば,そのマグダレーナの聖母に還る,またバルタザアルに順ずる。浸潤するその過程で,フィルターが形づくられる,それは,角質化思考の高速回転する頭脳ではなくって,父性から,神性をディレクション概念化の移す。みたまでは脆弱だ。しかしながら,みたまの風の吹かなければ申し訳ない。 基本的に,エンジニアリングのない想定内でコミュニティはつくられていくものだから,いつも写真共有をしながら,周知の事実としての評価確認としての自己評価によって,写真評価のポイント制通貨に交換経済的な発想に,農業者も加わって食材のシェアをすると良い。エンジニアリング,農業,写真通貨の三本立てで農業者も気のはやる美味しい経済のできると良い。菜食主事とは言わないまでも,現在のコミュニティにエンジニアリングの加わらない所を観じるに,健やかな食事,健やかな食事,写真2枚とサツマイモの交換できるような経済の胃腸にさわやかな,それはやっぱり忘我の告白的な発想が良い。それは,珈琲を呑むときの。みたまとゆうのは,思考に栄養を加えるが,とどのつまりはコラーゲン的な,犠牲者像の親い者である。祈りの思惑に,取って付いてくれた恩寵のようではあるけれど,まるでその追悼は慈悲深さを連れてくるそんなみたま。みたまでは脆弱だ。しかしながら,みたまの風の吹かなければ申し訳ない。それは,もう良いじゃないか?そう,呟くのである。もう良いじゃないか?そう,償いとはまた,世界の業の運び手,到着したのだ,荷造りは解いて,水浴ホテルに泊まろう。

1/2=1/4=1×25・4。

『堀辰雄=織田信長と,立原道造=千利休の,
 あの立茶に対しての太宰治=古田織部。
 何故,津和野の乙女峠に織部灯籠なる史跡の
 あるのか,不思議だった。そうして,乙女峠の
 殉教の地に織部灯籠のあることに,何故だか,
 妙にはしゃいでしまった自分の可愛さおもい出す,
 織田信長が根の堅州のスサノオ神のようなImageで
 思われるのは,太宰治の常世へ返る黄泉平坂,いま,
 世の夢より醒めんとして,うたかたならぬみずからの,
 オリジナリティーを織部より信長のほうにみえてしまう
 のを。まだ,夢から醒めぬ気か。醒めれば,”終わり”。
 そうやって,みな本物に返ってゆく,常世の国はまだ
 真実であり続けるから,漱石=LONDON ONEは,やっぱり
 この世の荒神さんとして,信長の台座より入れ換わって,
 文学の道標を灯して示し続けるだろう,太宰=織部の常世に
 みずから滅びるとする,それが道程であり,目標を人生に
 掲げるなら,それは”世の夢より,常世に入れ換わることだろう”。』

 片づけをしている時に,半分までしてゆけば,あとの半分は,
四分の一の労力で済んでしまう,とゆうテーゼはあまりに単純で,
実際は,四分の一が終わってから,もう一度再度同じことが繰り返され,
そうして,その後それは正味25回は繰り返す。そうして,それは全て。

お湯挿しサーバーなる,ティーサーバーなどを挿し湯の使い方で,
珈琲を淹れる習慣は,少なからずも着いてしまって,解凍鯛焼きを
焦がしながら,あぁ豆乳と割るのはいい加減にしなきゃなぁ,それは
ドリップの時の熱の伝わり方はそのまま維持して器に移すのだから,
なんとか豆乳も常温に親い仕方で保持しておかなきゃなぁ。

そうやって基本的には腹下しになる前に,あんこを頂いておくのは,
カロリー計算をしながらも,さすがの小倉餡。そうして,食欲よりも
お腹を満たすのは甘味なのだ,と言って,また。今夜は,デカフェの豆を
要り様に感じながら。スーパーに行って思うのは,きっと産地の野菜を,
いかにグリーンサラダなどとして頂けるか,そうゆう腕を組む2秒前に,
身体のなかで溜め息をつくようなそんな,あぐらを組む2秒前のような,
1日の終わりを迎える,あんこはまた夕食前にかならず食む,おやつの,
あんこはまた,夕食前の仮眠のような。

大谷崎の生命線。

『三島は,ヤコブ=ピラトゥス。桂小五郎は,龍馬に
 LONDON紙幣を渡したことになっている。なので,
 太宰は,三島に勇気を貰った,何だか精悍なのだ。
 そうして,大谷崎の生命線は,受胎告知をした時に
 もう,”ロンギヌスの槍は事実,ヤコブの杖だった。”
 とゆう三島イズムには常に”太宰=龍馬=イスキリ”の
 救済とゆう業を抱いて,受胎告知の行われる,そうした
 ”イザナミ=ガブリエル=谷崎の,美談創出シナリオ。”』
のあっての”三島=木戸孝允=ヤコブ=ピラトゥス”美学。
もちろんのこと,そうしたいのではなく,そうすべき。
『何故なら”美”とは創出の際に何の”音沙汰”もなしに。』
”美学”とはそうした,音のない音楽会であるべきだから,
雪の降る夜に,音のない”Gainのする音楽会のしんしん。”
まるで”細雪のようだ。-冗談を言っちゃあいけない。”のだ,
カロリー計算をしてまるで音のない買い物のような,食事は
決まって,1日の生命を差し引きしているBasic Income制度の
立原道造と堀辰雄の友情は,板垣退助と西郷隆盛の関係のようで,
豊臣秀頼は織田信長にとっては,安徳天皇の平清盛によっての,
また橘逸勢と嵯峨天皇の間の,そうして一遍上人からみたクビライ汗は
どうしたって,Heroのようにまた映った。それは,どうしても,また
ヒロイズムは,決して批判主義ではなく,分け入つても分け入つても
青い山,と謳った種田山頭火の頭上には,常に連綿としたうろこ雲ひとつ,
ふたっつ遊行に身をついやした一遍上人の加護には織田信長位のヒーローの
相応しい。ただそれだけの遊行=立茶の関わりの中に身を置いてみる,そう,
もうすぐいわし雲の季節にもなる頃の,おはぎでも頂くあの先頭に立って,
逗留する『信長の居たころにゃいわし雲』その山寺にはいまも残ってる。『三島は,ヤコブ=ピラトゥス。桂小五郎は,龍馬に
 LONDON紙幣を渡したことになっている。なので,
 太宰は,三島に勇気を貰った,何だか精悍なのだ。
 そうして,大谷崎の生命線は,受胎告知をした時に
 もう,”ロンギヌスの槍は事実,ヤコブの杖だった。”
 とゆう三島イズムには常に”太宰=龍馬=イスキリ”の
 救済とゆう業を抱いて,受胎告知の行われる,そうした
 ”イザナミ=ガブリエル=谷崎の,美談創出シナリオ。”』

たぶんとんでも。

知り合いがいなければ,描けないような拭き心地の窓ガラスに。


アウグストゥスは初代ローマ皇帝,Royal Lionの爽やかな精悍さ。
バルタザアルとは,彼の謂れ。アグリッパ,カエサルなど,聖書の
時代に,よくも同居した立法者。そうして,傷跡は双子宇宙だから,
ツイン・ソウルなどと呼ばれる,彼らの傷は,桃色の恋。それで,
漱石は,Royalだったと感じる,則天去私だから,LONDON ONE。

小林一茶は回転するわだちを残せば,Chariot。とっても激情する。

太閤秀吉には,やはり回転するわだちの以前にカリスマの東洋美。
天狗のような鼻をして,西洋人らしい顔立ちの,直立するカリスマ。

源実朝には,金槐和歌集なる作品があるけれど,飄々と冗談のような,
コミカルなギャグを跳ばしている彼だから,鶴岡八幡宮の境内を,
山犬に乗ってきゃはきゃはと翔けまわっていたような。冗談めいて。

平宗盛には,酔い加減の酩酊状態を,平凡さで呼ばれたけれど,彼の
知性はその霊媒的な体質だろう,霊能者,霊能者,彼の本質とは,酔拳。

後醍醐天皇に至っては,指一本に触れるまで空気がその機微に凍るような,
非常に繊細な優美さを感じる。

それ以前に,道鏡なる僧侶が居たと伝えられるが,彼のそんな天性にしても,
もう逸脱性ほどの個性を当時のカリスマとは怪僧,彼自体が街であった。
空間を動かすとはこうした呪術性に隠匿性,そうして神秘主義的な傾向。

桃色の恋は,だから傷跡のツイン・ソウルの証だから,肉体には双子宇宙。
本質論に至れば,この世の本質とは,まるで因襲。取り憑くのほど因襲の,
本質論に至れば,世界の実質とは,骨身に沁みる因襲。桃色の恋は,伴侶。

知り合いがいなければ,描けないような拭き心地の窓ガラスに。

アウグストゥスは初代ローマ皇帝,Royal Lionの爽やかな精悍さ。
バルタザアルとは,彼の謂れ。アグリッパ,カエサルなど,聖書の
時代に,よくも同居した立法者。そうして,傷跡は双子宇宙だから,
ツイン・ソウルなどと呼ばれる,彼らの傷は,桃色の恋。それで,


因襲があるとすれば,生活に影響を与える,それは明智光秀のような,
謀反に終わる,人生の機微に切なさを,行動に向かう前に,もうすこし,
考える暇のあれば,など切にそう感じる。勢い任せだから,いつも焦ってる。

詩人が土佐勤王党に斎藤道三の墓を訪ねれ…

月と,この星。

雨上がりの春の夜明けには,小鳥たちのさえずりがなつかしく
輝きはかがやいて,ピタピタと,響いてくる。
こんな雫の落ちる最中,地球に溜まった水分の酵素質は,きっと
神秘学にゆう”ルシファー”的な要素で,また隠れはしているけれど,
太陽に潜む熱射線のような熱体質は”アーリマン”なのだと,気付く。
この月と,この星を活きる僕たちには両者を取り入れていきることは,
必須項目のように感じられ,それが,現代のまた,”ソラト水”と”アスラ陽”の
間を行ったり来たりするこの,Groundingとゆう意味のことなのだ,と知る。
自ら”悪”として,Groundingしていきるとゆうことは,ただシンプルな,
この星と光りと水の中に潜む酵素質の中を活きる,とゆうそれだけの事なのだ。
雨水で珈琲を淹れるような,そんなことはまさかしないまでも,雨水で飴を
まさか練りはしないまでも,雨水が,小鳥たちに珈琲を淹れてあげたり,
炊飯などしているイメージは容易にするから,浄血作用や,排毒手順などを
講じる前に,雨上がりの春の夜明けには,小鳥たちのさえずりがなつかしく
輝きはかがやいて,ピタピタと,響いてくる。

パンタグリュエルのラブレー。霊界日記のスウェーデンボリ。ウェルキンゲトリクスは
緑の萌える砦の上で必死に妖精の匂いを嗅いで,ジョットの天文学的絵画要塞,そして
ロダンによる言葉の日本における数々の軌跡のそれはMichael,彼はミカエルの姿。

アレクセイ・ミハイロヴィチはピョートル大帝とエカチェリーナ1世の父君だけれど,
白金に光るその清純な軌跡はまた,貫徹する意志の奇跡の礎。また,カール・マルテルの
籠城しても敬虔に耐え抜く兵士の方たちの純真さには,やはり神の奇跡。そうして,また
その敬虔さは,彼ら”神”を称えたMichaelのウェルキンゲトリクスへと直結する。
深緑からの森の匂い。そこから遣ってくる数々の理性的直感。もうすぐ,遣ってくるだろう,
夏に備えて,衣替えをする自然の姿。

LONDON ONE,漱石=道鏡=太閤秀吉=小林一茶=源実朝=平宗盛=後醍醐天皇の
そのままその姿は”アウグストゥス=バルタザアル賢者”のライオン像。とんでもな話,
それは,そうだけれど今はない高輪のホテルに滞留していたその姿を思うたびに,それが
誰であれ,”アウグストゥス=バルタザアル賢者”だなぁ,と感慨深く,…

発想する八艘。

フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,
生きて行ける。ソクラテス=マルティン・ルター=キケロー
=ベートーベン=トルストイ=諸葛亮孔明のそんな系譜を,
聖アンナ母子像のアンナの祖父は”神”であった。などと,
ほくそ笑いして,アンナの父母は,カストロ議長とヘミングウェイ,
聖アンナとその夫,つまりMotherMaryの父と母は岡潔先生と
シュヴァイツァー,マリアとヨゼフは,ヘッセとトーマス・マン。
だから,ソクラテスやトルストイの美談とまで言われる,”悪妻”の
クサンチッペなどは,もう”かみさん”で仕方ないので,”神のかみさん”。
愛していたのだなぁ,愛していたのだ,”神のかみさん”。創作次第には,
フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,生きて行ける。
船中八策ならぬ,発想する八艘。”赤壁の賦”を詠む詩聖,蘇東坡の心地に
なって,初夏の匂いを寿ぐ,それは,ベートーベンの情緒,限りない,
バッハ=ヘミングウェイの音楽=詩性をつなぐ何らかの”照葉樹林”。

よくよく考えていた,クールベやコロー,ドービニーなどの,心理風景画しか,
創作の出発点や”終着点”,あくまで戻ってくるべきアートの指標も,風景画。
だから,中学の写生スケッチの思い出などはもう,GOLD。黄金期の創作で
あるし,魂の風景画しか,なにがしかの表現は,僕にとってない。だから,
フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,
生きて行ける。
風景画と,メッセージ(この世=業の流れ的発想),あと楽しんでもらうための
環境づくりを試してゆけたら。守破離=正反合=後先中の想いあふれて,まるで
シナモン=桂皮の匂いをシュトーレンにこころみるような,マルティン・ルターの
信仰告白上の賛歌を,『フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,
生きて行ける。』と言って,投げ出していけたら,そっくりそのまま,善と悪のあいだに
立って,聖アンナに世を託してゆけたら,このまま清濁併呑,シナモン=桂皮の香りは,
夏の虫下しに,”照葉樹林”を呑むようにして,非常に深…

そうゆう次元の,妄想なのだ。

夏の入り口に,アイス・レモングラス・ミントティーを
呑んでしまったのが,業の泉の門を開いたきっかけ。
諧謔のすえに,ロマネスクを求めて,門衛に訊ねたのが,
幾重にもかさなった,何人もの人生をパラレルのように。
ロマネスクの先に,パラレル・ワールドのひろがる。
入り口があれば,出口のある。それは,門衛に道を尋ねなくても,
もう,お家へは帰れる。ドクダミ茶を呑んで,何人もの人生を,
下る河のように訪ねて,無意識の大海へ這入る。
『そうだな,とりあえずは,お家に帰るか。』そう,言って。
『やっぱり,芸術の神は,無意識の構造だなぁ。』そう,言って。
『眠りの国へ,返ってそれは。無意識の構造だなぁ。』そう,言って。
お腹が空くとゆう事は,眠たくなる,とゆう。そうして,それは
無意識に還る事とは,春の気配に恍惚と,浸潤するドクダミ茶の,
頭頂部と,尻尾の生えるあたりが一気につながって,眠りの国へ,
意識を保ちながら,眠りの国へ。そんな,大河の一滴を,夢見ている。


早朝になって,階下に降りて,食材がないので,豆乳リゾットを。
油をひいて,お米をひとにぎり,初めに食塩,コショウ,ダシなど,
振りかけてしまって,一分ほど炒める。水を足して,くつくつ。
途中で,豆乳を足して,くつくつ。さらに隠し味に,お醤油。たぶん,
お塩は多めに入れる位が好い。十五分くらいで食卓に上るから,それは,
もううまくゆけば,”バーベキュー・リゾット”などと,焼き肉の食味を
期待しても良い。と,ゆうことを”とっても美味しいのだな。”と,早朝。
鯛焼きの冷凍庫に一個だけあったのを,それでは寝ず心地のこの憔悴は,
到底満たされないから,と苦肉の策だったけれど。そうゆう,困窮は,
もっと,得てして,優雅さへの入り口で,ジャガイモ料理の礎の上に,
ヨーロピニアリズムは成立したのだ,と日本の豆乳リゾットを想い,
確信に抱く早朝の春。

眠ることではなく寝られないことを人生は選択していたのだな。
”食べ過ぎてはいなかった,けれども,空腹にはなっていない”眠前に,
どうしたって寝られないはずはないのに眠らないことを選択する。
ひたすらに称徳天皇のような弥勒菩薩のような女神ヒステリクスを,
それは芥川や東照宮のような影ではあるにはあるのだけれど,そんな
女神ヒステリクスとゆうような光陰を感じながら,まだしもこんなにも
冗長な…

