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DingDongいこう!澄角堂まで。

堀辰雄氏の傷痕まで,それを切なく,澄角堂まで。
呼んで,願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。

など,DingDongいこう!澄角堂まで。とをば,いわく。 甘いのがほしいな。口のさびしくなって。そういって,
皮つき裂きイカを頬張って,ちまちま,それで,いいや。 あと,烏龍茶ブレンドのホットティーを頂いて,そうして。
澄角堂とは,堀辰雄氏の芥川先生より夢枕に貰った号名の, そうして,彼は,風立ちぬの舞台で陽を浴びた陽転された,
芥川氏の麦藁帽をみた。そうして,堀氏は,織田信長の頃に
更に芥川氏=竹千代の時分であった,恵比須顔の東照宮をも

夢見に現れたのを,みた。こんな空想を考えては,澄角堂。 さらには,いつも神功皇后女神と,武内宿禰祖神の対照で。
堀辰雄氏の傷痕まで,それを切なく,澄角堂まで。 呼んで,願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。
願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。とをば,いわく。 山中鹿之助幸盛公の遺した名言ではあるのだけれども,そういった, 蕎麦の割子にドジョウの形でネーミングされるような幸盛の蕎麦の。 死霊を描かれた大作家の陰や,薔薇刑を撮影された大写真家の影像を 考えては,こういった武内宿禰の神のような祖神の例えば,蕎麦を 啜る,そのドジョウ蕎麦の七難八苦とは,それはホムダワケ!と叫ぶ, 彼らの中心の神さま,ルーアンの丘を顕された狐狸庵周作先生のような 織田信長=堀氏の,東照宮=芥川氏の対比に,神功&武内宿禰&誉田別の 関係性に及ぶあの,埴谷せんせいや,薔薇刑撮影写真の,ルーアンの丘, ここに,切支丹の苦しみの突端は中心に三島文学を据えて,轟音を鳴してる。
堀氏の切なさには,織田第六天=南洲翁隆盛=三筆嵯峨天皇の=平清盛, =フビライ汗のように本当に切ない傷跡を抱いているので,破傷風や風疹の ような辛いdetoxの必要とされる,あの特効薬に葛湯などをのんで,癒す, セロトニン・シータヒーリングに合うよう眠りにまどろむ精神的治癒の陰。 こうして,サイケデリックに非シンパシーを感じるような精神台風嵐の轟きの ある,とある,精神的治癒の陰に轟音を以て鳴らしまくる仏法僧のホムダワケ! この,緊張の轟音には密かにヒッソリ,切なさの白いセージを摘んでセージティー。 本当は,騒がしい何のノイズも要らないのに。そして可愛らしくセージ摘み。

真実さぐりあてるは信玄墓。

川端康成=宮本武蔵=武田信玄=法然和尚の純和系譜を辿るのに,
それはA.フランス=クライスト=アランソン公=クラウディウスの
ヘロディヤとしての声明に浸されて導かれる過程の裡に,あって。
きっと,元を辿れば,何かしらのエスプリめいたシニカルな何か,
シュールを現実を超えた何かとして,美しさしめす何らかのBeauty,
そこに端を発して決して,柔らかくないイカの燻製のような,酒肴。

相変わらずのパインとカフェオレを合わせてしまう夜の茶会において, こんな思索は産まれてくるのだった。ロマネスクより,脱会して,その 蕭条とした茶会に加わって更に問題視される,有意義な理由=意味とゆう ものを,文学性談義として排してゆけるかを『意味するとは,問題視される べき,テーマとは言ってもなあ。こんなことを語らうことに,意味ある?』 そんなものなのだ。眠っているのではない,デカフェの珈琲に酔っている。 なので,A.フランスと川端先生は気が合うのだろう,きっと。
ひとつは,古代の荒野に遺跡ありて,イニシエーションを体現するほどの 秘跡めいたものの表現は,フランスにおいて白眉たる。そうして,それを 体験するべき文学性のウツワを持っている川端文学においては,そういった 何らかの神秘性を,墓にまで持っていける産土性のその連呼する連帯性土壌。 ひつまぶしや,土瓶蒸しの茸の匂いのようなものか,とはいえ意味するべき, お腹に這入ってしまえば一緒だろう?いいや,そうではない,記憶の裡にも 排泄過程=忘却のあるように,そこより産まれる土壌菌に幸あれ。
フルーツを購ってかえるのに,そんなに甲乙つけるべき基準はなかったけれど,
価格に応じてよりも,ほんとうに裂きイカ,揚げ裂きなどにいたっては,中には
酸化しているようなものまであり,好きな適当に購えるイカの肴は,ほんとうに
限られてくる。美味しいものは旨い。これは,甲乙つけるべきとゆうより,その
観点には,何か海の匂いとゆうようなものもあって,好きな肴は,きっと記憶に
合っている。記憶に合っているのは,その海に何らかの骨を埋めているような。

いつもこんな,どこに骨を埋めているのだろう。とゆう,前世ゲームを=書物渉猟 と合わせて,楽しんでいる。楽しんでいる,とゆうのは,自分探し=自己同一性の 自己を,自然と,どうやって一致させられるかの自然一体化問題でもあっ…

いろいろとは,あるけれど。五穀豊穣の折合いに触れて。

段々,めざすものの在り処を掴めるような気のしてきた,この
秋口に。リンパ液の全身を,掴めるのならば,とにかく頭脳の
中をさえ廻るようなその気概を以て,自己同一性と,自然一体化の
混沌的陶酔感。自然の裡に座してしまうのは,クリスチャニティより
してみれば,邪悪なものなのかも知れないけれども,自分自身のあの
樹の一本になって葉を茂らせる中を通り抜ける水の一音壱音になって,
根本的に当然のように,カオス=静謐さの一致点にある,その在り処。

自然の裡に座す,これがグラウンディングとゆうものではなかった?
とにかく身体を温める,玉子酒は要らない,ブランディーももしくは
あまり欲さないので,ケーキにもあくまで全粒粉の粉っぽさののこる,
そんな感じでよいので,だから,ときには一本の麦になる,この頭脳。
どうしたら,いいやそれは健全かは露知れず。けれども,どうしたら,
全身をリンパ液の廻るような,いたって心身陶然としてグラウンディング,
するあの心地になれるのか?いたって平凡に趣味する不可思議さのはてな。

熱源なのだな,そうして瞑眩なのだな。そうやって,情熱に向かって,
とっさに翻る,目下の牛若丸のような跳びすさり。この月夜に没香の,
しずかな匂いのするような黄葉した樹々の萌えるような匂いを,ここで
感じる弁慶のくだり,に彼の武骨さはこの芳香にヤられたので,あって
強さを求めていたわけではない。元来,武骨さは強さは理想にあらず。
かぐわしい夜の月明りにほれ込む,あのビシッとした身なりの翻りにて。

段々と,夜の匂いにほろ酔いでくるようだ,と。そんなこと,を言って。
弁慶は九郎義経について行ったそうな,また,草団子,お番茶を啜っては,
ほろ苦い照れ笑いをするくだり,そんなものがあったのかどうか露知らぬ。
樹々の香りに無上の笑みを起こすその喜悦に対して,いかに無感動なれど。
この自己同一性と,自然一体化の混沌的陶酔感はすでにあった物事どもを
計らずも付いてこさせる神秘的な風情。もちろんには,草団子も,お茶も
旨かったから外ならぬ故。

もう,水風呂もとんと這入らず,はいられず。そうして,夢の居場所も,もう。
実践面には移さず,影響もされず。このまま,樹々の匂いに溶けてしまおう,と。
そんなとこから,始まって自己同一性と,自然一体化の混沌的陶酔感には,もう。
これで,これはそれで,それでし…

それぞれ,それぞれに居場所がある

高みに昇っては,嗜好する混沌の裏に,日陰あり。日陰の
裏には,高みに昇って光りあり。混沌の下り坂くだって,
そののち,それぞれ,それぞれに居場所がある,と気付く。
ひいてはノリを超えず,さしては,おくまってゆかず,この
居場所を確保しようと試みる。いちど,話しのツジツマ合わず,
僕にはみえていたのに,周りには存在していなかった人の居た,
そんな経験をしたことが,ある。そうゆうことは一度だけで,
なので,いたずらなのか,そんな可笑しさも含めて,振り返る,
それぞれ,それぞれに居場所がある,だから,その居場所にて
過ごそうと思う。お茶をすすって,あられ煎餅を,かじるので
僕にしか聴こえない音も,周りには聞こえないバリバリ鳴る音で
さして,聴こえればよいはずの鳴り方ではないし,持論だけれど
みなそうゆうふうにできているんだ,ってそう思うのだ。

悲劇の観劇ののち,あまりに惨劇で,どうしようもならず,腫れ物に 祈りを掲げて,邁進してしまうような思春期はよくある。けれども, 一度,腫れ物になってしまえば,こっちのもん。祈りは,届かずそれは 届かないのでもなく,世界は変わるのでもなく,確実にカガミとしての 世界は,用意してくれている。それぞれ,それぞれに居場所がある,って。 そうゆう意味では,自分の居場所が誘発された腫れ物の『私』の世界,は。 確実に変わったのかもしれない。そうして,不自由か,自由の問題で, 『私』は,それぞれ,それぞれに居場所があるとゆう視点に,おいて,もう 世界は変わったのだ。居場所は出来た。腫れ物も治まる。そういった視点を 持たれる瞬間を迎える。それぞれ,それぞれに居場所がある。何度も言いたい。 それぞれに,それぞれ,居場所があって良いのだ。
居場所論をとなえれば,またたく,その先に,哲学めいたモノを用意してしまう。 この癖は,何とかなるまいか,とはいえ,居場所をみつけた『私』は,きっと, 哲学の思索をするもんだ,って決まっているのだ。決まっている,といえば, 世界には元来,目的のあって,うんぬんとゆう『目的論』や,決まって世界はこう 動いている,とゆうような『決定論』にいたって,決定された場所ではなくっても, 『居場所目的論』はあるんでは?そうゆう気のする,あらかじめ指定された場所は もともとそんなものはないだろう,何かのきっかけは自分で動かしてゆくのだ…

