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思い位しかしながら。

想いのあるたけあるのが良い。重い位しかしながら。
流動的でフラペチーノのようで,さらさらと吹かれ,
考え深さはいずれ,風に吹かれて世間に同化し
想いのあるたけあるのが良い。重い位しかしながら。
砂の鳴き浜とゆうのはあるけれど,あのぐりぐりずるずる,
砂の鳴く時の動き始めた,風に吹かれて世間に同化し
考え深さはいずれ,想いの重さに,その優しさに気付くから
システムは思考すると,胸腺の世間ヒステリクスを破滅してから
脳内の原始脳へ参入し,いずれ,風に吹かれて世間に同化し
流動的でフラペチーノのようで,さらさらと吹かれ,
想いのあるたけあるのが良い。重い位しかしながら。

平和は,とどのつまるところ,思考も消滅して,それから,
感情も控えめがちになり,業の泉に浸かってすべて。あんな
消化して,世間に昇華してゆくものらしい,多分昇華するまで,
時間がかかることが楽しい,とゆう芸術的領域。そうして,
時間の裡にかんがえていたすべての恐怖やコダワリのすべての,
死や,眠りの内の安息の安寧感の,これを失うことの不安などの,
考え深さはいずれ,想いの重さに,その優しさに気付くから
システムは思考すると,胸腺の世間ヒステリクスを破滅してから
脳内の原始脳へ参入し,いずれ,風に吹かれて世間に同化し
平和は,とどのつまるところ,思考も消滅して,それから,
感情も控えめがちになり,業の泉に浸かってすべて。あんな
熱いお茶を持ち運ぶときなど本当に,マグカップだと把手の
あって本当に良い。ましてや,風のよく吹く夜などに,カーテンの
隙間をかいくぐってはスープなどを運ぶときは殊更マグカップだと
把手のあって本当に良い。”便利さ”=”伝統”=”文化的思考”の上で,
歴史は本当に標準時を据えて廻ってゆくけれど。そのなかで,内時間,
その芸術的領域。脳内の”世界”は順風とゆうよりスパイラルの中を,
逆行して進むただ達成感のためだけゲームする本当に”遊び好き”な
モノずきとも言える享楽スピリットだったりするから。グロッキー。
そのヘトヘトのモウロウトシテくらくらと迷惑をかける瞬間に正に。
その時に”歴史的時間”=”グロッキー”=”瞬発力ユーモラスな何か”の
発動する,内時間=外部時間=ほどける懐中時計=歴史=世界の動く,
その瞬間に”物質”は砂の鳴き浜とゆうのはあるけれど,あのぐりぐりずるずる,
砂の鳴…

酔醒めのアカシックス

以前,友達のお家を訪ねて教えていただいた,カーっと熱く,
一時間で消化する爽快なお酒は何年も経って,ようやく自宅に
届けられる,そんな運びとなって,長い道のりだった。って,
それは,お酒好きが高じてとゆうよりは,マイ・オリジナル。
なぜ,三島文学にサナトリウムの影があり,坂口安吾の耀きは
真逆に放心された狂気を匂わすのだろう?そんなことの,一瞬。
腑に落ちた彼方には,堀辰雄の,マイ・オリジナル。あんな,
軽バン一台で,新婚旅行と銘打って,ミッションの僕しか運転の
できないことを承知して,夜10時から翌15時までの行程を,
遂には信州のビジネス・ホテルに到着し,豪睡仮眠してから,その
北杜夫さんの展示がしているなあなどと,横目にとおりすぎてから,
教会のキャンドル・ナイトに出掛けて,遥か自宅に奥さん互いに,
記念の感謝手紙を送り合う。僕は,もう聖パウロ・カトリック教会。
そのキャンドルの灯してある著名な場所よりも古いかしこの教会に,
翌朝自転車でたどり着いてちょっとして,不思議な違和感を。彼の
「木の十字架」の祈祷の緊迫した祭祀の場所は,何か違うんじゃ,
1度も訪ねないけれど,あれはユニオン・チャーチの方を指して,きっと
私小説とゆうのは,そうゆう造りかたをして,デフォルメ加工などしてる。
ビジネス・ホテルには,一室だけ残り予約の開いていて,不幸中のさいわい。
不幸とゆう,その旅行にしては場違いの言葉を二人で話して,ニコニコ。
ナビには,取って付けた良いものを使い,とは言え,いくら探しても,そう,
探してもらってもたどり着けず,ホテルのあるべき指示点を通った折り,
歴史好きなためか,孝明天皇と睦仁親王よりの「よろしく頼む。」とゆう。
なかば唐突な幕末の夢をみたりした,そんな, そんなことの,一瞬。
腑に落ちた彼方には,堀辰雄の,マイ・オリジナル。
以前,友達のお家を訪ねて教えていただいた,カーっと熱く,
一時間で消化する爽快なお酒は何年も経って,ようやく自宅に
届けられる,そんな運びとなって,長い道のりだった。って,
それは,お酒好きが高じてとゆうよりは,マイ・オリジナル。
なぜ,三島文学にサナトリウムの影があり,坂口安吾の耀きは
真逆に放心された狂気を匂わすのだろう?そんなことの,一瞬。
芥川氏=えびす顔の東照宮家康公のアイ・マスクに浮かび,あの
キリギリスのような面持…

エンパス指向あれこれ。

エンパスとは,きっと世界に繋がるための平和活動。 きっと,平和のためには”変化”すること。”変化”は, 楽しむもの,”遊び”とゆうもの,世界を変えること。 イザナミ,とゆう神がある。女神だけれどエンパス神。 谷崎=羊飼い=聖ガブリエルの,”遊び”とゆう,雪達磨。 エンパス=共感作用の強いヒステリクスのくびき。そんな とにかくも”変化”を楽しむこの共感作用の強い,そんな ヒステリクスのくびき。大画面のテレビは,紫外線も少ない そうして,不幸にしてもユーモラスに居られるかどうかは 素質でもある,素養のあるなしもあるはあって,しかし。 畑道を車で通り過ぎながら思う,街には街の,町には町の, 僕は邑(むら)意識で,すでに周囲に堀を穿って,精神の 縄張領域を造ってしまって。
エンパスとは,きっと世界に繋がるための平和活動。
きっと,平和のためには”変化”すること。”変化”は,
楽しむもの,”遊び”とゆうもの,世界を変えること。
はちみつミント飴や,大根生姜飴をなめて,少しずつ,人間の
業とゆうものを楽しむような,その破天荒な情感のことを,
拡張意識は,方向性としては正当だけれども,法則みたいな,
やはり,拡張意識=エンパス指向の故にも,機序順序のような

『ドライブをすることは世間を吸うこと。例えば,胸腺を抱いた。
 そんな世界胸腺世間を感じる前に,心の中に留める何か。それは
 ”楽しむ”とゆう,むしろ”遊び”よりも世界を変えるよりも,その
 先にある,”季節”は感じられるとは言え,怒りでは”ない”,その
 偶数の”16”ではない奇数の”15”。+1ではなくって,0.1。の,
 その先にある,自己の崩壊する前に,自らイザナミ・マスコットの
 キグルミを着てみるのは”神”に還る,”変わる”のよりも”還る”。
 エンパスの女神は,国生みのイザナミなのだから。』

イザナミ=谷崎文学の,面白きことを捜す,高杉晋作の奇兵隊。その
アケビの実を擦り下して,また紫の果皮に戻すそんな,アケビ酒の
製作においては,一分の危険性も感じなかった,エンパス指向。あの
徳川吉宗公の影に女神の映る不可思議な夜には,もちろん,経済的な,
そうして根源的な,不幸にしてもユーモラスに居られるかどうかは
素質でもある,素養のあるなしもあるはあって,しかし根源的には,そう
世間的胸腺のヒステリクスの拡張意識=エンパスに至る道程に常の日頃。


エンパスとは,き…

ミカエル=三島文学,その由縁。

『水浴びをして,攻撃性は冷泉に発露して耀く。もう,  ミカエル=三島文学,その由縁。ラディカルなのは,  決して,ブレているのではなく,過ぎた情熱を,出口に  追い放つと,すでにそれは熱源を持った,サディズム。  水浴びをして,攻撃性は冷泉に発露して耀く。もう,  すでにそれは熱源を持った,サディズム。なのは由縁。』
ミカエル,この,オーギュスト・ロダン,スウェーデンボリ,
フランソワ・ラブレー,ジョット,ウェルキンゲトリクス。
三島文学には,木戸孝允,サド侯爵,マッキャベリ,フラ・
アンジェリコの曳き波。獅子像を担って,現れたのは,あの
ミカエル=三島文学,その由縁。ラディカルなのは,
決して,ブレているのではなく,過ぎた情熱を,出口に
追い放つと,すでにそれは熱源を持った,サディズム。その
情熱は,熱源先行より,まさに出口を探して,覆水盆のような
強烈なドラゴン像だから,ミカエルの獅子,三島ドラゴンの
龍虎相槌つ,だからそれは,本来タオイズムのような顕れ。その
気分,気分的に守護する獅子像の中に,あってこその龍神台風の,
気分的に,水浴びをして,攻撃性は冷泉に発露して耀く。もう,
すでにそれは熱源を持った,サディズム。なのは由縁。その裡には
多分嵐も過ぎさるだろう。呑気に浸かる,もうすぐ清冽怜悧な気分。
もうすぐ出口は開かれて,サディズムは風鈴の風に揺れる。

