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2月, 2017の投稿を表示しています

芥川に対峙せり。

どうも,寝枕に芥川さんと東照宮をみたのを
きっかけとして,或いは,お風呂場に,また
バプテスマのヨハネの首が浮き彫りになった壁。
その当時,修道院のような祈りの暮らしを,
思春期は送っていたが故の,アナトール・フランス。
アナトール・フランスは念頭に置いて話したいのだけれど
バプテスマのヨハネと言えば,首を前にするサロメー。
サロメーの父と母は,ヘロデ王と,ヘロディヤ妃で,
僕は,勝手にそれを,芥川とフランス=ヘロデとヘロディヤ。
対照的にタッグを組んでもらって対応させている。
天照さんはまた,芥川の神さまと思っていつも感じているは
いいものの,どうもその芥川氏とゆうのが活きているのなら,
とっても謎めいた『希望』なのだった,王さまと言えば,
そんなもの?凛として,飄々とどこ吹く風,また輝いている。
王さまに支配された,国とゆう詩情は,やっぱり従属に変わらない,
そこがヘロデのずるいところだ。希望を持たせて,従属させる。
当たり前なのは,支配とゆうのはそうゆうもので,希望なくして
実に従属はあり得ない。むしろ言葉が間違っていなければ,
従属とゆうのは,希望を持った詩情,と思わせて『被支配』,
こんな,『従属=希望』的観測を,芥川氏に至って対峙する。
何とゆう,支配からの脱出は,龍馬の脱藩の末路。希望とは,
支配されたことに気付かない,『希望』なんとゆう。そして,
為政とはそうゆうものを言って,また『希望』のない所にて,
脱藩のあり,革命のあり,劇死的な発想のあり,『希望=脱死』。
希望に替わる自己支配的自己,自立支配的自我,何かある?そう,
芥川は,『河童』とゆう作品を奇しくも遺して死んでいる,そう,
カワウソと河童は何時も死闘を繰り広げているとゆう,地底の国で?
カワウソと河童の領域の丁度まんなかに立って,こう言うのだ。もう,
河童ありや,なしや。カワウソはありや,またなしや。そうして,
自立した,地底と天上のあいだ,独白と善良のはざまにて。それら,
龍馬はきっと,桂さんに沖ぶりの塩焼きに眠り薬を呑まされて,その
船上で揺られながら,LONDONの調べを聴いたに違いない。そして,
LONDON ONE,額に傷を負いながら,『則天去私』の理想を授けて,
漱石に歓談しLONDONで笑顔で微笑む龍馬の姿を”想像”するのだ。
まさに九郎義経のジンギス汗伝説のような語り方…

アメノタヅクリ・アナトール。

インナー・チャイルド,とゆう哀しい響きの
心理学用語の,とある,アメノタヅクリなんて,
茶化して,茶菓子のように,お茶の間のつもりで
インナー・チャイルドの心の扉を開けてみる。
パンドラの箱の話は,何だか,ややこしくって
よくわからないのだけど,多分『希望』とゆうものが,
あるから,あるからこそ破たんの起こるのではないか?
そんな,健康や,はつらつとした精神が,混乱するその,
混乱するその,何らかの発端になり得はしないか,と
そう感じて,インナー・チャイルド論を解いてみたい。
肩の凝りなんか,取ってみると,自分の中に,ある悲惨な
ヴェールが心の蓋をして塞いでいるのを,何か気付かされる,
それは,馬刺しを頂いた時のカルチュア・ショックに親く,
優しい知性が,砕かれる何らかの哀しみに親い。

そんな中,そうゆうヴィジョンが僕に何らかの関係があるのか,
そんなことを巡らし,記憶の氾濫を泳いでいるうちに。何故か,
『希望』の碑が立っているのに,しずかに驚くのだ。彼は,或は
彼女は,天真爛漫に無邪気に高原を走っている,そのままの姿で
駆け回っている,嬉しいのだろうが,本当にポジティヴの一語。
心の中に,こんな高原は広がっているものだろうか?多分,これは
インナー・チャイルド。高原に集う神さまたち。

『天の岩戸開き』とは,ひとりひとりにできる。って,
本で読んだことがある,はて,高天原?その姿は心のうちに,
見つけられたのだけれど。問題は,僕はもうワクワクとかのその
燃料は持ってなかったくらい暗い。悲劇的だけれど,高天原を
心のうちに見つけて,光の強すぎる所に影ができる,とは。って
ワクワクとゆう感情は世間では激しいパチパチのように感じられる
花火の手持ちで,見るだけで熱い,あつい。あの,そんな発光。
だから,『希望』が爆発しやしないか,なんて考えているのだろうか,
僕たちは,殻をかぶったインナー・チャイルドの,その輝きに,ふと
気づいた時,どう対処していいのか,わからなくなる。どうして,
『希望』のインナー・チャイルドが生まれるか。それは,逆にして
影が深すぎるからだ,とゆう大人は影引いて,ドキドキしないから,
もうすぐ花火は挙がるだろう。花の香りに,豆の産地を訊ねるように
珈琲を掲げながら,胸の『希望』を,そわそわと,差し引いてみる。
もうすぐ花火は挙がるだろう。花束を持っ…

アナトール・ハポン。

エクリチュール,信頼の置ける自分の頭脳を,
わずかばかし,遺っている頭脳の中心に据えて
エクリチュール,信頼の置ける文体をものに据えて,
すこしばかり,嘆息を衝く余裕のあるならば。その
世界はひたすらにせつなさにあふれている,そんな。
嵐のせつなさにひたされて,その感性たちは,その。
嵐の中の小枝チョコのような。定番お菓子は,嵐の
せつなさにひたされたチョコの味。

緊張するのは,マイナスにしか働かない。ただ,その
マイナスに働く緊張感が,世界に満ち溢れて。そうして,
緊張せずに,緊張感にひたされるとゆうことは可能?そう,
緊張感とゆうのは業である,劣等感はそこから産まれて,
緊張感は,差別や,格差や,孤独。閉塞感から孤独。もう,
孤独は業の結果である,そうして,緊張感は業である。
緊張せずに,緊張感にひたされるとゆうことは可能?また。
パイプ・オルガンはチャペルに響き渡るけれど。そうゆう
教会の音楽に太陽神経叢まで震わせて。そんな緊張感は
例えば。せつなさに満ち溢れて業の泉にひたされた感性。
そうした昼寝する感性。そのストーブの赤々とした感性。
抑圧の中で満たされた暖かさに欲求を託して,また今度,
熱の中に微睡んでいよう。

エクリチュール,信頼の置ける自分の頭脳を,
わずかばかし,遺っている頭脳の中心に据えて
エクリチュール,信頼の置ける文体をものに据えて,
すこしばかり,嘆息を衝く余裕のあるならば。その
世界はひたすらにせつなさにあふれている,そんな。
嵐のせつなさにひたされて,その感性たちは,その。
嵐の中の小枝チョコのような。定番お菓子は,嵐の
せつなさにひたされたチョコの味。