混沌的・根本的に。ロマネスクより転向。

ロマンスから,純粋な混沌だ。悪態・媚態的にそうゆう気分に,
なることもある。ロマネスクは芥川の知性によっては与えられ
理性の旗手たる永遠の漱石山人には,鉄の思考を教わるのだが,
しかしながら。混沌的・根本的に。ロマネスクより転向。なので,
ロマンスから,純粋な混沌だ。悪態・媚態的にそうゆう気分に,
なることもある。と言ったぐあい,よくあることなのだろうけど。
太宰のような『ロマンスより混沌に』生きる。このぐあい,では,
坂道をくだって,また違う急坂をものともせず上がればよい。この,
そんな感じで,太宰先生について行きますよ。

運筆,とゆう言葉をよく聴くのだけれど,それは先生の著作を読んで
一層のことよく感じることなのですけれども,果たして,筆を運ぶ,
先生は,いたってガムシャラに書いていたそう,だと,モノの本では
伝え聞いたので,太宰先生の,この運筆傾向については,一票・賛成。
ガムシャラに書くその感じ,気だるさを与えながら,筆は速いことを
理想におもってらしったのか,他の文学者のモノを読んでも,思わない
この,筆の速さ,完成までのとゆうより理想的速度の,いたってこの感じ,
よくでている気のする。例えば,資本主義制なるものが,いかに反感を
喰らうようになっても実に,速度優先で動く感じ,この感じは,利便性を
確保するために(実際問題,利便性の必要性はどこまで?)いつまでも,
すすんでいかなくてはならない,この感じ。僕自身は,安定のロマネスク,
芥川氏の薫陶より安定したその工芸の世界より脱け出す気は,さらさら,と
なかったようなので,それが,興味本位に外の世界へ出たくって,知性より
いっぽ外の速度型の優先順位をみるにつけて,なんと,

混沌的・根本的に。ロマネスクより転向。なので,
ロマンスから,純粋な混沌だ。悪態・媚態的にそうゆう気分に,
なることもある。と言ったぐあい,よくあることなのだろうけど。
太宰のような『ロマンスより混沌に』生きる。このぐあい,では,
坂道をくだって,また違う急坂をものともせず上がればよい。この,
そんな感じで,太宰先生について行きますよ。

こんなぐあいに,速度型の,カオスのように,ものおじしないその感じ。
いっぽうに地平線あれば他方には水平線のひろがる彼方,はてはさては
僕は,地平線の方へ,なぜかしら,知性のある側面のカオスをまた感じて
飛び込んでゆきたい…

クリスチャニティ親づく,芥川氏に

ここ数日の右側上半身の凝りか何か,詰まりの通るようなdetoxの この不調和よりの,解放感はどこからくるのか?想像も付かない, けれども,1つのエクレア,大きなひとっつのエクレアよりのそれは 求められた。珈琲をわずかな希望で淹れて,不謹慎な抑うつ的な表情に 啜ると,差し出されたひとさじの生菓子。このひと口で一挙に達成する, 笑顔の約束。ああ,これか。これだったんだ,ひと口の甘味で,全てが 解放されるような,このショッピングとドライブと書店の空気を一瞬の,
ひとめぐりして一瞬のうちに届いてしまう笑顔の贈り物。だから,芥川氏の 遺書にも岩波への憧れのような,あの中学時代の帰り道の僕も,文庫の一斉に 詰まった書棚を通る道すがらに書店に求めると,そうやって,見いだした,その それぞれの文庫の花たばの,なので書店好きにはなったし,往時の芥川氏の,あの ロマンの漂う明治以降の書店ロマネスクを訪ねて感慨深く覆ってしまう鬱蒼とした, 本の森は,いまもまだ心の裡に茂っている。そこから,シレジウスの瞑想詩集など。 さまざまな基督教関連の書棚に溢れる昨今のS.ヴェーユの品揃えも気になる所だ。
芥川氏のA.フランス憧憬は知られている。芥川氏のクリスチャニティは隠れての, あの冷静な信仰の隠される知性的発展をみせて僕は,相当な感情的な畏敬のあること。 そうゆう,太宰にとっての芥川のような。露わにされない信仰とゆうのは,港町にぼぅ, と垂れる,土産物屋さんの雑貨の影や,その雑貨で購って還ったキャンドル立ての,あの チューリップの姿をしたガラス細工は,いつぞやの地震のために石けんの匂いとともに, 割れて無くなってしまう。そうした不調和とよく似ていた。だから,そうなので,いまは 甘味と書店と,あとはドライブにでも行きたい。
自らは,芥川氏でも好い。芥川氏でも好い。とゆうのは,そうゆうフリークでも構わない とゆう。そうゆうことに,なりそう。なぜって,常識を与えてくれる,それから,浪漫も また厭わず教えてくれる。芥川氏に,東照宮の翳ありて,また恵比須さんの表情をして。 芥川氏の,とゆうそうゆう陰影を追って,ようやくその有難味の伝わってくる。 なぜかしら,室生犀星の堀辰雄談義にもでてくるそういったロマネスクの陰は,やっぱり あの東照宮の翳ありて,また恵比須さんの表情をして,芥川氏において,なくっては…

堀辰雄氏になったつもりで,澄角堂。

堀辰雄氏になったつもりで,澄角堂を名乗るのは,夢枕に, とは言え『澄角堂,澄角堂よ,』うなされる様にパジャマを 脱いでいて目を醒ます。これは,芥川氏よりのメッセージか? こんな浮かれた気持ちで,柿のゆべしを憶いながら,いつかは 身体の臓器全てから血の噴き出るような想いをしていたなあ, 関東大震災前夜の丸の内はどんなだったかしら?そんな”追憶”を 掲げて,ついには私が『河童』を書いたのだ!とゆうところまで 至った時には,芥川氏の堀さんに対する熱意を感じて,澄角堂。
珈琲が,モカ・ブレンドだろうけれど,本当にノスタルジックで 実に旨いのだ。秋口のアイスコーヒー・ブレンドなるものは,どこか アレルゲンに感じたし,それら上手くゆけばロマネスクなのかとは 感じていたのに一気のみしていた事とは比べ,ブラックで,チビチビ。 何故か,命生日本,なる感じ,胃疲れも落ち着いてきて,俄然の食欲, 嗜好品めぐりの始まりそうな『痩せの大喰い』を想定してのスパイス。 嗜好品の趣味とゆうのは不可思議なる本当に旨いものしかくわないのだ。 こいつはくえねえ,よく言ったものだ。グルメにスパイス択びをして。
昨今の常識偏重に心地よさを感じながら眠りに就いたあげく,翌朝には
こんな夢見心地に本当に,夢を見ているのだから面白いので,ぼくらは
堀辰雄=フビライ汗=第六天魔王=南洲翁隆盛=平清盛=嵯峨天皇だ,
とのたまわいて闊歩する大名行列そぞろあるき,もう百鬼夜行に親い。
だから,面白くって,あとは,この”病”をテーゼとして生きた,彼らの
想いの丈を歴史好きとして弔い加減感じてみたい。例えば,斉藤道三,
あるいは武市半平太,そうして,明智光秀の同伴者を得た,百鬼夜行は
”病”をテーゼとするこの心得は,果たして一筋縄では上手くゆかない,
勿論の百も承知ではあるけど,無礼千万のそこは一筋で,括りあげたい。

織田信長公の,それは貴品を携えてゆくときの,バサラっぷりは,ある意味 その答えに親い。なぜかしら,恐れられる必要のあるとき,時代の要求は, この時代の産物として,フグの湯引きのような,そうして皮のモミジおろしの 不可解さのような,嗜好品趣味を香らせるのだ。人の生命は,その輪廻を顕して 気の強さとゆうのがルーツの指示を表しているのが命題らしいのだけれど,僕は 天女の落とし物,あのシカ煎餅の隣のお土産物のような…

珈琲をすする夜が明ける日がのぼる

情熱100%で良い時のあって,もちろんあっていいはずで。
情熱のロマネスク,そうして,情熱の珈琲をすする夜が明ける
日がのぼる。すると,陶磁器に見境なく呑ませてくれるウツワの,
いくら子供用でもいかに美しいことなのか。人間は,用を足して
この世界の存在意義として微睡んでいるそれだけで,高貴かそうで
ないかなど,優劣愚問,美味しい珈琲を呑ませてくれるウツワのあれば
それで良い。いかにも台風の過ぎ去って,虫の鳴き始めた夜中,手洗いに
立って,何気なく喉を潤すためのお茶を注いで,優劣をつける機能性など
人間の身体はそれであらわしている。もうすこし,理想は,どこまでいっても
幸せに連れて行ってくれるようで,どこまでも身体の解体はすすみそうだけれど
僕の,基準とやらはそうゆうものはあっても,玉石混淆の姿で良いようなのだ。

タンニン,それは,やたらと情熱を持続させる幸せの種らしい。タンニン,この, 情熱のきっかけにいくら助けられても不必要になるはずもない生活上の規則やらに シブとスパイスのかたちを追求して神の造られた成分のあるとするならば,タンニン。 タンニン不要論を掲げたら,それはもう,幸せよりのリタイア宣言と等しく,そうして 僕は,タンニンに成り代わっている自分の姿。タンニンと化したみずからの形姿を,この ウツワの中の鏡像へ投げかける。にこっとわらっている。情熱と幸せを合わせて,それは シブとスパイスになりきった我が笑顔は,ほっこり,にんまり。
タンニン不要論を言ったら,もうそれは幸せ不要論であるはずで,もうすぐ幸せの不要を 言うとしたなら,それは,ある程度の腸活修了宣言であると例えても良いはず。なので, 幸せとは,常日頃で,幸せは,飽和した健康状態の不飽和をわすれた状態。なので,もう 身体の解体は,起こらずとも,適度のドーパミンのでた,ベータ派ヒーリングで行かせて 欲しい。こう,僕の平凡さは唱えるのだけれど。本来,悲劇を観じたあとで心底の願うに その”幸せ”とは,きっと清浄な天国のごとき。抜けてしまった神の領域ではさらば!とは 行かないのだ。それは,本来”幸せ”を願う『常識とは,常に平凡なものだから。』 けれど,明日になったらdetoxのすすむこの身体は,もっと健康とゆうものを宣言し,むしろ 平凡を願った自分の姿を違った様相で表現し始めるかもしれない。清浄さ,これは難し…