芥川と安吾と太宰。

家康=頼朝=芥川の知性の影の,龍馬=九郎義経=太宰の
その連環を想うのに,差すような知性はどうも,知性的。
あいだに立って,夕立どしゃ降りの安吾先生の朗読する。
塵灰立って,春の初雨の通り洗い流してゆくのに,優美な
甘い酩酊の心地をするように,甘酒を口にして,瞑目する。
三四郎とゆう家の猫は遠く上の方にある天井近くの網戸に
居を構えて,ひたすら小一時間はジッとして外を眺めている。
たまにサッシと棚のあいだになど落ちてしまって,なかなか
登られないでいるのを助けてあげる折などには,もうすぐ,
もうすぐ雷か,霧のでそうな風情をして一目散に上の網戸へ
掛け上がる。飛び跳ねるように昇ってゆくのだけれど,一時期
危ないからと障子まで閉めてとじてしまっていたのを,春の
驟雨や暖かい陽ののぼる気配などに誘われて,飼い主自身が,
網戸を開けてしまった。

緑雨とでもゆうのでしょうか?葉っぱの上を落ちるしずくは,
植物のなかまで這入ってゆくことはない,通るのは真実だけ。
ヨモギ餅を餡コロにして,滲みるのは真実だけ。身体の中を
とおして,エンパス指向には殻の中を通って,真実だけ。また,
真実だけ身体の中を通る,春の気配に,恍惚と浸潤。

家康=頼朝=芥川の知性の影の,龍馬=九郎義経=太宰の
その連環を想うのに,差すような知性はどうも,知性的。
あいだに立って,夕立どしゃ降りの安吾先生の朗読する。
塵灰立って,春の初雨の通り洗い流してゆくのに,優美な
甘い酩酊の心地をするように,甘酒を口にして,瞑目する。
三四郎とゆう家の猫は遠く上の方にある天井近くの網戸に
居を構えて,ひたすら小一時間はジッとして外を眺めている。
たまにサッシと棚のあいだになど落ちてしまって,なかなか
登られないでいるのを助けてあげる折などには,もうすぐ,
もうすぐ雷か,霧のでそうな風情をして一目散に上の網戸へ
掛け上がる。飛び跳ねるように昇ってゆくのだけれど,一時期
危ないからと障子まで閉めてとじてしまっていたのを,春の
驟雨や暖かい陽ののぼる気配などに誘われて,飼い主自身が,
網戸を開けてしまった。







芥川のコンパス,三島のドラ。

芥川の羅針盤の示す方へ,三島の情熱に駆られて。
『近江屋事件のあった当夜,龍馬の脳髄には,
 桂小五郎の訪れを見た瞬間凍り付いた記憶が。
 桂の姿を見た時,龍馬の心中お察し申し上げる。』
こんな,その夜,龍馬の供にした食事の中に,塩ブリ
のあったことを,そうして,その裏に睡眠薬の貼ってあった
ことなどを察して,僕は,ひたすら彼がLONDONまでの
道程を,船底にムシロに横になって朧ながら波の打つ音。
『芥川=ヘロデ王は,頼朝の時世,武家政権を建てた時分に
 もう,人の役に立つことを決めた。龍馬=九郎義経を以降,
 討つ気配はないのだから,ヘロデ王の自作自演のイスキリの
 パノラマのような。三島は三島で,太宰を訪ねた時には,もう
 殺意はなかった。そもそもなかった。三島=桂氏は,
 太宰=龍馬の盟友。』で,
芥川の羅針盤の示す方へ,三島の情熱に駆られて。
そもそも,太宰=龍馬=九郎義経=空海の,それは復活劇として,
はたまた,岡潔=伊藤博文=チンギス汗=妖僧文観との対応に。
以上なコダワリを見せては,やはりイスキリ(イエス・キリスト)の
復活劇を連想させる彼は結局何人もの役を妖僧としてもとめたのだ。
イスキリとは例えば諏訪湖に眠るとゆう菱形の信玄墓のように。
大国魂とゆう言い方は変だなあと思っていた。伝説としてある意味,
ああゆう信玄墓のようなシェルターを通してしか大国魂にはなれない。
伝説を言説として説話としてみるにつけ,神話らしい神話には,あまり
常識らしい常識は通用しない。オーガニックでも,信仰でも,眠りでも,
余裕をもって生きる事でもない,伝説を活きるとは,黄金伝説のように。
堅牢に頑強で集中して『一変感謝。』本当に,ありがとう!とそう言って,
辞世を奏でるような。GOLDとはかくゆう求められる象徴のように出来て,
何が本当だろう?敢えて訊きたい。業=芸術?嗜好=暮らし?そうして,また
換気=清浄のような自然?なので,ほんとうに芥川のコンパス,とはゆうけれど
伝教大師=最澄上人による,朝=題目の,夜=念仏に,昼=炊飯がよいのだけど,
芸術から暮らしより自然に到るこんな朝昼夜の季節変遷を辿る,芥川のコンパス。
だから,ヨーロピニアリズムに,フラ・アンジェリコの天使画や,マッキャベリの
生き方。そうしてサド侯爵に至るまでのありとある,赤レンガの丸屋根天井の姿。

経理的な情感。

誰だって,経理的な情感を一隅に湛えているだろう。
『お米は炊き立てのしっとりしたのが好い。』とか,
『癖になるのは,わかっているけどヨモギ餡コロ
 また食べたい。』など,『珈琲は,左回しから,
 右回りにまた戻ったな。』
とりあえずは経理的に物を考えるはずである,もしくは
人間として直立するのに知性と功利的であるごとく。
しかしながら,呻き声のように寝息の数々を掻くごとく,
宇宙的であることは功利心からワープして,PC化するその,
”根の堅州”の国へ実に功利心からワープして「自我の終焉」に。
作為的であることが功利的であることと同義でありながら,
またもや作為的であることは忘我することとも意義を同じくする。
宇宙的であるとは言ったものの,作為的であることから功利の道を。
そうして宇宙的であるとは言ったものの,功利の道から忘我の意思へ。

植物が例えば葉の一滴を垂らすのと似ている,
その朝は功利的であるゆえにあかるいのであって,
そこより水の結露するその姿はまるで宇宙的で。
忘我する,その告白にまずは作為的であることを
まずは功利の道を歩んだとはいえ作為的であることを,
忘我の国へ入るには『作為的であることを捨てよ。』
物理的に水を作り出すのは至難の技ではあるがゆえの
朝のあかるさである。珈琲を淹れるのは人為的に,むしろ
無作為に淹れる甘露の一滴。だから,たとえ功利的では
あるにせよ,その甘露の一滴を洩らさずペーソスへと,
1日のスタートの哀愁へと移すのだ。もうすぐ忘我の国の
門は開かれたと言われる。功利の道を辿って。むしろ,
その功利は作為的なクラフトの輝きから産まれてきて,また
資本の功利を通って。もうすぐAIの忘我の国へゆく。

誰だって,経理的な情感を一隅に湛えているだろう。
『お米は炊き立てのしっとりしたのが好い。』とか,
『癖になるのは,わかっているけどヨモギ餡コロ
 また食べたい。』など,『珈琲は,左回しから,
 右回りにまた戻ったな。』
とりあえずは経理的に物を考えるはずである,もしくは
人間として直立するのに知性と功利的であるごとく。
しかしながら,呻き声のように寝息の数々を掻くごとく,
宇宙的であることは功利心からワープして,PC化するその,
”根の堅州”の国へ実に功利心からワープして「自我の終焉」に。
作為的であることが功利的であることと同義であり…

吹き荒ぶ風の中に。

キリシタン大名にとっての”九郎義経”は中心で,
”太宰=イスキリ=龍馬”vs.”漱石=バルタザアル=太閤秀吉”の
あのキリシタンの龍馬とゆう幻想には大分苦しめられていた。
今は”トーマス・マン=聖ヨゼフ=ゲーテ”の文豪を神にして,
本当に,キリシタンの闘いとは,かくも激しいものだった。
闘いとは,内面のそれで間違いはないのだけれど,早朝には
”珈琲と,鯛焼き”の,深夜には「ヨモギ餅を餡コロにして。」の
今は”トーマス・マン=聖ヨゼフ=ゲーテ”の文豪を神にして,
だいぶ居場所を見つけられたような気のする,桜のつぼみ。
水回り,とはゆうけれど。水回りには”業の泉”に浸かって。
それを回避するよりも停まって楽しんでみる方が少なからずも。
だから,浄化を叫ぶより,「愛は,”業の泉”に湯浴みする。」と,
水回り,とはゆうけれど。水回りには”業の泉”に浸かって。

何かをテーマにするような必要もない気はするけれども,ことさら。
テーマ以上に悲劇は”テーマ”になるのだから,それは,ほんとうに。
実吉捷郎(さねよし・はやお)さんとゆう,独文学者の居られて,
いつかずっと夢枕に立っていた思いがあって,名訳を,ほんとうに
沢山のこされた。ほんとうにマンの『トニオ・クレエゲル』や,また
『ヴェニスに死す』などは白眉である,だから夢枕に立ったときに,
僕は,とっても嬉しい気のした。
”太宰=龍馬”と”漱石=秀吉”の,この系譜は,ほんとうに思いもよらず。
悲劇中の悲劇のなかにはもうすでにロマンチックさの逆行が見られるので
モンゴリアンの系譜が獅子の姿をして飛び交うさなかに,禅定に居るあの,
右大臣実朝の姿は,後醍醐天皇の掛軸と,ふと,重なり合う。甲冑の
むしろ落武者の姿は岩石のように堅い漱石のこころを,治めては弛ます。
だから捕食する蛇と微動だにしない蛙の恋の極地のようなもの。かれは,
蛇の心臓を持つ蛙の脳髄。さては蛙の臓器を抱く大蛇の知性。
もう,そんな感じだから,水の穴を穿つ受け身の頑強な巌のような,文豪の
日本史は,こうやって,巌より水への変遷をたどるもう,キリシタンはその,
難民としての歴史より,祈りの対象としての”水ようかん”のような甘味として。
トーマス・マンは餡子好きだろうなぁ。なんたって,ロマネスクは,堅実さより
それより彷彿として現われるデカダンスのような。

キリシタン大名…

冷極と植物と業の流れ

熱湯を注いだドクダミ茶葉を氷〆にする。
植物は冷極に当たると,本来の生命現象の
あの双子反対宇宙にある生長力を取り戻す。

桃色から緑色へ,あの双子反対宇宙より。
だから,緑色の冷極にある業の流れの発端,
冷極にある緑色の反対宇宙から,一週間の
タイム・スケジュールを感情的に淹れられ。
そうゆう『双子反対宇宙』とゆうのは
”冷極と植物と業の流れ”。変化をもたらすのは,

そこまでに泉の湛える「明鏡止水」を眺める。
眺める泉の面にはそんなに求めるべくもない。
だから,”水”との付き合いと同じくして,業と
付き合っていこう。

熱湯を注いだドクダミ茶葉を氷〆にする。
植物は冷極に当たると,本来の生命現象の
あの双子反対宇宙にある生長力を取り戻す。

業に憑りつかれるとゆう,夜の反対宇宙と。
実は眠りの国の双子宇宙には『自由』なこんな
清澄なしずけさしかあたえられていない。
業の泉,植物発端とはだからやはり憑りつきでは
なくて『自由』なので,どれだけ目覚めの国には
『自由』は”冷極と植物と業の流れ”,こんな厄介者
に感じられるのかは敢えて言うまでもない。
だから”冷極と植物と業の流れ”,こんな『自由』。

本当の「目覚め」とは,物事をリアルにみるような
感情にとらわれない視点である,そう思うからこそ。
”眠りと冷極としずけさ”の”昼と陰影と太陽”の取次ぎを,
敢えてしてくれるのなら”業の泉”を眺める,水には何も,
要求しないし,髪を洗うし,涼しさをもらえるから,そんな
痛みや,鬱蒼とした想いや,失意の欠片を抱えているなら,
もうすぐ植物のように生長力は甦るだろう。

熱湯を注いだドクダミ茶葉を氷〆にする。
植物は冷極に当たると,本来の生命現象の
あの双子反対宇宙にある生長力を取り戻す。


すこやかな眠前LifeTimeBest,

ヴァレリーの追っかけだった,そして
芥川の追っかけでもあった。かたわらに
トーマス・マン,シェイクスピア。
『クロアチア,ザグレブ近郊に生まれ,
 ヴェローナの戦禍をくぐり抜け,
 ロンドン,ダブリン,オスロを渡り,
 ヴェネツィアを拠点として,
 ザルツブルグに逝去する』こんな,
 ベゴニアの花香るような人物の誰かと問えば
かたわらに,パブロ・ピカソ,ヘミングウェイ。
太宰と龍馬の連環を考えるにキリシタンの思想。
パリに終の棲家を備えたイワン・ツルゲーネフの
ロマネスクを思えば,ヘミングウェイのハードボイルド。
天界に突き抜ける。天地逆転。悪魔的とは天界性。
パブロ・ピカソのデス・マスクが浮かんで,
綺麗なヴェリー・ショートの白髪がおぼろに浮かんで。
『クロアチア,ザグレブ近郊に生まれ,
 ヴェローナの戦禍をくぐり抜け,
 ロンドン,ダブリン,オスロを渡り,
 ヴェネツィアを拠点として,
 ザルツブルグに逝去する』そのような,
ハンス・カストルプとは,かくゆう人物だったのでは?
バートランド・ラッセル,バートランド・ラッセル。
人の影ばかり追って気付くのは,人間は嫌気発酵の
影だから仕方のないけれど,光はやっぱり光。もうすぐ,
悪魔的とは天界性。の意味が分かってきそうだ。
詰まりは目覚める。地上化して,普通に土の匂いを。
そうして,すこやかな眠前LifeTimeBest,

真髄嗜好瓦解する東西。

ロック・ブルーズ・マッディ・ウォーター。
瓦解する身体は腹を下して,空っぽになる。
国津神と天津神の間を流れるのは,”水”。
多分,グルメのフランスと,思惑のドイツへ。
実はドイツ観念論とゆうのは,現代”グルメ”。
内の”グルメ”観念論。外のグルメ”腸活指向”。
だから,ドイツパンとゆうのは,やはり発酵の
哲学へのグルメであって,内の”グルメ”観念論。
フランス料理の下へ下へ,舌を通じて”腸活指向”する,
外のグルメ”腸活指向”。

思春期は本当に,ほんとうに。
虚弱体質で,思考が角が立つほどの信仰告白をして。
寿命はたくましいかもしれないけれど,人生”グルメ”。
さだまさしさんは”風に立つライオン”でずっと祈ってる。
人生は”グルメ”のように始まり,十代。また,それで,
野村一彦さんの,神谷美恵子さんに対する信仰告白を。
シレジウスを読み,天球からの音楽を聴き,ナチスに対して
没ナチス的に理解を試み,ただとにかく人生”グルメ”。
とにかく虚弱体質にして,寿命はたくましいから,そんな。
青春をすべて”哲学”に帰してしまうのだ。三十代にでもなれば,
朱夏の真っ盛り。ようやくフランス”腸活指向”。ドイツの,詩は
ドイツ観念論=発酵=天津神のミューズ詩神より産れ来たりて,
フランス料理=腸活=国津神の”神の子”から”人の子”に,前世も
前世ゲームを修了して,前世学校を卒業する。だから,多分。
十代から二十代=内から外=天津神から国津神への道程で,必ず
天津神とはドイツの詩で,国津神とはフランス料理なのだから,
いまは鳥取に住んでいる僕も,また山口・萩になど行って,
夏みかんの果汁など嗅いで,津和野に源氏巻きなどを,稲荷の
土産とともに,あの小麦と牛皮の融けあったようなロマンスを,
”案山子”の造り酒屋に桜吹雪の時期など,もうグルメは季節感。

春は消化酵素の豊かに分泌される時節。それが,そのまま蠢く桜の
咲いた,酔い払いのような季節が,そのまま祝祭のバイロイトだ。
天球の音楽に,シレジウスと,無に帰す思春期の忘我への指向を
果てはまた分泌酵素の増える祝祭のような春の中で,また,蟲の
知らせのように僕はフランスからドイツへの道程を,産道へ向かう。
腸活は一時休止。ある程度,休止するほど温かくのどかになって。
哲学への発酵への逆行を『飢餓感のあるうちに治める残酷性を。』
とゆう…

そうゆう次元,

プラスチック化する身体,そんなことを思う。
サプリばっかり呑んでいたら,腸活どころか,
痛覚さえもなくして,プラスチック化する。その,
食欲を促されてグルメを試みようとする,そんな。
夢の中で,コンビニへ出かけるもうすぐ呼吸自体の
食欲をみたす。