『水浴びをして,攻撃性は冷泉に発露して耀く。もう,  ミカエル=三島文学,その由縁。ラディカルなのは,  決して,ブレているのではなく,過ぎた情熱を,出口に  追い放つと,すでにそれは熱源を持った,サディズム。  水浴びをして,攻撃性は冷泉に発露して耀く。もう,  すでにそれは熱源を持った,サディズム。なのは由縁。』
とにかくも身体の中のドラゴンは疼くようにして張切り揺れる。
揺れるのは,情熱よりの熱源ではなく心臓の入り口にもすでに,
ブルブルと振動数の強烈に高い何らかの巨人は待機している。
それは,ミカエル大天使の彼らは,とっても怒りに揺れた者とは
対置して遠く離れた,遊離性は活かして有るのだけれど,しかし
とてつもなく鋭利はそんな攻撃性を,これはスピリチュアルに高貴。
龍虎相槌って何処までゆくのかは露知れず,嵐は嵐を呼び,夏雲。
なので熱源は夏本来の季節感に任せておいて,本当に文学的な気分の
”あなたの顔をみるとお腹が緩むわ。”こんなにキャラクタ…

要求する梅塩飴に昆布茶。

昨夜は,お祝いにお酒の席に相伴し,酔っ払った。
本当に,酔っ払った。そうして,美味かったので,
今朝も何時間たったのか解らないくらいの深い眠りに
目が覚めて早朝,コンビニへアイスと塩飴を買いにとは,
思ったまでも,歩いてはゆけるけれど,なんだかお腹の
一杯でBlogの更新へと相成ました。

お酒を呑むのは今回は身体のロボットの解体してゆく, そんな涼風の夏景色の佇む案山子のような風体をして, 実際は還って頂く昆布茶の何と新な感じの味覚体験。その, 眠りが深かった,とゆうことに関して,一抹の不安を憶え, それはさながら私のファンタジー体験の記憶なのではないか? あまりに放蕩して気分が乗っているから眠りが深かったのでは ないか?もうすでに幸せを享受できるような感覚に僕はない, 何故か?結果は幸せではなくって,享受すべきは,むしろ安寧。 ずんぐり返って,深い眠り?そうではなくって,酩酊?いいや, セロトニンの多く出たような状態,夕立の後,夕立の後のあの, 湿ったすべてが太陽の遠赤外線に沸き立つあの,新米の炊き立て。
昨今の幸せは青春組合のところが多かった,今も実に多い。メディアは そんな感じなのだろう?そんな感じなのだろう。って言われてもきっと, 夢に見る山賊の訪れる我が家の盗難目的物は財布ではなく,きっと心。 ストイックさとは違うけれど,ファンタジーにはない,そんな期待感を しょい込んじゃう,イメージ力とはゆうが,未来予測や危険予知をもって 担ぎ込んじゃう。これはいたって,ファンタジー=幸せ体験,に対して, 地球規模のとぐろ巻く生命のエキゾチック・ダイナミズムを体験したい, それにいたって普通の身体の小ささをはめ込んじゃうので出来る,あんな イマジネーション=拡張意識に言われる今世紀の好奇的問題意識なのか?
そうして,ふっと,その問題意識に気付く。まだ,酔いは醒めないのだから, お腹にも何か代用したいとは言え,多分『散歩がしたいのだ,何か特別な。』 きっととっても良く酔っ払っていただろう。時間の跳躍して,パラレルな何か 特殊な過去をみたときのように,”幸福時間”を展開したそのアルコホリックな バトン・タッチは見事に今解かれていって,問題の散歩する奇想天外意識の 中を,ゆくゆくは『お酒を呑むのは今回は身体のロボットの解体してゆく, そんな涼風の夏景色の佇む案山子のような風…

概念嗜好のメンタルティ。

『月灼けに,踊りが意外とスサノオだった。稲荷ずし,
 頬張っては,女神とDance,それ以外にハーモニクスを
 大事にして欲しい,そうやって,地球は産れてきたのだから』
概念思考でモノを考える方が楽で,それはメンタルティとも言える。
ハイデガーの嗜好をさぐっては,夜更かしをして,聖バルトロマイの
彼の殉教にまで想いを馳せると,自分自身が月そのものになったかの,
憑きモノのような感じに浮かれてきて,ふと,朝のご飯だきなどに臨んで
我に還る。夜は蚊の這入ってくるから嫌なのだ。窓を明けずに意外と涼しい。
まだ5月だもの。やっぱり受容体としての人間性は健全にあるのだから。
我に還る,それはファンタジーの一瞬の効果。明るさは一瞬の効果で十全に
耀くのだから,いつも我に還る必要はまったくない,だからこそ,業の泉。
書物の渉猟には,私の前世はこれだ,と思えるほどの憑きモノに変化してみる,
あの没我的なひと時は必要なように,『我に還る』,この瞬間には,とどのつまって,
少し窓を明ける,その一呼吸の安らぎで十全なように。食事も相まって,そんな
それはファンタジーの一瞬の効果なのだ。

スパイラル構造を下に降りて行く必要が実は朝から昼にかけては有るのかも。もう,
夜更けにその上昇線にだんだん火がついて,身体は起きているのに眠っているような,
夜は未だにまだあけていないのだから,昼光灯の夜半もずっと燈いているそんな夜更け,
オリジナルに還られる『夜=私=外気涼風』の,そんな明るさには,まずもっての,昨晩
頂いたラーメンの味なんかを思い出しながら,スープ派か麺派なのか改めまして問たい。
もうずんずん,ずんずん降下して業の泉の最下層,一番の楽しみは芸術的領域のあの,
極彩色に拡がる熱帯夜の最中にある,ハイデガーが浮かんでくるのも,彼が最下層,つまり
我に還るより,『月灼けに,踊りが意外とスサノオだった。稲荷ずし,
 頬張っては,女神とDance,それ以外にハーモニクスを
 大事にして欲しい,そうやって,地球は産れてきたのだから』の,芸術的領域。
決して卑下憐憫の情とは乖離した,健全なGroundingしたモノとしての芸術的領域。
そのアイデンティティ=”本当の自分”は降下しきった,”最下層としての健全な自我の”
中に居る。これは,確かだ。もっと楽しまないと存在論は豊かに出来てこない。そう,
だから,業…

パパ殿塩味。

躊躇もしないで,”存在”は迫ってくる,躊躇したなら,
きっと,その”余韻=情緒=記憶”は一層瓦解してしまう。
未だ,瓦解しないで,”存在”していられる,だから,その
”余韻=情緒=記憶”は,感謝していながら,迫ってくる。
弟の,イスキリは,太宰治=坂本龍馬=今川義元=,
九郎義経=弘法大師空海であってとしても,兄のイエスは,
岡潔先生=伊藤博文=古田織部(中江藤樹)=道元禅師,
そして,=妖僧文観だったと言い放ってみても,別段決って,
変ったこともないし,”ある”とすれば,”存在”の呵責は漸う,
軽くなりはしないか投げる伊弉諾の桃の実であったりもする。
最近,格段に,その”余韻=情緒=記憶”の追ってくる何かは,
ヴェニスに旅して命を投げ出すアッシェンバッハ氏のごとく,
海の遠景に熔けだしてしまって見事に円満に,夏の塩飴のような
融け方をして何処かに遊泳されて行ってしまっている。なので,
もうどうしようもなくなってヘッセの独白を紐解く文豪の,あの
ロマネスクはきっともうどうしようもなくなって教養小説に落着く,
あの文豪の白髪めいた秀筆のように恬淡として豊かに彷彿とした,
ロマネスクは述懐へと繋がって,ロマネスクだけに活きられる彼の,
”存在論”によって,躊躇もしないで,”存在”は迫ってくる,躊躇したなら,
きっと,その”余韻=情緒=記憶”は一層瓦解してしまう。
未だ,瓦解しないで,”存在”していられる,だから,その
”余韻=情緒=記憶”は,感謝していながら,迫ってくる。どんどん,
瓦解してしまう”存在論”の執筆模様を,彼は見届けられるだろうか?
記憶は,うすめられ,情緒はカチコチ硬化し,余韻にひたる余暇はもう,
失われる。それは,きっと”存在の不時着めいた降下化”のようないたって,
美味しい料理に舌鼓せよ,LONDON ONE,とは言いつつも,美味しい?
それは,豆の粉で造られた煎餅ではないですか?もう朝焼けにはあれしか,
あのしょっぱい煎餅様のものしか欲しない。いまがた朝方だった心持ちも,
”存在”のさってしまった炎天下の憔悴の中では,でもやっぱり,豆の粉,
深夜更けるフィトンチッドの誘惑する小康状態のロマネスクにも,やっぱり,
朝は遣り来たって,もうすぐ,ロマネスクだけに活きられる彼の,
”存在論”によって,躊躇もしないで,”存在”は迫ってくる,躊躇したなら,
きっと,そ…