隔世の観点。

『マンネリズム発酵温』によれば,そのまた。
ツルゲーネフ=クライスト=シェイクスピア,
ヘミングウェイ=A.フランス=トーマス・マン,
これらの関係系譜による『白い獅子,』の観点。
隔世の観点,とは,覚醒の視点でもあって,また
そのうちやってくる,朝の目覚めのような感覚を謳う,
常温で,つまびらかに適えられるぷつぷつ,としたその
例えば耳の詰まっているような時でも,運筆はする。
『マンネリズム発酵温』によれば,そのまた。
ツルゲーネフ=クライスト=シェイクスピア,
ヘミングウェイ=A.フランス=トーマス・マン,
これらの関係系譜による『白い獅子,』の観点。
いつも”みたま”のいるような,と事付けられる視点を,
どうして,いたって追いかければ,追い抜かれる。
そこに創造性は居ない。けれど,詩性の囁きのあるだけ,
囁きは自分自身だ,などものするほどに,追い抜かれる,
結局”みたま”に追い抜かれた後の『私たちは,』もぬけの殻。
もうすこし,その殻をさぐってみよう,そうゆう試みに,
古代の史跡調査のような心地で,今までまぁどこの誰かの
居た形跡とやら,もうそれは今となっては題材が題材なだけ,
考古学と言っても過言ではあるまい。調査開始。あなたは,
(尋問のよう,)どなたなのですか?
ーBird Cageさ,
(謎に思って,)鳥かごさん,ですか?
ーだからBird Cageさ,
(鳥かごさん,か)では,誰に飼われて?
ー教えない,Jackと豆の木さ,
(多分,Jackさんだな?)では,どうして?
ーBEN REDに食べられたのさ,
(かごの中の鳥さんが,)どの鳥さんだ?
ーFOOEATGODさ,
(神を食べられたのだな,)ありがとう,
こんな説話めいた会話を調査対象としているうち,
LONDON ONEとはまた,大それたネイミングをしたもの,
嘆息を感じながら,漱石が彼の地で感じた倫敦は。やはり,
『マンネリズム発酵温』によれば,そのまた。
ツルゲーネフ=クライスト=シェイクスピア,
ヘミングウェイ=A.フランス=トーマス・マン,
これらの関係系譜による『白い獅子,』の観点。
3者の”みたま”は途方もなく文学とは言えない,それより
確かに『大学』であって『教養』であって『知恵』のもの,
鳥かごに取り囲まれた文学,日本はバルタザアルを訳した,
芥川先生より文学を興して,きっと…

取り込みする春。

『マンネリズム発酵温』,そんなことを感じながら
過ごす,虫の音の蠢く地鳴りの春を感じながら。
例えば,善も悪もないのじゃないのか,例えば。
嫌いの反対に共同のあるのではなくって,それは,
生命と,こちら側の自分。生命は涌き出るのだ。
それは,量子的な生命で,虫の発端は,
全て善だから,量子的生命を嫌うのでない,春の
その訪れに一緒に同化してしまうのだ蠢く春。

胸腺の疼きは誰かしらあるのかもしれない。その,
感情の涌き出る発端は,桜の森の満開の下に,
蠢く春の訪れ。お茶をすすって,物語り聴く所の
桜の森の満開の下。途中までは,安吾の人生を
追ってしまったのだけれど,途中からは,まるで
別世界に,『根の堅洲国』の古事記物語に
旅したような模様で,まさに地中に蠢いた蝉の幼虫。

『地底世界は,どうだった?』
ーあぁ,業の泉があったよ。
『どんなもの?』
ー夢の世界さ。
『お土産は?』
ー地底世界そのもの。

『マンネリズム発酵温』,そんなことを感じながら
過ごす,虫の音の蠢く地鳴りの春を感じながら。
例えば,善も悪もないのじゃないのか,例えば。
嫌いの反対に共同のあるのではなくって,それは,
生命と,こちら側の自分。生命は涌き出るのだ。
それは,量子的な生命で,虫の発端は,
全て善だから,量子的生命を嫌うのでない,春の
その訪れに一緒に同化してしまうのだ蠢く春。

量子生命=蟲の神=宇宙発想。などの,
あるとしたら,ある意味は宇宙人の侵略は成功?
しかしながら成功の上に進歩もあり,自他共に,
共に生きる,初めての公共性なるもの,ここには
ありますよ,とゆう,フランスでは一時期胸腺の
摘出を試みた歴史があるとゆうし,胸腺は感情の源泉
愛のみなもととまで言われるけれども。そことここの,
生命とこちら側自分の,知性と愛の,そことここの,
一致点と言えば,自他共に,やはり春の訪れにみる,
蠢く春の量子的生命,取り込みする春。



申すところの正直,

お寿司のネタは,脂の載ったトロでなきゃ,
そう言っているほぼ半数近くのひとは実は,
ネタがなくてもやっていける天才ばかりだった。
天才とゆうのはグルメー,またネタがなくっても
やっていけるとゆうのもグルメー。グルメー指向が
目指すもの,それは糊とミネラル水のあの,指向。
とくに,貼りつけるために取っておく必要はない,
ないのだけれども,わたしたちを貼りつけて止まぬ,
あの糊とミネラル水のグルメー。出たとこに,出た。
道は続くとゆうより歩いてる。歩いているより,時間。
時間とゆうより,大地。もちろん,大地よりの”無”。
道のない所に”無”あり,ここで,”無”とゆうのは,
”無意識”や,”夢”に親く,その位置と言えば,また
数学の思考に親い。いつまでもその知性に佇まえたら。
そう,思っては,業の泉にぶり還る。いいや,もう。
知性の限界とゆうものにぶち当たって,花火となる。
花火っても,業の泉に沈んでも,たどりつくとこ
いつまでも,自他の共にあるとゆうだけなのだから,
いいや,それがもう自他共にあるとゆう,感覚。その
感覚ひとつでどこまでもいける。これが,『自他合一』
の,業の泉”KARMA SPRING”のブログの第一義です。
羽ばたくのなら,地を這って。跳んでゆくなら,翼なし。
歩いて往けば,朗々と。地を這ってでも,翼なしでも,
同じこと。第五朗々,タフネス洋々。タイガは霊的ツンドラ
なれば,この方と一緒に往きませう。そのようにして,彼は
そう,彼とゆうのは草むせび泣くツンドラに,佇まえたら。
そう,思っては,業の泉にぶり還る。いいや,もう。
知性の限界とゆうものにぶち当たって,花火となる。
花火っても,業の泉に沈んでも,たどりつくとこ
いつまでも,自他の共にあるとゆうだけなのだから,
いいや,それがもう自他共にあるとゆう,感覚。その
感覚ひとつでどこまでもいける。これが,『自他合一』

諧謔の限界性スパイラル,

一足おそめのブランチを頂きながら,
限界性をみる,我がペーソスに舌鼓する。
詰まりは,ナポリタンも食べて,そのまた
ミルクフランスも,そのミルクフランスとゆう
名前は,町の写真などに,プロムナード的発想が
あれば,題名”ミルク・フランス”とでも掛けて,
置いておくと良い。そういえば,概念とゆう,また
概念だらけの若い自分の脳髄に,”強迫観念”とゆう
ネームプレートを掛けて,置いておいたら,
シンドロームさえも薬にしようとして,概念さえも
なくてはならない,身体さえも,その生活さえも
なくてはならないのに。『概念さえも,』。

一足おそめのブランチを頂きながら,
限界性をみる,我がペーソスに舌鼓する。
詰まりは,ナポリタンも食べて,そのまた
ミルクフランスも,食べてはならないのに,
頂こうとする。もう,食欲があるとゆうのは,
強迫概念ならぬ,強迫グルメー。ああ,いいや,
ただ,三面六臂として活躍できる前兆なのか?
諧謔の限界性とは,当然のように,全てを必要として
強迫観念とも言われる概念グルメーに陥った後,何も
反射神経的に,サイキックに対処してしまう癖を,僕も
持ってしまった事で,サイキックとゆうのは,きっと,
自他融出とでもゆうべき感覚なのだけれど,それはまた,
印度の後裔とも呼ぶべき段階なのであって,何にでも,
当然のことわりなどと言うものはあるのであって,それは
世界との出合いによって,ひとは輝きだすのであって,
輝きだすとはスパークする,そののち果実となる。ので,
あって,だから,世界はひとを,サイキックにする。その
サイキックは諧謔の限界性,