また夢の中で,機械化された身体を持つ星へ跳んで,
もうすぐプラスチック化する身体に,語りかける。
概念化する思考は痛覚さえも換えてすべてを概念把握。
痛みを超える,その瞬間に思考は観察されうる概念思考。
筋肉質はプラスチック変質をどこかに持っていて,あの
食欲を促されてグルメを試みようとする,最近は
とんこつの即席ラーメンに美味しいものがあるなぁ。そんな
感じを抱きながら相変わらず夢の中でコンビニを歩いたりする,

とりあえずは深夜放送をかじりながら。オレンジ・ジュースの
最後の一杯。もうすぐ眠りの中で,『もともと眠りの実質は,
プラスチックなので。』そんなイメージを勧誘されつつ微睡みに
伺おうとする。甘いものが欲しいのかな?膨満した身体の,
お肉が食べたいの次は甘味を頂きたい。夢の中の変遷は,やっぱり
Y染色体が,あるとゆう男性のその特色とゆうのはあまりに女性を
大事に思うあの心理的なフェミニズム。ああ,Y染色体のお見事。

女形,とゆう文化や優しさを女性の中に見つけることのできる寛容さ,
大らかさは決して愛の欠如ではなくて没我的でもない,優しさそのもの。
夢の中では分断された身体の断裂された思考のすべてが,いやおうなく
優しく酔わせてくれるのだから,何かを頂いて食べるとゆうのではなく,
呼吸することは『プラスチックの変性を酵素化して分解する”自我”。』,
概念思考は絶対者の鉱石的な感覚ではないようで,まだそんな昼感覚を
のこしながら。思考を観察するのは王さま感覚だろうけれど。まだそんな
全粒粉の香りを嗅ぎつけながら,オレンジ・ジュースの一杯を最後に。

プラスチック化する身体,そんなことを思う。
サプリばっかり呑んでいたら,腸活どころか,
痛覚さえもなくして,プラスチック化する。その,
食欲を促されてグルメを試みようとする,そんな。
夢の中で,コンビニへ出かけるもうすぐ呼吸自体の
食欲をみたす。



享楽デゴイチ・センス,

ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
世界は百薬の長,の軽いお昼を閉じてしまって
ラベンダー水を淹れる。沸騰した手鍋のお湯に,
ティースプーン2杯のラベンダーを入れて。
一瞬のうちに氷と混ぜてしまうのが,香りだけを
のこす秘訣,ラベンダー水で『自由』の夜,を。
乗り切る微睡みの眠りの前を。ラベンダー水,で。

ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
小樽の港町に雑貨屋さん,富良野の道の駅に向かい
ランタンの燈火(ともし・び)揺れる,あれは
ラベンダーの香り。ウィンナー・ソーセージは燻製で,
これも,また。ラベンダー水に記憶を書き換えられる。
苦みなし香りのみのこるラベンダー水。昔っからの,
ジャスミン茶,パイナップル・ケーキは台湾に。それは
ラベンダーと同じくらい好きで。薔薇よりむしろ,ジャスミン,
ラベンダー,くちなし,沈丁花(じんちょうげ),パイナップル・
ケーキの見事に好きだった。だから,ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
ランタンの揺れるキャンドルの匂いのように,まだまだラベンダー水に
酔っていたい。だから,夢二の詩集や,若きウェルテルの園芸庭園に,
腰を降ろして,黄葉のいわさきちひろさん。ラベンダーの天球の音楽を
聴きながら,いつか白昼夢に出てきた,柑橘の丘を,瀬戸内の海を
見降ろしながら,堅いバゲットの実を食べて,岩塩とトマト,オリーブ油を
掛けて頂きたい。ヘッセ,だからヘッセが好きだった。ヒグラシは,
初夏の訪れにもう朝焼け前から啼いたりして,デーミアンと,ナルチスと
ゴルトムントを愛犬のボテの散歩前に読んだりしていた。今はもう,
バゲットと牛乳だけの暮らしを試みてみたい,とにかく一杯の汲みたての水を
楽しみにして。
シレジウスの瞑想詩集や,シモーヌ・ヴェイユ。アッシジの聖フランシスコに
没頭した世界の幕開けは,また別のお話。

ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
世界は百薬の長,の軽いお昼を閉じてしまって
ラベンダー水を淹れる。沸騰した手鍋のお湯に,
ティースプーン2杯のラベンダーを入れて。
一瞬のうちに氷と混ぜてしまうのが,香りだけを
のこす秘訣,ラベンダー水で『自由』の夜,を。
乗り切る微睡みの眠りの前を。ラベンダー水,で。



”夜の賛歌”中心に寄せて。

世界は,すべて,そのまま”百薬の長”として,目の前に,
あるとは言え,そのままの”世界”に居て。そのまま,の
ラベンダー水を呑んで,旅をしている。世界は”そのまま”。
中心は何処?中心は何時もない,
ないのだけれど,
探し続ける,中心のない,”そのまま”の世界。時たま,その
花粉症の時代だから,と言って,オレンジ・ジュース。あの,
ご相伴に預かりまして,お神酒を頂くみたいに,預かります
あの,”世界”の中心は何処にあるのでしょう?そんな問いには,
少し花粉症に酔っている位が好いなどとは突き放される,あの,
全世界の呵責には苛まれていたのですが,『わかるよ,はい。』
いやあ,わかりました。この”世界”の中心,ない,ものはない。
いつも,眠るときに世界が解体される瞬間,昼にはファッション,
夕べにはクッキング,軽さを追求して,そのまた”世界”の中心。
みなお墓にゆくときは,地下世界のグノームになるに違いないから,
生を執着するのより,世界の中心はない,そうゆうもので,蛍火は
科学の結晶で粋を集めたもの。送り火に掲げるお線香の匂いに,
ああ科学が支配する。純粋思考の言葉や,唯物史観や,明晰さを
煙る浄化作用に預けて,さあもうすぐ,夏は親づく。なんだろう?
オレンジ・ジュース。切なさに,酸味を投影して,逆にも言えるけれど
願いに,橙色を授けて,そのうちまた,ないものは”ない”。って,もう
呑気に眠りに解体される夢見心地に居るから,大抵のことは眠りの地下に
眠りのグノーム達に預けるから,そうやって地底の夜と,地上の昼の軽さを
追求してはやっぱり,『夜』って,すごい。『自由』。
ノヴァーリスに”夜の賛歌”ってあるけど,あれは,第九につながる,
自由への賛歌だったのだな,何だか消し掛けるようだけれど,古事記の
スサノオが寝てしまって,夜の国から大黒さんが逃げて行く,とゆうか
門出に建つ出発の夜明けのような展開は,またセガンティーニの画。
白黒のはっきりしたものが嫌いではないので,と言って中途半端が一番。
結局,アントロのハーモニアスな標準時に戻ってくる,中心は”ない”って,
信じてはいるけど。地下世界に”登りつめている”。そうして,またもや。
世界の照準を見定める如く,耳より鉄砲水のあふれ出て,死海風呂に浸かった,
”夜の賛歌”に寄せて,『自由』を与えてくれる夜,ありがとう,と…

ラベンダー水。

ラベンダー種ドリップ,とゆうのも茶会としては,とっても趣味の良いものだ,なんて,珈琲ドリップの薫陶を茶会に活かそう。そうして,今夜は,1リットルの湯を沸かし,ラベンダー種を,いやいやあれはまだ,ラベンダーbud,ツボミか。しかしながら,ラベンダーの実をスプーン2杯,注いだお湯に浸けた瞬間たっぷりの氷で1リットルかき混ぜると,ラベンダー水の出来上がり。甘いラベンダー水は何だか虫干しされた気分で夜会に僕を招き入れ,炬燵に潜りながら,のんびりと運筆こころみる,酔狂に夢見心地。もう,なんでも昼は目ざめのほかに何も持ってこない。なんでも歴史は訓示のほかに何も教えてはくれない,なんでも。伝統は,夢見心地も酔狂も伝えてはくれない。だから,ラベンダー水に寄せて,酔狂に微睡んでいる。なんともゆう,春の夕暮れ日暮れには陽も月も酔っ払う。越冬さといもは,堅いけれど,甘いのでは,なんと酔狂だ。覚醒したとて,なんとも酔狂だ。もう一杯この香水を頂いて,お風呂に浸かろう。なんとも酔狂,この上なし。ともすれば酩酊に切なさもはこぶ,こうした春の夜は。

リンパ瞑想,

世の中の瞑想と呼ばれるものは,
みんな,リンパ瞑想など捉え方によって,
呼んでもいいんじゃないか,そんな気になる
リンパって,筋肉と違って呼吸と合わせるような
そんな節があるし,緊張気味の筋肉をほぐすのに,
むしろ,固まった心の殻みたいな筋肉をほぐすのに,
リンパ瞑想。具体的には,と言っても具体的か,定か
ならず,リンパ節のところどころつなぐところを意識して
呼吸をむすんでゆく,なぜか第三者的に故郷や,周囲の
環境を新しい感覚で見直すことができる。外への扉は,
『自然一体化』とゆう概念と離れずに,そのまま出逢った
ものに,環境に,香りに,俗念に,離れずに着いてしまおう。

こんなリンパ瞑想=自然一体化的な観点で,業の泉をまた,
循環させる,何度も試みたけど正解だと思えなかった,あの
難問である世界と言う問いを,やっぱり説く鍵はリンパ瞑想,
とゆう『自然一体化』だった。
詰まりは心の壁で覆われてしまった逆に守られるはずの,
塞がれてしまった身体機能に,リンパ節の意識した呼吸による,
ちょっと外に背を投げ出さずつないでみる。そして,外の世界に
つながれた指先や手先を,意識して,外の世界につないでさらに,
そのうち,すべての世界は”薬”で,身体のリンパはながれて,
すべての世界は薬だ,とゆう情緒は,強まってくる。

瞑想は,身体の構造を変えるほど意気込まないことで,
また心理学的に作用する,
『だから,世の中の瞑想と呼ばれるものは,
みんな,リンパ瞑想など捉え方によって,
呼んでもいいんじゃないか,そんな気になる。』
この感性に,また。とにかくも,身体は世界の中にあって,
身体は周囲の世界をすべて,薬にする。

”リンパ瞑想”,とんだ妄想じみたことを言うようだけれど,
『心理=リンパ=周囲』の世界をつなぐ
『筋肉=呼吸=開放』の,この三者の交流の繰り返しに,
ただなにか魅力を感じて,
 百薬の長は,
『世界が客観的にそのまま薬になる』とゆう,暇の為さない
とんでもWorldに,『世界』が変わる。
これは,多分百薬の長だ。

脂肪瘤の白虎

以前,何処かの記事に,『脂肪瘤の白虎』なる,
メタファーを用いて,『それは,絶対悪。』などと
存分に詩的表現を楽しむ我が姿を省るにつけて,
また,最近は『角質異常』なる地球の姿を描いて,
然しながら,やっぱり敵愾心を表現させる我が『影』の,
その姿は,詰まり『自分』で,『恩寵』で,『富栄養』
なのだ,と斟酌する。
『影』とゆうのは,『自分』の『影』で,『富栄養』の,
それは投影された自らの『恩寵』なのだから,それは,
そのまま”地球市民”として,受け容れればいいのだ。
美学,とゆうのがあれば,一般的な”美”を壊したところに
その『影』は屹立していて,多分もっと先には,壊れた
グラウンディング。もちろん,”地球市民”。

だから,腹を据えて,などとは言うけれど,
もっと真逆に言えば,”美学”の反対の”胸の中心”に,
思考の末を置いて,一度”文学”を捨てるのもあり。
『自分を,受け容れたとき,どうなるんだろう』
考えたこともなかった。自分を,受け容れる,その,
緊張を解きほぐす,身体中の脂肪瘤が融け出す,瞬間。
多分,意図して”気絶”するに等しい,思考の停止。はて,
そんな瞬間を,やっぱり『影』は待ち望んでいた。もう,
期待はしない,枠も取り外して,とりあえずは想像なし。
段々に思考を緩やかにする,ないがしろに,ないまぜに。
多分,”美学”のある,としたら,思考の枠を外したところ。
『眠り』,また真逆の発想にみえて,珈琲も吞みながら,
『眠り』,精神の休息期に向かうとき,何が中心だろう?
もともと”ない”のは知っている,けれども何が中心だろう?多分,
”ない”なりに,まどろみの残り半分の”気絶”状態で,『春』を,
桜の開花期の『春』を,待ち望み,体験する。いかにも,春は。
越冬さといも,フキみそ,桜餅。『眠り』のなかで,春を,そのように
体験しよう。まどろみながら『春』を。

以前,何処かの記事に,『脂肪瘤の白虎』なる,
メタファーを用いて,『それは,絶対悪。』などと
存分に詩的表現を楽しむ我が姿を省るにつけて,
また,最近は『角質異常』なる地球の姿を描いて,
然しながら,やっぱり敵愾心を表現させる我が『影』の,
その姿は,詰まり『自分』で,『恩寵』で,『富栄養』
なのだ,と斟酌する。
『影』とゆうのは,『自分』の『影』で,『富栄養』の,
それは投影された自らの『恩寵』な…

自然理のファッション。

二極化の時代,と聴くことがある。
原因と結果があって,しかしながら,
食べることに苦労することの多い時代。
だから,『想像力』のグルメ本が存在する。
元々,技術や原因に先立って,想像があって,
結果を受け取るグルメそのものは,何だって,
言葉の優先度の”グルメ本”の,優位に出来ている。

軽さだ,気軽さの追求だ。徒弟時代は,
『気軽さの追求だ。』

気軽さは複雑系を通って出来上がる。そうだ,

徒弟時代に,GIVE&GIVEでなかったなら,

大黒さんなんて居なかっただろう。そうして,

自由の獲得は,二度も無くなって,そうして,

自然理のファッショナブルなTAKINGに到る。

自然優位の時代,ともゆうべきことなんだろう。
自然の範霊とゆう言葉を聴いたことがある。多分は
老子然り,役行者然り,弘法大師空海も然り。俗世,
俗世。業の反復と知りながら,その世界をみて,結局
ちゃんぽんには,直感あれど,明晰さなし。と観じて,
あと,はさあれ,軽さだ,気軽さの追求だ。徒弟時代は,
『気軽さの追求だ。』言い放って,扉を開ける。
その先には,”夢の振幅=目標の経済”の矩(のり)を超えて,
軽さだ,気軽さの追求だ。徒弟時代は,
『気軽さの追求だ。』心から,母船が飛び立った。
宇宙時代の岩戸開きは停泊していた宇宙船が,身体の中より
飛び立った。それが,どうした,として。多分それは,
自然理のファッション。




ヘッセの珈琲。

ヘッセの創作活動を促進したのは,あまりに
植物的な,成長力促進作用で,生体作用まで,
続々と,あまりに余りある,そんな状態。だが,
そんな想像を掻き立ててはあまりある,
彼の作家の創作活動に,ヘッセの珈琲とは,どんな
ものだった,か。一枚のノートPCを持つのは,
あまりある,だから珈琲の一杯は,生産的。
だから精力的に植物的な嗅覚と共に創作するのに,
イマジネーションの放逸を抑えるのに,またそれは,
珈琲の役目に精力的な生産活動を促進する。そのうち,
地下組織,地下組織。豊かさには,欠ける地底世界。その,
充溢する科学的精神は,グノームとも昔言われた実在で,
鉱石に囲まれて生きる,その生きるとは決して,遜色ない,
むしろ植物と鉱石に橋を架ける,グノームは珈琲。しかし,
正直に,創作精神を失うわけでもない,ラベンダー種を,
スプーン2杯,ドリッパーに淹れると,いつもより酷のある
むしろ,珈琲ドリップより軽い感じの淹れ方のできて,これも
また得なことだ,とも感じる。基本的に,技術の習得は,また,
デスク・ワークや機織りなどが,絵画や写真に活かせるレイアウトに
得になるわけでもある。珈琲習慣が,お茶ワークにも役に立つ。
軽さは『複雑さ繊細さより。』軽さは,地底世界を通ってから,多分
産まれてきたものだから,僕たちが,正直お空と植物の世界と感じる,
この”地上”は,グノームの地底を通ってやってきた。火山=珈琲より。
ヘロデ王=芥川は,聖書を産み,ヘロディヤ=アナトール・フランスは
世界の知性として,いつも天界のプラーナ。サロメー=A.ヒトラーの
贖罪をするため,ラザロ・バプテスマ=R.シュタイナーの叡智が輝けば,
人はまた太宰=イスキリの死を不思議に想い,ヘッセ=聖母マリアの
くびきを”贖罪”として経験する『魔の山』読み,トーマス・マン=ヨゼフの
これからは『時代』。こんな『ファッショナブルな美学=腸活の良しあし』と
昼の夢を試みながら,やはり珈琲は,切ない,聖書物語の歴史の切なさを
ループする繰り返しの歴史史観として表す,それは梔子の季節。
結局は地底世界は珈琲豆に世界を託して,顕在の世界から姿を消して,
そうして,財源が地下にあるわけでもないが,科学=非経済的経済は
確実にグノームは抱いているわけで逆説ではあるが,科学=経済とゆう
植物的情緒世界には理解できない非感情…