物質精神史。

脳内に”中心を置いて,”ゆくのならば,それはGrounding, なかなか”精神性と言って,”イマジネーショナルな道を一度通ってから 物質精神史のほうへ戻ってゆくのだから,ぼくのLONDON ONE=, 『漱石山人』の”物質精神史”の向こうへ。それは,多分,きっと。あの 太閤秀吉の藤吉郎より,キリシタン殉教の歴史へと辿り着く,惨劇のさま。 それを,LONDON ONE=『漱石山人』の倫敦の神経衰弱精神史による。 おもえば悲劇は残酷さの裏腹に支配=愛の可逆性を含む。つきすすめて, ひとのつよさをおもうのならば,責任や感受の思いやりの終着点は,彼の 可逆性=残虐さに裏を掻いて”存在”する,妖しさは,責任感の現れか。 思いつめれば”愛”に辿り着く,”愛”の可逆性は,牡牛の角の鋭さに似て, 残酷なオーラは悪魔性とゆうより”愛のつよさ”だと確かにはっきり認識。 『漱石山人』の”物質精神史”の向こうへ。それは,多分,きっと。あの 太閤秀吉の藤吉郎より,キリシタン殉教の歴史へと辿り着く,惨劇のさま。 オシャレとか,存在論の不屈さや。頑強なロマネスク。
お茶をすすって,一言おいては,その”愛”の鋭さについて,何かのシャープさの そんなベクトルの何処へ向かうのか,問いたいので,昨今『漱石の思い出』などで 描かれる夫人の述懐について言えるのは,『漱石山人』の責任感の強さは,文学よりも もっと何処か違う所にあったのではないか?太閤秀吉=藤吉郎=キリシタン迫害の歴史に そこを対置してよいものかは,確かな認識ではないのかもしれないけれど。そんな苺を ジャムにして,マージェリンとはさんで頂く留学時代の文豪の前身にある責任感。そんな 彼の可逆性=残虐さに裏を掻いて”存在”する,妖しさは,責任感の現れか。 思いつめれば”愛”に辿り着く,”愛”の可逆性は,牡牛の角の鋭さに似て, 残酷なオーラは悪魔性とゆうより”愛のつよさ”だと確かにはっきり認識。だから, 何かのシャープさのそんなベクトルの何処へ向かうのか,問いたいので, もちろんその先にはストーリーテリングによって,叙述してゆく物語りの破天荒さ。 時間の流れに置いて,脳内に”中心を置いて,”ゆくのならば,それはGrounding, なかなか”精神性と言って,”イマジネーショナルな道を一度通ってから 物質精神史のほうへ戻ってゆくのだから,急性扁桃…

「別るらば その趣味遺す 立葵のな」,

惑星地球より,すれば”中心はない”,つまり 『自然=形態=地運』を遂行してゆくものならば, 地球に”中心はない”はずだから,人間運営も, きっとそうゆうものだ。 中心がないほうが上手くゆく。そうだったら, R.シュタイナーの認識内容と,僕の精神史照合に, 七歳までは『漱石山人』,十四歳までは『太宰治』, 二十歳ごろまで『芥川氏』,青春期の終り『三島文学』に 未だ以て,朱夏の黎明には『F・ラブレー=ミカエル』期。 こんな物質~精神にいたるまでに相槌つ存在の声明にあって。 惑星地球より,すれば”中心はない”,つまり 『自然=形態=地運』を遂行してゆくものならば, 地球に”中心はない”はずだから,人間運営も, きっとそうゆうものだ。 中心がないほうが上手くゆく。そうだったら, こんな,中心のない人間科学もあって好いはずだ。こんな, ”中心のない。”
今の歳だから言えることだけれど,三十歳を超えて,すぐに侮れる, うぬぼれた歳だから言えることだけど,精神の後を曳く”引き波”の,それは のんびりとして目を瞑ってしまいそうな,そんな歳だから言えることだけれど。 『精神の固有性は無く,前世ゲームは,書物の渉猟。元来空っぽで居て,その 精神史に,成長過程の内分泌~脳内構造の比準などを経てゆく過程そのプロセス, 青い光照,工房の宝石~語るもの,言いわけ,しりふのなりはひに言い訳してゆく。』
惑星地球より,すれば”中心はない”,つまり 『自然=形態=地運』を遂行してゆくものならば, 地球に”中心はない”はずだから,人間運営も, きっとそうゆうものだ。 中心がないほうが上手くゆく。そうだったら, こんな,「別るらば その趣味遺す 立葵のな」。 遺影のような絶句を置いて, 旅に出た『漱石山人』の。 ホタルイカの沖漬けを置いて, お猪口に少しのこし,『太宰治』によって。 サマー・ランドに旅立った『芥川氏』の,そんな多分。 最期は活き造りのような『三島文学』自我の黎明。 真実は,ミカエル期によって, 『F・ラブレー』のパロディめいた言説の数々, それは認識内容?の精神史,その 惑星地球より,すれば”中心はない”,つまり 『自然=形態=地運』を遂行してゆくものならば, 地球に”中心はない”はずだから,人間運営も, きっとそうゆうものだ。 中心がないほうが上手くゆく。こんな,”中心のない。” 『精神の固有性は無く,前世ゲームは,書物の渉猟。元来空っぽで居て,その 精神史に,成長過程…

Drivin'Chant,

滑らす車のハンドルをひねらせ向かう山麓の,僕の 住んでいる昔から四ツ塚と呼ばれて久しいその”丘”と, 酷似して同じく四ツ塚古墳と呼ばれている,その”館”へ。
バルタザアル=アウグストゥスの試論をためしながら。 その現人のような”神”にしてヒューマニズム漂わす,その ”古墳”の主は,スサノオ=漱石山人の文学史の巨人,または 平宗盛=源実朝,或いはまた,怪僧道鏡=後醍醐天皇とも 極致にあって,その現人のような”神”にしてヒューマニズム漂わす。 一茶=太閤秀吉のようでもありまたも,それはヘロディヤの父の姿。 こんな現人のような”神”にしてヒューマニズム漂わす怪人のような。 仕合せ幸せ,現実問題,物質的にこんな遺跡群に住まわせて頂くのは 難有いのだ幸せ。そうして,やっぱり促されて問い直すには,”私”とゆう
定義は,元来精神史対照の中にあって,精神性のヒエラルキアを,感情や 倫理や,生理的な位階の裡に分担して受け持つのが精神史であるのだけど, 例えば,物質的には”漱石山人”の情緒的に”太宰治”に理性的には”芥川氏”の そんな階層を以て,真実が降りてくるとすれば”三島文学”だったりする,その さらに,Geist=精神性の類になれば,”F・ラブレー”などの諧謔的なミカエル。
するすると繰り返し僕の精神史対照の裡では文学史の繰り返されて,時には ゴッホや,ピカソも出来てくるだろうけれど,そんな繰り返しである。とも, 思っていた。時に川端康成先生の現れては,五輪書を拡げたりされている。では, その精神史対照の裡に”個性”は何処で顕れてくる?正直,科学的には論理性を以て, しかしながら,でもそうでもない何だかモヤモヤとしたこの感じ。だから,
そうして,やっぱり促されて問い直すには,”私”とゆう定義は,『生命の存続』。 もしヒエラルキアの中に,生命性のあるとしたら,腹に据わっている,そんな,その 『生命の存続』を促す霊性を”個性”として定義したい。そうやって,『生命は存続』 されて来たのだから。地球上に身体を持つ,緑と水と土と風のその『存続』。
滑らす車のハンドルをひねらせ向かう山麓の,僕の 住んでいる昔から四ツ塚と呼ばれて久しいその”丘”と, 酷似して同じく四ツ塚古墳と呼ばれている,その”館”へ。
山紫水明,国破れて山河あり,生命現象とゆう呼び名のもとに判断をして,その名の エゴイズムを披瀝し…

頑強なロマネスク趣味。

太く長く生きるのには,頑強なロマネスク趣味。あの, 殉教者の与えた,千本桜の,お月見団子をハムハムする,もう, どうしようもない。憔悴した時には余計に日本酒の,ひやおろし。 消炎剤を投与された後には,一週間もすれば和漢薬のカンフル剤に, 換えては,憔悴した時には余計に日本酒の,ひやおろし。ただただ, 月の出る夜には”精神の月灼け”,芥川氏の側に来ておいでたような。 ちょっとした歓談などの後に”城下町に小京都”と名指しされる,あの 殉教地など,まさに源氏巻や,やぶさめ神事などを,鯉の街道泳ぐ。 津和野に泊まった時のとある少女が宇宙虫のように顕れて,強力な 呪詛を掲げて” ,・・・神よ!”なぜだか,そう叫んだ夜には。”Son of the Sun,” 陽が照ったような感じで目が醒めて,思わず,頑強なロマネスク趣味。 喉が渇く,神が渇く,エアープランツみたいに,摂取するものはない。 あれは,やはり春の夜みたいにフィトンチッドが遥か彼方に届く夜更け。 解脱するのは,精神の脱皮みたいなもの。もうすぐ,ゴールド・メダル。 食べる,とゆう事自体に,昔からカスミをたべる,とは聴くけれども, エアープランツみたいに,神に渇いていたい。
お茶を沸かすのに,やっぱり湯舟もそうなのだけれど,氷水出しとゆうか 氷締めするのは良いと本当に良く思うので,熱湯あるいは白湯などには, 冷水や,氷水を挿して,ある意味なんでだろう,冷たい,とかフィトンチッドの, そんな中には,たぶん多分の『感情=自我=環境』の何かしらの入っていて。 それで,昨今の熱湯とゆうクラスターの融点には,何かしらの分解酵素の,それは 『知恵=思考=酵素』の何らかの,熱点vs.冷却点の結びつく所に解脱=精神の脱皮。 だから,氷締めした沸かしたてのお茶は圧倒的な勢いで,融点vs.固有点の含まれる そんな圧倒的な美味しさで喉を潤すから,食べる,とゆう事自体に,昔からカスミを たべる,とは聴くけれども,エアープランツみたいに,神に渇いていたい。たぶん ”生産点=冷点” vs. ”解却点=熱点 ” との対照的な闘いの裡に起こっている。 だから,業の泉とは叫んだとは言え,世界に活きるのは”芸術的な融点”の裡に,冷却する 外気を取り入れる,フィトンチッドの氷締め茶に”熱と=固の”繰り返しを世に与えられて 共有意識は世間シェアリズムなので,フィトンチッドが世界に拡がって浸透…