何も反射神経的に,
サイキックに対処してしまう癖を,僕も持ってしまった事で,
サイキックとゆうのは,きっと,自他融出とでもゆうべき
感覚なのだけれど,それはまた,印度の後裔とも呼ぶべき
段階なのであって,『きっと,”表現よりも豊かな表現”,
それは,”インドアよりも深いインドア”にあって,または
皆の自ずからとゆう,”概念は,きっと半回転する”』。
物事をみる視点に”偶”の視点は常に叫ばれる所だけど,
反対をみて,また裏返る,そういった視点は,もうまるで
必要なくなる,なぜかと言えば,”概念の半回転”によって,
『諧謔の限界性』にいたるから,それは『きっと,
”表現よりも豊かな表現”,それは,”インドアよりも
深いイ…

諧謔と全体性。

”代償と全体性”,とは言い換えられる。
その,『ユーモアと,ペーソス。その,
ペッパー・シンケンと,アメリカン珈琲。
そうして,キジトラとサバトラ白。また,
ホワイト・ラムレーズンと,グリッシーニ。』
”代償と全体性”とは,言い換えられる。
『神の祈りは,世界への呪詛に親い。』そう
この,諧謔と全体性。

また,そうして。『左回しの珈琲』を淹れる。
呪詛を放って,ドーパミンをベータ・ヒーリング。
世界に出逢うのは,そのなかに没入すること,その
感情のすべて。集合意識とやらに没入して。そのまた,
気づくのだ。
『諧謔とゆう,ペーソスを,ユーモアによる全体性で。
アメリカン珈琲とゆう諧謔を,全体性のペッパー・シンケンによって。
キジトラ猫とサバトラ白猫の代償と全体性を眺める,
ホワイト・ラムレーズンのレシピ,ギャグとは言え,
逆に真剣になって,グリッシーニのセットにする。』
呪詛を放って,ドーパミンをベータ・ヒーリング。

”代償と全体性”,とは言い換えられる。
その,『ユーモアと,ペーソス。その,
ペッパー・シンケンと,アメリカン珈琲。
そうして,キジトラとサバトラ白。また,
ホワイト・ラムレーズンと,グリッシーニ。』
”代償と全体性”とは,言い換えられる。
『神の祈りは,世界への呪詛に親い。』そう
この,諧謔と全体性。

世界に出逢う没入しきる,その中で祈るとは,
適応規制でゆうと,”代償”に過ぎないのだけれど。
しかしながら,世界が”愛”であるとゆうのは間違いない。
けれども,”愛”と”全体性”を結びつける,或いは,
”世界”と”全体性”を結びつける試みは常に失敗している。
愛=全体性。また,祈り=諧謔。として,祈り≒愛と,
仮定して,呪詛を生きてみてはどうだろうか?それは,
全体性=愛=世界,を生きる上で,諧謔=祈り=代償の
行為の結果であって,幸せとは,そのまま呪詛をしかし,
受けいれる,『諧謔と全体性』の生活の勧めとしては,
そんな,諧謔する全体性です。

KARMA SPRING COFFEE,

勢いの余るときに,業も,命も。 KARMA SPRING COFFEE,それの。 『左回しの,珈琲』。例えば,現象で 理解しかできないことがあるものだから, 現象では,理解できないものは何もない, 『霊(Geist)の裏に,届かない所に現象界,』 とは言いつつも,現象で理解できたときの,その 喜びと言えば,例えようもない。
POLO RALPHLAWRENのブティックのたちどころ, その業と,命を一緒にドリップしているような。 都市には,妖怪のたぐい,さまざまに居りましょう, 寒々とヒステリクスは,『業に出会えば,命は多分, 拒絶されるものなり。拒絶されれば,おののくなり。 おののけば,発憤する,嗜虐的になり,枯れてゆく。』 妖怪の道は,気分屋とヒステリクスの交互発露,とは POLO RALPHLAWRENのブティックのたちどころ, その業と,命を一緒にドリップしているような。 都市には,妖怪のたぐい,さまざまに居りましょう,
勢いの余るときに,業も,命も。 KARMA SPRING COFFEE,それの。 『左回しの,珈琲』。例えば,現象で 理解しかできないことがあるものだから, 現象では,理解できないものは何もない, 『霊(Geist)の裏に,届かない所に現象界,』 とは言いつつも,現象で理解できたときの,その 喜びと言えば,例えようもない。
KARMA SPRING COFFEE,しかしながらも 現象で理解するとき,ヒステリクスは瓦解してゆく。 エンパス,INNER NET,WEB=蜘蛛の糸。その ヒステリクスと拮抗する,命の讃美は,このような KARMA SPRING COFFEE,ヒステリクスと,命の 勢い余って,一緒にドリップしている,そのような。 ヒステリクス=命の=珈琲。
『霊(Geist)の裏に,届かない所に現象界,』 とは言いつつも,現象で理解できたときの,その 喜びと言えば,例えようもない。




全体性の轍。

トーマス・マン,ゲーテ,ミケランジェロ,
シェイクスピアー,ギョーム2世の征服王。
昨夜は,僕は,これだと,そう思ってた。
夜半には,ドーパミンが出尽くしているから,
ベータ・ヒーリングで,そんな風に思うのかもしれない。
朝方になると,目が覚めて「眠りの学校」より還り来る,
自分の清浄な教育を受けてきた,清純な感性は,まさに。朝が来て,鏡の前に立つと,全体性の轍を探して,まさに,
「お前は,誰だ。」と,突き詰めて問いかける。まさに,
突然に愛はあるだろう,目下のところ阿修羅神像のような,
無感性のうちに残酷性も厭わない怒りの愛もあるだろう?
情熱を隠している,我が国では情熱に条例が掛けられて。
禁止事項に,「残酷な愛」。この,情熱の感情は,どこから。
そんなヒステリックな情感の豊かなニヒルな可愛らしさを
「お前は,誰だ。」と,誰から頂いた。突き詰めて,その
全体性の轍を探してる。紋様のマーブル紙は,昔っから
好きだ。幼少期に何度もマーブルにはやられてる。そんな
何かしらウルトラセブンのマーブルのような世界には,
いっつもやられてる。酔いたいのなら酔えばよいものを。
禁止事項に,「マーブルの愛」。我が国の条例で課せられて,
我が国なんて,メラトニックな太陽精神の残滓スラグの,
本当の美しい国のことではないのだけれど,先入観念とゆう
そんな言い方があるにして,思春期の愛,マーブルの愛が
遠く,あの「美」にあたるとゆうのに,
酔いたいのなら酔えばよいものを。トーマス・マン,ゲーテ,ミケランジェロ,
シェイクスピアー,ギョーム2世の征服王。
昨夜は,僕は,これだと,そう思ってた。
夜半には,ドーパミンが出尽くしているから,
ベータ・ヒーリングで,そんな風に思うのかもしれない。
朝方になると,目が覚めて「眠りの学校」より還り来る,
自分の清浄な教育を受けてきた,清純な感性は,まさに。全体性の轍は,「狂気」また,「情熱」そのまた「文学」の
道程をあらわしている。文学は,情熱から来たりくる,その
狂気の特性をもって。情熱情熱,それで。狂気がそれ自態と
なれば,文学になる。その情熱はロンドンの塔に眠る,その
狂気のシェイクスピア悲劇に万年筆のインキ。
政治犯,とゆうのは如何な者か?
思想犯とは,ゆうものの
「狂気の愛」の,「マーブルの情熱」,「青春の文学」を
侵犯した者。また,そ…