燕尾のたくましさ

一度,首を折ったようなものごとに,もう一度,
首を突っ込むのは,自殺行為だ。たとえそれが,
思想上の,解体を試む思想的行為だとしても。
だからといっては,前世ゲームなる統合失調症は,
電波抜きの終われば,『脱落,脱落』。終わる。
R.シュタイナーは,ラザロ・バプテスマ。何故かしら,
サロメーの首を前にしての絵画より,あの時代より,
グラールから宝石こぼれた。何故かしら,オロチの,
剣が産まれる画に親い。
R.シュタイナーは首を折られたから,呪詛的である。
しかしながら,呪詛的であればこそ,こちらからも
呪詛的である,思想的行為によって,宝石こぼれる,ので。

紺色の浴槽に身を沈めて,水色のタイルに目配せをする。
芥川の蜘蛛の糸のように,一筋の赤い蜜柑ネットの垂れて,
たおやかに朱を放っている。ここで,芥川。すべてが,まだ
自作自演であるとしたら,ヘロデ王の聖書誕生秘話は,昨今の
ユダの再認識によるサロメー,ラザロ・バプテスマへの指向にも
一瞥の与えられることこその,
『きっと,もうすぐみつかる。あの,
 先代のヨハネ・ラザロ・バプテスマへの遺稿。多分もうすぐ
 みつかるはず,遺稿の太宰治のアガスティア・はいスケッチ。』
こんな,とりとめのない後書きに使えるかしら,とゆうメモを
手に取って,アナトール・フランスは僕にとって,ダンマであった,
手を組んで,ふ、と。流れる熱い体温で,多分聖書物語のなかで,
サロメーの説話が1番の悲劇で,彼らだけは自作自演ではなかった,
だからその創設秘話を解体すべくもなくただいたずらに,ナチズム。
そこで,ヤマタノオロチのようなR.シュタイナーの贖罪があってまた,
現代は,その弔いの真っただ中に,紺色の浴槽に身を沈めて,
水色のタイルに目配せをする。芥川の蜘蛛の糸のように,
一筋の赤い蜜柑ネットの垂れて,たおやかに朱を放っている。
ヘッセは聖母のようだけれど,このようにとりとめのない話しぶりに,
また,無秩序の乱文詩のようになったのも,歴史は繰り返す,調弦の
怨霊のようになったものの,それは元来弔いの弔い返しのような,また
悲劇があったのは偶然でも,その偶然を取り返すのに果てしのない振れ合い,
だから『自作自演で始まる,シンクロニシティはそれで終わる。』から,
KARMA SPRINGとゆうBlogをやっているのはそうだけれど,もうすぐ,

相剋するファッション。

寝ざめする一歩手前あたりの,心地いい。
お酒のあてには,塩辛より,柚子の効いた粕漬。
手先指先から,宇宙船の加護のようにビーム電波線。
はからずも『はい』,とゆう言葉の真意には,そのまた
ファッションの相剋。次々と産まれてくる嗜好には,はい,
また,その次はいと言って,数々の目くるめく展開させる。
”うつ”を,回避する手先指先趣向なるものには,何がその
ビームのように抜けて行くのだろう?もちろん人文学的に,
業のような,画像のような,そのパノラマの,記憶のような。
何故だか,外に干したタオルと,家の中でたたずむ猫たちの
ご機嫌を窺がうポスト・オフィスの配達員のまなざしと
交互に内と外を入れ換わる,嗜好の渦は,目くるめく展開させる
柚子の効いた粕漬,宇宙船の加護のようにビーム電波線,その
ファッションの相剋。

もう少し相剋にブラックペパーくらいの辛さのある,七味を加え,
そうして,この麹の甘酒は...など,と講釈を下すそうだなもうすぐ
訪れる春の芽吹きのフキみそなど舐められたら,とは言って。いまは
ホワイト・ラムレーズンをお酒のお口直しにペロッと頬張る。それは
シラサギのススキを被ったモノクロームに,バリ島土産のヨガ・ママ像
浜辺で拾った青磁の瓶底に,ましてや拾ったもの,といえば忘れられない,
あの私たちの暗号24685859/23546745,8こんな数字の羅列が手先指先から
流れてくるような気がする。

寝ざめする一歩手前あたりの,心地いい。
お酒のあてには,塩辛より,柚子の効いた粕漬。
手先指先から,宇宙船の加護のようにビーム電波線。
はからずも『はい』,とゆう言葉の真意には,そのまた
ファッションの相剋。次々と産まれてくる嗜好には,はい,
また,その次はいと言って,数々の目くるめく展開させる。
”うつ”を,回避する手先指先趣向なるものには,何がその
ビームのように抜けて行くのだろう?もちろん人文学的に,
業のような,画像のような,そのパノラマの,記憶のような。
何故だか,外に干したタオルと,家の中でたたずむ猫たちの
ご機嫌を窺がうポスト・オフィスの配達員のまなざしと
交互に内と外を入れ換わる,嗜好の渦は,目くるめく展開させる
柚子の効いた粕漬,宇宙船の加護のようにビーム電波線,その
ファッションの相剋。


親父サンタクロース。

聖とゆうのは,お節介な輝きにも似て,
だから,情熱的に生きようともする。
だから,たたずむ親父サンタクロース。
停滞している訳でもない,マンネリズム。
お茶を呑んで,すっきりとストレス・フリー。
気が晴れたからといって,まもなくまた曇天に
気の塞がない訳ではない親父サンタクロース。
自分の本質は,何だろう?そう考えているから,
曇天に気も塞ぎ込むし,また私の本質は?
と考えているから,気も晴れやかになる。

もうすぐ回悟しそうだ,そんな気分になりつつ,
頭を抱えて,みずから本質について語り合う。
1つひとつ玉ねぎの皮をはいでゆく。そうして,
私の本質に辿り着く。1枚目の皮シモーヌ・ヴェイユ。
2枚目の皮夏目漱石。パリから,ロンドンへ。そうして,
3枚目の皮指先に,修道院の。玉ねぎの皮剥いて,その
すべてなくなってしまうであろう文化誌的トピック。
そうして4枚目からは宇宙だから,そのうち太宰治や,
坂本龍馬や,九郎義経から,弘法大師空海の5678。
こんな事では回悟しようもない。バジリスク絵画をめくる,
宇宙の回転を促す,連環世界のWORLD趣向に,もうすぐ,
私もキリストになる,byアントナン・アルトーだろう。
生きていること自体がキリスト象徴世界なら,犠牲美学は,
私もキリストになる,byアントナン・アルトーだろう。
ラムレーズン,頬張る。

聖とゆうのは,お節介な輝きにも似て,
だから,情熱的に生きようともする。
だから,たたずむ親父サンタクロース。
停滞している訳でもない,マンネリズム。
お茶を呑んで,すっきりとストレス・フリー。
気が晴れたからといって,まもなくまた曇天に
気の塞がない訳ではない親父サンタクロース。
自分の本質は,何だろう?そう考えているから,
曇天に気も塞ぎ込むし,また私の本質は?
と考えているから,気も晴れやかになる。

バジリスクと麦芽水飴

アナトール・フランスには,ロートレックの
和装の写真のように,儀式的な礼装の雰囲気は
ジャポニスムの中に容易に想像できるから,それは
好敵手も多いだろう。
ラザロのルドルフ・シュタイナーも,人類の代表者の,
トーマス・マンでさえ,ゼウスの太宰治氏とならんで。
強烈な,嫉妬と怒り,その憤怒をアナトール・フランス。
アナトール・フランスと言えば,その好敵手を差引いて
本当に,普通なエウロパ姫のような女性ヨーロッパ権化。
ヨーロッパ美術の典型的なフェミニストの現代文化と衝突
したときに限って,そういった礼装儀装したロートレックの
ジャポニスムの見られること必至。
だからといって,本質的にヨーロピニアリズムの本質は,
典型的な女性像としての変化を見せない古典的な風貌。

バジリスクの太宰治。みたまの振り,トーマスマン。そして,
パン種撹拌機のラザロシュタイナー。彼らは,僕たちの,その
人間性の中にゲノム記号として渦巻いて,ドイツ文化の先触れを
訪れた者たちへディクシャしてゆく。僕らは,バゲットのサンド
を,美味しく頂けないものだろうか?鳥人間をものおじせず。
そうして芥川賞を冠っている彼の龍之介氏の薫陶を歴代のその,
受賞者たちのレベルと相まって,推し進める事は可能?僕らは,
バゲットのサンドを,美味しく頂けないものだろうか?まだ,その
グルメとゆう隠し蓑の下に,芸術性とゆう美学の傘下にまだあの,
バジリスクと麦芽水飴の死闘が蠢いている。
フランスパンと,ドイツパン。
アナトール・フランスと太宰治氏の
死海塩風呂と空海雲海のそうして,またあの
幸せと散開の名のもとに向けて,申し訳なさそうに
バジリスクと麦芽水飴の死闘が蠢いている。

アナトール・フランスには,ロートレックの
和装の写真のように,儀式的な礼装の雰囲気は
ジャポニスムの中に容易に想像できるから,それは
好敵手も多いだろう。
ラザロのルドルフ・シュタイナーも,人類の代表者の,
トーマス・マンでさえ,ゼウスの太宰治氏とならんで。
強烈な,嫉妬と怒り,その憤怒をアナトール・フランス。
アナトール・フランスと言えば,その好敵手を差引いて
本当に,普通なエウロパ姫のような女性ヨーロッパ権化。
ヨーロッパ美術の典型的なフェミニストの現代文化と衝突
したときに限って,そういった礼装儀装したロートレックの
ジャポニスムの見られる…

悠愁なる椎の花。

LONDON ONE,ただそれは,また
『遥かなる調べは,果てのない汽笛の遠鳴り。』
城下町の造り酒屋を眺める,悲劇の女主人公は,その
町の出身で,いつも夜になると訪ねる。その,遠鳴りは,
LONDON ONE,ただそれは,また
『造り酒屋の,火消し鉄塔。物見やぐらの鐘の遠鳴り。』
切ないとゆう,その切ないとゆう感情には,人格改変の
手がかり含まれ,UKの古着カタログを眺めるより,また。
インターネット・テレビ局の配信をチェックするよりも。
カフェインレスのブレンドには,もちろん牛乳がよく合うから,
LONDON ONE,ただそれは,また
『人が亡くなるのは,ただ遠雷に含まれる,その稲妻の遠鳴り。』

”手先指先集中メソッド”なる,『眠りが原因の抑うつ症状』を
回避する,手先指先をびりびりさせるほど意識的に気持ちを抜いて行く
そんな方法を考案して,何かしら,『眠りが原因の抑うつ症状』とは,
言い換えるとするなら詰まり栄養を蓄えすぎた過電荷状態なのであって,
それらを抜いて行く”手先指先集中メソッド”は,とやかくゆうよりも。

LONDON ONE,ただそれは,また
『遥かなる調べは,果てのない汽笛の遠鳴り。』
城下町の造り酒屋を眺める,悲劇の女主人公は,その
町の出身で,いつも夜になると訪ねる。その,遠鳴りは,
LONDON ONE,ただそれは,また
『造り酒屋の,火消し鉄塔。物見やぐらの鐘の遠鳴り。』
切ないとゆう,その切ないとゆう感情には,人格改変の
手がかり含まれ,UKの古着カタログを眺めるより,また。
インターネット・テレビ局の配信をチェックするよりも。
カフェインレスのブレンドには,もちろん牛乳がよく合うから,
LONDON ONE,ただそれは,また
『人が亡くなるのは,ただ遠雷に含まれる,その稲妻の遠鳴り。』

椎の花の香りが,強く。強く,そうして,僕はやっぱり,この。
この,純粋な大らかな香りが好きだ。気付けば,暖房も,電力消費も
外気温の,ぬくさあたたかさに替わって,治まってきている,そんな
椎の花を開花させる春の温暖な空気には,きっと。春の,朝焼けに,
どんぐりの残りの実たちは顔を赤らめて,ほっ。としながら
微笑んでいるのでしょう。

ジューシー葡萄。

ひとつの解決法を試みたい,それはあながち,
放ってはおけない危機的な感情はさておき,
とゆうのもそれは解決した上での,”ある,解決法”に,
ついてなのだ。あまりに,頭脳を使いすぎると,その
倦怠感は,緊迫感と結びついて,交互にスパークリングの
葡萄ジュースを呑んだ時のように,耳からはじけるのだ。
コンビニをあるくのは,贅沢に過ごす一瞬の安らぎでは
あるが,それには安住できない緊迫感を抱いて,それを
むしろ楽しんでいる。
解決できない問題は,”眠りすぎる”とゆう,その一言にのみ。
時間軸は,空間,次元間を繰り返して,もうすでにそこに居ない。
だから,時間に留まるとゆうことそれだけが問題になるだけで。
もう,解決法と言えば,だからコンビニで買って頂く葡萄ジュースを,
唯一の嗜好品として。”もう,すでに僕は,時間の中には居ない。”って,
言う。それだけ。時間とは,何か。とは,闇に住まうセクシュアリティ。
こうゆう喉仏的な発想は時間軸に親いから,感情の置きどころは
”時間ではなくって,非時間的なものの中に。胸の中にではなくって,
手先指先の空間軸に。”

ひとつの解決法。
時間軸=胸の中に,住まうのではなくって,手先指先=空間軸に意識する,
それは,眠りから,目醒め。何の,解決法か。それは,多分。
きっと,自我の終焉,執着の解体,”業の泉”の解決法。
とにかく,感情的なものは,とゆうのは暗部に潜む感情的なものは,もう,
すべて,指先手先=空間軸に。
散財しそうなくらいの,情緒の解放を願って。
指先手先から,びりびり,と
解放する,それは。

『ひとつの解決法を試みたい,それはあながち,
 放ってはおけない危機的な感情はさておき,
 とゆうのもそれは解決した上での,”ある,解決法”に,
 ついて
 だからコンビニで買って頂く葡萄ジュースを,
 唯一の嗜好品として。』


失いそうになる,楽しみ

ノートパソコンは,元来キーボードも
ほとんどは一体化していて,充電していると
膝の上に置いてでも,通電している。そんな感じで
忘我している瞬間,それは1日の終わり,業の湯浴みに
放心した忘我している瞬間,さっきまで考えていたことすら
もう何にもない,
『言葉だけが,のこるのだ。』そう言って,まだ湯上りの
渇いたのどを癒さずに,呑まないとは,どうゆうことか?その
進歩的な実験的科学的精神。『言葉だけが,のこるのだ。』
死海塩(デッド・シー・ソルト)のお風呂に浸かって,のこる
思考の粒たちを,さぁ空海,さぁ空海,夢との付き合い方とは?

本当は,土の煙を吐いて駆けるようなデゴイチの農家さんみたいに
土地に両足を這って歩きたかった。酵素は身体中をめぐり,そのまた
身体中がクレイの土酵素と融け合うような。それが,何故かしら,
アナトール・フランスとゆう,知性の女神と憑き合うようになり,
”思考の粒たちを,さぁ空海,さぁ空海,夢との付き合い方とは?”
”ノートパソコンは,元来キーボードも
ほとんどは一体化していて,充電していると
膝の上に置いてでも,通電している。そんな感じで”
”失いそうになる,楽しみ”,むしろの
『失いそうになる,哀しみ』。
だから,『言葉だけが,のこるのだ。』,悲観はしていない,いいや
もう,ゾンビーのような生き方なのだ。

ノートパソコンは,元来キーボードも
ほとんどは一体化していて,充電していると
膝の上に置いてでも,通電している。そんな感じで
忘我している瞬間,それは1日の終わり,業の湯浴みに
放心した忘我している瞬間,さっきまで考えていたことすら
もう何にもない,
『言葉だけが,のこるのだ。』そう言って,まだ湯上りの
渇いたのどを癒さずに,呑まないとは,どうゆうことか?その
進歩的な実験的科学的精神。『言葉だけが,のこるのだ。』
死海塩(デッド・シー・ソルト)のお風呂に浸かって,のこる
思考の粒たちを,さぁ空海,さぁ空海,夢との付き合い方とは?