知恵と権利にアブラカタブーラ

人の知恵は尊い。人の知恵はしかしながらお節介。 地球全体のことを考えてくると,知恵は身に着いたように 頭でっかちとゆうか,眉間に角が生えてくるような。そんな お節介な,知恵思考に,ただ念じるとか,開放するとかの,そんな 自分の腰湯の高さで水浴びをしていると,ふっと,想うのだ。その, 権利を否定しているではないか!?確かに人間は消費しかしていない。 地球にとっては搾取者かも知れない。けれども,水に浴びていると, 僕にも生命はある。その部分の感情のあるいは身体の権利を。また, 取り戻そう。とゆう,生命の権利性を再び搾取者になっても良いから, 感情体,それは身体中心性をもたらす最期の生命の権利主張。当然の, 陶然として,陶然ながら,当然のことなのだけれど,最期の生命は,この エーテルの『私』を捨ててもいいの?と問いかけるのである。
『私』は,日曜日に市販の痛み止めを第一類とゆう種類のそれを探して,
『日曜は,薬剤師さん不在』とゆう言葉を三軒目に聴いてから,ようやく気付いた。
そう,生命の不在。声を出さず,自我をもらさず,そうして,記憶の影から
ひっそり身を屈めて息を殺している,この生命権利。
そうだなぁ,エンパス指向とゆう,感情体優位の志向は,脳内にやっぱり,
生命権利より,知恵の統合とまで,駆け回って,プラムの実をほおばる
それは,床下に穴を掘るような,まさに温泉をさがす。ある無謀な旅なのだ。
権利=生命=自我を否定する。そんな,どこから克己感性や,修行本位また,
例えば,『大人になる』ってゆうのは『感情を否定すること?』なのか,

人の知恵は尊い。人の知恵はしかしながらお節介。 地球全体のことを考えてくると,知恵は身に着いたように 頭でっかちとゆうか,眉間に角が生えてくるような。そんな お節介な,知恵思考に,ただ念じるとか,開放するとかの,そんな 自分の腰湯の高さで水浴びをしていると,ふっと,想うのだ。その, 権利を否定しているではないか!?確かに人間は消費しかしていない。 地球にとっては搾取者かも知れない。けれども,水に浴びていると, 僕にも生命はある。その部分の感情のあるいは身体の権利を。また, 取り戻そう。とゆう,生命の権利性を再び搾取者になっても良いから, 感情体,それは身体中心性をもたらす最期の生命の権利主張。当然の, 陶然として,陶然ながら,当然のことなのだけれど,最期の…

新基軸点。

エンパス指向を強く持っている,無意識にも,あったのなら。 そんなひとは,やっぱり,ある種の”新基軸点”を持つのが, 良いと思う。お節介な,”エンパス指向”論。ただ,語ろう。 それは”岩窟思考”。岩肌には,湧水のしめっているから,苔むす そんな暇もなく,しめっているから。直射日光はない,いつも夜で 書棚には,”Hymn to Night”掲げられ,使い勝手の良いのは,あれは 間接月光,眼鏡を掛けた類人猿のように目をぱちりくちりさせると, ぽつぽつぽつぽつ,天井屋根からは,しずかにしたたってくると,そう, ”岩窟思考”。いつもいつも,はえかけては沈んでゆく苔の繁殖する模様の, あの”苔”自身なのだ。”エンパス指向”=”RollingStones”なのだから,その 転石苔を生ぜず=RollingStonesGathersNoMossよりの,生えかけてまだ 戻る。戻りつすすむ。この曖昧なエンパス指向は常に”自我”を中心に。 間接月光,眼鏡を掛けた類人猿のように目をぱちりくちりさせると。
Groundingってゆう効果をきたすのに,エンパス指向は常に”自我”を中心に ゆかないといけないのは詰まりに自然一体化指向,季節感グリッド,その, 遠方より来たる,星の裏側から遣ってくる”私=魂=故郷”のヴィールスの ような何かを期待して,自分なんだけれど故郷の自分はこの星の裏側で,まるで アマテラスの岩戸開きのように何処かの岩窟に居られた彼の”私=魂=故郷”の 神さま的な何かは,神さまは岩窟思考の影に居る。パートナーのあなたが,まだ 類人猿の物まねをしては繰り返し,繰り返しては”バナナは如何?”とゆうくだりは もう厭とゆうほど繰り返してはいるけれど,実際はバナナを頂きたいのは僕の方。 消化不良ではないにしても,最近は何やら春雨のような天候によって,食べる, ってゆうこと自体の,そして時には陽の照る日などは水浴びをして,アーシング。 食べる,ってゆうこと自体の”青汁”で気力は廻るそうゆう感性の,反ドーパミン, ドーパミネスに反感はないにしても,健康には”青汁”。感性は,反射的に希望する。 また実際には,水餃子を夕食に頂いて,ほうれん草もあったので,葉っぱだけ湯煎, 水餃子と葉っぱだけ”しゃぶしゃぶ”のように交互に頂いては,餃子の皮だけでの, 炭水化物は他に摂らない,消化不良ではないにしても,最近は何やら 春雨のような…

SEED is Here.

キーボードが光っているから幸いに。いまも, 月はCloud機能たくましく,お茶ボトルを直射月光に。 緑は,豊かに神さまなので。やっぱり,グリーン・テンダネス。 葉っぱを愛でてもめでなくっても,お茶にタタられるとゆうことは あんまり聴かない。神さまは地中をあるいはInAir通過して届く, 通奏低念ならぬ,通過するそれはグリーン・テンダネス。業の泉。 通過するグリーン・テンダネスの拡がって,業の泉=世の中。また, 決して,オリジナリティを見つけたわけではないしても,柑橘の花。 オリジナリティは,シュタイナーにしてみれば甘酸っぱいものだけど, 僕らにしてみれば,ほろ苦い。きっと,柑橘の茶葉も啜れば,苦い。 緑は,豊かに神さまなので。やっぱり,グリーン・テンダネス。 世界は,終わらない。とゆうよりも神さまの緑にしてみれば。それは, 終るどころか,母体は彼女(彼)に,あるのだから彼女(彼)にして, かくゆう,自然一体化を促すSEEDを求める。 月が綺麗な夜でした,SEED is Here.
きっと,菩提樹とゆうけれど。神秘の門前には,門衛のいつも。いつも,
見詰めるその先には。門衛のいつも見詰めるその先には。葉っぱを愛でても
めでなくっても,お茶にタタられるとゆうことはあんまり聴かない。
神さまは地中をあるいはInAir通過して届く,通奏低念ならぬ,通過する
それはグリーン・テンダネス。業の泉。だから,菩提樹はいつも着いてくる。
緑の香り,ベートーヴェンのソナタの緑の香り。あれは守護神で,いっつも,
庭木のどれかから,着いてくる。だから,引っ越しても定住すれば,いっつも,
菩提樹はいつも着いてくる。緑の香り,ベートーヴェンのソナタの緑の香り。
棲めば都のいつも緑の香りは故郷のそれなのは。神さまは緑で,いっつも,
地中をあるいはInAir通過して届くグリーン・テンダネスの拡がって,なので。
お茶っぱを噛んで歯痛を治すのはよく聴いたことはあるけれど,バナナのジュレを
口にして,病をなおすのも。今度,調べてから,柑橘の葉っぱを噛んでみよう。
通奏低念ならぬ,通過するそれはグリーン・テンダネス。


キーボードが光っているから幸いに。いまも, 月はCloud機能たくましく,お茶ボトルを直射月光に。 緑は,豊かに神さまなので。やっぱり,グリーン・テンダネス。 葉っぱを愛でてもめでなくっても,お茶にタタられるとゆ…