秋口アイスコーヒーと進歩の遠回り

アイスコーヒー・ブレンドなどを,秋口に呑むのは良い。 同じように,進歩も遠回りして,ズラして外すようなことの なかに隠されているようだ。言葉は悪いけれど,腸づまりの ロマネスクなどと,言っては快楽報酬系などの適度に快楽を 感じる,outputや,エナジーの出口なども,便秘などあると あまり働かないようにおもうし,あとは,ロマネスク次元では まだ,宇宙大に働くエゴ=自我のように,基本的には,もう。 個人的に矮小な自分であるほうが良い。そうして,四元素霊など グノームやシルフィーなどの鉱物植物性メッセンジャーのような 季節感グリッド=自然の酵素霊の声(などとゆう,ポエジー)には あまり影響されない事の勧めを書こうとおもう。これは,僕自身で どうやって解決したのか,いいや。解決する必要はない,ひとつの 情況次元としての宇宙大ではあるにして,それでも,やはり解決の ひとつの指針を描いてみようとおもう。
自然の声,とゆうのも。これはひとつの古代的,いや誇大的情況による オーラの希薄さより来ている。希薄なオーラ体(あくまでのポエジーで) も,かなり強靭な精神体を培う好い機会ではあるにせよ,それが便秘に よる,気付かない,そういった腸活の必要性にあるとゆうのは,意外と 知られていない,僕自身は気付かなかった訳ではあった。なので,昨今は 腸活のうまく行けば,すべては解決する。そういった観照に浸る,毎日で なんとゆう努力もしてはいないつもりなのだけど,ただ精神的免疫不全の ような,代謝の抱く生態系の起因のような,そうゆう虚弱や,消化不良の 一端は,運動によってより,むしろの生活規則や,思考の癖付けよりも, もっとシンプル単純な訳のある,そういった観照に浸る,本当に酵素質の さまざまな腸活のメソッドあれど数うちゃ当るのめいめいを,すべて試す。 それのみ,それだけで良いしもし,エンパス指向にまいってしまっている ような情況や,あとは無論,幸せを感じづらい消化不良に悩まされるような ことがあるようならば”矮小な個人主義”。 腸活の勧めを試してみるのを,おすすめします。
宇宙大,とゆうのは魅力的なことばではあるけれど,そうやって,感情はむしろ 広がっているとゆう論考もあるようだけれどそうはいっても,ある意味,個人的 のひびきにあるもの,それは個人的である以上『私』以外のものは感受しえない …

落ち葉の神秘と,秋の軽やかさ。

もう,栗の実が落ち始めて,実にひさしいほど。この, 季節は正直な身体と調子合わせて,本当に,神秘的だ。 神秘と言えば,『第二位の天使とはゆうけれど,それは 二番目の力あるデーモンのことで,悪魔と神は一緒なの?』 と言った半ば,納得もしようのある,落ち葉は,だから, その神と悪魔をつなぐ何らかの神秘を隠している。そうゆう 感情に,ひたされる。ロマネスクとは,サナトリウム文学で, そういった傷と,秘密とを兼ね備えた,聖痕兼備な何か。では そうして心の傷を匿している,奥底の心理には,癒しとしての モミジの色した赤紫蘇ジュースなどの沁み入る気持ちを顕して, もう僕は,堀辰雄氏の何故あそこまでにイロニーを浪漫に換えて 浪漫と言っては何だけれども,そういった傷痕を,ロゴスに変化 させて,ここまで歴史をかたどってきた神秘。そういった秘密を 秋に,捜そうと思うのだ。
だから,散策に行くのに,どこの散歩コースを択ぼうかなど,こんな 小さな響きで虫の音の響く,くるみの夜にも,目隠しを夜にしながら 涼風は背中まで辿り着くことのできる。目隠しの夜には,どうしても, 静かな中に,傷とロマネスクの翳の追ってくるこんな夜更けには,もう。 鐘の鳴る,朝焼け。ワインの干されるグラス。その枕元に死神の,影。 栗の下ごしらえの仕方を教わって,ゴトゴトごとごと,音を鳴らしながら 鍋を蒸かしていると。そうやって,死神の影に脅されながら,調理する。 その,秋の虫の音には,そういった刹那の情景の含まれているのでは?死は 豊穣の秋の裏にはかならず鎮座まして,なので,ここにいたって,死を内包, するので,落ち葉の神秘と,秋の軽やかさ。
『第二位の天使とはゆうけれど,それは
二番目の力あるデーモンのことで,悪魔と神は一緒なの?』
と言った半ば,納得もしようのある,落ち葉は,だから,
その神と悪魔をつなぐ何らかの神秘を隠している。

初めて,栗を茹でたのだけれど,大きな栗で,7,8個の分量のそれら。 終盤に差し掛かってくると,天然酵母パンのような酸っぱい甘味のような 芳醇さのあって,ああこれも秋の神秘性で,あってもまた,世界のカギは こうした発酵過程の産物なのであって,秋は芳醇。発酵の季節はそうして。 酵母の働く季節とゆう過程にあって,悪と善は呉越同舟,すこし融合した, そんなフルーツのすっぱさを以て,あまい微笑みをかざして…

個人的に,理性的にいきるとは

感情的な価値観や,全体主観的なものの見方から,して みれば,個人や,理性の在り処はじつに,左脳側にある。 むしろ,巨視的に,宇宙大にものを把らえれば,それは じつに右脳的な把握であり,感情的で全体主観のものの見方。 ミクロに,”個人的に”,”理性的”にいきることは,ここでは 完全に左脳的で極小的な,それで,個性主観のものの見方, と極言して据えておきたい。個人的に,理性的にいきるとは。
身体は,冬の準備を確かにしてきているようである。なので, 日照時間の少なさや,すこし肌寒い感じを直覚してきては,この 毛穴細胞のセンサーひとつ1つは,もう縮こまってきて,そう。 だんだん堅い思考に,想いや視点のあれやこれや,を持っていき そうな,そんな感じで,多分,落ち葉のおちる地表も,きっとは 夏のフワフワの大地より最初,硬いのではないか?それで豊穣の 秋の,この切ない豊かさによって,だんだん堅い地面も,冬越え。 温かくなって,緩んでくる。夏は極大にふくらんでは,過ぎる秋口, 段々と,極小化してくる人間性。ヒューマニズムの在り処もすぐには 戻りそうもない,この論理的で個人的な,矮小な倹約主義に替わる。
業の泉=KARMA SPRINGとゆうからには,非常に右脳的で,もっと
宇宙に拡がってゆきたい衝動にあった。今となっては,冬の大地に
溶け込んで,固まってゆきたい心地でそんな,冬の枯れた”知の死”,
この硬直化した,知性の塊に還ってゆきたいので,岩石化?そう。あの
岩石の堅いのになぜどれほど,パワーストーンなのか?知りたくもない,
知りたくもないほど,宇宙的ではあったのだけれど,なのでいまはもう。
知性もパワーもない石に返ってゆきたい。その気概で,大地に落ちるその
どんぐりの実。背比べしたあの日は戻ってこない,また,芽吹いて,違う
宇宙で。

感情的な価値観や,全体主観的なものの見方から,して みれば,個人や,理性の在り処はじつに,左脳側にある。 むしろ,巨視的に,宇宙大にものを把らえれば,それは じつに右脳的な把握であり,感情的で全体主観のものの見方。 ミクロに,”個人的に”,”理性的”にいきることは,ここでは 完全に左脳的で極小的な,それで,個性主観のものの見方, と極言して据えておきたい。個人的に,理性的にいきるとは。
空調をかける瞬間もまだあり,じつに昼は30℃にまで上がる予報。 なかな…

蒟蒻のないオデンは,パワフル

心理学に他者の余地はなくていいのかもしれない。むしろ, それは当然のことであって,他者の介入する心理などはなく, 水が慣性に従って宙を舞うように,惰性的にでも生命は余地を 残さずして,『私』を鏡のように反射しているに過ぎないのだ。 芥川氏=東照宮=藤原道長=称徳天皇=最澄上人=源頼朝のような アマテラスさん恵比寿さんを象徴するような姫神の女神たちは, そういったパワーのある様子で,非常に体力的に”僕”を映す。これも, また何かの余興かと思いつつ,芥川えびす氏は,心ならずも,この心 を映す,鏡なので,朝の洗濯物を干す我が手つきに,哀れ蚊も寄れば, 生き残った女王蜂も姿を現して,とんでもなく淋しそうである。なので, その手つきは,足つきに寄って来る哀れ蚊と言いつつとてつもなくパワフルな 彼を,寄せ付けては放っておくただの気概さで,淡々と物干しへ乾してゆく。 今日は,たくさんの洗濯物で,衣文掛けはそれくらいに家には一杯あった。 お祭りの残りの材料で,ことことコトコト,オデンを煮込もうとして火にかけ, 醤油,お出汁,ミリンだけ加えて,あとは小一時間の様子をみるので,大根は しっかり火の通る頃にお昼だ。お腹の調子は敢えて残暑疲れなのか疑うほどの 少食なので,もしかしたら食べないかもしれない。
ゴッホの耳の傷痕のような,耳栓をしたようなトラウマを抱えていたけれど, そんな妄想に任せて,V.ゴッホ=M.ロベスピエール=A.シレジウス=J.カエサルの 4者を並列に寄せて,そんな時に芥川氏の訪れた,とゆうより浮き上がって来たのだ。 もちろんそれは,カエサルの4者とは脈絡のない発展だけれど,耳栓の抜けたような, これで彼は,ゴーギャンとの軋轢確執とも晴れて,妄想上訣別したのだ,とタカ括り, そうして我に還れば,芥川氏=東照宮=藤原道長=称徳天皇=最澄上人=源頼朝の 体力の源泉が待っていた。鏡として映し出される心理。だからこそ,他者に目を向け, 夢をみたいのだろうが,心理において他者は禁物であって,むろん心理上=感性上は, 他者より無論,自分を映し出しているに過ぎない。だから,そうすると他者以上に,より 自分自身の,無に親づいてゆくのに気づいて行く。そうして,こうしている裡にも,あの 大根は,弱火に掛かって,ことことコトコト,少しずつ甘い汁を煮出され,繊維も柔らい ふんわり海綿状の鏡…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…