理解するMONSTER

READING MONSTERは,読魔と化している,
READING MONSTERは,ドグマティック。
READINGばかりしていると,
LISTENINGできなくなる,その故は,
ビジネス会話に必要なのはREADING,
意味を汲み取る必要なのはREADING,故に
コミュニティーに十分なのはLISTENING,
一緒に目的地に到着できる,LISTENING,はい十分なのはLISTENINGだから,READING魔は
理解する,理解するのに十分必要なのは,
LISTENINGである,読魔と化した,普通の
ごくごく普通の悲しみの人間は忙しいほど,
読魔と化した人間は忙しいほど聴き魔となる
「なにも考えない忙しい恋愛は上手くいく。」
そんな,ある程度,呆然と忙殺されて時間の
中へ埋没しているほうがLISTENINGできるから,READING MONSTERは,読魔と化している,
READING MONSTERは,ドグマティック。
READINGばかりしていると,
LISTENINGできなくなる,その故は,
ビジネス会話に必要なのはREADING,
意味を汲み取る必要なのはREADING,故に
コミュニティーに十分なのはLISTENING,
一緒に目的地に到着できる,LISTENING,はい霊界学校とゆうのは良いな。そんなつもりで,
描いてしまった,理解するMONSTER像は,
けれど,ただ英会話学校の会話学概論講義の
話題から頂いたトピックだったのだ,ただ。
霊界学校とゆうのは良いな。そんなつもりで,
KARMA SPRINGのメモ帳的Blogを存続させて,
描かせてくださる霊界学校ならぬ人生の案内人。
ナビゲーターのネタBlog発想体のアイディアに,
「霊界学校日誌」とでも副題を掲げて,このBlog,
書籍化して,贈りたい。なぜなら,READINGしか,
できない僕の,生徒としての悪童ぶりに,まだ。
耳を傾けてBlogを描かせてくださるイデア発想の
そんな恩寵に感謝しつつ,眠りのなかでは本当に
霊界学校ならぬ眠りの学校にてLISTENING,実際の
READING MONSTER IN SLEEPING IS,
UNDERSTANDING DA LISTENING,
THERE.なのだ。

工芸アンティーク

アンティークには,工芸の幅がひろがるから,良い。地に足のついていた時代,地上でしか出来ないことがあるから,アンティークには,工芸の幅がひろがるから,良い。La Mer,海にもアンティークには,工芸の幅がひろがるから,良い。文章もそんな,アンティークには,潮や浜辺の匂いがするから,好いのは,古くなく何時も循環している鮮やかさの,海や,グラウンディングしたアンティークにはあるから良いのであって,地に足のついていた時代,地上でしか出来ないことがあるから,アンティークには,工芸の幅がひろがるから,良い。いや,跳び箱を超えるのは高いほど。ゆらゆら,と跳び超える,ほど。ただし,アンティークには,工芸の幅がひろがるから,良いけれど,地に足のついていた時代,地上でしか出来ないことがあるから。

世界は,真実である

ばってん,猫舌の奏でる水呑みの音は,
非常に,ハイ・テンポの可愛らしさ溢れる。
なのだから,ワンちゃんの,ずぼずぼとゆう,
あの波の音のような水呑みを聴いていた僕に
とって,猫吸いの,あの香しさ。そして,
信じられなかった排泄の器用さ,そうして。
割り切ってるのだろうか,被写体ポーズを
無遠慮にしている時のあれば,また,そのうち
ゴロゴロと寝転んでいる時の,猫吸いと,
女神さまの間のような不可思議さ。猫の事を
描きたかったわけではなかったけれど,なぜか。

『世界は,真実である』とゆうテーマを,ずばっと
言うのには,この猫たちの香しさを用いてしか,
できないそれは,膝に無意識に乗っけて,腕に
小さな肉球と首を持たせて,鳴きながら寝てしまう。
パソコンの好きな,そのようす。また,宇宙創成に
関わった,その宇宙とは,人間の発酵意識である,
その神話の女神たちのような,キャット・ピープル振り。
女神に反感を抱くとゆうよりは,発酵の女神たちは,
ミューズ詩神のアーティストとして,照らいとゆう,
ニヒリズムを幸せの機縁として教えてくれているに過ぎない,

『猫,その真実は,ニヒリズム』

『膝の上で寝てしまうその,ニヒリズム』

ばってん,猫舌の奏でる水呑みの音は,
非常に,ハイ・テンポの可愛らしさ溢れる。
なのだから,ワンちゃんの,ずぼずぼとゆう,
あの波の音のような水呑みを聴いていた僕に
とって,猫吸いの,あの香しさ。そして,
信じられなかった排泄の器用さ,そうして。
『世界は,真実である』

宇賀神さん。

人の思索は,何か外れた所に枠をさがすように,ガタガタの所にフレーム造りするように出来ているらしい,だから,宇賀神さんと言う,三角錐にトグロを巻く人面神の,あのようなフレームの外れたような,大黒さん信仰,黒豆焙じ,酒蒸し餡のような,甘味の文化も出来るのだろう。以前,実朝歌集の,源実朝の歌には,秀逸な響きのものが多いと,聞いたはいいものの,剽窃ならぬ,時間のコピー・アンド・ペーストをしたような仮想剽窃的和歌に富んでいる,と伺ったことがある,剽窃とは,強盗のようなものではなく,本来,あの『夜警』の絵のような,滑りだす夜の街に,灯をともすこともなく,市民文化を守る宇賀神のような防衛隊だったに違いない。レンブラントは,画家のそういう,光と陰の剽窃をして,一躍画家らしい絵を描いていたのだから,近代のなかにも古代のなかにも,剽窃的な,ペーソスのギャグに照らされた,一翼の信仰,神のペーソス・キャラクタライズのあって,今日の現代画壇にもいたる,ペーソスと言ったほうが適当か,剽窃的なコラージュや,デジタル写真加工の現代画には実は昔からの無駄にしない人口比率の考慮からなる人工効率化クラフト性の工芸的作品群また,真摯な作家陣のすすんで連座していたこと間違いない。人の思索は,何か外れた所に枠をさがすように,ガタガタの所にフレーム造りするように出来ているらしい,だから,宇賀神さんと言う,三角錐にトグロを巻く人面神の,あのようなフレームの外れたような,大黒さん信仰,黒豆焙じ,酒蒸し餡のような,甘味の文化も出来るのだろう。恬淡として,とは無頓着にもしてまたはその生活の中に,他力的に生きる何かである,そうして恬淡として,私たちは自然物に親づくのだろう,あるいは森の樹々の中に,より人間性を臨むとして,自然信仰は,むしろ岩石と人の融合した植物の中へ這入ってゆくことなのかもしれない。植物の中に,有限で柔和な更に恬淡さを垣間みることのできればまた,それは,宇賀神さんへの一歩さきへすすむ信仰の進歩なのかもしれません,例えば,眠りの中に生命の酵母発酵をみる,そのうちには植物のいのちの働きや人面神のトグロを巻いた彼のひかりをまたみるかもしれない。運筆するとゆうのは,ひとつひとつの働きを,メモできる貴重な体験で,それは働きを活性化する何かの鍵を持っている。酵母の神性は運筆の中に,その働きを活かしているのかもしれな…

ところで,みなの肖像画は。

『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』世界の悲しみから,妖怪は産まれた。妖怪自身が病んでいるようすはかけらもなく,妖怪は神仏が”悲しみの人”の眼によって,神仏との出会いの奇跡まで図画的な表現に換えてしまったものなのだ。もしくは,真の人間の描く神仏画は,みな妖怪図となる,とは言えないのだろうか?世界との出逢いから,神仏信仰は始まった。人が意識さえもたらされなければ,私たちは岩石のままで,もしくは岩石のままであれば,凍えることもなく,自然物のままでいられたのだ。意識は,酵母発酵の細胞分裂とゆう生命のテーマを連れてきた。そして,酵母神の人間の意識は信仰を鏡の中の世界へ神仏信仰へ向ける。だから,自然物に戻れれば,意識を持つ事もない岩石だが,それは酵母神が許さない。酵母はイザナミ女神であり,天照神であり,そうして『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』,と。しかしながらもイザナミ神話が語るように,私たちが体験したのは,悲しみの体験のみであり,それは感謝するべきものだ。”謝り感ずる”所の,感謝。悲しみとは,感謝以外の何ものでもない。言ったでしょ?私たちの他に原因であるものはなく,また私たちも,原因そのものでない,だからイザナミ・ママは,感謝をつたえるため,私たちに種を植えた。この種を”神”と呼んで,また釈迦如来は,丁寧にその種を果実に換えて感謝祭を催したのち仏教伝来による”いまここ”一円。禅にみる脱け落ち”心身脱落”観念まで高めた。『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』”解脱”指向は,確かに,悲しみの感謝に代わる,喜びの極楽彩色文化たるグルメの食文化まで造るEuropeの源流,ヒンズーの密林熱帯林にあるかもしれないし,それに対峙すること,創世神話の宇宙伝説など,もうあえてゆうなら,岩窟に酵母を起こして,人間の創成をした神話の女神達のいるなら,あんまりじゃない?だから,男の子は。って,イザナギさんを,怒ったように,感謝の太母からしたら,男性達は,子供たちであり,『むしろ,感謝によって真の嬉しさなども造りだした。』と,女神たち,叱ったりするやもしれない。『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』だから,昔から神の子羊。男女の融合,ユニセクシャルな瞬間は尊ばれたし,人間の,自然志向や,業の泉に対する,…