ストレートに,トゲトゲの樹をジッとみつめる,そのままのように。

前世ゲームとは,書物の渉猟の事を指す,またも
同じように,”精神史”とはそのまま”影響”の事を,
綿毛ではなく,薔薇の棘を択ぶようにして信奉するべき,
その『三島文学=木戸孝允=サド侯爵=マッキャベリ,
=フラ・アンジェリコのヤコブ・ピラトゥス』をストレートに,
ジッとみつめる,それは,謝肉祭,線の投影された射影には。
モルタルで固められたドーム型の形状をした,芒巻くシェルター。
脂の載った,木目にはヨーロピア調のレンガ色の丸屋根に,
とぐろ巻く自己をみつめては,反芻する牢獄の殉教者。イエス,の
一言で心許ない神への準拠は,倒壊する瓦解する何かをせき止めるから。
それは,
『勝海舟=チャールズ・ディケンズ=ジャン・ジャック・ルソー,
 =ヤーコプ・ベーメ=聖ヒルデガルドの師弟愛をものにして。』,
見事にピラトゥスの娶る妻として成り立たせるから,そんなもう,
一度だけ,”勧進帳”を観に往った折,客席で,『主人公は,義経だ。』
って叫んでいたのは僕だったので,装束を着た義経が,何故か,
山伏のようなモノを着けているのに対し,かたや本物の義経らしき,
仙人のような畢竟ふがいなくみえる,脇役のような彼は,本当に,その
舞台では義経らしい。で,パンフレットをみるまでもなく,一応は
安宅関を観光バスで通ったことのある僕なんで,と,一瞬赤面。彼は,
”弁慶”だったのだ。例えば,『太宰=龍馬=中江藤樹=今川義元=,
=道元=義経=空海のイスキリの”影響”』とゆうものに,いっさいに
関与しなくなる自分が居て,とゆうのも”前世ゲーム=書物の渉猟”を終えて
いっさいに感化されなくなる自分をみつめると,それは,ただ,信奉する
誰を,私の師とするか,アイドルとするか,憧れとするか,そんな”彼”は,

『三島文学=木戸孝允=サド侯爵=マッキャベリ,
=フラ・アンジェリコのヤコブ・ピラトゥス』をストレートに,
ジッとみつめる,それは,謝肉祭,線の投影された射影には。
モルタルで固められたドーム型の形状をした,芒巻くシェルター。
脂の載った,木目にはヨーロピア調のレンガ色の丸屋根に,
とぐろ巻く自己をみつめては,反芻する牢獄の殉教者。

トーマス・マンを信奉していたとゆう,壇香のにおいを愛していた。
刺し身より更に,こんにゃくのほうを好んでは,明るさの故にもまた
詩とゆう,悲劇への入り口を開いた由縁の演者として,のまたもや。
大根生姜水飴のあの干葉のかお…

OnBeingBurdockChips,

少なくとも,トゲトゲの野草を,ジッとみつめ, そっと,そのまま,介護していたい。そうだね, 術中の戒護策,こんな言葉は浮かんで,土のにおい。 OnBeingBurdockChips,ゴボウの香りを掻い摘んで, 颯爽とマントを翻して月に,月に還りたい。そうだね, どこに行ってたって,基本的に,太宰治=坂本龍馬=, 中江藤樹=今川義元=道元禅師=九郎義経=弘法大師空海の 十字と共にあるグリーンよりの薔薇のつぼみ,甘酒のような, すこし跳ねた匂いのするそんなさなかにも,甘酒のような, 弟のイスキリをみて,十字と共にある,ロマネスクは,もう, そうやって,土くれを練ってできたような乾パンの生地から, 静かに口元に流し込む,甘酒のような,そんな,ロマネスクは, もう,ヤマタノオロチと言われたっていい。信頼と,勇敢さ。 一挙に瓦解する,ロマネスクに活きよう,そこは故郷。
ブギーウギーを聴いていて,思うのに,土くれが人間になり,
それが太陽と月を産み,そうしてまたもや,人形はお饅頭になる。
それは,やっぱりパン種の発酵生命の豊かに鋭くOnBeingBurdockChips,
土を喰らうのではないので,ないのだけれど。みんな土からできているから,
そうゆう土を意識的に持ってくる。これは,はてさて,ただに”意識”とゆう,
その”土=ドクダミの白い花=殉教者”の何らかの形跡なのだ,遺跡群に,
ただ建って,音楽を奏でながら。音楽を奏でながら,ロンドン塔の夢を,また
ロンドン塔の夢をみながら,ヴェローナの赤い屋根を,そうしてまた,その
砂漠地帯の親く,チュニジアの夢のようなシェルターを観賞しながら。もう
三島文学は,木戸孝允=サド侯爵=マッキャベリ=フラ・アンジェリコから,
スタンダール作,”パルムの僧院”やジュリアード音楽院のエピソードなどを
通っては,浮かんでくる,彼の夢のまたその先。はてまたも,


ヨーロピニアリズムは何処から遣ってくるのか?そういや,仏教は
天台の智より統計的に季節の繰り返しを展開できる技術を継承してきて。
朝と昼の繰り返し,四季のめぐりあわせは教会の鐘を鳴らす,24hrOPENへの
警鐘をただ含めて。三島文学にみえるお節介でなければ繰り返しの英知の,あの
そのままの文学に詩と喜劇を与えるような明るさ。そんな鐘の音を聴くだけの,
前もって知っているのなら喜劇ではなく悲劇を産むのだろうか,そんな英知は…

リアルな画,

リアルな画を撮るべきか,あるいは。 画をリアルに描くべきか。そんなら 存在論は,ベーコンと卵は要らないから, それより。不思議と煮込みと燻製チップのそれより 刃物の澄まされた春の光に宴を与しよう。 うつろに開かれた眼からは存在の香りは してはこない。してはこないが,存在論の目的を, 狙いすまされた,存在論の終幕のにおいはしてくる。
ぞんざいな,燻製チップの樹の叫びさえ, 宴に供された食物の冥想さえ,もう届かない。 日本の美は,ところどころに僕を追ってきて,その 世間とは何か,あの問いを,そのままジッとみつめる, 答えとしてトゲトゲした観葉植物の祈りで応えてくれる。
有終の美を飾るのなら,澄まされた春の光でいけとは。 こころならず,存在論の幕開けは燻製チップの煙では 始まったのだけれどもそうゆう。 あぐらをかいては,ドクダミ茶すする。そんな, もったいつけて,ゴボウチップス誘う夕べの漬物は きゅうりの奈良漬。
リアルな画を撮るべきか,あるいは。 画をリアルに描くべきか。そんなら 存在論は,ベーコンと卵は要らないから, それより。不思議と煮込みと燻製チップのそれより 刃物の澄まされた春の光に宴を与しよう。 うつろに開かれた眼からは存在の香りは してはこない。してはこないが,存在論の目的を, 狙いすまされた,存在論の終幕のにおいはしてくる。
リアルな画,ゴボウチップス。





構築座標,

構築座標はコントロールできない,
モノレールの運行のようなもの。まるで,
”思考は,観察できない。”とゆう,
きりきりの所で,待っている。
構築座標はコントロールできない,
天体の上を歩く,まるで,星の王子様,
そうして,自然は『自由』とあいまって,
紅い花と,白い花。混ぜて咲くの,
薔薇とカスミソウを束ねて。

神さまは,『自然一体化はシンプルなもの, 山紫水明と言って,豊かな自然をみる。』とは ゆうものの出来れば自然に目を向けていたい, こんな夏の碧を眺める,遊興な心持には,そうして。 そんな頃合いには不思議と,お餅をたべる。詩の, 偶数を捜す,詩の雑煮を頬張る。もとは, ああゆう,グリーンな出処に,赤い薔薇の蕾があって, そんな,遊興な心持には,そうして。たぶんもって, 『自然一体化はシンプルなもの, 山紫水明と言って,豊かな自然をみる。』とは ”自我”とゆうものあるなれば,それは水晶のごとき, そんな宝石を,マグマに還してしまう。
構築座標はコントロールできない,
モノレールの運行のようなもの。まるで,
”思考は,観察できない。”とゆう,
きりきりの所で,待っている。
構築座標はコントロールできない,
天体の上を歩く,まるで,星の王子様,
そうして,自然は『自由』とあいまって,
紅い花と,白い花。混ぜて咲くの,
薔薇とカスミソウを束ねて。

根の堅州国より還る,とゆうのは, 脱出にも似て,『帰還する』,ある意味, モノレールの運行を終えては辿りつく終着駅。 運行する,そのままの運行をジッとみる。それは, まるでその運行には換えがたい絶対的客観性のあるとゆう それは,評価の構築座標で,”思考は観察できない。”って。 けだし,コントロールしたいときはどうしたいのだろう? もちろん,トゲトゲの薔薇の樹をみて,嗅ぎたいのだ。 だから,触るときには注意して,評価軸は換えない,それは 天体座標をみるときのように,客観的で,そうしてそれは, 構築座標はコントロールできない, モノレールの運行のようなもの。まるで, ”思考は,観察できない。”とゆう, きりきりの所で,待っている。 構築座標はコントロールできない, 天体の上を歩く,まるで,星の王子様, そうして,自然は『自由』とあいまって, 紅い花と,白い花。混ぜて咲くの, 薔薇とカスミソウを束ねて。