(そんな気がする)聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。

『とにかくも,”意識”を保ち続けることだ。意識を,ただ
 集中して,堅持維持,ハッキリ保ち続けることだ。』って
何だか,そんなことばかり考えている昼間だった。珈琲を,
そうして,眠りどころではない,聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。
このあいだ,ひょんなことで,スイカの酵素造りをさせてもらって,
完全に完成したのを少し,残していただいたら,それを黒茶と割って,
これが,また良かった。聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。つまり,
俗なのである。いくらロマネスクより乖離してみた所で,スイカ酵素を
頂いても,つまりは俗であって,いいはず。性聖説より,性俗説に,まず
とりあえずの,一票。それを,腸活を以て,自己腸一性,そうして本当の
自分=”腸”探し。聖汚混濁の,これをして,カルマ・ヨーガ的な,答え。
としてみたいのだけれど,業とゆうものを鎧として身に付ければ敵なし。
とゆうか,それは至極当然で常識じみた事柄ではあるのだけれど,聖か,俗か?
腸づまりのロマネスク。の中にあって,これは,非常に”聖性”とゆうモノに,
サンクチュアリの在処に関して,”自分”やら”自由”やら,”真実”と掛けて遣って
来ては,それは”業”なのであった。身体性じたいの,”業”なのであった。そうして
それらを,常識に鎧めいて身体性に結びつけられた時,腸活は終わり,始まる。

瞑眩作用の強く出ているこんな夜更け最中であるからこそ,幸福は存在し,Karma,
などとゆう,大それたテーゼも常に含みつつ祝祭還元の如く,演じられ,語れる。
ほんとうはセンタリングなどとゆうキーワードも,カギは”腸活”であるのだ。って,
今気づいた次第。食事の際にも,よくフルーツを食べられるくらい気遣いの出来る,
そんな食卓を演出できるようになった。瞑眩作用,これは,今までで,三回目くらいになる。
一度は,ハーブティーを呑んだ時,異常に疲れている自分を感じた。二度目は,どうだった
ろう?何年も前だろうが,何かで,登山がえりか何かの折に,強くそういった,くるくる
目眩のするような気持ちのよい瓦解する身体性を感じた。それ以来,何故だか,冷めてしまって
腸づまりのロマネスクばっかり,”考えて”きたようだ。これが,僕自身のスイカ酵素の,更に
黒茶割によって,完全に胃腸は,空っぽとゆうか,入換えできたような感じがするのだ。
胃腸の入換えとは言うが…

2に帰属して,ノスタルジー蒸かす夜辺に

何だか,1日なにもしてなかったはずなのに,筋肉痛だ。とは, いえど,決して気苦労の多くないなど言えない日柄,それは, 筋肉痛のもとだったりもする。あるいはDetox,または神経痛の 直に心に響く,そんな気苦労を,はたして”している”気にはなって, いなかったにも関わらず,夜辺にはそんなことも言いたくなるのだ。 何か,○○ちゃんに届いているよ,実家の母よりそんな奥さん宛に 宅配の来ているとゆう報せ。まさかな,とは思いつつ,この贈り物は, お茶であった。こんな幸せなことはない。昼間は白湯で,白湯は結構。 など,しっちゃかめっちゃか騒いでいたのにも,啜って一言。「ほっ」 っとして安心しては,2に帰属して,ノスタルジー蒸かす夜辺に『ほっ』 っとして安心しては,そうゆう二極化の昼と夜を追憶の裡に眠られたら。 捧げたくもなる,この転生譚を,1度忘れて。
続いて,『晩年』所収の,太宰治「思ひ出」をチビチビ読み進めながら,
半年くらいにわたって読了するのだけれど,その経緯にトーマス・マンの
翳などを追ってしまう。ポエジーだけの作品ではないのだ。それは,やはり
漱石に端を発して,俗世俗物乖離の知性の高尚さにさえ飛立たせる,何かの
やはり,跳び箱の踏み切り台のような,みょうな駆動力を感じているのだ。
だから,また,この,捧げたくもなる,この転生譚を,1度忘れて。今日の
そんな,気分は涼風の湯上りに感じる心地よさ。そうして,お茶を啜る温かさの
その不可思議な,2に帰属して,ノスタルジー蒸かす夜辺に,至って平然として
ヴァレリー=アブラハム=アベル=聖ジョルジュ=セルバンテス=ターナー,
そうしてチンギス汗の名を呼ぶ。この,荒野の民王は,また神話上のベタニヤの
マリヤとしても香油に名高く,さあれ,ヒットはホームランに,徐々に伸びて。
いわゆる,ランニング・ホームランは,あれは走るから気持ちがいいのであって,
そんな心地で,はっしはっし,ヴァレリーの知性まで足を伸ばす。そうして,
気付くこともあるのだけれどイロニーは決して,アンニュイではないけれど。
それは,決して,実は,イロニーではなく,ただのけだるさだったのだ。

そう。お茶の渋味は湯上りに響くもので,それは,いわゆるプルコギを家で真似て 造ってみた気はしたものの,美味く頂いて,上手く消化できるか,白湯上がりには 不安だった夜更けに,…

3の幸せ,4の決意,大きな諦め

太宰を読めば,漱石に親づくし,漱石を読めば,また
岩のように堅くなりそうだから。しかしながら,それは
岩のように堅くなりそうでなければ,ならない。と,ゆう
一種の大きな諦めを以て,3の幸せ,4の決意を通り過ぎる
のは,やはり決まって知性の堅牢な,3の幸せ,4の決意を,
ありのまま持って,培う。


秋の夕暮に少し太ってきたかな,とタイトなジーンズを抱え,
ああ,やっぱり秋なのだ。気は早いが,秋の夕暮には,そう。
ミネラルウォーターを一度沸かして,お茶の切れている週間,
朝より一杯のヤカンに用意して。お祭りもそろそろ終わりなので
安心しきって,まだ夜長には早いのかもしれないけれど文芸的な
一夜を過ごしてから,今日は何も食べずに,1日ゆっくりしてよ。

か,といっては何だけれど,家族も帰って来るので,3合分くらい
手鍋でコトコト,ミネラルウォーターをまたも使って,炊いている
ので,お米は準備できたろうし,あとは,何か,純粋に,お腹の
喜ぶものを少し啜れたらいい。それは,おかゆでもいいのだけれど。
実際は,この白湯の美味しさは本当に美味しかったので,いつもは
お茶で過ごしている昼過ぎの,これは良いお水に好い食事だ。とは,
言って,秋の夕暮。密かに太宰を読みながら。


太宰を読めば,漱石に親づくし,漱石を読めば,また
岩のように堅くなりそうだから。しかしながら,それは
岩のように堅くなりそうでなければ,ならない。と,ゆう
一種の大きな諦めを以て,3の幸せ,4の決意を通り過ぎる
のは,やはり決まって知性の堅牢な,3の幸せ,4の決意を,
ありのまま持って,培う。


知性の堅牢さ,とはゆうけれど,それは皮肉=イロニーの,
そのままの様子であったり諧謔性のユーモラスな何かでは,
とにかくあったりするので,炭火焼珈琲など呑みながらも,とは
想像の裡に想像しきって体験して,そんなランタンの下で,少し
ほろ酔い加減に,ギャグの真逆に,真ギャグなど吹聴して,何か
お祝いめいた慰めじみた,そんな安心しきる食卓を囲みたいのだ。

きっと,想像以上に強い遣り方で,僕は,何かを望んでいるだろう
本当は,それを,望まない限りは何もなくてもいいとゆうように,
それは,エゴイズムに活きることを望んでいるのだろう。それは,
だから,無我とゆうより,コギト的な何かを求めているのだろうけれど
それは漱石山人において,知…

酒粕の匂いに沸き立つ我が身体。

この身体自体の酒粕であったと言って過言でない。そんな, オリジナリティを,吾輩は太宰である。と,太宰的な何か, そうゆう地上的な業の泉に浮かべていたのは,酒粕の漱石。 アウグストゥス=LONDON ONE,こういった詩的仮説を唱え, 太宰は実に地球の王で,時にマルス(軍神),あるいはガイア。 地上の半神半人,彼(彼女)らを総称して,太宰=地球の王。 昨今の古事記=オオナムチ神話の対照・対応対象・比較論は, こうして自らをバルタザアル=アウグストゥス=漱石山人の 仮説を唱え始めた所で修了(終了)したい。ところだけれど。 地球の王さまだけあって,かれを例えば,太宰的な人生をして, 追ってゆけば,確かに『業の泉』に憑りつかれる。なので,私は, といったところで,吾輩は太宰である,こんな流暢に創唱しなければ, 何も始まらない。諧謔である。ペーソスである。そうして,残酷にも 文学性は,諧謔により終わり,ペーソスによって修まる。こうやって 僕も,人生論を小箱に納めて行くのだな。LONDON ONE,確かに。
正直に,もう”カルマ・ベータ・ヒーリング”など,持論をもって,そこに
浸りきる,地球自身の行き方など,辟易狼狽,疲弊してしまいながら,
やがて,漱石スサノオ山人のもとに,駆け込み訴え。決して,太宰に対して
反旗を抱いている訳ではない。それに,これは寓意とゆうもので霊性とゆうか
そうゆうリアリティにも掛けてはいるのだけれども,人間的な行き方ではない。
諧謔・ペーソス。詭弁ではないか?漱石山人の描いた姿は,すべて詭弁家の,
あれやこれや。そうだ,アグリッパにでも言い残して,聖書伝説もああやって,
詭弁家じみた遣り方で,ねえ,アウグストゥス=LONDON ONE,あるいは,
バルタザアル=漱石山人,あなたは,骨身に沁みる,哀切=ペーソスをこうして
胃潰瘍おこすまで蓄えながら,滅びていったのですね。そうして,私にまで。

私にまで,遺した。諧謔,諧謔。こういった事を考えさせる,漱石山人のズラし, スライドさせて,フェードさせる音量のあれやこれや,これ,何て言ったっけ? シュールな,哀切に満ちた,それを,そうか,皮肉=イロニーだ。そうやった, ウナギよりも穴子の方を好む。それは史実かは解らないけれど,だから,酒種の 生地で発酵した餡パンをより好み,耐えてたえて,もう後世に遺すまい,…