晩課煮炊き。

『外界と,内界を結ぶもの,それは晩課念仏。』薪を割って,煮炊きする,夜の訪れ。お風呂の湯沸かしもそうだ。晩課煮炊きは,すべてを夜の業の泉より,ご馳走に掬いだす。お椀には,業の里芋,知恵の人参,叱咤するアサツキの,麦飯の突いた箸先には昨日からのお昼を過ぎて楽しむ晩課の夕べ。とにかくも,妖怪神話のごとき,念仏は外界と内界を結ぶ。クリーチャーとは,海外の妖怪みたいなものらしいけど,海外の大ナムチは,宇賀神の蛇に人面にまさるとも劣らぬ”ペイルマン”と言う存在として。ペイルマンは多分,親鸞和讃はメチャクチャ好きだとおもう,ホット・パンケーキなどにかけたら,メチャクチャ美味しい,と言って,クリーチャー流に食べていると思う。念仏はサイケデリックな海外のファンタジーにメチャクチャ合うから不思議というか,IT関連の事業みたいな海外のテーマパークには,和讃などメチャクチャあうのじゃなかろうか,あの日本の妖怪の神話のファンタジー奇跡はもう癖になるなあ。何かのテーマパーク。だから,本当は日本人は海外のファンタジーが性に合って薬になるのに対し,奇しくも外国人には日本の宇賀神信仰など,もののけ神話の確かに合う。もののけメディスン。ネイティヴ・アメリカンや,クリスタル・ボウルや,クリスタル・ガイザーや,モスク尖塔などは多分西洋にあって,異文化メディスンとして働いているし,多分特効薬として,西欧心情に届くのが,西洋真情だろう。また,エキナセア・ティーなど最もな香り。西洋の中の日本の立場としても,エキナセアに現されるロジカル・ロマネスクーは薬以外の何者でもない,だから,甘味的思想体の和讃は,伝統的な和の真情として,西洋,いいや,インディアン・エキナセア文化との照合に無論成功する。リンパの走る,統合文化としての”妖怪クリーチャー”,”妖怪神話ファンタジー”,そして”エキナセア甘味和讃”。お喋りはこれくらいにして,自分のなかの妖怪。西洋のなかの日本のように,意識して融合しなくっちゃあ。

2代目の黎明,

不健全で,ロマンチック。不健康的でロマネスクー,健康的ではないけれども,深夜湯上りDriver,夏のむせびを先取り。まるで,太閤秀吉の,幕府制の全てを始めたような,漱石は,則天去私を想い,高度経済成長の個人を造った。修験の呪詛とも行者は言う。本当は,Driveのほか事のほか,湯上りキッチンにて,座り,春の息吹きを自ら体験しつつ,原稿を認める,足のすねは先に早く冷え始め,側頭部,肩甲骨の辺り,まだ暑い。 用を足して,すぐに昇ろう。まずパジャマ着て,お茶呑んで,リンパ・マッサージするうちに,冷え取りソックス。お風呂にチャポする如し,お布団にポコすれば,旅支度。 やっぱり,防寒目的以外のルーム・ウェアーなどは,通気性のいちばん肝要であって,また通気性こそが防寒の副作用を除ける最もな対策で。通気性のあればこそ,2代目の黎明は現れもするから,湯上りの推敲は,もって計るべし,認め終えた時。その,運筆態が,今日1日の終の棲家となるのだろうから。 頭脳は,シナリオライターだから,勝手に運筆するものだ。妄想を自分の鏡として,映し取れば,健全ながら,ロマネスクー。2代目の黎明。

甘味和讃。

ショコラティエ・クリスティアン・アルピニズムのEuropeよりも,甘味処仏教哲学のジパング。芸術と暮らしのはざまに,甘味和讃など,ほんとうに初めて浄土真宗の阿弥陀仏かな,念仏和讃など聴くにいたるに。ほうれん草の灰汁にあたってしまって,抹茶のフラッペに代えて解毒するような,そのあいだ,視界のさやけし,月夜おみごと,ゆたかに雲を流します。建築文化にも抹茶の香る伝統建築に築材の腐らないように,木の腐らないように,移ろうように抹香地味て,200年の建築などができるのも和讃らしい。まさに,解毒する甘味和讃など。右に左に,どうしようもない気持ちの変化は,移ろうように自分のオリジナルなどない。そうこだわらない仮眠は取れるときにとってゆく。眠りの夢との境の覚醒に,むしろ,眠り自体は夢はなく,夢のなかに自分はなく,覚醒のなかに時間はない。時間は眠りのなかに産まれるものだから,芸術的には低空飛行で時間を感じて眠りの作品群を造りだせる。芸術家は眠り。夢のように和讃を聴いて,思考哲学,芸術と暮らしのはざまに夢の和讃。暮らしの自然自他一体化させる,今は祈りは思考より。祈りと眠りのあいだには,灰汁を払い去る甘味和讃のあると気づいた時々,霊的Cloud,時々電波マニ。すべては一体化しているとゆう仏教哲学の機縁は,すべては空虚な暮らしの忘我だと気づいた時に発生する,鍋に抹香フラッペ。融け出してしまう全体性へ想い,自力観想に良い加減を求めた時,融通させる無頓着さの身に着いた時。思考より甘味和讃。仏教哲学のジパング。

民芸フォント。

やはり民芸フォントは, 南無阿弥陀仏。 芸術と暮らしのはざま,思考の 入る隙には 南無阿弥陀仏。色んな言い方 発し方のあるよう, 真宗和讃には”なーんむあみだーんぶ” と,ちょっとした溜めかたのある。 天台晩課には”なむあーみだーぶ”とゆう 非常に,コンサバな綺麗さ。いずれも 締めのときなど,ほとけの”つ”とまで, 最後のぶつまで発する気はする,しかし, いつも農場の緑肥の匂いみたいな,ぶつの ”つ”を発しない。そんな雪解けの 春の馬の肥やしの匂いが好きだ。雪解けの白は,見事に白い。照り返しては 溶けて,非常に養鶏のニワトリたちも, 緑肥を地草がわりに食べて,美味しそう。 これで卵を産むのだから,尊くって,幸せな気持ちにさせてくれる。クリエイター以外の何物とも呼べず,養鶏の神の産地とは, 言わずもがな,非常にマリア信仰ではないか,なんて思われる。軽井沢の春などもそうなのだろうか?病にしかわからぬ堀辰雄の文学性は,クリエイターの証し世界の秘密。少しはらんでいる位の季節感は絶大なのだな。はらんでいる位の人間性なのだな。楽しみは,雑食性に寛容な逞しい胃腸をした,優しさとカオスの同居して少しはらんでいる位の楽しさなのだ。家の部屋で寝るより,カオスの中で,自家用車の中で,和讃など聴きながら,自然の温みを感じて発散しているくらいが無事産める。産出するは,カオスよりの優しさ経由する思考の卵を。待つことに苦を感じない位で,産まれること自体,待つことなのだ。今日は,自分のせいなのでなくって,何にも,誰のせいとかない。地球に産まれるって,そういうことだ。 と,朝から奥さんに話した。卵を産む文学性について来られる。自然物に他ならないから,人間はむしろ何のせいにもしない方が,OPEN MINDで,人間になれる。とは言いながら,待ちすぎて,カオスをすったあと。奥さんにクサイと言われた。