さては”精神史”。

さて”前世ゲーム”ならぬ書物の渉猟文化を逞しく,
そうして,中途半端にモノを極める,こんな感じで,
きっと,パンタグリュエルの僧院はパルムのそれと,
聖ジュヌヴィエーヴはジュリアードに通ったのかなど
本の世界を頭の中に”宇宙図書館”なる,僕の”精神史”を,
探って,旅に出る。
不思議とリンパのながれてゆくような,そうして,
実は,中途半端にモノを考えれば,
”神”は環境論の故のモノなる,その器を旅してタビする,
器の口は広いものをBowlとかお椀など呼ぶその,
お椀嗜好の賜物は僕の,精神史の神さま的なスタンスで,
やっぱりF.ラブレー,ロダンの言葉,ジョットのイコン画にして
ガリア戦記やらアーサー・キングや霊界探訪のスウェーデンボリ,
あんなミカエルの龍退治の,
ただただテーマ・ソングはエロイカ変奏曲。


最近は,GW親い頃合いには風物詩なのですが白ネギ退治ならぬ
収穫期をもって,なかなか中腰の炎天下までではない揚げ雲雀のすぐ
後の砂浜地帯を探訪してはいるので,
そういった水風呂と空腹の心地よさを繰り返し,
また”精神史を,さぐる”のに,ミカエル神話の登場を待ちわびて,
砂漠を追い立ててすすむミカエル・キャラバンなど想定したりして
ただのコンクリートジャングルを,G.グールドの変奏曲集を,
聴いたりしながら,帰ってから水浴びをすることなどを,楽しみに
白ネギのトロッとするまで炒めた後に感じる甘みを,僕は(少し,
解りにくいのですが,)水風呂の甘美さに置き換えて,ぼんやり。
例えば(またも,解りにくいのですが,)
”野草の酵素鉱泉水”を呑んだりしつつ。


さて”前世ゲーム”ならぬ書物の渉猟文化を逞しく,
そうして,中途半端にモノを極める,こんな感じで,
きっと,パンタグリュエルの僧院はパルムのそれと,
聖ジュヌヴィエーヴはジュリアードに通ったのかなど
本の世界を頭の中に”宇宙図書館”なる,僕の”精神史”を,
探って,旅に出る。
不思議とリンパのながれてゆくような,そうして,
実は,中途半端にモノを考えれば,
”神”は環境論の故のモノなる,その器を旅してタビする,
器の口は広いものをBowlとかお椀など呼ぶその,
お椀嗜好の賜物は僕の,精神史の神さま的なスタンスで,
やっぱりF.ラブレー,ロダンの言葉,ジョットのイコン画にして
ガリア戦記やらアーサー・キングや霊界探訪のス…

逡巡するロマネスクは”Raphaelと冥王星の長老=パルジファルとマグダレーナ”,

G.グールド=キケロー=ソクラテス=トルストイ=諸葛亮, A.ミハイロヴィチ=ルター=K.マルテル=ベートーヴェンの, 地球の長老で”聖アンナの祖父”であった,とゆう目論見の元, ダルマ・シールド,ダルマ・シールド,ビーフ・ストロガノフは ハヤシライスのどこがどう違うのか区別もつかないのだから,”神” とゆうのはそんな初夏の照葉樹林を好むスーパー・ヒロイズムの 大事にするのはそんなヒロイズムの多分彼らだMichaelの天使長, ロダン=ジョット=ウェルキンゲトリクス=F.ラブレー, スウェーデンボリ=マーリン・アーサー・キング時代の月の長老, 双子宇宙にして,演奏の変奏曲,さざめく樹梢の”照葉樹林”。
家のPrinterは無線機能は効かない,だから原稿は出来上がると,あの 短いケーブルに繋がれて,アイロン台の上にPCを置けば,カタコト,その Printerより”印刷機”とゆう風体にやっぱり”照葉樹林”。魂のふるさと,あの 眠っているときに出逢う魂のふるさとに出会えたとする。そのふるさとは 僕の双子宇宙で,皆”放蕩息子”のように,(あんな”画”が好きだ。)そうして 迎え入れられる,だから目覚めた時に感じる余韻とゆうような教育機関の, あれは修了後のような,訂正された一種の”厳しさ”,”温かさ”の余韻は,確かに R.シュタイナーの語った,眠りの教育機関的発想にはつくづく賛意する的えて。 EDUCATIONAL ASSIST,芥川の訓示は,きっと薫陶。
G.グールド=キケロー=ソクラテス=トルストイ=諸葛亮, A.ミハイロヴィチ=ルター=K.マルテル=ベートーヴェンの, 地球の長老で”聖アンナの祖父”であった,とゆう目論見の元, ダルマ・シールド,ダルマ・シールド,ビーフ・ストロガノフは ハヤシライスのどこがどう違うのか区別もつかないのだから,”神” とゆうのはそんな初夏の照葉樹林を好むスーパー・ヒロイズムの 大事にするのはそんなヒロイズムの多分彼らだMichaelの天使長, ロダン=ジョット=ウェルキンゲトリクス=F.ラブレー, スウェーデンボリ=マーリン・アーサー・キング時代の月の長老, 双子宇宙にして,演奏の変奏曲,さざめく樹梢の”照葉樹林”。
僕は太宰の学校に行くのだろうけれど,講師は芥川先生,彼はすごい, 何時も朝になると,イザナミ大神さまのような女神ママの影に追われて, 密かにヒステリックスと闘う,とゆうより苛まれる,…

開悟する心臓には燭台を。

緑茶の葉っぱを噛んで歯痛を治す心地で,
エクリチュール,芥川=東照宮=源頼朝=藤原道長,
伝教大師=称徳天皇の,神功皇后=天照=ヘロデ王であった。
ダルマ・シールドならぬG.グールドのピアノ奏でれば,必然,
そこには,エクリチュール。夜明けには心臓に唱題の朝課の,
夕べには燭台の念仏晩課を,緑茶の葉っぱを噛んで歯痛を治す心地で,
三角形をした女神のすがた宇宙船を絶えず耳にしてはロマネスク。
そうゆう,開悟する心臓には燭台を。絶えて久しくサマー・ランドの
芥川氏微笑む。晩夏の微笑む虫の音響くサマー・ランド。まるで,
緑茶の葉っぱを噛んで歯痛を治す心地で,きっと,口内炎の症状には
鎮痛剤をのみ服用して時間薬しかなかった,あの入退院の日々は,
紅茶番茶緑茶ジャスミン茶の『そうゆうものなのだ,』鎮座まし,
痛みに涙す,まるで,緑茶の葉っぱを噛んで歯痛を治す心地で。

中途半端に1時間もお風呂を入れ続けては,冷水になったからと,もう,
いいや,熱いからと沐浴ならん冷泉浴で,冷戦浴。意外と耐えられた,その
1時間の水道代が勿体なかったからではない,お水の供養とゆうわけでも,
実は,その半分半分に夢見心地で仏様にお米を供える,雀が食うにあらしも。
エクリチュールとは,憚らずにゆうことなら,それは実は真実=Truthに親い。
僕は,独文学愛好家ではあったものの仏文学にあれほどの文豪の名が,いわく,
芥川然り,太宰もまたゆうに然り。勿論,人気があったかどうかではなくって,
あのエクリチュール,独文学に嵌った発酵美学からすれば,まさにエクリチュール。
考えずにモノを描く,それは多分うつくしさもあり,道ならね道=タオイズム。そう,
そうやって旅には出られれば良い。そうやって,駅弁を択んで車窓から忘却する,
波間に光をもて,記憶を失うのが良い。そうゆう思い出は,眠りながらでも出来る。
追いかけないのだけど,尻尾を振るのですよ。

緑茶の葉っぱを噛んで歯痛を治す心地で,
エクリチュール,芥川=東照宮=源頼朝=藤原道長,
伝教大師=称徳天皇の,神功皇后=天照=ヘロデ王であった。
ダルマ・シールドならぬG.グールドのピアノ奏でれば,必然,
そこには,エクリチュール。夜明けには心臓に唱題の朝課の,
夕べには燭台の念仏晩課を,緑茶の葉っぱを噛んで歯痛を治す心地で,
三角形をした女神のすがた宇宙船を絶えず耳にしてはロマネスク。
そうゆう,開悟…

中途半端怪談。

何事も,中途半端な時ほど生産力は高い。まるで, 青い恋愛はしたいけれど,それは小説の中だけで, 事実は青い色だけではゆかなかった,まるで, 酒蔵の奈良漬とゆうのを頂いて,あんまり美味しいし 酔っぱらってしまうのんで,運転は出来ないのかな。 とか,歯磨きはしたけれど,夜長にとゆう季節ではないけれど 起き放しにノド飴を舐めてしまう,こんな何事も,中途半端な 時にほど”それ”を理解できる,青い恋愛とは大谷崎,そうして, 奈良漬は酒蔵モノは芥川賞,夜更けのノド飴は太宰治だ。何の フリークかと言えば,そうゆう現実の生産的理解力をもってすれば
やっぱり中途半端怪談,道元禅師は,太宰治と精神史を共にしては
いないのか,なんて,ここで何時も”前世ゲーム”と言って,”精神史”を
公開ならぬ”妄言”しているのですが。
”精神史”とは『当人は最も影響を受けた”精神史”を担っているものである』
とゆう設定のもので,それを最も影響の受けた”精神史”の僕個人としての
”精神”の”移り変わり”のようなものをメモしているのですが。決して,身体の
特徴や魂の是認をしているのではなくって,ここからは哲学っぽいですけれど,
むしろ”精神”は,自我や,思想を放念してしまった無我っぽい状態の中に残る,
朧げな明りのようなものなのであって『実体ではない”精神史”を描こう!』ってゆう
そうゆう感じの朧げな明りの移り変わる,精神史の鬼火飛行をここではやってる。