キリストとヘロディヤ。

太宰治とアナトール・フランス。例えば,そこに夏目漱石先生の我輩は猫。LONDON ONE TAKES YOU ANOTHER STORY'S OF ”KARMA SPRING”.LET ”KARMA ATTCHMENT” GO & BEN RED TAKES WHERE ”JESUS” IS WANTED TO WALK IN.”KARMA ATTACHMENT” は自我の失楽園を目指してすすむ,『手放すべき執着』。だけれど,”楽園”が魅力的に映るその語り部のより以上の感情の波に,生命の神秘。『業の泉』は,感情の波にさらされた常人の常ならぬ常。その中に,浸り切っている以上に,陽光への傘下の道はない,だからこそ,バリの神秘,芸術の道は常夏の傘下への道程誘う。薬にもなる,”業の泉”。行動しながらじゃなしに,珈琲は呑めないし,感情の波も”業の泉”より湧き出はしない。けれども,進歩する,その優等生指向を,珈琲を呑みながら嗜みながら雑談をしながら,嗜みながら運転しながら,嗜めはしないし。俗に,進歩的な話は,運転しながら,向かう目的地に到着する前に,より以上。珈琲を呑みながら,ほっと,する。銀色の目前に眠る前にほっと,する。進歩的に一度振り返って,目前に置いている銀色のお冷やに熱いカレーを添えて,やはり食後の珈琲,美味しい。『果ては,キリスト。』ヘロディヤも,ヘロディヤの父母も,同じように叫んだに違いない。バルタザアルはヘロディヤ父なのではないのか?ヘロデ王の遺言のように,イエス・キリスト神話の遺って,『果ては,キリスト』。LET ”KARMA ATTACHMENT” GO.ヘロディヤの”業の泉”より湧き出る古代魚の畔。”執着”だ。”執着”そのものだ。喜びも,悦びも,快楽も,Romanticismも。業の化身であるヘロディヤを,LONDON ONEは見守り,太宰,太宰,太宰。もうすぐ,業の泉より,LET ”KARMA ATTACHMENT” GO.Romanticismも快楽も,キリストとヘロディヤ。珈琲を呑みながら,KARMA SPRINGも,呑み干そう。まどろみ,温熱線。帰りに忘我しながら,眠りの国へ戻る,まるで,家に帰るように。

『中空グルメ』ふたたび

ホワイト・ラムレーズンを摘みながら, 文章を考える事くらいが,トイレにも行かず, 薄着のままで,文章を考える位が丁度好い。 と,ゆう中で,身体がもう, 寒さに堪えていない事に気付く。 五分袖位でも寒くないのだ。 メモ帳に,古いペンを使って,書いていると 少しずつインキが濃くなってくる。
例えば”悪”。”悪”とゆうテーマは, 『義憤』そのものであって, 中傷的であるうちは, 経済的で有り得ない。ましてや,無関心,など。
”KARMA SPRING”,湧水は 業の確執を洗い流してしまう。 ”業は執着。手放すことなり,”と。 手放す。”Let it Go”は,まるで, 経済的で,『考えない』,
記憶の領域にあって, 意識は常に過去を造り変える,振動させながら。 タイム・マシーンに乗って, 過去に往けば,必ず”体験者”は,過去の揺らぎを 語っている。歴史は何時も1つの辞書で, ”体験者”の受け取り方によって振動するように, 若干ながら,『意味』も変わってくる。 『意味』は,相殺しあうグルメからすれば, 何時も『意味=歴史=振動』する何かで, その対義語があるとするなら,言葉で言えば, 例えば,”業=執着” vs. ”手放す”のように, 『意味=歴史=振動』 vs. 『中空グルメ』なのだ。
ホワイト・ラムレーズンを摘みながら, 文章を考える事くらいが,トイレにも行かず, 薄着のままで,文章を考える位が丁度好い。 と,ゆう中で,身体がもう, 寒さに堪えていない事に気付く。 五分袖位でも寒くないのだ。 メモ帳に,古いペンを使って,書いていると 少しずつインキが濃くなってくる。
病床に立っているかのように, 明るい時間には,ドーパミンが出て, 眠たくなくなった。何時も,目醒めていたい。 それは, もう”天国かみになく,ただ大空こそありけれ”と, 語った『私は大空そのもの』と, 是非とも,思い込みたい, 春の夜明けは見る間に,紅潮するドングリのよう, みるも見る間に花のにおいが,ドングリの花の においがしています。

業の泉に『中空グルメ』

グルメは打ち消してしまう所に,
真実らしさのあって,ジャポニズムが
あれ程
歴史で謳われているのに
何もあった事,知らない僕らは,
そこに『中空グルメ』を見る。

今となって,『憧れの星』に落ちる事を知らずに
神になった,フォン・クライストの
何故『憧れの星』でなくては,
むしろ”忘却の星”に産まれる必要があったのか?
それは,打ち消すための,相殺するための
『中空グルメ』による修得の必要があったから。

ある時『一粒の麦死なずば,』とゆう伝言を,
ドストエフスキー”カラマーゾフ”,
知人の手洗いのカレンダー,
あとは何だったんだろう,
本当にヨハネ福音書の内容から,
『一粒の麦死なずば,』のテーマを
頂いたのだろうか?
本当に死ぬのでは,ないのだけれど,
精神的には
自らライ麦の種になって落ちるのであれば,
『エンパスになる事』,
『業の湯浴みを恐れない事』,
『神秘主義の門前に恐れずに立つ事』
を忘れない。

イタリアのズィンゴニアとゆう小麦棒。
”グリッシーニ”とゆうお菓子を,小袋で購入したら,
版画のような小麦の華が咲いていた。何故だろう?
『一粒の麦死なずば,』のフレーズを思い出した。

業の湯浴みに出掛けて,”グリッシーニ”とゆう
華の咲いた,アナトール・フランスの春。
麦の華が咲く。アナトール・フランス。
業の湯浴みに出掛けて,麦の華が咲いた。
現象だけで,物事は片付くわけでないし,
体裁もある程度ないと夢は見られない。

『中空グルメ』ラム・ダークでレーズンを漬けて,
溶かしたココナッツ・バターと和えれば,
”冷やして召し上がれ”『ホワイト・ラムレーズン』

縦長の紙バッグに
麦の華グリッシーニと詰めれば,何だ,あれ?
沢山の麦の華が咲いて,あの後,何になる?
名前を忘れて,その後,アナトール・フランスの
名前を憶い出すと言う,『中空グルメ』。

フォン・クライストの希求したとゆう,
”憧れ”は,きっと,『業』とゆうもので,
アナトール・フランスの春は,
ロンドンの春。
印度に咲いた麦の華は,
業の泉として,佇んでいる。

限定する”夢見”。

『ルシファー(創造性)の道を通り過ぎて,
 アーリマン(物質原理)へ到着する。その時,
 キリストはもう居ない。』この,R.Steinerの
”第五福音書的発想”の流石にルシファー・グノーシス誌
発刊者ではあるような。『現実に生きる』とは言い過ぎかも
知れないが”夢見”の道を通って,裁断する現実的思想への
プロセスを辿らせるR.Steinerの技法は流石。そんな,
”夢見”の道を通るとは,業の湯浴みの瞬間。
つづく技法は『限定する”夢見”』の道を通らせるから,
まさにUFOを待つ樹々の梢に。とゆう,話は否めない。

何にでも,珈琲にはミルクを加える癖のついてしまった。
ストレート,と言えばミルクで割る,を意味する。勿論,
僕にとっては,カフェ・ラテへの道程を踏む気には,毛頭
なれないにしても,どっちみち中空の無に帰すグルメ,そう,
相打ち相殺してしまうのはグルメにとって,不可欠。もう,
道しかないのであって,中身は打ち消してしまう。真理は,
道のない土地である。言い得て妙なクリシュナジ。しかしながら
道には中身のない打ち消しカラッポな理論を求められる,そうして,
ますます『現実に生きる』,やっぱり風鈴の音の如くに,何もない
意味のないような振りをして確実に涼を取らせるあの不思議さは,
道のない土地に踏み入れた足先に響く風鈴の音。横たわって,
息のつく間のワンテンポ・ツーテンポを,コモン・センスに。

『ルシファー(創造性)の道を通り過ぎて,
 アーリマン(物質原理)へ到着する。その時,
 キリストはもう居ない。』この,R.Steinerの
”第五福音書的発想”の流石にルシファー・グノーシス誌
発刊者ではあるような。『現実に生きる』とは言い過ぎかも
知れないが”夢見”の道を通って,裁断する現実的思想への
プロセスを辿らせるR.Steinerの技法は流石。そんな,
”夢見”の道を通るとは,業の湯浴みの瞬間。
つづく技法は『限定する”夢見”』の道を通らせるから,
まさにUFOを待つ樹々の梢に。とゆう,話は否めない。

ロンギヌスとキリスト。よくは解からないが,
桂小五郎と,坂本龍馬。僕は,太宰は死なずに岡潔先生に。
龍馬はロンドンに渡って,伊藤博文に。そうして,
九郎義経は,モンゴルに逃げてチンギス汗に,とゆう伝説と
酷似して,時代の相違は跨いで,空海も怪僧文観に換わった。

岩窟思考(主客没入)

角盤山清水寺,八百比丘尼,赤猪岩の三者。
岩窟思考と呼ぶ,”岩の瞑想”。
古文は,主語を失わない程の主客一体,
主体と世界の一体を主述不均衡によってあらわしては
いるが,岩窟思考(岩の瞑想)は,主客没入と
言える程,安堵感の,むしろ思考の休息を
与えてくれる。岩の中に這入ってしまおう。むしろ,
悠久の時を備えた,パン種のような
思考のエサに這入ってしまおう。そんな時”蟲の神”にでも
なってしまったかと感じる程。
例えば発酵が光りを求めるまでに進んでしまうの
なら,それは
岩窟思考を伴った何かであるに違いない。
むしろの”好気嫌悪”は
闇に親い,
『光りは,闇よりうまれるものらしい』
詰まり,光りの要素は,嫌気発酵より発生するらしい。
だから,『光りは,闇よりうまれるものらしい』
嫌気発酵は,いつもひとを窒息させるから,嫌気発酵的
人間は,常に”隠匿的”にされる。
いつか,文字の手段は”魔道”と聴いた。
『嫌気発酵のほうを向いて,闇を内に抱こう』それは,
『光りは闇よりうまれるものらしい』
描かずには,おられず,筆を執る。
光りから,闇の時代を向いている
ものらしい。光りの産業は詰まり,
原点を言えば嫌気的闇から
出来上がったもの。だけれど逆説的に,
人類は闇のほうへ向かうものらしい。
『嫌気発酵のほうを向いて,
 闇を内に抱こう』そんな,嫌気的闇を,
常に,この『日本』の中に,捜す。
元々,体内の発酵は嫌気的であるから
嫌気的闇は”グラウンディング”に向いている。
『”愛”のために,葬儀にでるのか。いいや,”革命”の
 ために。』と,エンパス指向についての記事に表現したことが
あったけれど。エンパス指向=ホ・オポノポノ体質=平和気質に
対する”隠匿的”傾向は継続しそうだ。『考える人間は,人間。』,
こんなCommunity構想に必須なアミノ酸的な流儀を必要としている
いいや,言い換えよう,
『こんなCommunity構想に不可欠な亜鉛鉄分のようなHumanismを,』
僕(等)は希求している,だから
もっと『革命的”静かな生活”構想を
    世界に,ひろめよう』。
文学の生活は,闇に親い。




左回しの珈琲,

殊に時たまある,右回しの珈琲。そんな時,
淹れている僕は安堵の息を洩らすのだけど,
左回しの珈琲と左上の手の組み方を憶えて。その
少しずつ空っぽの地点に親づいた気のする三十路過。
思春期は細胞分裂が活性化しているから,辛いし
勢いもある行動に結びつく。そのまま行けば,
サイコパスになりかねない人生の指標はうまく,
機能して僕たちの支配構造を精神面で変えて行ってる。
もうすぐだ,もうすぐ。何故かしら,漂って呟きまた,
呟いて漂っているたゆたう僕らは第二の人生。
電気が通っている家の壁面は,贅沢ではある。けれど,
何故だか刹那的に,寂しいから,むしろ薄手のスキニーを
履いてはインナーウェアで過ごしている,壁面の熱源よりも,
身体の細胞分裂をこそ抑えようとのお達し,受けては返す,
忘我の告白。

…… 右回しの珈琲。そんな時,
   淹れている僕は安堵の息を洩らす ……

もうすぐだ,もうすぐ。『確執は解けて,業の泉も解体する』
概念の身体は反転して,猫の着地の半回転。
思考の縦糸は張りきり,ジャコのおやつは今。
思想の波板も震えて,弛緩する筋力は穏やか。

空っぽの時に良い文章は書けるとゆう。
ShelterHumanismは,岩窟の聖母のような,涙もしたたる,
岩肌には,永遠の感情の時間を忘れた生命がある,それは
切なさとも哀しさとも人間性には感じられるけれども,岩の
”人生”からしたらShelterHumanismなのだ。岩窟の聖母。
ダ・ヴィンチは岩石の思考などを描こうとした時。例えば,
転生の秘密。その人のオリジナルは,多分それぞれの”岩石”。
内側にある岩窟思考のようなものに現れている。だから,その
脊椎の所にあるブラック・ボックスのようなものを探れば。その
彼のオリジナリティの見えてくるなど,ダ・ヴィンチの画には,
発見される何かのあるのでなかろうか?そうだ,もうすぐ
岩石は降ってくる。頭の中で,夢のなか椅子の降ってくる童話を
完成させた80’sのクリスマス・イヴのような。
その経過を連れづれに描いてゆこう。

芯のある昆布巻き,

堅く立った,遺る芯のあるお米の粒のように,
芯のある昆布巻き,かんぴょうがそれを演出。
詰まりは,”芯”は『真ん中ではなく,周りの。』
包む,ころもや,練り物などが一番の”肝”であって,
だから小麦粉は尊い。彼らドーパミンを包んで。また,
中身には,充実さを含ませて。だから,神さまとゆうのも
そう言う,沿革上をつつみこむ何らかの皮革の部分の,多分
そうした”支え役”の事を言う。中身のひとは,”こども”なので,
いつも愛でる”神さま”の皮膚は,堅く皴がれて,涸れていているから,
気付かないのだ空気も,熱射線も,鶏虫干しする大地の鮮度豊かさ。
怒りも,裏返るとすがすがしい。大気の中で,風穴のように。
もう侮ることも知らない幼子のように,裏返って放射する”怒り”の
放射線とは,実は光りであって,輝きで,むしろ毒物を含まないから
放射線なのではと思った。人の立場は様々な故,珈琲が苦手な人も,
甘味の嫌いな人もいる。裏返る,とは酷い言い方だけれども,それは
『諦念。』と言っても差し支えない平板化しておだやかな表情を浮かべ
おもむろに笑い出すその顔色の機微にはきっと。もうすぐ春が来るから,
それぞれの虫干しをして,表に出れば沢山の豆の木がなってくるだろう,
”堅く立った,遺る芯のあるお米の粒のように,
芯のある昆布巻き,それがいい。”何をしていても,世界は変わる。
それは,基準の満たされる何か,『恍惚の人,コウコツの,ひと。』うん,
だから多分それでいい。思ってもみない所で,バカボンのパパみたく,
精神の抜けてしまった僕だから,もうちょっと先に行ってみようと思う。
バカボンのジジになって,そうしたらきっとやっぱり”天才”に化けるだろう
神?もののけシシ神?スサノオは暴れて地に下った。サナト・クマラや,
金星の大魔王伝説(鞍馬寺の600万年前に”魔王殿”に鎮座ます大魔王,
”金星”より入来立った。)はては,サタンになったとゆうルシファー伝説は,
グラールの聖杯と比して,親い。聖杯から落ちた宝石の屑は,ライムギ種では
なかったかなんて,妙にクラフト地味た気持ちの起こる,そのようなものの,
話のタネに,芯のある昆布巻きの生えてきたらそれでいい。何の気なしに,
摘まんで食べるのはバカボンだからそれでいい。”怒りを放射する”=それは,
いたずら者だったスサノオは,怒りを放射しながらお椀…

電位は通電する身体に,

祈りは,身体に働きかける,内と外の
ミクロとマクロの,宇宙と心理の相応の
『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。
反転するものだ,『世界の悩みを宿した,』その
身体は,いずれ反転するものだ。もう,何度か
反転しているその度に思う,『世界の悩みを宿した,』
その身体は,いずれ反転するものだ。と,