抽象思考のテーマ

LONDON ONEとゆうかく言う抽象思考の ペンネームを使うとき,自分でも予言めいた ものとして,みたいな未解決の闘いしかできなくって,解決できない難問である,それは抽象思考そのまま,OPEN MINDのテーマそのまま,神話の岩戸開きがこういうテーマに使われるのも超難問ゆえだろう,世界は鏡で私が映る時,考えるときは好敵手のように考えるテーマとして世界=私の超難問を相手にしている。難問に興味なし,そうゆう事は,じつは範疇にないとゆう事で,実は解決済だったりするから面白い,未解決でも解決済だったりするのは,本当に難問それ自体が世界だからだ。世界であり,僕にとっては岩戸開き=OPEN MIND,そうして業の泉,食事はいつになってもあるだろう。それだけ味覚は世界の意味を表している。珈琲と,お茶をまぜる習慣も出てくるだろう。ねたみとゆう習慣は平凡な持分のような僕にはよくわからない抽象思考に常に淹れられるコーヒー豆のような私にはよくわからない。けれど,ねたみこそが生命で,酵素で,発酵だとそう感じる,太陽の光が,ねたましくみえるのは,暑い自分も,多分太陽自身としては”生命であるのだからやむない。”なんて。もう,夏のことを考える。発酵だと言えばそう,もうすぐ熱にうだってしまう頃には,とゆう話は,寒さ払いをして,抽象思考=大地母神との,テーマを打ち負けることのなきよう,寒さ払い。正直,珈琲以外の生産的なことってない。なぜならテーマとして珈琲は,未解決の未来予言として難問であるに関わらず,常にドリップしていたい,難問とは幸せを運ぶコウノトリ。一服。

想いは帰依作用,

想い,想像,イマジン,イメージ力,イマジネーションの由来である,想いは,地球への共感,シェアする事の全体性への依拠。想いは帰依作用。身ひとつなのに身体で出来ない自分の悲しさ不甲斐なさを,いちばんに感じる地球の女神が,呼んでは返す遠鳴り,波の音,こだまのように,地球の懐に抱き込んで,一致させることは,全体性への依拠。そうだ想いは帰依作用。だから,悲しみは不甲斐なさをあらわす個人作用。愛の思想は全体性への依拠,そうして想いは帰依作用。もう,戻ることはないと,世界の構成要素は大地への,想いだけで良い。遠鳴りは寒さのふるさと。あそこから,共感依存の冷えがやってきて罠のように私たちを優しさで包む。包まれた私は小籠包や豚まんのように泡立つせいろのくつコト,くつコト。駅で見送る知人の気持ちを,太宰の最初の運筆に見てとることのできる寒さのなかの豚まんは最初の優しさで始めの悲しさで融けてゆく全体性へのこころざしでその小籠包,豚まんなどは,その寒さを懐柔する”想い”とゆう名の芽吹く大地。

キッチンの姿

カステラを頬張りながら,お茶をのむ。紅茶をのんでいるか,と思えば,プーアール茶をのんでいる,だから,プーアールにも,もちろん練乳やクリームは合うであろう,と信じている。みぞれ氷に,抹茶パウダー,きな粉のたぐい,おいでませ。出まかせ,ながら。抽象的思考の,その経過を辿るのに,それは,昼間の束縛のようす,古代の断念のようす,身体的必要を,かいくぐるなし”断念とは心理的欲求を抑制する”こと。ふすまを開けて,玄関に出る。自然に,それは筋肉の硬直を意味している。心理的に欲求を抑制するとは,岩戸に身を隠すアマテラスさんのようす。もう,OPEN MINDの快楽を望んで,岩戸からでられない日々をすすむ,抽象的思考の行者の目的は,OPEN MIND。みかん,カマンベール,ポテトチップスと。チョコも要るけど,それくらいチョコは酵素を助けるけど,普段より沢山の要素より,酵素構成はしてあげる事のできる,執着なく”自由”は,あのシンプルな土埃をクレイファンデにできるような世界の構成要素は,大地のみで良い。瓶詰めのジンジャーエールは,本当に,美味い。もう,10本くらい消費したように,カウンタースペースに並ぶ空き瓶のような,ジンジャーエールボトルが朝のブラインド越しにキラキラと目覚めるシュワッと泡のめざめ。ジンジャーエールの生姜,あのガリにも使われるような生姜は土埃から果皮によって身を守る。その果皮によって辛味をつくる,だから大地は尊い。キッチンの情景,キッチンの大事さは,愛おしい大地への真摯な想い。

一寸先砂糖。

いつも,昼は一瞬でくずれてしまうので
ルーム・パンツに返って履き換えると,もう
ものすごく,おぼろくずれる。動画では,
おぼろ月夜のくずれ方は教えることは,
できてもできなくっても,履き換えるのは
こんな一触即発の昼を過ぎてからでもないと,
伝えることの出来ないおぼろくずれる。

ここで,経過としての,昼間を考えてみよう。
古代の行者などは,生理的欲求を溢れるままに。
しかしながら,喜ばず,泣かず,ゆるまず。この,
三大心理欲求の断念を試みた。抽象的な思考は,
現代においてはその再現であるとゆう。がしかし,
それは行者の話で,皆が行者たるべきなのか,とは
言えないわけで,だからこの話半分もいいところに
”経過”としても昼間は,色んな業の泉のあるわけだ。

いつも,昼は一瞬でくずれてしまうので
ルーム・パンツに返って履き換えると,もう
ものすごく,おぼろくずれる。動画では,
おぼろ月夜のくずれ方は教えることは,
できてもできなくっても,履き換えるのは
こんな一触即発の昼を過ぎてからでもないと,
伝えることの出来ないおぼろくずれる。

崩壊の望むところに至福はないように,
アイディアのない場所には崩壊もないんだ,
だから,一触即発しそうな,昼。とゆう概念。
これは”正しい”。崩れ落ちそうな太陽の昼は,
ルームウェアになる夜を迎えて幸せなのだから。
チャイの味がするバレンタインのチョコを頂いて。
今はチョコにハマるよりダイエット。そういつも,
身体に言い聞かせながら,がしかしのしかしながら,
もう良いだろう。ルーム・ウェアーのあとは,横に
なりたい,ようやく正直に物を言う。そうだなぁ,
ルーム・ウェアーのお着替え時か。

いつも,昼は一瞬でくずれてしまうので
ルーム・パンツに返って履き換えると,もう
ものすごく,おぼろくずれる。動画では,
おぼろ月夜のくずれ方は教えることは,
できてもできなくっても,履き換えるのは
こんな一触即発の昼を過ぎてからでもないと,
伝えることの出来ないおぼろくずれる。

すぐに何かに
着替えたくなる癖を付いてしまって,履けるものも
被るものも,替えは1個で十分だ。けれど,そんな,
チョコから逃げるように,お風呂をわかしながらの,
ながらの嗜好によって,『お風呂はまだか?』とは
一瞬わすれると,こうだ。階下に湯を止めにゆく。
『あれれ?』もう,一瞬わすれ…

無尽雪花。夕餉逡巡,

現代フィルモグラフィーみたいな,
文学グラフィティーを感じるまま。

漱石は,漢文に頼んでいた事の甚大。
何故か,LONDON ONEの英文学の,
ロゴス的にChinese Character(漢字フォント)と
合わせて,アンソロジーのように綴った。
そこに,野獣性を明治に抱かせることに,
成功し,高度経済成長までの個人を身篭らせた。