他愛のない哀切さ,とセージ茶。

惑星を旅立つように,切り離してしまえばよい哀切さ,そんな 切なさまじりの,怒りにも似た,その酷似した哀しみを抱いては,
『切り離してしまえばいい。惑星を飛立つように,こんな発憤は  今まで正当化された人生も一度だって経験したことない正しさ。  その切り離しをなんと言おうか,黄泉がえりか,目醒めか。その  黄泉がえりか,目醒めか。とゆう,この一杯のセージ茶を,口に  含んで。ああ,また今日も眠られない。こんな日々とおさらば。  発憤して,飛び出してしまえば。こんな日々とおさらば。出発の  旅人になった彼は,青春の霊。いまだかつて,経験したことない  あの,草原にセージの葉を摘んで。こうゆう,おさらばしたい,  きっと誰にでも旅立ってほしい青春の霊は何処にでもいるから。  そう,あの草原に旅立ってほしいのだ。』
だから,怒りに似た哀しみは,一度眠りの門を通って,そのまたのちの
目醒めの門を通り抜けてはそうやって,導かれて,メールヒェンの中を
酷似した怒り,そうして哀しみは,やがてふたつのものになる。それは,
男性性と女性性,あるいは,柿の葉とセージ。そうして,珈琲と紅茶の,
また,それぞれの西瓜と縞瓜,胡瓜と胡椒,ホウレン草とモロヘイヤ。
おろしにするのは,大根か,もみじか?どっちも正解ではないのだけど『同じ』
お酒は,燗かロックか,また最近はロックも珍しくあるとゆう,その思い出は
柿の葉寿司は,マスかサバか,山椒を入れるか,生姜を挟むか,さまざまなあの
談義へと移り変わっては結局は,柿の葉かセージかは,お茶にするなら,どっち?
またやがては森林に還る道すがら,水筒に淹れてあるのは柿とセージのブレンド。
そうして,水にいたってはようやく始まりだした,焼け石に通して殺菌したお水。
ごくごくと呑む。蓋を閉じる。さあ歩いては怒りを放し,休んでは哀しみをのんだ。

こうして,旅人は,セージ摘みを終えて還る。柿の葉は自宅にある。
哀しみは,怒りにも似て,いつも青春の霊と共に私達の身体のうちにあって, それは,『生きる』とゆうことでもあるし,そればかりでなく,昼間の導きで, さらに,それらだけに集中していればすべてを忘却できるだろう。だから,その 折々にセージの葉を摘んで一杯のお茶を啜れば,それは,いたって『生きる』より 地中にくぐって持ち帰る宝石のノームの基地へと探検する旅路なのだ。そうやって 一度,翻ることを目的として。
振り返ると,ノー…

珈琲を淹れる時雨どきにロマネスク

九月にも入れば,残り湯に浸かってはそこから,這い出る朝。 妙な虫の声と,不可思議な花の匂いに突き動かされて,寂しさ。 妙に寂しさつのるそんな秋の入口。珈琲を淹れる時雨どきにロマネスク お腹の中に豆乳オーレにしてはいって来るその生温かささえ,淋しい。 それは夜も昼も変わりないのだけれど,朝のそんな切なさならぬ, 冷寥として珈琲を淹れる時雨どきにロマネスク珈琲の香りがもう, 寂しく淋しく虫の声と花の匂いに生温かくロマネスク。この切なさ, 何だろうなこの切なさは,秋の入口,身体の質実に根本より骨身に, 何かのメロディーさえもついに聴こえてくるロマネスクに,さあ。 とどのつまるロマネスクとは秋の入口に立つ蓄音のメロディー。
肩の背中にかけて,凝りのほぐれて行く感じ。とんでもない凝りだったとは 正直に皆の口をそろえては仰る常套句なのだけれど,面白い文庫本を手にして, 帰りに道すがら,カフェに寄ってカウンター越し,珈琲の落ちる滴の音色。 そのアーケードの架橋下みたいなイメージの広島あたりにありそうな,昔は そんなインドカリーの店に寄った節の初めてのグリーンカレーの香りや, またチキンカリーのさらさらとした感じに目を見張らせながら,なんで,この 次に行った時,2階のカフェーに寄って夏の涼を取った思い出など,家族の こんな裡にも,奇跡のようなファミリー・フェスタ・フェスティバルのような, そんな奇跡の思い出もあるもんだ。それなりに悩んでは居た,悩んでいた,は いたけれどもそこに思い出の残る事には一言の疑問も挟めない。挟む余地のない なので,都市文化は非常にロマネスクで流暢に風情を情趣深く演出してくれる。
何故かしらそんな都市圏に問いも解らず遊びに行った際に思春期の家族の想い, この情趣を想い出す,これが淋しいロマネスク。秋の入口に立ってメロディー。 凝りをほぐし終わったら僕達は何処へ行くのだろう?蓄音機よりの旋律よりも 果てに果てシテ,草原の地平線より行き着くその到着地点は,地中に掘られた,あの 教会とでも言えるのだろうか?いまになってようやく気付く。深夜の珈琲は,あれ, もともと原型の信仰告白に親いのだ。夜に更けるまで珈琲を楽しんで,ドーパミンの 盛んに放出される夜半にはきっと,神が自分に降りて非常に豊穣の収穫祭なので, 僕は,独りの晩になると,常に深夜珈琲を試みてしまう癖の…

幸せより,御簾あわせ

人生変わる所なく,季節は巡るけれど。何故だか,身体の
あちらこちらは,干渉された電波障害みたいに,何故だか。
電波は見えないだろうけれど身体のあちらこちらは感じる
ことができるので,思わず野草の酵素ジュースを呑みながら
冷風を強く浴びて,涼し気な環境に渋い面持ちをしながら。

”環境を感じることのできるようになった”とゆう具合いには 落着かないのだろうか?自他即天然自然と言ったように,また いままでどれほどの想いで『自我の強烈な分布図を計らずも置き, 更には,狂暴なまでの言葉のあらしを焚き込みあばれさせたい。』 と,臨んでいたのか言葉のあらしに身体の無意識は気付き始め, Take1,2でインタヴュー形式に行けば捉われずに自然一体化,と 表明するだろう僕の知性の部分も,無意識の身体は叫びを,そう。
思わず野草の酵素ジュースを呑みながら
冷風を強く浴びて,涼し気な環境に渋い面持ちをしながら。
冷風を浴びていても,真夏のあいだに合たった,熱い視線を,
太陽のもとに還すことも出来ないで,唸る様にうめいている。
そんな時期なのだから,自分の我ながら無意識の計算意図に,
気付きながらも,気づいてもどうしようもない。
”環境を感じることのできるようになった”とゆう具合いには
落着かないのだろうか?自他即天然自然と言ったように,また
そんなように落着いて,不可思議に氷枕などして,あのとき,
アイスのんは本当に便利だ,気付いたことにさえ,祝福を。

幸せより,御簾あわせ
月の合間から下ってくるしずかな視線を感じる事さえ,嬉しくて そんなことなら,Squared Pandra,拡大閉鎖された,”幸せ”よりも 蔭ながら応援してくれて,ゆるゆると夏の間の物陰に,ひっそり,と 蓄えられた涼しさの恩寵を,さあ,もうすぐあなたたちの時代ですよ。 そう言って,そう言われている気のしてきては,手を挙げてこう語る。
これこれ,こうした,気の速みは,変わることはないな。そんなら, 桜見の見物に来なった観客勢にも甘酒と,麩饅頭を笹に丸めてな。こう,
僕は,明治の時代に産まれた太宰の過去に,龍馬-独眼竜-今川公-高時-, 九郎義経-弘法大師-聖武の翳をみては,歴史小説の端くれを齧るところ。
謂れは,こうにも,どうにもこうにも。歴史は小説のように発端を無視して 人間味の自由を臭みを以て出掛ける由。どうにもこうにもゆかな…

肉迫する,モミジの木洩れ日

B.ラッセル=国王ルイ16世=I.ニュートン=N.クザーヌス, そうして,彼らは始祖にソロモン王の王冠を,いただいて。 E.ブロッホ=マリー・アントワネット=L.ダヴィンチ=T.アキナス, なので,彼女らは王冠にシバの女王の花を手向けて,なので,そう。 『自然の中に,境界線を超えて嵌入してゆくと,解るモミジの色は  すでにもう。肉迫する,モミジの木洩れ日に耀いて,葉の裏には。』 お茶とゆうものに,肉迫した感性は和らいで,凄みのある茶葉には そういった脱水を逃れさせる快さの一種。根本的な解決法をみるのだ, 山に挑戦するとゆうのは宇宙大戦を勝ち抜いて行くことのように難易の 高い,相当な支配構造へのTryin'をみてとるのだ。山に登るは怖ろしい。 夜更けて夜明けよりの,とんでもないこの挑戦式に対する果報の届け先, 間違ってはいませんか,いいや間違いにチガイないのだから,もうすぐ。 お茶を啜っては迎える夜辺のあたって,もうすぐ,解放系の報せは届く。 Groundingってこうゆうものだったかしらんあのうしりませんかこれは
B.ラッセル=国王ルイ16世=I.ニュートン=N.クザーヌス, そうして,彼らは始祖にソロモン王の王冠を,いただいて。 E.ブロッホ=マリー・アントワネット=L.ダヴィンチ=T.アキナス, なので,彼女らは王冠にシバの女王の花を手向けて,なので,そう。 『結局は,業の泉に,バザールに都市圏の雑踏に,紛れて暮らすのだ  この感性以後の,ですから間違ってはいませんこれは幸せの届け出』 自らの中より自然の抜けて行く。肉迫した,あのモミジの液汁の,果実の またそれのように甘い芳醇さで抜けて行く。Moanin'さまざまなArrange, 口々に呟くその言葉は,もう言の葉には違いないが,意味は持たぬ響きの だから,相当な意味で呟くのでない限りもう無意味に帰すそのLOGOS態は そもそも”言葉”とは,もう響き以上の,数学的な”音韻”ではなかったか? 化学の結婚ならず”数学の”結婚。British Completing Marriageだったのなら 私達は,ソロモン王とシバの女王,ひいてはB.ラッセルとE.ブロッホの,また N.クザーヌスにT.アキナス。I.ニュートンとL.ダヴィンチ,そうして,あの。 ルイ16世とマリー・アントワネットのカップリングをして,で以て,産…