何故かしら,世界を宿しているらしい,気付いた後。
世界に対して怒りを覚えるよりは,むしろ純粋に,あの
『愛しているのだ,』受け容れる,純粋さ故に。だから,
間違えなくってもいいと思う。まずは,身体中の翻る。
反転する前に,少しずつ裏返ってくる。世界を宿した,
純粋さ故に。多分,元来世界の種を身体に宿しているらしい。
”世界から産まれてきたものであるらしい。”
そう,思って
『世界自身は,世界を変える』なんてゆう,逆説的な話が
浮かび上がってくる。地底に産まれてきた私達の,元来,
世界から産まれてきたのならば,世界を変えるお節介は,
元々論理的ではない。わかっているけど,いてもたっても。

『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。

世界を変えるなんてお節介だってわかってる。何故なら,
自分で自分の身体を食べるようなもの。それはお節介。
だから節度を持って,接しようと,身体に働きかけるのは,
しかし,少しずつにはできないもの。
『・・・・・・地底の身体をまとってしまった故。』

反転する身体は,世界を変えるその地上に返った”地底世界”。

急がないし。怠けたいし。むしろもって,返りたくないから,

世界はそのままあるがいいなんて,思って。
自然一体化,叫ぶ。
業の泉は湧き出るまま。
湯浴みし湯浴みし,
浴びた後は。
またしっかり,眠りに就いて,豪快に息を抜くイビキの饗宴は,
もう,推し量ることのできない
終焉へと私達を向かわしてゆくそれはもう。
自我の終焉。とは,ジッドゥ・クリシュナムルティの語った言葉。
非常に美しいが,つまり実際には抽象的に,
『世界の終焉に,それは身体の終焉に。
  一日の終わり,人間関係の街の精神体の終焉に親づく。』

『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。

普通だ,

意外と何もかにも普通だ,それにもまして
こだわりとゆうものが内側にあるにしても,
それはこだわりとゆうだけで,何も問題ない
から,それで何もかも普通なのだ。価値観として,
それは楽観的な,『意外と何もかも普通だ,』。

珈琲を左回しにいれるとしても,意外と普通。
左回しに豆乳とデカフェでも,また意外と,
そうして眠りの手前にあって,忘我の瞬間に。
お家も身体の一部,人間関係もまた身体の一部。
精神体として,街も地域も。身体の精神体なので
大都会に遊びに行くとどれだけ楽しいかなんて。
精神体の大きい。大きい神と書いて,大神様は,
精神体の大きさは魅力的で,そうして,大きいのが
何故良いのかとゆうと,『意外と何もかも普通だ,』。

楽観的なのは,良くないのかとゆう問いに,下世話な
悩みと付き合うように向き合って。『逆』で,ギャグで
しかない。楽観的なのは,大きいとゆうことで,現実。
だから,悩むとか言うものではない,『食べる』ことと同じ
で,自然の繰り返しと共に,『また,昼が,夜が来た。』,
そう,思って,楽観的なイマジネーションの大きさと付き合えば
良い。キールタンとゆうインドのマントラを西洋音楽にのせて
謳う,そんなキールタンを聴きながら彼らその創唱者は,非常に
『大きかった』。

意外と何もかにも普通だ,それにもまして
こだわりとゆうものが内側にあるにしても,
それはこだわりとゆうだけで,何も問題ない
から,それで何もかも普通なのだ。価値観として,
それは楽観的な,『意外と何もかも普通だ,』。



妙好人抽象

今なら讃美歌のよさが,わかる気がする。その,
クリスマス・ローズの美しさのわかるように。

抽象思考,大病院をみて思った。『これはおおきい。』
だから,構図設計図をみるようになかなかの大建築を,
抽象思考によって把握する。『院長先生のご苦労お察し
致しますが,少々自己の肥大を感じるが故。虚言妄想と
思って受け流して下さい。』こんなことを,観じながら,
さらに統合失調症の抽象思考をして思うのに,精神的な
エリート。そう,感じては,もう,抽象思考のお相手は
いなくなってしまった。目を閉じ筆を執る,親鸞和讃。

話は違いますがデジタル音源の流行によって,主流は
電子書籍も例にもれず,webや電磁線を超えた何かでないと,
文学性も文学性ではなくなって。『文学も通電し始めた。』,
親鸞和讃を,ご仏前にクラウド・コンピューティングにより,
和讃オール・エンドレスプレイしながら思う。もう神仏も,
クラウド・コンピューティング。『神仏も通電し始めた。』,

確かに,或る阿呆の一生。放念して,恍惚と過ぎる妙好人の
彼らは,放電しつくした,その平板人間,脱落勧請の,或る
渡来人の一生。旅をして来たのだ。遠い,遠い神々の世から。
常世の国とは妙好人の郷。天然没して,参賀うしない,そう,

魅惑的な『天然のマカロンニーを茹でて,ガーリック・オイル。
ツナ・フレークを合わせてお醤油をそそぐ妙好人。』みんな,
みんなとそれぞれ違っているわけではないのだから,嬉しいし
そして悲しい。違いを見つけるほどの勇気もなければ,やる気も
ないので。

なんて言う『怒りの忘却』にいる妙好人たちの,そう,
そういえば初めてスパゲッティ屋さんで頂いたパスタは,なんか
茹で立てのスパゲッティに大根おろしとツナ・フレークを乗っけて,
それに醤油をかけるだけ。とゆうとっても高次の域に達した,
鑑の中のカガミとゆうほどの今でも真似できない姿だったけれど。
それは皮肉ではなくって,本当に人気のお店の定番メニュー。

ふと顧みて,妙好人レシピとゆうのは『考えない,流れに仕上がる。』,
そんな自然思想で,絶望の話のタネもなければ,多分もっと映るものには
眼前に楽園のような生命の木が建っていて。

今なら讃美歌のよさが,わかる気がする。その,
クリスマス・ローズの美しさのわかるように。



エンパス指向を取り除く,

おじいちゃんが,なくなった。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
自分に,嘘をつく,とゆう言葉がある。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
エンパス,とゆうのは共感癖のあるひとの呼称。
共依存とゆうのも,それに親いことを言うのかも。
平和共感作用のことを,ホリスティックに呼ぶ。
全体性,そのホリスティクス,普段問題はない。
けれど,エンパス(共感者)であると,問題は
葬式になど,でようものなら,リアリティのある,
参列者が,沢山の宇宙から訪ねてくる。たぶん,
自分に,嘘をつく,とゆう表現は,怒りの忘却。
葬式にさえでられない,こんな私の夕焼けの色。

『”愛”のために,葬儀にでるのか。いいや,”革命”の
 ために。』何だか,うわ言のように,ニヒルなメロディー。
今なら,シュタイナーの哀しみもわかる。ニヒリズムは,
業の湯浴みから,うちへ帰って,何故だか”怒り”のように,
発奮して,うち流すシャワーの水音の,業の泉の残滓。
アストラル領域とか,エーテルの四界とか,そのように。
波の音の,せせらぎに紅い海亀の”悲劇”や,そのような。
ゆくゆく,その業の領域を背負って,憤慨して還る,あの
イザナギの黄泉返りは,返ってきたとき,女神の顔だ,と。

おじいちゃんが,なくなった。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
自分に,嘘をつく,とゆう言葉がある。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
エンパス,とゆうのは共感癖のあるひとの呼称。
共依存とゆうのも,それに親いことを言うのかも。
平和共感作用のことを,ホリスティックに呼ぶ。
全体性,そのホリスティクス,普段問題はない。
けれど,エンパス(共感者)であると,問題は
葬式になど,でようものなら,リアリティのある,
参列者が,沢山の宇宙から訪ねてくる。たぶん,
自分に,嘘をつく,とゆう表現は,怒りの忘却。
葬式にさえでられない,こんな私の夕焼けの色。

身体の生命現象を抜く,

最近は,アーシングと言って,静電気を除く
ような感じで,身体の生命現象を抜くことが,
流行っているらしい。とゆうか,ぼくはそうゆう
風に,”生命現象を抜く”ものと,解釈している。
脱落,脱落。とは,禅宗のお坊さんは皆言うらしい。
『いま,ここ』なる,自己同一性に至るには,また
自然一体化か,自他同一性に到るには,もう,その
脱落,脱落。の”生命現象を抜く”とゆう作業が是非とも
必要らしい。アーシングの静電気抜き,とは脱落のこと。
業の泉,とゆうBlogを遣るさながら,そのネーミングだけで
世界は,水によって設計された建造物と思って頂いて差し支えない
お豆腐を作るのにニガリを入れるような,そんな建築物と思って
頂いて差し支えのない。『芸術に活きるか,概念に落ち着くか』。
冷静の中には,いつもアーシングのアース作用を見て取れる。
情熱のうちに,電気コイルから生まれる温熱線の輝きを知る。
『芸術に活きるか,概念に落ち着くか』。例えば,焼き菓子と
聴いて,ポム・ドなんとかとゆうカスタードの挟まった,お菓子
なのか,ガレットとかのパリパリカリカリ,さくさくっと,お茶に
合うような,そんな味覚を持つのか。

急に始まった,アーシングの身体的作用を思って,直接的に禅宗の
修行とゆうものも医療的には抵触しないと思われるの故。それは,
概念嗜好の問答も含まれているからこそ,禅定ならぬ,自己同一性と
呼ばれるその自然一体化のさなか,『いま,ここ』詰まりの,それは
自他同一性につづく道のりの上,ところどころに顔をのぞかす寝息吐息,
身体の生命現象を抜く,アーシングの静電気抜き,とは脱落のこと。
業の泉,とゆうBlogを遣るさながら,そのネーミングだけで
世界は,水によって設計された建造物と思って頂いて差し支えないから,
それこそ湯舟にニガリを漬け込んだようなデッド・シー・ソルト風呂を,
まずは水分抜きと,豆腐になって納まったつもりの白い豆腐料理のつもり,
お次のお風呂上がりには,身体から静電気=生命現象の抜けてゆく,これを
多分,”デトックス”と呼ぶ,硬水を呑むミネラル効用もそうゆうこと。そして,
そんなに業の泉で生きることが嫌なのかい?問われれば,問われるほど,
『芸術に活きるか,概念に落ち着くか』。地に足着けて,分るよ,解るけど
もう足元は全面死海の湖面なのだ,もう歩ける足元はない,…

IntuitionalTranfanction,

無意識に親い直感のことを”イントゥイション”とでも
呼んで,『直観形式』と言うことにする。転生の秘密,
とでも言ってもよいけれど。”イントゥイション”の日常は
書物の渉猟,『前世』ゲームとでもゆう,自己憑依的な
文学性であるから,詰まり文学とゆうのは霊的なもの。
神に還る,とゆうのは書物の渉猟で,文学的なものに,
他ならない。個性は直観形式に準拠してモラルを超える。

アナトール・フランス(ヴァレリの前のアカデミー・フランセーズ)
ーハインリヒ・フォン・クライスト(ヴァン湖の畔で果てた文人)
ーアランソン公(ジャンヌ・ダルクの支援者)
ークラウディウス(皇帝ネロの先代)
ーヘロディヤ(サロメの母)
ーモーセ(十戒の海を割り)

このような,連環を考えるうちに”イントゥイション”の嗜好は
ベルフォールのライオン像に到る。要塞都市ベルフォール,その
要塞の一角を占める”祈りの空間”が,ライオン像。何故だか,
要塞の主になった獅子の像は,”白鷺”姫路城の,お岩さんの井戸の
神秘的ひんやり感と酷似。幽谷に神を訪ねるような心地で,日常は
狩人が獣神パンを狙って,渉猟する,その間にミイラ取りのミイラ。
私自身の獣神になって還った,そのライムギ・パン種を心地よく。

そのような,芥川氏は,ヘロディヤの夫ヘロデの時代に還ったかのように
侏儒の言葉,フランスのエピクロスの園にオマージュを掲げながら,その
神に還った芥川氏は,寝枕に立ち,LONDON ONEに,サマー・ランドの
輝きを伝える。東照宮の天台香を愛でていたのは,持論の崩さない,
東照宮の横に,真言の密教書,あるいは源実朝歌集の常備してあった。
三賢バルタザアルの翻訳を芥川氏が担って,僕は,ヘロディヤの父親は
バルタザアルではなかったか。そんな漱石は実は,倫敦に向かいながら
フランスのジャポニズムを担っていたのでは。などと,芥川氏の仏文学の
少なからず漱石寄りの薫陶をにおわされずに居られない,文学性は,
神への回帰,そうして書物の渉猟,”イントゥイション”の日常。

無意識に親い直感のことを”イントゥイション”とでも
呼んで,『直観形式』と言うことにする。転生の秘密,
とでも言ってもよいけれど。”イントゥイション”の日常は
書物の渉猟,『前世』ゲームとでもゆう,自己憑依的な
文学性であるから,詰まり文学とゆうのは霊的なもの。
神に…

もちろん視線を強化しよう

FOOEATGOD=GOEATFOOD
LISTENEDTOMUSIC=MUSEDTOLISTENIC,
ラッキー・セブンと,幸せハッピー。
GO UP TO MOUNTAIN 47,

神を食べる,それは外食文化。
聴くこと,それは1%の霊感に。
エンパシーの共感作用が働く時代,
確かに『食べる』,より『聴く』。

神を食べる,とはいかがわしくも,
もともと『捕食』,『生殖』,『世界発展』。
これらの,異種交流が行われる際には,必ず,
何らかの『物質主事』,固形鉱石が必要。
むしろ,
これからの”聴く”,”不食”,”共感作用”が
世界を覆う時代には,プライバシーの観点。
それは,電話帳に知人の名前を書き込む。
9割方同郷ではないのだけれど,同居する。

FOOEATGOD=GOEATFOOD
LISTENEDTOMUSIC=MUSEDTOLISTENIC,
ラッキー・セブンと,幸せハッピー。
GO UP TO MOUNTAIN 47,

むしろ傷つけあうことはないのだ, プライバシーの必要な時代なのだ。 『聴く』ことは,『捕食の代用』に,

”愛”は,みつめる事へと昇華して。

前世もなくなるだろう,不食の時代。 エンパシーの故に,不食し聴く,その 世代は,永遠の生命。
外食文化は何処へゆくのだろう。もちろん, あり続けるそのまま。ただしもって, 音楽の楽しめる外食文化に進展してゆく。

”愛”は,みつめる事として,例えば, 前時代に『愛であった,欲求は,のちには 思考である,真実目線になっていった』のに, これからの プライバシーは,殊に真実目線を眺めやる, 概念思考に掛かっているから,
FOOEATGOD=GOEATFOOD
LISTENEDTOMUSIC=MUSEDTOLISTENIC,
ラッキー・セブンと,幸せハッピー。
GO UP TO MOUNTAIN 47,

神を食べる,それは外食文化。
聴くこと,それは1%の霊感に。
エンパシーの共感作用が働く時代,
確かに『食べる』,より『聴く』。

デッド・シー・ソルト,

死海の塩を分けてもらって,化粧水に,とか
つらつら,と実際的でないことを想いながら,
戴いたのを全部お風呂に浸かって使ってしまう。

耳から,水が抜けたような気がして,目が覚めた。
すこし湯舟で,うつらうつら,としていたようだ。

リンパ腺の腫れやすい体質をしていて,右の顎辺り,
いつも腫れるのだけど,それを改善しようと,ずっと
試行錯誤”思考癖”まで変えようとしていたところ,その
たちどころ,まぁ締めくくりみたいな感じと言いたいけれど
『体質改善』してしまった?のだろうか,とゆうくらいに
耳から水が抜けた。浸透圧の加減はあると思うけれど,
温泉などと比べても,マグネシウム率を高くできるし,多分
身体から,耳を抜けて,滞っていた何かが抜けるのだろう。

『化粧水に,』とゆう野望は捨てきれない。塩分だから荒れる?
そうは想いながらも,いやいやミネラルの高い分,もっと何か,
シア・バターなどと混ぜれば絶対いけるはずだ。むしろ,食品の
ココナツ・バターの方が良い。直感的にそう思う。だけれど,
その嗜好の最中,死海塩を食べてしまいそうで,大丈夫なのか?
と独りで,悶々とする。なぜ死海の塩なのか。そう考えもする。
ただニガリで良いではないか。それが天然だから,とゆうのは。
やはり『人間性』とゆうものに親い何かを,『自然天然性』は
地球のうちに抱いている。