芥川に関しては,エビス東照宮とゆう,コンサバの
見事な宗教的バランスしか,感じない。だから
故に,漱石のロゴスは,スサノオ的な荒神の
ものであったのに対し,事代のある文学性,
それは古文変換をまさしく現代文学にまで,相当
高めた。故に,日本語を誕生させた『河童』秘話。

中也の事を描きたい,仏文学を持ち込んだ
のは彼だったに違いない,バラックとはもう死語
だと明言したいけれど,彼のハリケーン除けの,
かしわの串の味わい,詩人とはああゆうものだ,
詩人とはああゆうものだからこそ,悲しみは
かしわの味わいなのだ。

堀の立原との付き合いは,もうよいだろう。
サイゴウどんと乾退助の付き合いのようなものだ,
だから僕らは彼らの炬燵にくるんで包まれた,
布巾の間に熟成する甘がゆのような,脳髄への
点滴は,甘がゆ,米麹の甘酒によるもの,とは
推して図るべし。彼らの,着想は,ヴァレリと
マラルメの指示によって,ベタニヤとシモンと,
姉のマルタを活きたアナトール・フランスのような
逡巡として,腹いっぱいの夕食のような,
そんな雪花は甘酒麹の,味噌漬けの生姜の,
沢庵の白い粉吹きの。

天界をみたとゆうJesus Christのみたとゆうより,
降ったとゆうべきなのかはわからないけれども,
その天界とは,無尽雪花,酵母の無限大。それは,
現代の文学は,視線のおぼつかない,目の泳ぐ夕食の
現代の文学は,それをテーマにする,ある意味の
普遍性とゆうもの,お茶すすって,炬燵でぽっこり
横になるのもいいでせう。

OPEN MIND,

大きな心持で,天界を仰ごう。つまりは
枕に頭をもたせかけて,眠ってしまおう。
まるで,世界は,さくらんぼ漬けのような,
甘い香りを用意してくれているよう。何も,
中途半端に,優柔不断に,沈思黙考して,
良い按配に,無頓着なようすで,間然と
融通無碍にしている。そうゆうことで,情熱も
眠ってしまう。恬淡さ,アトランダム・アルゴリズム。
蕎麦は洗いで,盛そばを,ちびちび愉快して,ダベる。
ただ磨く,磨くとゆう行為に似てる。似てるのは,
木目が輝きだした漆器の,その木目は彼の柔肌に,
フィットしてたんと盛そば召し上がる。そんな,
クロックムッシュの,ベシャメル・ソース。
ホワイト・ラムレーズンのマスカルポーネ。または,
尖塔の立つフィレンツェの御馳走の匂うそれは,
ラビオリのボロネーゼ・ジェノヴァ。豆乳のような
そのつまり,乳化現象,火と油は,水と油を融和する。
乳化がもちろん全体性気味ギミックに必要なのは,
思考を保たせる酵母の嗜好活動と,はたまた,青菜の
漬物,御浸し,吸い物のたぐい。そうした無菌の
生命現象は,水と油のように,酵母と青菜の発酵で,
世界は酒への爛熟味を初める。水晶を香水に浸ける,
漱石の喩えはもうそのまま,岩石と酒精の発酵を促し,
足の角質などもっとも喜ぶのは,眠りの瞬間,地と天の
真逆になる一瞬,自分はもう”酵母”で,お酒の,油を
香しく嗅げる王族になりきった,と足の角質の感じる,
そんな瞬間,何が,休息のメッカのような立場にあるのか,
恬淡のデトックス。ただ,夏のかんばしくとおる水の香り。
何かを頂くとしたら,麹漬けの酒宴のもたげ。そうだな,
花火を観にゆくとしたら,いっそ,ニッキ飴でも持って,
巾着ひとっつ提げてニッキ香ただよわせながら。独り,
もくもく沈思していよう,このようにして,春から,
秋への予見めいたイメージ力によって,ひそかに凍えを
追い払っている。目下のところ,この山岳山谷,丘の上に
無難な道しかなく,曖昧なところに天界入り口,また,
見つけまして,眠りの中に,香しく感嘆しよう。

ホワイト・ラムレーズン。

大事な方へのホワイトデー・プランニング。
すでに,考えるのが,楽しい。 レーズンを,ラムで漬けて,今から1ヶ月。 瓶詰めにして,有機ココナツスプレッドなるもの, 和えて”ホワイト・チョコレートのようになる”, とゆう『ホワイト・ラムレーズン』。 小さい瓶詰めして,”冷やして召し上がれ?”って, 『ホワイト・ラムレーズン』の手作りラベルデザインの 実は,いちばんの醍醐味だったりする, 保存食的,ホワイト・プランニング・ギフト造り, 暖かくなってきて,ビスケットでは物足りない季節, ノンアルコール・シードルとゆう手も? ,あったは,あったのだけど,バニラのアイスでは 溶けてしまう,どうしてもホワイト・プランニング, ココナッツ・スプレッド和えしかなかった。 桜の咲く季節に桜餅のジェラートを頂く心地のように, 桜の葉と,その塩漬けに,餡を和えたような,そんな スプレッド・ココナッツバター的な何かを,求めている。 解凍された春。そんな先触れをホワイト・ラムレーズンは 表してもいるから,なので,ノンアルコール・シードルは やめることにする,ホワイト・スプレッドを冷やすと, ホワイト・チョコレートのよう。だから,バニラのアイス でもなく,保存食の冷やした”ラムレーズンintoココナツバター”。 大事な方へのホワイトデー・プランニング。
すでに,考えるのが,楽しい。 レーズンを,ラムで漬けて,今から1ヶ月。 瓶詰めにして,有機ココナツスプレッドなるもの, 和えて”ホワイト・チョコレートのようになる”, とゆう『ホワイト・ラムレーズン』。さあ,その先に 何のある,実際,目標は常温のラムレーズン・ジェラート。 まずは,ラムに漬けよう。じんわりじわじわ浸ってゆく。 そのあとで三週間くらいしたら,ココナッツ・スプレッドを 手配する, 大事な方へのホワイトデー・プランニング。
すでに,考えるのが,楽しい。 レーズンを,ラムで漬けて,今から1ヶ月。 瓶詰めにして,有機ココナツスプレッドなるもの, 和えて”ホワイト・チョコレートのようになる”, とゆう『ホワイト・ラムレーズン』。

珈琲に手をのばす,

『忙しいくらいが,恋愛は上手くいった。』
何も考えないで済むから,と。今の奥さんは
話していたことがあったな。
鉄仮面で無関心を装っていたほうが,逆に
相手の機微に気付くことがあるから,珈琲に
手をのばす,効率から言って,昼間は冗長と
している気がするのは僕だけだろうか?夜に
寝不足だから?どうしても珈琲にはミルクを
入れてしまう癖が今ごろは着いた。これも,
奥さんから貰った習慣だけれども,いい塩梅。
アンバイは”しおうめ”,とかくのよ。
自慢されたけど,それは禅の講話で知ってた,
何にも驚かないふりして
いちばん僕が影響を受けているカフェ・オーレ。
正直,眠りに落ちて,起き上がらなければいけない,
湯舟の中で目覚めるように,あの一時間半位が,
丁度良い睡眠パターンで,ストックホルムや,
アムステルダムの人たちは,妙に楽観的な,また
天上の住人のように感じるのは,僕は夢見がちに。
そこに住みたいとゆうより眠りの世界は,天界の
住人たるや,本当に,デカダンスな魅力を持っている,
ある程度,重力や,業の泉や,地球意識に縛られる位の
丁度良い。カフェ・オーレに,ビターなチョコがよく合う。
今年は,母から父へのバレンタインのなかったこと,それは
『息子は現役バレンタイン選手。』とゆう,柄にもない
称賛を受けとらずに,夜の眠りを夢見て,夢見がちに,
夜を夢見る,息子である僕。結局は,業の泉よりの地底へ,
また,オシャレな『河童』の世界へ生きて戻ってくる,
忘我だけではやりきれない,けれど鉄仮面の無関心は
永遠の目標で,わが肺の中の空気を入れ換えるような瞬間,
地底へゆくまでは,いつも感じていた,山岳,湖水のイメージは
ともすると,そこは天界でデカダンスである。そして,
僕の個的プロフィールには,常識や勤め先ならぬ,自然の
祭司的な事項のただよう,『今年は現役バレンタイン選手。』
振り返って,ほくそ笑むのである。また,Blogの更新を
頑張ろう,と。