何事も,中途半端な時ほど生産力は高い。まるで, 青い恋愛はしたいけれど,それは小説の中だけで, 事実は青い色だけではゆかなかった,まるで, 酒蔵の奈良漬とゆうのを頂いて,あんまり美味しいし 酔っぱらってしまうのんで,運転は出来ないのかな。 とか,歯磨きはしたけれど,夜長にとゆう季節ではないけれど 起き放しにノド飴を舐めてしまう,こんな何事も,中途半端な 時にほど”それ”を理解できる,青い恋愛とは大谷崎,そうして, 奈良漬は酒蔵モノは芥川賞,夜更けのノド飴は太宰治だ。何の フリークかと言えば,そうゆう現実の生産的理解力をもってすれば
太宰治=坂本龍馬=今川義元=道元禅師=源九郎義経=弘法大師空海の,
日本キリシタンの源流のような”鬼火飛行”を精神史の中にみるのですが。 これは常にその個人の中にうつらうつら眠っては醒める”精神の燈火”の ようなものを説明強く言えば『文学的に追う”妄想的実体拒否鬼…

気ままな湯上りのお茶。

社会に適応する,とか”成功”するとか,あるいは, 受ける賑わいを貰える”受け手に嬉しい。”とは,そんな, 真面目なことは幸いにbest,とは思いこんでいたものの, 多分,アイデンティティ=自分探し,って ”真面目になることでは,なかった”。一般的ではないものの, 多分,アイデンティティ=”本当”の自分って”不真面目”だ。 湯上りの週末だけ呑める温かいお茶を頂いて。 ”本当”の自分は気ままなのだから,暑いからとぬるめのお湯を 浴びて,そのままスタコラ熱いお茶を呑みに来ると良い。そう, 電波疲れしている脳髄には,摂取と排泄とゆうやつ,あれの, ぬるま湯と熱いお茶の繰り返しの一番良いのだから。あれは, 感極まって,芸術志す,行方知れず。
妻は,ネット・オークションに嵌っている。そうして,
僕も,写真加工の風景画を造ることに熱心だ。長らく閉じていた,
心の扉を,何とか捻じ開けようとして,瞑想などに取り組む?うん,
いちばん効いたのは,とゆうのは開くとゆうよりは感性の日常性を,
SPIRITUAL ESSAYとは言いつつも,全体的主観を閉じてゆく逆行。
そんな開く,閉じるを繰り返すのは,いちばんお伝えしたいのは,きっと
朝食を食べることと,なにぶん夜でもキーボードの前に立つとは言いながら,
眠たくなったら,決まったベッドなりの上で定期的に仮眠でも摂る。こんな,
気楽な”朝”食べ,”夜”寝床の常套的な発想は,とっても祈りやクリーニング。
殻を厚くしたオニグルミみたいなナッツ・シンドロームには,”朝・夜”の
季節感はとっても良い。季節感グリッドの呼び名でいつも季節に共感していたい。
定番の暮らしは”嫌”だから,常に芸術を志していたい。そうして祈りには豊かに,
ただその時熱中できる何かの呼び名を叫ぶ。珈琲のドリップや,朝の掃除や,その
珈琲の朝の一服など加えてとても気持ちよいものだった。

社会に適応する,とか”成功”するとか,あるいは, 受ける賑わいを貰える”受け手に嬉しい。”とは,そんな, 真面目なことは幸いにbest,とは思いこんでいたものの, 多分,アイデンティティ=自分探し,って ”真面目になることでは,なかった”。一般的ではないものの, 多分,アイデンティティ=”本当”の自分って”不真面目”だ。 湯上りの週末だけ呑める温かいお茶を頂いて。 ”本当”の自分は気ままなのだから,暑いからとぬるめのお湯を 浴びて,そ…

春の宵

眺めやるに酔いに興ずる,何もかも忘れたいのは,
知識の高じて,殻の硬くなったクルミみたいな嗜好を
眺めやるに酔いに興ずる,何もかも忘れたい春の宵。また
グルグルぐるぐる跳んでゆくのである。芸術と趣味,情熱と
水浴の,まるで夏が心の裡に誕生している。その追体験に,
逆行して春が呼んでいる,逆行する春の宵。ひやおろし,
口に含んで何をかを想う。


豆乳を朝から吞んでた。 珈琲はブラックで頂いて,その 後に。そんで,浸かり切ったアジの南蛮を, 大根オニオン・サラダにヒキワリ納豆のイタリアン・ ドレッシングで,追体験する夏は,どんなものだろう? 追想が始まって,引きこもりがちな気持ちは恥ずかしさ?
恐怖を引き起こすものも殻を厚くするものも,はてはさておき,
迷いや妄想を逡巡する廻る柑橘水のような”遊び”の景色もまた。
共同する,とゆうこと自体が,テーマとして平和的なのだから,
それに関してテーマの中心としてくるものは,業の泉の放流。
好きこそものの上手なれ,この一言に尽きるのだろうけれど。
常に好奇心や,興味関心の湧き出てくる,心の中の”泉”を,多分。

豆乳を朝から吞んでた。 珈琲はブラックで頂いて,その 後に。そんで,浸かり切ったアジの南蛮を, 大根オニオン・サラダにヒキワリ納豆のイタリアン・ ドレッシングで,追体験する夏は,どんなものだろう? 追想が始まって,引きこもりがちな気持ちは恥ずかしさ?
情熱でゆけば良いような気がする。芸術で,恬淡としてロマネスクな,
倫敦塔に鐘が鳴る,霧中散歩して渡ってきた桜の花見酒を憶いだして。
好きこそものの上手なれ,この一言に尽きるのだろうけれど。
常に好奇心や,興味関心の湧き出てくる,心の中の”泉”を,多分。
”神”を砂嵐の中にみたとする,けれども,豆乳を朝から吞んでた。
珈琲はブラックで頂いて,その後に。・・・それでは,詰まらないので。
解ってしまうのは,詰まらないから,紆余曲折して,迷っている。けれど,
迷っているうちは,恐怖を引き起こすものも殻を厚くするものも,
共同する,とゆうこと自体が,テーマとして平和的なのだから,
それに関してテーマの中心としてくるものは,業の泉の放流。すると,
恐怖より,迷いより産まれでたものが,瞑目するスイカ割りの,まるで,
芸術のような,甘味と潮の海景色に照らされた,茜色の夕焼けだ。
なので,芸術で生きれば良い,そうして,中途半端に腹…

霧中散歩するモーセの十戒。

例えるなら”神”は,砂嵐の中を飛び交うモーセの十戒だから, 霧中散歩する,春の夜更けにおいては,霧中散歩するその, モーセの十戒は,A.フランス=クライスト=アランソン公, =クラウディウス=ヘロディヤのモーセによく似て,ああ,あの シナイ山とゆうのはやっぱり,例えるなら”神”は,砂嵐の中を 飛び交うモーセの十戒だから,霧中散歩する,春の夜更けにおいては, 霧中散歩するその,モーセの十戒は, A.フランス=クライスト=アランソン公=クラウディウス=ヘロディヤ のモーセによく似て。
こんなこんなを,膝の上にキーボードを置いて,甘えてくる猫の三四郎に
邪魔されないように,例えばケーキを大事そうにフォーク構える感じなので,
現代の下敷きや,そのケーキをさばくフォークなどは,もう,キーボード。
真面目な子は,キーボードを膝の上に置いている。僕は,真面目なのか?その
支離滅裂な追想にも,あと十分で歯磨きもして着替えても行って,歯医者に
間に合えばいいな,とゆう至ってマニアックな性分をしている,ただその幸せなの
は,歯医者さんは家から五分の距離なのだから,それはもうお爺さんタイムとゆう,
朝から歯医者に出かける,

例えるなら”神”は,砂嵐の中を飛び交うモーセの十戒だから, 霧中散歩する,春の夜更けにおいては,霧中散歩するその, モーセの十戒は,A.フランス=クライスト=アランソン公, =クラウディウス=ヘロディヤのモーセによく似て,ああ,あの シナイ山とゆうのはやっぱり,例えるなら”神”は,砂嵐の中を 飛び交うモーセの十戒だから,霧中散歩する,春の夜更けにおいては, 霧中散歩するその,モーセの十戒は, A.フランス=クライスト=アランソン公=クラウディウス=ヘロディヤ のモーセによく似て。
三四郎は,すこし大人になってきて,至ってまたもや暇そうにしている。
現代は,吾輩は猫のあるとしたら,飼われているのは飼い主そのものだから。
ケーキが良いかい?おやつは何が?ご飯をあげるに際して,いいや,その。
もうすぐ僕もご飯にするから早くおあがり?お昼前に何とゆう体たらくだろう?
ケーキが三四郎にとっての何に当たるかは,僕は知らないけれど。
多分,大人の暇に充てる”あたりめ”のような,そんなものを求めているだろう,
またたびとゆうとんでもないおやつもあるけれど,もちろんこの世の中は,浄化。
寝ていても,覚めていても,きっ…