逆説的に言って,『耳より水の抜けて,”思考癖”が変わる。』と
ゆう,奇妙な現象も感じられないわけでもない。それは,”思考癖”
ってゆうのは。むしろ,”癖”を持っている,のは”水分”で”自然の中”で,
頭脳は,”思考”や,”癖”があるものでない,『思考するのは”水”だ。』
とゆう,一風変わった趣向に陥る。その最中,では次のステップは?
今まで果敢に排毒に努力してきた分,なにかにトライしたいらしい。
多分,感受性はより空気に親い,”Mind Of The Air”と,
換ってきているので,その過程によっていろいろ視てみると良い。と,
自分に話しかける,もう”水分”は隔絶して把えたい,そんな心情はある,
あるけれど,『空気には,話しかけたい。幼かった頃のように。あの,
煙突のけむり,ガス臭さ,ひんやりした風に,話しかけたい。』そうして,
また,のん気にお茶をすすりながら,嘆息をつくのである,まるで,
冬の陽の過ぎ去ったかのように。

死海カワウソ。

デッド・シー・ソルト(死海塩)を入れて,
お風呂に浸かる。
『概念で人は生きてる,』って。
思いもよらずエモーショナルな排毒が,その,
概念で人は生きてる。って,言い放つさなかに,
情緒の動き出す。『…エモーションでは生きられない。』
思考vs.情緒のはざまで,お風呂のまどろみを,
繰り返しながら,エモーショナルな満足な時間を
過ごす。『実は,エモーショナル中心の世界にあって,
俗語のように”概念”は排斥されている。故の業の泉。』

環境問題から言って,人間は動くことすらできない。
これは,断言できる。濃密な死海の中を漂う現代文明。
思考はエネルギーを持ち,エンパシー(共感性)の
作用する,反作用で返ってくるアンティパシー(反感作用)の
世界は完全に塩基の海へと還った。だから,俗語のように,
”概念”とゆうキーワードを用いるそれは,アイデンティティ。
また,個我,また左回しに淹れる珈琲の僅かばかし右回しの
安堵の時間。環境問題は,”全体的に考える”って課題を戴いた
人間の身体に,いや応なしに『全体性の烙印』を押し付けて。
その,全体性思考には,共感作用を分解して冷静にものごとを
見詰める,そんな時間は与えられない,責任感?自己はそう感じる,
だけれど,押し付けられた課題を拒むことなしに
遂行させるテクニックを,『地球』は持っている。…全体性思考。
『課題として,』とは言うけれど,”受け容れた”時に,修了する,
”受け容れた”とは逆説ながら”合格”の時。『地球のいびき』,
『地球が眠っている』,はたまた,休息時の安心感。
『目いっぱいに休息する地球意識』の突きつける”課題”。

…環境問題から言って,人間は動くことすらできない。
これは,断言できる。濃密な死海の中を漂う現代文明。…

…デッド・シー・ソルト(死海塩)を入れて,
お風呂に浸かる。
『概念で人は生きてる,』って。
思いもよらずエモーショナルな排毒が,その,
概念で人は生きてる。って,言い放つさなかに,
情緒の動き出す。…

また,お雛壇の香り。

基督も,影のロジックも,牛頭大王も,
犠牲の愛も,芥川文学も,神的全体性も。
みんな,繊細さのコミュニケーションから
人間社会の発展,歴史は,おんなじだ。
結局,犠牲から全体性への道をあゆむ。
INNER NETとは聴くけれど,もう,
集合意識への進展と聴くけれど,それは。
愛とゆうものが控えめなコミュニケーションから
始まり,控えめなコミュニティ全体へと結ばれる。
牛頭大王や,犠牲などは影の論理などとは呼ばれ,
邪宗門のイメージ高いけれど。それは,”愛”とゆう
当然の控えめなコミュニケーションから始まる。また,
神的全体性とは環境を包括して,コミュニティへと。
春の疼きに従いながら,咳や鼻をぐずらせながら,
身体中がぐるぐる。巡回しだしたなら,それは,また
コミュニティへの,全体性”夏”のコミュニケーションへの
始まりに立っていて。早めに外の世界への視線にシフトし,
全体性=自我内面だったもの,それを全体性=世界への視線に
シフトし,岩塩をなめるような段階へと野性の毛皮へ,と
野生動物のもつ酵素や,全体性への入口をそこにみるなら,
春の季節の持つ酵素を,存分に取り入れて,野性を身体に
取り込むその処世術は,四季の世間,外部の世界へ,と
中華料理に特有の豚の天ぷらなどの処方箋レシピを用いて
夏の夜まではゆかないまでも,季節の変化に身体を合わせて
野性への道,野生動物への精神体質変化を指向する。その,
蝋梅も散って,アネモネ早生,また桜など咲きながら,クチナシの
ひろがる頃には,時雨どきに,湿り気の嗅いで,庭先の
全体性を感じよう。

ぐるぐる循環,

いままで,身体の中をめぐる,ぐるぐる。
循環して,感情体の,ぐるぐる。インナー・チャイルド,
そう言って,芥川さんの『希望』,あの天照さんだ。そう,
思って,新潮文庫の『河童・或阿呆の一生』の装丁は,また
ほんとうに芥川の追悼になっている。持っていないけど,
いつも感嘆して,眺める『河童・或阿呆の一生』。
岩波文庫の『侏儒の言葉・文芸的な余に文芸的な』の装丁も
また,その並びにしても,とっても読みたいので,あまりに
持っていないけど,そうゆう並びに装丁にも感嘆する。
武士感情とゆうのは,無配慮に思えるほど,キリストの
クロックムッシュの愛とは違う。クロックムッシュの愛とは。
戴いた日帰り温泉のチケットを持って,大きな旅館にゆき,
浸かっていると,もののふの牡丹鍋にしても,無感情的,何と
語彙を持たないのだけれど,そぎ落とされた精悍さ。それは,
クロックムッシュの愛とは違う。武士感情と言えど,”感情”はない。
そうゆうもののふの感情論を思うに,それでいいのだ。例え,
知性的に過ぎる,白黒感情が,恬淡と無感情からくるとしても,
その無配慮とも言える,思考自体の精悍さ。こうゆうもの,その
怜悧な感情に魅惑的にクロックムッシュ生産者の影をみる。
だから,高脂血症の誘いに,現代版”愛”を被せたとして,それもまた
感情論のうちに『神秘家志望』を掲げたとして。自分の中に,世界。
そう諭されて,神出鬼没への道。記録する媒体はコマ送りになる。
内面への旅は,記録する時間や人生をなくして,だからこそ,その
わかりにくいかもしれないけれど,牡丹鍋の無配慮武士感情。世界を
みれば,自分がみえる,ともR.シュタイナーの遺した言葉に興味を,
R.シュタイナーは,何を目的にしてなのか『内面への旅』へと,その
『神秘家志望』へと,現代版”愛”へと,神出鬼没の没我へと誘う。
けれども,その影の論理はまさに,真理を語っていて,内面に真実。
だから,武士感情の,世界をみるとき。そろそろ,っと目覚めの,
明るさ。伝教大師も,頼朝も,家康公も,道長さん,芥川の天照神も
世界をみるすすめを諭しているから,『文芸的な余に文芸的な』。
めざめは,クリスティァンにないとしたら,それは武士感情に。また
それは,世界をみることに崩壊を促す事よりさらに上回る発酵現象。
確かに『西洋の中の東洋』とは,また『内面の間の世界…

Anatole Japon POESY

クラフト性=ものづくり+効率化。
クラフトは,ものづくり性より 情熱を差し引いたもの。
全体性は, 情緒=感情+情感の機微。 珈琲を淹れる事さえ工業性を 担ぐ事だと,自負する私は バスにも車にも乗れず,工業的に 働く事のできない。悲喜感情の 『質量保存法則』。
足せば差し引かれ, 引いては,pushされる。 加減乗除とはそういった, 乗除の方はとゆうと,よく わからないんだけれど,ただ 電気を消せば良い訳でも なくって,ドリップするには しっかり灯りを点けて,豆を 見ること必須。乗除と ゆう掛ける,割るに至って, 哀切と諧謔とゆう2つの ”ユーモア”を知る。
悲喜感情の『質量保存法則』からすれば 喜ぶことすら,腫れものレベルで。 ほんとうに,それは喜ぶ事すら, 腫れものレベルで。ほんとうに,
グラウンディングするなら, 悲しむ事より,喜ぶ事すら, 腫れものレベルで。

ラム・ダークを漬けよう

あながち”わが友ヒットラー”の,三島文学と
違わないこともない,諧謔は哀切と相まって,
それは”諧謔”そのものである。とにかくも,
”諧謔”は悪いわけではないのだ,歴史は全体主義の
そのまま”俯瞰”とゆうやつだから。間近に目を親く,
見てごらん。小乗も大乗も仏教にも性格にもなく,
プロフィールとプライベイトのあいだには,とくに
垣根を持ちたくはないのだけど,”常識”は,それを
常に歴史に造ってゆくから。悪があるとゆう,それは
”諧謔”よりのプライベイトに違いない。そうして,
めざめのあるとゆう,それは歴史の中にプロフィール。
そねみから,ヘロディヤは歴史を切ったとゆう。それは
サロメーの前に現れる”ヨハネ”のかんばせとして。
フランスの文化は,サロメーを描いた。そねみとは,
”諧謔”であった,全体主義とは,哀切でもあった。また,
酒粕を口にして,これが甘酒となるとゆう発想に,それは
お昼の嗜好になるとゆう趣味指向に,何故とやら,もう,
発酵の中には,ピリリ,としたそうゆう外側への開口しか
ない,とゆうような開口発想。

祈りは発想として概念の半回転へと導くだろう
半回転するの,人間ではなく発想そのもの
甘酒を口にして,呟くのだ。『開口一番,』。

プライベイトには,通奏低音のような,発酵が脳内の
すみずみまで拡がっている。
プロフィールとしては,祈りの発想を,概念の半回転まで
持っていこうとする。

ヘロディヤークラウディウス

ーアランソン公ークライストーアナトール・フランス。

純粋な上に,セネカを家庭教師として世話したクラウディウス。
(厳密には違わないが,)彼らは,”ヘロディヤ礼賛”とみても,
よいだろう。クライストにいたっては非業の死を遂げ,もう,
アランソン公の眼差しと言ったら,非業どころかミステリアス。
クラウディウスと同じくジャンヌを支えたアランソン公の,非業。
R.シュタイナーも,またユング派のヘッセも,抒情どころかまた,
言い過ぎる,厳密に。また精確に。ここが,ずるいところだ。もう,
ずるいところしかみえなくなるこんな,”諧謔”をもって,平和や,
全体性の思想へ行きつく。全体性とは純粋さゆえの傷痕。それの,
”諧謔”じみた全体性。それを,自然一体化と,俗悪と,泰然自若と
呼ぼう。

パンが発酵して,プツプツ,プツプツ揮発音を出して,パン種から,
パンになる…

芥川に対峙せり。

どうも,寝枕に芥川さんと東照宮をみたのを
きっかけとして,或いは,お風呂場に,また
バプテスマのヨハネの首が浮き彫りになった壁。
その当時,修道院のような祈りの暮らしを,
思春期は送っていたが故の,アナトール・フランス。
アナトール・フランスは念頭に置いて話したいのだけれど
バプテスマのヨハネと言えば,首を前にするサロメー。
サロメーの父と母は,ヘロデ王と,ヘロディヤ妃で,
僕は,勝手にそれを,芥川とフランス=ヘロデとヘロディヤ。
対照的にタッグを組んでもらって対応させている。
天照さんはまた,芥川の神さまと思っていつも感じているは
いいものの,どうもその芥川氏とゆうのが活きているのなら,
とっても謎めいた『希望』なのだった,王さまと言えば,
そんなもの?凛として,飄々とどこ吹く風,また輝いている。
王さまに支配された,国とゆう詩情は,やっぱり従属に変わらない,
そこがヘロデのずるいところだ。希望を持たせて,従属させる。
当たり前なのは,支配とゆうのはそうゆうもので,希望なくして
実に従属はあり得ない。むしろ言葉が間違っていなければ,
従属とゆうのは,希望を持った詩情,と思わせて『被支配』,
こんな,『従属=希望』的観測を,芥川氏に至って対峙する。
何とゆう,支配からの脱出は,龍馬の脱藩の末路。希望とは,
支配されたことに気付かない,『希望』なんとゆう。そして,
為政とはそうゆうものを言って,また『希望』のない所にて,
脱藩のあり,革命のあり,劇死的な発想のあり,『希望=脱死』。
希望に替わる自己支配的自己,自立支配的自我,何かある?そう,
芥川は,『河童』とゆう作品を奇しくも遺して死んでいる,そう,
カワウソと河童は何時も死闘を繰り広げているとゆう,地底の国で?
カワウソと河童の領域の丁度まんなかに立って,こう言うのだ。もう,
河童ありや,なしや。カワウソはありや,またなしや。そうして,
自立した,地底と天上のあいだ,独白と善良のはざまにて。それら,
龍馬はきっと,桂さんに沖ぶりの塩焼きに眠り薬を呑まされて,その
船上で揺られながら,LONDONの調べを聴いたに違いない。そして,
LONDON ONE,額に傷を負いながら,『則天去私』の理想を授けて,
漱石に歓談しLONDONで笑顔で微笑む龍馬の姿を”想像”するのだ。
まさに九郎義経のジンギス汗伝説のような語り方…

アメノタヅクリ・アナトール。

インナー・チャイルド,とゆう哀しい響きの
心理学用語の,とある,アメノタヅクリなんて,
茶化して,茶菓子のように,お茶の間のつもりで
インナー・チャイルドの心の扉を開けてみる。
パンドラの箱の話は,何だか,ややこしくって
よくわからないのだけど,多分『希望』とゆうものが,
あるから,あるからこそ破たんの起こるのではないか?
そんな,健康や,はつらつとした精神が,混乱するその,
混乱するその,何らかの発端になり得はしないか,と
そう感じて,インナー・チャイルド論を解いてみたい。
肩の凝りなんか,取ってみると,自分の中に,ある悲惨な
ヴェールが心の蓋をして塞いでいるのを,何か気付かされる,
それは,馬刺しを頂いた時のカルチュア・ショックに親く,
優しい知性が,砕かれる何らかの哀しみに親い。

そんな中,そうゆうヴィジョンが僕に何らかの関係があるのか,
そんなことを巡らし,記憶の氾濫を泳いでいるうちに。何故か,
『希望』の碑が立っているのに,しずかに驚くのだ。彼は,或は
彼女は,天真爛漫に無邪気に高原を走っている,そのままの姿で
駆け回っている,嬉しいのだろうが,本当にポジティヴの一語。
心の中に,こんな高原は広がっているものだろうか?多分,これは
インナー・チャイルド。高原に集う神さまたち。

『天の岩戸開き』とは,ひとりひとりにできる。って,
本で読んだことがある,はて,高天原?その姿は心のうちに,
見つけられたのだけれど。問題は,僕はもうワクワクとかのその
燃料は持ってなかったくらい暗い。悲劇的だけれど,高天原を
心のうちに見つけて,光の強すぎる所に影ができる,とは。って
ワクワクとゆう感情は世間では激しいパチパチのように感じられる
花火の手持ちで,見るだけで熱い,あつい。あの,そんな発光。
だから,『希望』が爆発しやしないか,なんて考えているのだろうか,
僕たちは,殻をかぶったインナー・チャイルドの,その輝きに,ふと
気づいた時,どう対処していいのか,わからなくなる。どうして,
『希望』のインナー・チャイルドが生まれるか。それは,逆にして
影が深すぎるからだ,とゆう大人は影引いて,ドキドキしないから,
もうすぐ花火は挙がるだろう。花の香りに,豆の産地を訊ねるように
珈琲を掲げながら,胸の『希望』を,そわそわと,差し引いてみる。
もうすぐ花火は挙がるだろう。花束を持っ…

アナトール・ハポン。

エクリチュール,信頼の置ける自分の頭脳を,
わずかばかし,遺っている頭脳の中心に据えて
エクリチュール,信頼の置ける文体をものに据えて,
すこしばかり,嘆息を衝く余裕のあるならば。その
世界はひたすらにせつなさにあふれている,そんな。
嵐のせつなさにひたされて,その感性たちは,その。
嵐の中の小枝チョコのような。定番お菓子は,嵐の
せつなさにひたされたチョコの味。