文士遺るは,赤影の蜂の亡骸。

言うは曰くに,勿論,赤影の亡骸を以て。ジェット噴射するスプレー の,赤影の蜂と勝手におぼしく名付けては,あしなが蜂の巣を至る所, 勝手口の下駄箱付近や,物干しの蔭など,本当に至る所,けれども人の 通うところに秋の入口に立って,盛んに巣をこしらえ始める。もうすぐ, ムカデの居なくなる頃と安心していた矢先のこの蜂の大軍である。なので 奥さんは『蜂は宇宙の賜物』と,蜜を造らない者たちに限っても,殺虫は 反対なのだけれど。かと言って,刺されて自分が死んでしまっては。もう, こんな漫談のような対話を続けて購って貰ったジェット噴射するスプレー。 これがモノ凄い迫力で活躍するものだからビビってしまった。それはもう, はたきでホコリを払うのとはまた違うのだけれど,悪い虫を追い払う,こんな 無邪気な冗談は止めていただきたい。ブシューっと噴射しては追い払うのだから。
そうやって,ベネディクト派のグレゴリオ聖歌などを引っ張り出してきては,また スピリチュアリティに元の所へ戻っては,残酷性は,また少年性や,精神性のなかへ 克己して敢闘して還ってきた自分の居場所は,ジェット噴射する蜂の駆除スプレー。 最初はムカデのスプレーで弱々しく,シューとして対応していたものだ。往々にして, 毒素の強い害虫には同じような効き目があるのか,ムカデのスプレーには,ゴキブリは あまり効果のなかったのに,蜂の群れに関してはポロポロとこぼれて行った。虫の息。 家を護る,とゆうのはこうゆうことなのだなぁ。何故かしら,遣ることもない日暮れに 一応の充実感とアクビを共にして,グレゴリオ聖歌を聴いていることも忘れては, その,残酷性の還ってゆく,何かしらの古里,それは,スピリチュアリティ,少年性。 何か,花の開花してゆく兆しを見るようで,その瞬間には,きっと芳香もはばからぬ, 方向さえ見境いのなく,スパイシーな醇風は,漂い飛散してゆくのだろう。まるで,あの 夜更けに視る灯り。ぼわぁっと夢の中で訪れた芳香は,そうして,夜の頭脳に拡がって。
残酷性の還ってゆく場所。これは,秋の爛熟したイチジク。イチジク以上に,林檎の あのコンポートに自然必然成ってゆく燦々と陽光の秀でる,スパイシーな芳香には, 爛熟するからこそ蜂の駆除も始まるし,それくらいのスパイスのあるから,だから。 残酷性は,スピリチュアリティと少年性に別れて,夢の旅…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

存在有憂なる,饂飩啜るは,雪月花。

太宰のロマネスクを読んでいて,感化されてしまった。何故?
ホラーとも取れるそのロマネスクを,何故?文学の存在有憂なる,
饂飩啜るは,雪月花。主夫=シェフの響きを共有して,彼の同音異句,
抹茶の粉を熔かせばグリーンティーに変ずるかどうかは露知れず,あの
初夏には必須とも思えず,晩夏には必需なくてはならざるモノに変わる,
あの宇治抹茶の香りを,念頭に浮かべて寒くなった。一気に,布団に。
なんだかもうロマネスクは,内面の浪漫を破壊するような,そうして。
破壊された内面は,ロマネスクの外面をさえ,情緒する妙な懐古主義に。
変じさせてはただ,歯磨きを促す,早く寝室に穿って,虫の音を聴いて。
どこの横になっていても,またブランケットをさがすそんな回帰趣味に,
僕らは,やっぱり冬の絨毯に,雪のブランケットふんわり被って,やんわり
寝ている。

トランペットにキノコのようなヘッドを重ねて,あのトンガリ帽子の月みたい 壊れた電球の覗き込んだ穴の中に見られる,あなたの眼は節穴か?そんな,この 存在有憂なる,饂飩啜るは,雪月花。ウラン・ガラスとゆう彩色された蛍光に, やんわり緑に光るそのガレなどのガラス工芸をみた時に,正直ウラン・ガラスの 光りには,希望をみた。これは雪のブランケットにやんわり寝ているその切なさ, 切なさと言っては失礼だが抹茶のグリーンの不可思議に心に灯るそんな工芸。
酵素ドリンクとゆうのは,果実などと砂糖を寝かせて造る,栄養高価な賦活する 決定的に有効な健康飲料らしい。とゆうのは,そこに焦点を持っているのではなく 『椰子の実』の唱歌に戦後の弔いをみたように,何故か,アカシアの雨を聴いた時, 心に響いて,そんな黒茶などを酵素ドリンクと合わせると本当に美味しい晩夏。
切なさ,これが重要ではないのは解っているし,それは,消化過程の確かなる中心では
ない,切なさはどちらかとゆうと,並木通りの並木のような,桜並木の提灯のようで,
ただし,梅の甘露煮や,リンゴのコンポート,クリスマス・シュトーレンのように,この
切なさは,季節を彩る何らかの”情緒”である,なので,情緒は,スパイスらしい。何かの
切なさは,哀切とも言って,消化過程を握る,カギのようなもの。確からしいパワーより,
切なさはさりげない消化のカギ。

太宰のロマネスクを読んでいて,感化されてしまった。何故? ホラーとも取れるその…

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

頻繁に遣って来る氷雨は,もうすぐ。そんな事,考えてた。

テレパシーとゆうものは,知らないのだから言えるのだけれど Wi-Fiと何の違いや区別があるとゆうのか?そんな事は知らない のだから言えるのだけれど一度夢の中でだったのか露知らずも 大きなスペースシップを観たような昨今経験をしたものとして, テレパシーに対しても,急にディスるとか,なんとか言うのでは ないのだから,何の意味もないようなことなのだけど,そこは,きっと 文学の中にある,発信機とゆうような,ロゴスと詩情の何らかの,その 発信機の何がしかは,多分そこには,サイコキネシス。対になって言われる その,半端にはない,なので,発信機と=サイコキネを結ぶ何か,ここに。 念じることを,言葉と重ねる,この何らかの真実について,Truthを考える。
『椰子の実』とゆう童謡がある。僕は,戦時中の何かの記憶を晩夏に促され 茫然としながら,ただ薄い眼でその白眉たる,うたうまいの童謡を聴きながら, ただ,促される,追憶=追悼の何らかの仕草や,言い訳や,記憶の引っ掻きは プライドのように,誇り高きヒューゴのように語られながらも,それはただ。 スセリの膝枕に横たわりながら,まるで堀氏のそうされたように,あの。追憶は ただにゆかしき袴の折を踏みつけよ。発した言葉は啖呵と共に,サイコキネになる ロゴスと想念を繋ぐ何かなのだ。追悼の想いより鼻について離れない遺香 の中,ただ,念珠持って葬る気持ちの中にはそこにロゴスのサイコキネシスに繋がる 必須の要件。あの案件は正に先祖返り。先祖返りこそが,世界を解く鍵。真面目に, 弔い,悼む気持ちを持とう。先祖返りする気はなくっても,もう先に進めもしない。 こんな歴史を持ってこれから産まれてくる次々僕たちの記憶は,進まなくてもいいので 追悼の想いを持つとすればここよりのサイコキネシス論争。
なぜ,ロゴスから発展して,テレパシーを介して,サイコキネシスに這入るのか。と, それは,ただ歴史を持って産まれて,経験を積んで悲母の眼差し以て,当然の事なのだ。 その当然の事を以て産まれてただ得たい,そう願うからなのか,ただに追悼の記憶を, 逆らいながらも慣習よりは,文学に,そうして,エンパス指向を体質に抱いて,惑い, そこより,文学が,身体に降りるのだ,文学が心に折れる,と言っても良い。這入って, 入って来てくれるのだ。当然ながら,卑屈ではある文学の折れた節度の哀切…

残暑過ぎる晩夏夕暮れ。

この頃の季節の暮れごろには,25℃の冷房を掛けて,
贅沢にJazzなどを試聴しながら,ウーロン・ハイは,むしろ
ウーロン茶のままのほうで良い。などと,心地よい空調のあの
送風もとに気を傾けながら。干渉帯のなかでも,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
だから,干渉帯のなかでの自由,このすれすれの,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
ウーロン・ハイは,むしろウーロン茶のままのほうで良い。
など,心地よい空調のあの,送風もとに気を傾けながら。
なので,干渉帯?それは,肩のコリや,肝臓の疲れとして感じる
ピリピリとしたシビれのような。多分,町場干渉帯グリッドの
ここまで地域共同体を意識して,更に理解してしまえばピリピリの
そんな浮腫のような要因なら,理解してしまえば本当に愉しみに。

段々と,地域とゆうものの愉しみの感情的に受け入れられる気の,
確かに,楽しみながら理解のできる,そんな町場共同体意識の,更に
いつの間にか部屋の暗くなっているのに気づいても殊更不安感も煽らず
キーボードを打っていられるのは,紹介して頂いたエディ・ヒギンスの
ポートレイト・イン・ブラック・アンド・ホワイト。この試聴を隈なく
さらっては,さあ,このグルーブ感を,町場共同体に致して活用共有して
ゆきたい。春の夕暮れにも似て,晩夏の夕暮れ時には,まるで花の匂い。
なんなんだろう,夕暮れの安らぎは,ああゆう杉木立のロマンスにも似て,
本当に杉の香の,豊かにしてくるこの彷彿とした,ロマンスの行方。僕は
杉木立のロマンスとダンスしている。むせび咳の出る,あのロマンスと。
太陽光は干渉帯をつくっているのか,本当に昼間の明りとゆうものに,嫉妬
ならぬ,この卑屈な憧れと敵愾感,昼間の行動スタンスとゆうものに対して,
無理解を示す,感情的なロマンス体質にはもう。理解できないよりも,この
理解のできる,すれすれの干渉帯のなかでの自由。夕暮れの杉木立ロマンス。

なので,干渉帯?この不自由さを感じる,妙な木立を揺す振る風の強烈さに,
妙な研究意欲をそそられる,もうその干渉帯は,感情的にむしろのセキュリティ。
物質肉体上のそれは制限によって,把握しておくべき物質肉体上の不制限の,
やはりそれは,干渉帯自身の感情体を護る何かの自由。干渉帯自身の護…

堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。

眩惑と憧れの,心のフィルターの無さより産まれる,その ロマネスク。阿波踊りも,堀辰雄氏も僕にとってはスセリビメ。 原初の発案を物するヤガミの芥川先生とは打って換って,それは 酷い言い方かもしれないけれど,心のフィルターを除いては,あの カオスとラスト・ダンスする陶酔のそれはやはり眩惑と憧れ,では 理想と共にあるロマネスクとは,一枚ぐらいフィルターを付けて, やたらめったら泥酔までして昏睡にいたる文化的陶酔よりも,もっと 先にある,肝臓のほどけてゆく心地の,ロマネスクとは理想の堅牢さ。 酔ってしまう,いいやゑひもせずなので,もっと浴びるのは冷水泉で, 堅牢な理想に護られた空間を,堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。 源泉は不純だ,って詩人は言った,確かにそうだ。不純だからこそ見詰め, フィルターのあるからこそ湧き出る泉は飲用水になる。ロマネスクにとって 理想の堅牢さを求めるのは,願いによっては独り室の中で眺める積雪寒椿。 寒いから手袋を嵌め,靴下を履き,布団を被り,外を見やる。だから, 理想のロマネスクにとってのフィルターとは雪被りのようなもので,白雪は愛。 フィルターの付いた陶酔をロマネスクと呼び,あのカオスとダンスする季節は その季節自体をあらわすのではなく,頭の中から呼びかける人間頭蓋の神秘。 ただ,つらつらと滴る雫。
都市においては町屋の意識は本当に理想的である。あるからこそ,ロマネスク。
文化性を護ろうとして,芸術は自然を模写するし,文化を守るために,彼らは
行進を続ける。耽美だ。言ってはいけないが,堀辰雄氏の文学は耽美でもある。
文化的に耽美である。1つ飛び跳ねて文化→芸術→耽美の境をひとっ跳びして,
都市的な町屋意識にまで飛躍する加減,非常にユーモラスで恬淡と無頓着。その,
そんな感じに見えて,再び太宰の視点を持つのに,ユーモラスではあるが”堀”は,
溝の深い崖っぷちの神を識っている。知己であるからこそ怖いし,ライバルとしては
敵わない。敵に見えて,敵に見えないから,ユーモラスで,無頓着な天衣無縫。
スセリ-堀氏と言ったからには太宰-大貴己は化学の結婚を申合せて疾く論調高き登壇し。

『芥川氏,芥川氏のストレート・ティーは美味かった。美味かったのだけれど,  堀くんは,ロイヤル・ミルク・ティーを初めて造ってくれた。ちなみに私は,  似たり寄ったりの…

イザナミ考と,MEDIAの産褥。

ヨーロピニアリズムは,イザナミに源流を持っている。その,
大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=推古=持統=光明の女神を,
羊飼いを導く,聖ガブリエルやイザナミ太母として捉えて,
かたや,ヘッセ=セネカ=パスカル=ブッダ=プラトン,
=アッシジのフランシスコ=ジャンヌダルク=エリザベス1世,
=アウグスティヌスの系譜を,受胎告知されたマリアとはして
ヨーロピニアリズムは,イザナミに源流を持っている。その,
彼の太母の事を,また比婆ともゆうらしい,その比の字の表す
トランスジェンダアな何をか想像しては,植物的スピリチュアリティの
彼が男性として現われたとしても,やはり彼の本性は大谷崎のような
文豪として姿を顕すのだ。なので,善悪の彼岸,この源流に差掛って,
ふと,僕自身の源流体は,太宰=弘法大師=聖武=九郎義経=今川義元,
=ダヴィデや,また=龍馬などのオオナムチ的な嗜好で遣って来た帰来の
あるふとそんな最中,やっぱり源流を見定めるとして我が定めし源流体は,
堀辰雄=平清盛=嵯峨天皇=南洲翁=信長公=フビライ汗のような浪漫体,
決して誇張ではなく,人間性は肝臓を壊して一向にむかうのは,堀辰雄の
浪漫体に間違いには如かずの,このロマネスクである。

ロボ王国だ,この差掛った王国はロボの支配下。古かしい言い方ではあるけど
ロマネスク機械化風情を物足りず眺めるのなら,植物的スピリチュアリティは
何らかのMEDIAを産み出す産褥のロボ帝国であるはずなのだ。自由はある,その
あるはある,がしかし,統制管のない訳ではない存在するとゆう事の中にこそ
コントロール能力の秘められている。自由は,機械化したロマネスクのいたって
自然に醸し出す存在論管制塔なのである。ロボ王国まで差掛れば半分捨て去った
肝臓先生の繊細な機微の感受性において,もう既に,イザナミの宇宙芸術観にまで
いたって静かな,木目調の香りを融出させているその光りは手すりの木ヤニ。
いまだ女性性の本質まで肉薄のできない道すがら,これくらい言葉尻の上でしか
イザナミ考の接近は出来ないことのやはりロマネスクは近親のダンディズム視野に
配下として置かれているの節を持って,たばこも遣らない,お酒ものまないのなら
勝手なものでそんなものなのだ。ロボ王国まで差掛れば半分捨て去った
肝臓先生の繊細な機微の感受性において,もう既に,イザナミの宇宙芸術観…

男もすなる日記のココロ。

一度,思春期あたりなのか,その辺から肝臓先生の一気に
収れんして,縮こまってちぢこまって,僕は地球まで拡張。
記憶は,全部ガイアの何とかのような巨大な感性まで,
ひろがっては記憶の裡に融けこんでしまいそうな惨めさだった。
それが,肝臓の花が咲いてイソギンチャク。何だかパァーっと,
一挙に肝臓先生の緩んで開花したような感じがして,僕は地球大より
本当のミクロな僕自身に戻れているような気のする,肝硬変とか,そうゆう
陰性の何らかの疲れなのか。疑ってみても診察を受けるわけでもないし。
肝臓先生開花の巻と思って,感受性の一枚岩になれた感じにうひうひ喜んでる。
記憶の地球大に縮こまっているときはそらぁもー大変の一語。記憶の記憶でない,
そんな未知のヴィジョンの度重なって,独りで前世ゲームなどしては,例えば
早見転生譚などゆう,転生表みたいな文学ファンとしてはあくまでもファンタジー。

本当に肝臓の花が咲いて一枚岩。本当は,大分委縮してしまっていたらしい。そう,
記憶とか,感受性の管理番人のヴィジョン統制は本当にパニックだったのだ。例えば
パニックだったのか,卵を温めて孵化させられる堅い皮殻で覆われていたのかも知れない。
だから,ようやく男もすなる日記とゆうものか,エッセイや肝の据わったお話しの
始められ始まるようなだって,今までは”季節感グリッド”と言っては何だけれど,
本当に薄い皮いちまい,白身卵黄にひっついているような酢卵のような漂白さだった。
肝臓の開いて,今のいままでロマネスクとゆう言葉の表す物事は,自然や,クラフトの
そういったシックなロダンの彫刻のような荒削りでもあると思っていたけれど,それが
今度は,もうすぐ本当に魂やハートの中に核となるコロンブスの卵らしき不退転の,その
嗜好めいた思考が産まれる気のする。

それが普通なのか。薄皮いちまいロダンの彫刻にも地球全体の感情で挑んでいた不可思議
その頃よりは,実際に大原美術館などのヨハネ像を確かめて,大蛇のように巻き付いて。
あまりにリアルでコピーではないかと言われたが,実際には一般人体の何点何倍かの比率
で大きさは芸術品として完全な基準だったらしい。実際には人体の二倍くらいの基準で,
僕も気付いたら芸術品自味ていたいのだ。そうやって彫刻の品位をロマネスクではなし,
リアリズムで捉える心地,日記やエッセイで表す日常の起…

お盆過ぎれば穂の影当たるそうめん流し。

お夜食に,納涼のそうめん流しでお土産に貰った,そうめん。 轟く勢いのなかで進む,この時間の流れ=工業製ロマネスク。 まるで時間の流れそのままのように喉元へ注ぎ込めば,また 工業製ロマネスクとは,お盆過ぎれば穂の影当たるそうめん流しの, 多少は暑気あたりに関して,平和になって来たのかとゆうロマネスク。 花火は巨大で,轟音で,その町の主催している豊かな豪勢さでは, 余りに,豊かさを感じてしまって,帰りに『学生時代』などを聴いて, 涙していた。実際は,岩戸開きのように何故かしらの哀しみを過ぎ, ドンドン,とゆうリズムに腹の底ビートとゆう変な快適さを以て, 本当に,すっきりもして帰った感情もあるは,あるし。本当に,この 豊かさを感じて涙してしまうセンチメンタル・カテドラル感傷は,すぐに 返って,理由もわからぬまま陶酔してしまう,こんな空調も付けずとも, Tシャツを着ないで汗つららしてくる最中にも,さっき『○○チャンの, Tシャツ借りたんだけど,チャーシューみたいな匂いがして。』とアンニュイな 笑いをお互い交わして,深夜さなか,お夜食をはさみながら蒟蒻シップなる お手当の手伝いをしてBlogを書いている。パートナーシップに蒟蒻シップ。 こんな,空調を付けずとも過ごせる夜半に,冷たい汗を感じつつ,イメージの 裡にある,豊穣の収穫祭は,段々と身勝手な寂しさを募らせてきて,僕達は, 本当に,身勝手だ。
平和の裡にロマネスクを抱く感受性の確かさは,確かにヒューマニズムの礎かも, 知れないのだが,しかし,初秋のスタート地点に腰を降ろせば,なかなか空砲を 手にして,秋のスタートを切れない。鳴らしたとしたら寂しさに心臓の破裂しそう。 寂寥とした収穫祭。なぜ稲穂はあんなに熟した金木犀の香りと共に凛として切なく 気高さの中に強さを,稲穂の強さを蓄えているのだろう?この栄養源は私達の礎。 犠牲とは,稲穂のセンチメンタル・カテドラル感傷にも似て,すぐにこの強烈な, パッションを,辛口の清酒のような果実の鋭さのようなトゲトゲの酵素を感じさせて なので,これこそが感傷なのだ。そうして,この強靭な感傷と共に訪れる,奉仕の 気念,『アツイ!』と身を起こしたパートナーの,『あ,蒟蒻のドノ辺が?』と, 近づいてシップを動かそうとすると,いや,このシップは熱くないんだけど,寝ぼけて どうしちゃったのか?だか…