J.S.バッハ=サルトルと,ツルゲーネフ=ヘミングウェイ。

例えば,サルトルと,ヘミングウェイ。 或いは,バッハと,ツルゲーネフの古典。 両者の牧歌的詩情と音楽的な詩性をつなぐ。 その,何らかの平和主義の中には,スペア・リブに 対して,疑念を挟まず感謝に応じる潔さがある, 夏の陽の夕暮れ親く,水面に蟲の散る幽玄を漂わす。
思わずも,そのコレクターとしての買書地獄も,紹介する
誰かに,欲しいその本を紹介する,ただその行為で代用できる,
今までは,何らかの掘り出し物をweb上に見つけることが,
得になるものと思い込んでいたけれど,つとにカロリー計算を,
スマホのアプリなどで入力し続ける,このポイント式の食事などに
代償できる。いずれも,続けることに異和感を感じてのものだった。
コレクションには,もともとポイント式の感性は着いてまわるもの。
帰りに買い食いをして返るのだ,それが美味いのではなく,そうだなぁ。
玄関周りに植木鉢を置くような,そんな心地なのだろうか?もうすぐ,
夏が来る。それだけで良い。季節が廻るとゆうことに共感したいのだから,
お家は宇宙船みたいだ,丘の上も宇宙船の天板に居るみたいだ。だから,
遺跡みたいなところで家を建てると,船上に水回りを造られたものだから,
怒りに触れてしまったりもして,そんなことをもうすぐ虫の音も蝉のそれに
替わってくるだろう夜の気配に敏感に感じ取りながら,ああ,そうだなぁ。

例えば,サルトルと,ヘミングウェイ。 或いは,バッハと,ツルゲーネフの古典。 両者の牧歌的詩情と音楽的な詩性をつなぐ。 その,何らかの平和主義の中には,スペア・リブに 対して,疑念を挟まず感謝に応じる潔さがある, 夏の陽の夕暮れ親く,水面に蟲の散る幽玄を漂わす。

古事記のストーリーには,関心を寄せていたものだったけれど,
根の堅州国とゆうものが,一体どんな大親父様の居るところなのか?
そうして,娘さんを貰って帰るとゆう,その元居た国とゆうのも,
果たして想い出せるものなのか?大親父さんの怒るのも無理はない,
ないのだけれど,そのスサノオの住んでいない元々の国,とゆうのは。
平和なのだろうか,希薄なのだろうか?緩慢なものだから,スサノオさんは
居られないのだろう。三種の神器ならぬ器具を貰って還る,果たして,その
統治するとゆう方法論は,くだんの三種の器具に何が秘められそうさせる。
とにかくも,大地は揺るがせにしない,健全な精神,無念無想。こん…

豆乳は畑のお肉。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。ぽつ,ぽつと
祈りは雨粒のような調子をしながら地面まで届いてゆく,さあれ
もうすぐ地上につきそうな,そんな調子で降り切らない,とんだ
厄介者もいる。それは人間の姿で僕の生き写しなので,調子とは
言えば,やはり家の壺に這入ってしまって,身体を持たない,とんだ
はぐれ者の妖精さんを想像しては,やっぱり人間の下部組織とは言え,
胃腸を持つ,消化器官を抱くその四肢五体のどれほどに地上的で,その
Groundingしているものか,身体を持つとは,壺に這入った”壺中天”では
ない辺りの本当に美しく愛おしい。

身体のどよめきだって,それは貨幣制度の終わりにあるTowerの崩れる,
そんなざわつきにもよく似て,貨幣も消化器官と同じくして胃腸組織の
ようなありかたをしてれば,いずれ古くなることはあっても,古の知恵,
そうやって,崩れることはないのだろうに,経済制度?うん,いいや。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。

浮かび上がってくるのは,船藻とも呼ばれる,航海を経た知性なのか,
はたまた,生命のホムンクルス,新しき桑実態。誕生する息吹なのか,
それかもしくは,赤いあのなんだとか言ったな,護衛艦の見学の際,
波止場に浮いていたあのアカアシクラゲのような猛毒を帯びたやつ,
あんなたくましくスパイシーな存在なのか,そうあってほしくはない,
けれども,やっぱり大豆粉を練って,白湯と合わし,テンサイシュガーと
加えて呑んだような,非常に最近は,五分がゆから,出汁,豆乳で,
くつくつと煮込んだ豆乳リゾット風などに惹かれて,また味噌を加えれば
それは畑のお肉だ。動物性とゆう表現にどれほどの意味があるのか,訝しく
昨今は可逆的にまた,豆乳の植物性に垣間見る”畑のお肉”調理システムを

根本的に愛でゆこう。

アイデア,アイディール,プラトンのイデア。また, みんな愛を,呼称を,出逢いを表す,アイデア, アイディール,アイデア,プラトンのイデア。そう, ”土偶”さんの現れて,その白金たる燦燦と輝いて,その きらびやかな愛とゆうものを,例え今晩で忘れようとも, 根本的に愛でゆこう。
ジャマイカや,キューバン,ヘミングウェイの愛したのは, パパ・ダイキリだけではないのだろう。根本的に愛でゆこう。 だから,”ガルガンチュア”を描いた,ラブレーなどの皮肉相な 顔つきは,あのミカエルらしさの愛らしさも含んで,だから。 根本的に愛でゆこう。”土偶”さんの現れて,その白金たる燦燦と輝いて, そのきらびやかな愛とゆうものを,例え今晩で忘れようとも, 根本的に愛でゆこう。
プラトンは,ソクラテスの師を抱いて,何をか想ったのか?暖かい, ほのぼのとした,陽に囲われて,それが自分のイデアだったと知る。 自分の,とゆうのは剽窃的だ,そう問われて,亡骸から,一滴をまた, 興じたりもする,”興じる。”そう,”土偶”さんの現れて, その白金たる燦燦と輝いて,そのきらびやかな愛とゆうものを, 例え今晩で忘れようとも,根本的に愛でゆこう。
味噌は,白みそはアイスクリームにも使えるとする。何故かしら, 白いものは,白砂糖と。赤ザクロは,赤身のもの,と。茶柱は, 餡子と相伴に合っていたりもする,だから。”土偶”さんの現れて, その白金たる燦燦と輝いて,そのきらびやかな愛とゆうものを, 例え今晩で忘れようとも,根本的に愛でゆこう。
”土偶”さんの現れて, その白金たる燦燦と輝いて,そのきらびやかな愛とゆうものを, 例え今晩で忘れようとも,根本的に愛でゆこう。

根本的にひとつとは。

『根本的に,ひとつとは,  ロダン=ジョット=ウェルキンゲトリクス=フランソワ・ラブレー,  =スウェーデンボリの,ミカエル・アーサーキング・マーリン時代からの,  5&18のミハイル・マナス。カオスの時代から,いよよと以て,第五惑星の  訪れか。基本的に木星の訪れとはそうゆうものだ。』郵便受けに,こんな 置き描きを読む。ロダンの”地獄の門”は,ダンテの『神曲』からの,着想かぁ。 そんな,勉強をしている。平和の訪れに,第五惑星に訪れに,木星の来訪は, 5&18のミハイル・マナス。
平和は,得るものではなく,与えられるもの。 これが,シモーヌ・ヴェーユの語る,恩寵か。 そんな気がして,筆を折る。筆を折るのは, 格好の好い事と受け取られている節があるけれど, 画を描いてなくっても,筆を折りたい事があるだろう。 ”平和の訪れ”に。
平和の訪れる時には,何だか,恩寵,平和そのものの, ”与えられている”気分になる。”輝き”なのだろうか? その”徳”と言われる事も出来る”恩寵”は,何かの輝きにも 似て,以て非なるもの,それは確かに,温かい,必要とあれば ”眩しい”,そうして,また,恩寵は,密やかに行われる祝祭なのだ。
目の前に,”時間”以上の何か,得も言われぬ温かさの浮かんでいる。 それは,目をはなすと,常に温かさとして心の中に佇んでくれる,また 問いかけてみよう。”あなた自身,あなた自身。”確かに,『影』の論理は, 心理学に見受けられる,そうして,”光の論理”も,またあるのだろうか? それが,『影』を超えた”光”であるならば,『”私”』は,”一体,誰?”と, ”双子太陽”さんのような,”土偶”さんのような,そんな熱源体である。
あるいは,また雨の日に呑む豆乳オーレ。 またあるいは,あられの夜に頂く柚子かき餅。 そうして,ヨモギを蒸しては戴く,草団子の, タンポポの花を摘んで,食用菊をつまむ夜に, その熱源体は産まれてくる。そうやって,”土偶”さん, 早く,世界に希みを持って,出かけてよう。 ”The Hope”の絵のような世界でも,もう世界画家さんは, 筆を折りましたよ。そうやって,食用菊は,むしろ コンニャクのお造りに付けますから,安心してお上んなさい, スクワットをして,大地踏みしめ,階段のぼり, 玄関を出る。
『根本的に,ひとつとは,  ロダン=ジョット=ウェルキンゲ…