緊張するのは,マイナスにしか働かない。ただ,その
マイナスに働く緊張感が,世界に満ち溢れて。そうして,
緊張せずに,緊張感にひたされるとゆうことは可能?そう,
緊張感とゆうのは業である,劣等感はそこから産まれて,
緊張感は,差別や,格差や,孤独。閉塞感から孤独。もう,
孤独は業の結果である,そうして,緊張感は業である。
緊張せずに,緊張感にひたされるとゆうことは可能?また。
パイプ・オルガンはチャペルに響き渡るけれど。そうゆう
教会の音楽に太陽神経叢まで震わせて。そんな緊張感は
例えば。せつなさに満ち溢れて業の泉にひたされた感性。
そうした昼寝する感性。そのストーブの赤々とした感性。
抑圧の中で満たされた暖かさに欲求を託して,また今度,
熱の中に微睡んでいよう。

エクリチュール,信頼の置ける自分の頭脳を,
わずかばかし,遺っている頭脳の中心に据えて
エクリチュール,信頼の置ける文体をものに据えて,
すこしばかり,嘆息を衝く余裕のあるならば。その
世界はひたすらにせつなさにあふれている,そんな。
嵐のせつなさにひたされて,その感性たちは,その。
嵐の中の小枝チョコのような。定番お菓子は,嵐の
せつなさにひたされたチョコの味。



隔世の観点。

『マンネリズム発酵温』によれば,そのまた。
ツルゲーネフ=クライスト=シェイクスピア,
ヘミングウェイ=A.フランス=トーマス・マン,
これらの関係系譜による『白い獅子,』の観点。
隔世の観点,とは,覚醒の視点でもあって,また
そのうちやってくる,朝の目覚めのような感覚を謳う,
常温で,つまびらかに適えられるぷつぷつ,としたその
例えば耳の詰まっているような時でも,運筆はする。
『マンネリズム発酵温』によれば,そのまた。
ツルゲーネフ=クライスト=シェイクスピア,
ヘミングウェイ=A.フランス=トーマス・マン,
これらの関係系譜による『白い獅子,』の観点。
いつも”みたま”のいるような,と事付けられる視点を,
どうして,いたって追いかければ,追い抜かれる。
そこに創造性は居ない。けれど,詩性の囁きのあるだけ,
囁きは自分自身だ,などものするほどに,追い抜かれる,
結局”みたま”に追い抜かれた後の『私たちは,』もぬけの殻。
もうすこし,その殻をさぐってみよう,そうゆう試みに,
古代の史跡調査のような心地で,今までまぁどこの誰かの
居た形跡とやら,もうそれは今となっては題材が題材なだけ,
考古学と言っても過言ではあるまい。調査開始。あなたは,
(尋問のよう,)どなたなのですか?
ーBird Cageさ,
(謎に思って,)鳥かごさん,ですか?
ーだからBird Cageさ,
(鳥かごさん,か)では,誰に飼われて?
ー教えない,Jackと豆の木さ,
(多分,Jackさんだな?)では,どうして?
ーBEN REDに食べられたのさ,
(かごの中の鳥さんが,)どの鳥さんだ?
ーFOOEATGODさ,
(神を食べられたのだな,)ありがとう,
こんな説話めいた会話を調査対象としているうち,
LONDON ONEとはまた,大それたネイミングをしたもの,
嘆息を感じながら,漱石が彼の地で感じた倫敦は。やはり,
『マンネリズム発酵温』によれば,そのまた。
ツルゲーネフ=クライスト=シェイクスピア,
ヘミングウェイ=A.フランス=トーマス・マン,
これらの関係系譜による『白い獅子,』の観点。
3者の”みたま”は途方もなく文学とは言えない,それより
確かに『大学』であって『教養』であって『知恵』のもの,
鳥かごに取り囲まれた文学,日本はバルタザアルを訳した,
芥川先生より文学を興して,きっと…

取り込みする春。

『マンネリズム発酵温』,そんなことを感じながら
過ごす,虫の音の蠢く地鳴りの春を感じながら。
例えば,善も悪もないのじゃないのか,例えば。
嫌いの反対に共同のあるのではなくって,それは,
生命と,こちら側の自分。生命は涌き出るのだ。
それは,量子的な生命で,虫の発端は,
全て善だから,量子的生命を嫌うのでない,春の
その訪れに一緒に同化してしまうのだ蠢く春。

胸腺の疼きは誰かしらあるのかもしれない。その,
感情の涌き出る発端は,桜の森の満開の下に,
蠢く春の訪れ。お茶をすすって,物語り聴く所の
桜の森の満開の下。途中までは,安吾の人生を
追ってしまったのだけれど,途中からは,まるで
別世界に,『根の堅洲国』の古事記物語に
旅したような模様で,まさに地中に蠢いた蝉の幼虫。

『地底世界は,どうだった?』
ーあぁ,業の泉があったよ。
『どんなもの?』
ー夢の世界さ。
『お土産は?』
ー地底世界そのもの。

『マンネリズム発酵温』,そんなことを感じながら
過ごす,虫の音の蠢く地鳴りの春を感じながら。
例えば,善も悪もないのじゃないのか,例えば。
嫌いの反対に共同のあるのではなくって,それは,
生命と,こちら側の自分。生命は涌き出るのだ。
それは,量子的な生命で,虫の発端は,
全て善だから,量子的生命を嫌うのでない,春の
その訪れに一緒に同化してしまうのだ蠢く春。

量子生命=蟲の神=宇宙発想。などの,
あるとしたら,ある意味は宇宙人の侵略は成功?
しかしながら成功の上に進歩もあり,自他共に,
共に生きる,初めての公共性なるもの,ここには
ありますよ,とゆう,フランスでは一時期胸腺の
摘出を試みた歴史があるとゆうし,胸腺は感情の源泉
愛のみなもととまで言われるけれども。そことここの,
生命とこちら側自分の,知性と愛の,そことここの,
一致点と言えば,自他共に,やはり春の訪れにみる,
蠢く春の量子的生命,取り込みする春。



申すところの正直,

お寿司のネタは,脂の載ったトロでなきゃ,
そう言っているほぼ半数近くのひとは実は,
ネタがなくてもやっていける天才ばかりだった。
天才とゆうのはグルメー,またネタがなくっても
やっていけるとゆうのもグルメー。グルメー指向が
目指すもの,それは糊とミネラル水のあの,指向。
とくに,貼りつけるために取っておく必要はない,
ないのだけれども,わたしたちを貼りつけて止まぬ,
あの糊とミネラル水のグルメー。出たとこに,出た。
道は続くとゆうより歩いてる。歩いているより,時間。
時間とゆうより,大地。もちろん,大地よりの”無”。
道のない所に”無”あり,ここで,”無”とゆうのは,
”無意識”や,”夢”に親く,その位置と言えば,また
数学の思考に親い。いつまでもその知性に佇まえたら。
そう,思っては,業の泉にぶり還る。いいや,もう。
知性の限界とゆうものにぶち当たって,花火となる。
花火っても,業の泉に沈んでも,たどりつくとこ
いつまでも,自他の共にあるとゆうだけなのだから,
いいや,それがもう自他共にあるとゆう,感覚。その
感覚ひとつでどこまでもいける。これが,『自他合一』
の,業の泉”KARMA SPRING”のブログの第一義です。
羽ばたくのなら,地を這って。跳んでゆくなら,翼なし。
歩いて往けば,朗々と。地を這ってでも,翼なしでも,
同じこと。第五朗々,タフネス洋々。タイガは霊的ツンドラ
なれば,この方と一緒に往きませう。そのようにして,彼は
そう,彼とゆうのは草むせび泣くツンドラに,佇まえたら。
そう,思っては,業の泉にぶり還る。いいや,もう。
知性の限界とゆうものにぶち当たって,花火となる。
花火っても,業の泉に沈んでも,たどりつくとこ
いつまでも,自他の共にあるとゆうだけなのだから,
いいや,それがもう自他共にあるとゆう,感覚。その
感覚ひとつでどこまでもいける。これが,『自他合一』

諧謔の限界性スパイラル,

一足おそめのブランチを頂きながら,
限界性をみる,我がペーソスに舌鼓する。
詰まりは,ナポリタンも食べて,そのまた
ミルクフランスも,そのミルクフランスとゆう
名前は,町の写真などに,プロムナード的発想が
あれば,題名”ミルク・フランス”とでも掛けて,
置いておくと良い。そういえば,概念とゆう,また
概念だらけの若い自分の脳髄に,”強迫観念”とゆう
ネームプレートを掛けて,置いておいたら,
シンドロームさえも薬にしようとして,概念さえも
なくてはならない,身体さえも,その生活さえも
なくてはならないのに。『概念さえも,』。

一足おそめのブランチを頂きながら,
限界性をみる,我がペーソスに舌鼓する。
詰まりは,ナポリタンも食べて,そのまた
ミルクフランスも,食べてはならないのに,
頂こうとする。もう,食欲があるとゆうのは,
強迫概念ならぬ,強迫グルメー。ああ,いいや,
ただ,三面六臂として活躍できる前兆なのか?
諧謔の限界性とは,当然のように,全てを必要として
強迫観念とも言われる概念グルメーに陥った後,何も
反射神経的に,サイキックに対処してしまう癖を,僕も
持ってしまった事で,サイキックとゆうのは,きっと,
自他融出とでもゆうべき感覚なのだけれど,それはまた,
印度の後裔とも呼ぶべき段階なのであって,何にでも,
当然のことわりなどと言うものはあるのであって,それは
世界との出合いによって,ひとは輝きだすのであって,
輝きだすとはスパークする,そののち果実となる。ので,
あって,だから,世界はひとを,サイキックにする。その
サイキックは諧謔の限界性,

何も反射神経的に,
サイキックに対処してしまう癖を,僕も持ってしまった事で,
サイキックとゆうのは,きっと,自他融出とでもゆうべき
感覚なのだけれど,それはまた,印度の後裔とも呼ぶべき
段階なのであって,『きっと,”表現よりも豊かな表現”,
それは,”インドアよりも深いインドア”にあって,または
皆の自ずからとゆう,”概念は,きっと半回転する”』。
物事をみる視点に”偶”の視点は常に叫ばれる所だけど,
反対をみて,また裏返る,そういった視点は,もうまるで
必要なくなる,なぜかと言えば,”概念の半回転”によって,
『諧謔の限界性』にいたるから,それは『きっと,
”表現よりも豊かな表現”,それは,”インドアよりも
深いイ…

諧謔と全体性。

”代償と全体性”,とは言い換えられる。
その,『ユーモアと,ペーソス。その,
ペッパー・シンケンと,アメリカン珈琲。
そうして,キジトラとサバトラ白。また,
ホワイト・ラムレーズンと,グリッシーニ。』
”代償と全体性”とは,言い換えられる。
『神の祈りは,世界への呪詛に親い。』そう
この,諧謔と全体性。

また,そうして。『左回しの珈琲』を淹れる。
呪詛を放って,ドーパミンをベータ・ヒーリング。
世界に出逢うのは,そのなかに没入すること,その
感情のすべて。集合意識とやらに没入して。そのまた,
気づくのだ。
『諧謔とゆう,ペーソスを,ユーモアによる全体性で。
アメリカン珈琲とゆう諧謔を,全体性のペッパー・シンケンによって。
キジトラ猫とサバトラ白猫の代償と全体性を眺める,
ホワイト・ラムレーズンのレシピ,ギャグとは言え,
逆に真剣になって,グリッシーニのセットにする。』
呪詛を放って,ドーパミンをベータ・ヒーリング。

”代償と全体性”,とは言い換えられる。
その,『ユーモアと,ペーソス。その,
ペッパー・シンケンと,アメリカン珈琲。
そうして,キジトラとサバトラ白。また,
ホワイト・ラムレーズンと,グリッシーニ。』
”代償と全体性”とは,言い換えられる。
『神の祈りは,世界への呪詛に親い。』そう
この,諧謔と全体性。

世界に出逢う没入しきる,その中で祈るとは,
適応規制でゆうと,”代償”に過ぎないのだけれど。
しかしながら,世界が”愛”であるとゆうのは間違いない。
けれども,”愛”と”全体性”を結びつける,或いは,
”世界”と”全体性”を結びつける試みは常に失敗している。
愛=全体性。また,祈り=諧謔。として,祈り≒愛と,
仮定して,呪詛を生きてみてはどうだろうか?それは,
全体性=愛=世界,を生きる上で,諧謔=祈り=代償の
行為の結果であって,幸せとは,そのまま呪詛をしかし,
受けいれる,『諧謔と全体性』の生活の勧めとしては,
そんな,諧謔する全体性です。

KARMA SPRING COFFEE,

勢いの余るときに,業も,命も。 KARMA SPRING COFFEE,それの。 『左回しの,珈琲』。例えば,現象で 理解しかできないことがあるものだから, 現象では,理解できないものは何もない, 『霊(Geist)の裏に,届かない所に現象界,』 とは言いつつも,現象で理解できたときの,その 喜びと言えば,例えようもない。
POLO RALPHLAWRENのブティックのたちどころ, その業と,命を一緒にドリップしているような。 都市には,妖怪のたぐい,さまざまに居りましょう, 寒々とヒステリクスは,『業に出会えば,命は多分, 拒絶されるものなり。拒絶されれば,おののくなり。 おののけば,発憤する,嗜虐的になり,枯れてゆく。』 妖怪の道は,気分屋とヒステリクスの交互発露,とは POLO RALPHLAWRENのブティックのたちどころ, その業と,命を一緒にドリップしているような。 都市には,妖怪のたぐい,さまざまに居りましょう,
勢いの余るときに,業も,命も。 KARMA SPRING COFFEE,それの。 『左回しの,珈琲』。例えば,現象で 理解しかできないことがあるものだから, 現象では,理解できないものは何もない, 『霊(Geist)の裏に,届かない所に現象界,』 とは言いつつも,現象で理解できたときの,その 喜びと言えば,例えようもない。
KARMA SPRING COFFEE,しかしながらも 現象で理解するとき,ヒステリクスは瓦解してゆく。 エンパス,INNER NET,WEB=蜘蛛の糸。その ヒステリクスと拮抗する,命の讃美は,このような KARMA SPRING COFFEE,ヒステリクスと,命の 勢い余って,一緒にドリップしている,そのような。 ヒステリクス=命の=珈琲。
『霊(Geist)の裏に,届かない所に現象界,』 とは言いつつも,現象で理解できたときの,その 喜びと言えば,例えようもない。




全体性の轍。

トーマス・マン,ゲーテ,ミケランジェロ,
シェイクスピアー,ギョーム2世の征服王。
昨夜は,僕は,これだと,そう思ってた。
夜半には,ドーパミンが出尽くしているから,
ベータ・ヒーリングで,そんな風に思うのかもしれない。
朝方になると,目が覚めて「眠りの学校」より還り来る,
自分の清浄な教育を受けてきた,清純な感性は,まさに。朝が来て,鏡の前に立つと,全体性の轍を探して,まさに,
「お前は,誰だ。」と,突き詰めて問いかける。まさに,
突然に愛はあるだろう,目下のところ阿修羅神像のような,
無感性のうちに残酷性も厭わない怒りの愛もあるだろう?
情熱を隠している,我が国では情熱に条例が掛けられて。
禁止事項に,「残酷な愛」。この,情熱の感情は,どこから。
そんなヒステリックな情感の豊かなニヒルな可愛らしさを
「お前は,誰だ。」と,誰から頂いた。突き詰めて,その
全体性の轍を探してる。紋様のマーブル紙は,昔っから
好きだ。幼少期に何度もマーブルにはやられてる。そんな
何かしらウルトラセブンのマーブルのような世界には,
いっつもやられてる。酔いたいのなら酔えばよいものを。
禁止事項に,「マーブルの愛」。我が国の条例で課せられて,
我が国なんて,メラトニックな太陽精神の残滓スラグの,
本当の美しい国のことではないのだけれど,先入観念とゆう
そんな言い方があるにして,思春期の愛,マーブルの愛が
遠く,あの「美」にあたるとゆうのに,
酔いたいのなら酔えばよいものを。トーマス・マン,ゲーテ,ミケランジェロ,
シェイクスピアー,ギョーム2世の征服王。
昨夜は,僕は,これだと,そう思ってた。
夜半には,ドーパミンが出尽くしているから,
ベータ・ヒーリングで,そんな風に思うのかもしれない。
朝方になると,目が覚めて「眠りの学校」より還り来る,
自分の清浄な教育を受けてきた,清純な感性は,まさに。全体性の轍は,「狂気」また,「情熱」そのまた「文学」の
道程をあらわしている。文学は,情熱から来たりくる,その
狂気の特性をもって。情熱情熱,それで。狂気がそれ自態と
なれば,文学になる。その情熱はロンドンの塔に眠る,その
狂気のシェイクスピア悲劇に万年筆のインキ。
政治犯,とゆうのは如何な者か?
思想犯とは,ゆうものの
「狂気の愛」の,「マーブルの情熱」,「青春の文学」を
侵犯した者。また,そ…