季節感グリッドする朝露一滴。曖昧普段の日常より

もうはや秋めいた気持ちさえする,晩夏の入口に立ってみては 空調さえ知らない童子のように窓を開け,実際には熱中気味に なっていることに気付いて,冷室茶房=曖昧普段の日常より,正直に もう何らかの自分の題目のようなマントラひとっつ,自然一体化と 称して,季節感グリッドしていれば良い。そんな,ただ朝露一滴飲干す。 熱中するなら,されるより,自ら少しばかりトラウマなど何かにつけて, エンジンを掛ける,ターボ・ジェットのガソリン燃料などにして熱中して。 そればかり『何故か,こんなに最近暑かっただろうか?』その最近はいつの 事なのかはわからないのだけど。冷室茶房に這入って行かないと過ごせない。 熱中されるより何かに付け,熱中していたいとゆう想い。色彩原像とゆう, 色合いに全てを見出すとゆう二次元的な発想,はなはだ,冷静で平安な。 二次元=冷静さ,と。三次元(立体的)=熱中作用と。こんな,外側より, 頭脳の煮沸されると困るのに,ここは何故かしら,平面的より熱中していたい。 でも,もうそろそろ。季節感グリッドとゆう,朝露一滴飲干す心地の優先されて 冷室茶房=空調の効いた避難所的室内で,ウーロン茶など呑むので,平面的で 冷静な,いたって平安な心地で,平穏なシェルター生活=熱中症予防の避難生活 をして。
ここまで言って想うのは,暑い時は動けない。動けないのは,電気を用いないと 動けないのであって,こうして,水風呂でも抑えつけられない熱帯性気候の,また 熱中症に罹っていても,何かに没頭している自力熱中でも,やはり冷静さには,事を 欠くようではならない,ケガをしたヘミングウェイ,入院中の太宰治の,あの感傷。 この甘露の滴を緑茶で割って頂くような,感傷体,あの緑茶カテキン感傷態に浸って, もう,どうしようもなく曖昧普段の日常より,夢見心地な自然愛好家の浮世遁世態。 それら,甘露に酔うようなノームの鉱石性アートマ感傷態で,カッチコッチ鉱石採掘, 香水のような匂いのしてくる採石場では,ただ鉱物とゆう堅い思考の蓋を取るべく, ノームの妖精たちはココロの扉を開けようとしている。鉱石を言葉に換えて,採石は それをなりはひとして,言葉に,言葉の気体液状のエーテルへ,鉱物のアートマ思考を 変質させている。この高貴なノームの鉱石性アートマ感傷態を,浮世遁世=曖昧普段の 日常より変換させては動き出す。河の…

知覚の攻撃性=色彩の安らぎ。その眼差し

AGGRESSIVE=CONSOLATIONを結ぶ何かの,そうして, 知覚するとは,アストラル・レヴェルにまで制限せよ。と, 色彩は,色欲とつなげるのではなくて,鎮静作用に用いる。 落着き払って,民芸の器などを眺めやる,没香のにおいとは 夏風は,夕立のおこす涼しさを持って来ては,落ち着き払って 民芸の器などを眺めやる,没香のにおいとは,バジルの香り。 ひとの裏を掻いては,冷や汗をかく。そんな危機管理作用を いつも裡に抱いては,飛び込む滝つぼの納涼遊び。こんな, アウトドアなレジャーは,サヴァイバルな何かではなく,やっぱり 暑さを寒さによって取り除く納涼の何かであるのであって,そこは ただ,アイス珈琲をのむだけでも良い。だから,裏を掻くのでは 持たないから,覗き込むのは滝つぼではなくって,器の底にしよ。
心得としては,喉仏に何か詰まっている位の良いとして,なので 視界を死海として,濃度の濃い浮世として,うつろな目でも視る。 座った眼をした,そんな清濁併呑ならぬ,清濁両視するあたりの いちばん良い。座った眼をした,視界にこだわらず,眼を意識せず。 直視するように言うけれど,知覚の世界から,或いは知性の領域より 戻って来て,まず視るそのリアリティは,繊細さよりもっと,極彩色。 そのビビットな世界に持っていかれないように準備してきたのだから, 腰に碇を据えて,落ち着く,陸の上。思った以上に,感情や意思は, ”色彩の”アストラル・レヴェルではドラマティックに創造的だ。また, 視界を直視すると,あえて”直視”すると,観念的に,喉仏の座って来る。 平凡だ,そうして朝日の匂いだ。クジラ雲は,蒼穹の四海を漂い渡って, 筋雲の潮騒を遺して,旅立ってゆく。ざぶーんと着陸する,喉仏の船。
知覚の攻撃性=色彩の安らぎ,それはヒステリックな大海より戻って, 陶器のざらざらした湯呑に注がれた煎茶をくゆらせながら,茶柱の数を 指折り見詰める,何とサンチャゴの落着き払った姿だろう,その眼差し。 ドラスティック,こんなフレーズの浮かんできて,ヘミングウェイの, 或いは上品な詩聖のツルゲーネフとの対比を想っては,ロマネスクの ハードボイルド寄りの変遷,彼らは繋がってゆく。連綿と,歴史の渦中, 白い狼は,そのまま白いクジラ雲へ,一本の茶柱を見詰めるサンチャゴの この白老の湯治や木工を思わせる何らかのド…

水風呂と冷室茶房,集合意識の氾濫。

晩夏に,いたって静かな,水風呂と冷室茶房の爽やかさの, それだけ,あれば,それで良い。いずれ,暑気あたりに, 夏も終るころ,アイス・ブラックの欲しくなって,集合意識は 氾濫する。いたって静かな,水風呂と冷室茶房の爽やかさの, それだけ,あれば,それで良い。蟲の神とは言うまでも,ほんとに かれら暑気あたりの名残は,いつまで経っても現れ吹き出てきて, 『悪神の午後』を,それぞれ謳う,それはまるで,裏側の人間性。 ゆくゆくヴィーナスにさらわれるまで,多分僕は,悪神の踊りを 徹底的に続けているのだろうから,その姿はきっと,嘆息と自失。 茫洋と自失しながら,こう自問しているのだろう,『”我”は何処』。 暑気あたりは,夏バテとも少し意味合いは違ってきて,イライラでも, くすぶるモヤモヤでもなくって,何だか,自分を忘れたような。その, 茫洋と自失しながら,こう自問しているのだろう,『”我”は何処』。
だから,とりあえずは,ブラック珈琲を淹れて,微温に2,3個氷を, そうして,グイッと呑む。冷静になって,そうして,次第に冷静に。 ただ,呆然としていよう。本屋に佇んで,どこ吹く風?とぼんやり, 背表紙よりも,書棚のその,樹ではなく森を,ずっと眺めてよう?そう, 落着いて,投げかけるのだ?もうすでに,自分は梢の猿のような気がして 論語を観ながら,リンゴはどこだ~?魔の山をなぞらえながら,笛は? どこ,に自分がいるのか?やっぱり捜しながら,珈琲の効用の切れるまでは とりあえず,歩く速度を一定に保ちながら,本のあいだをすり抜けて行く。 クラシカルにロマネスクな,ウッディ―にスモーキーで。あとは,テンダネスな ステーキのローストされた,クッキー・モンスターに,ダスト・ボックス。 黒人霊歌の謳われたハーレム・スクエアに親い聖堂を眺めれば,ふとトリップ。 いつぞやの,いつものではあるのだけれど,自宅の冷室茶房を用意しつつ,また。 水風呂を,無塩素プール。無塩海水浴と銘打って,もう身も蓋もない。ぽっかり, イントネーションは,インター・ネイション。集中して安らぎ,時に攻撃的な, 魅力的な時間を過ごして,集合意識の氾濫を抑えている。蛇足だけれど,集合意識は 僕のものではあっても,占有率0.1パーセントに満たない,ごく低い所有率で、無論 コントロールするより,『集合意識の管理人』とは,明らかに詐称…

ゴーヤのシャキシャキ・アカシアの雨の止む。

解ってしまえば,それまでだ。アカシアの雨の止む。本当は 沢庵をかじるようにして,ゴーヤのシャキシャキをつまむそんな。 例えば,織田信長=堀辰雄=嵯峨天皇=西郷隆盛=フビライ汗, そうして,平清盛像のいよいよ現われてきて,さあ,沢庵をまた かじるようにして,アカシアの雨の止む。織田氏の巫病めいた何か, この,ヴェールのように,R.シュタイナーのメルヘンを聴くように, 掻き燻る雨煙のような蒸せる何かのメルヘンを,その氏の薫陶より 聴いている。雲煙,こんな言葉さえも嵌ってゆきそうだ。そう何かの, 肺病に閉ざされて,何をか想う。雨煙も肺臓の中も何もかも良く似て。 いよいよのグルメは軒下にぶら垂がるゴーヤのチャンプルーを咳込み, 咳込みしながら頂く夏風邪の最中。雨も燻って,皿より湯気も揺蕩って, こうして,ぐぐっと,梅のエキスなどをウーロン茶で溶いて呑む心地。 こうだ,こうでなくっちゃあ,菜の花畑を,『草枕』の冒頭,茶屋まで 歩く,あの心地。山間の湯屋に着くまでは時間のかかるなれど,この旅程を 随分に楽しんで歩く心地。病は気から=”気は病”なれば。
この,肺病の転生譚を眺めるにつけ,自らそのテーマを持ち込んで本懐と, なしてゆくゆく道すがら,何がそのテーマなのだろう?この魂の,何をして 救いの神あらば,或いはまた転生を終えられる鍵なのだろう?こんな想像, 肺臓とは,やはり呼気を扱い吸気を求める,”自分のなかの他者”であるのは 例えようもなく違わないので,だから,他者の関わりとゆうテーマを扱って, ”犠牲”=無論,己を無にして人の役に立つ。このテーマを終えて,彼の願いは 終るのだ。何故,人の役に立つ,そんな願いを無意識下にまで持ったのか? 悼みや,優しさの追及,時には両刃の傷をもたらすような,その優しさ。では, 優しさ全般のテーマに往けば,彼の魂は救えそうな気もする。おこがましいので なかなか言えないのだけれど,自己放棄よりの,身魂的な入換え,こんな目的を 言えば,ウォーク・イン=たましいの交換の起きる時の,世間の抜本的な入替わり。 こんな目的性を,きっと肺病や,彼らの脱世間的趣味は伝えているのだろう。この 無我の起こす,魂の入替え,それじゃあ,もう大丈夫だ。何度,気絶放心して, この世の世情と四肢身体を入替えしたことだろう?今となっては,無我恬淡として, まさしく幸福以外…