善悪の彼岸,とは。

朝,目覚めると”善悪の彼岸”にいる。
朝,それが目覚めた後の答えが”真実”なのだ。
実に,冥土,眠りの世界は”教育者”じみている。
”教育者”が嫌なのではないし,今までもこれからも,
目覚めて起きた後の”返答”をいちばん念頭に置きたい。
しかしながらもそれにあらがう心持ちもないわけではない。
夜眠る前に,しかもそれは宇宙船地球号を目の前にまさに
”善悪の此岸”にいた僕が,起きてなお,『善悪の彼岸』に
いる。朝課とは,その『善悪うんぬん』を打ち破る,
アーティスティックなコラージュ運動なのだから,これは
横尾忠則氏の宇宙船天丼号などに倣って,ほくほく,と
天々どんどんと,身もふたもない,”踊り念仏”のように
富士講のように,レジャー・バーベキューのように,また
お酒は,黒ヴァイツェンしか,のまないとゆうこだわりの,
”善悪の彼岸”は,ほんとうはだから,無い善悪なんてゆう,
レトリックを求めるのじゃなくって,もともと,宇宙船に
科学技術のみのあって,道徳はおしゃべりにすぎないような,
そうゆう地球意識から始めよう。とゆうことじゃなかったのか?
グラウンディング,グラウンディングとゆう昨今の風潮は
そんな地球意識から,”おしゃべりよりトンガリで。”とゆう
地球意識から。雪ずりが,ばんばんばんばん軒を叩いて,
八時だヨ全員集合!のはじまりを告げている。怒りのようす。
いつもプログラムの最初に感じていた,雪ずりのような怒り。
怒っているのは,夜も更けて,一日も終わり,明朝は溶けて,
道徳もなくなってしまう。そんな,怒りの諦めのようす。でも,
善悪の彼岸,をテーマにするなら,溶けてなくなって,その水
1年後にまた,降るかなぁ。濁流に呑まれて,それは,さぞかし
天界に昇るのはまだ先のことと思われよう。そうやって,飛行機
の早朝の遠鳴りを『宇宙船地球号』と勘違いしながら眠りに,
乗船した眠りの世界では,きっつきっつと”教育者”に諭されて,
もういいよ。目が覚める。ぐらんぐらんに,早朝寝でもうろう。
酔っ払ったみたいに,『道徳』を頭に置いて,お掃除始める。
そうやって”返答”を抱いた目覚めは,思春期にはむしろよかった,
ただ今はもう,善悪の彼岸,とは。テクニカルにロジカルに,もう
モラルのない程に,ピカソのように。

うぶすなの祠。

以前,ウルフルズに”9”とゆうアルバムのあったことを憶いだす。今となっては,あの”産んでこうぜ。”とゆう大仰なメッセージ性は当時どうしてあれほどまで評価をうけたのかを今更ながら理解する。”産んでこうぜ。”とゆうメッセージに何で意味がある,つまり有難味のあるか,とゆうのは”感謝はあれど,善悪はなし。”とゆう,またそれぞれ”中途半端でよい,”と結論付けられる按配のよさが堪らない。今まさに,月より暗黒星の産まれるとする。それは,悪いのだから暗黒とゆうより,アンコウやモグラの奥深くより昇ってくる事の暗黒であって実にうぶすなである。だから,うぶすなの祠のあるとして,それは,眠り不足に目のショボショボした,ベンゾウさんみたいな風貌の苦学生なのであって,3丁目の夕日の,茶川ブンガク先生。ああゆうひとらは,うぶすなの神の象徴。もうちょっと掘り下げてみよう。多分,オタク性とゆうものに少子化を救う鍵があるのは,うぶすな思考からすれば一目瞭然で,眠らない,貪らない,けれど,喜び泣き放縦に足らしはじめるそのマニアックさに世界を救う鍵のある。現代は真逆に動き始めていた,目下のところ。喜びも,涙も,緩みさえも許されず,瞑目と貪欲は推し進められる。だから地下には,そんなものないけん,しっかり,みつめていらっしゃい!地上の世界は明るいデェ。そんな,月より暗黒星の顔を覗かせ漸く世界は善悪の彼岸の曙光を迎える。中途半端に,産んでゆこう。

みたまの獅子,

神の小羊,軽井沢のイタリア料理ビュッフェ,切れ味の鋭いレトリック,そして骨付きで供されるポエジーには天使の悲歌。グリューネヴァルトとゆう画家のある,受難のイエス像と,とても親い。マルテの手記は,堀辰雄へのオマージュだと,勝手ながらの逆説的解釈をする。僕自身は,リルケのドゥイノ悲歌と平行して,シレジウスの瞑想詩集にも打たれていた。石つぶての黄鉄鉱のように輝く,切ない切ない,鉱石からは,涙の溢れる。身を切られる想い。徹夜気味ギミックで,思想の闘いするように会計ソフトに問いかければ,おもったより以上に,哲学的な答えが返ってくる。リルケ気味ギミック,僕は,産まれた時より,右足に,獅子模様のアザを持っているけど,彼はリルケの人生。鉄腕アトムは,どうしても,神秘主義説教家のマイスター・エックハルトと被るけれど,アトムの原理を実はよく知っていたのも彼。 ほかならぬ,アトム叡智は,神秘哲学にしか解決できないのだから。 「アトムは,彷彿と消えてゆくでしょう,煙のように。」その神の小羊を最もよく味わい,自身のグルメを最大限に活かしたのがピカソであった。 彼の急進的なほどの表現性は,アトムの消えていった宇宙のかなたへ,高天原のかなたへ連れていって。そうして,それだけ闘っていたのが,リルケなのだから。僕は,神の小羊とは,リルケのParis,みたまの降りるベルフォールのライオン像のようであるって感じる。彼は,会計ソフトを闘いのような心持ちで戦闘する僕の姿をアザ笑うだろうか?

精神観想の機縁,

精神観想,つまるところの,自我を解放する,
さまざまな宗教性をそぞろ歩くのはよいことだ。
神仏を観想するのは,そのままスピリチュアリティや
精神の観想をするのと親いことなのだから,酵素や
腸活などと言われる,安全な代謝活性にとっても
よく合っている。

朝課(題目)と晩課(念仏)の
話題で言えば,その比叡山などの修行では,夕べの
食事を煮炊きする,
『精神観想は”晩課”に合っている』と言うべきか。
”晩課”とゆう,神仏の念想には,だんだんに夢の中への
準備を頭脳がしている,誰もが皆,”神性”とゆう,
岩石を打ち砕くような隕石が破裂するような瞬間を
胸に抱いているような,そんな”夢”を憶いだす。
その過程を,晩課にあらわす,夜に,けものが目覚める
夜行性の由来は,彼らが夢に戻る,動物たちは神に戻る,
もののけでもいいけれど神に戻る,人間たちは寝てしまう。
夢の中で,人は,神に”なって”いる。
誰しも,眠りの世界では精神観想しているその理由は,
まどろみにあって”自分”を憶いだすその理由に似ている。

”夢”そのもの『自分は精神観想する』眠前の”精神”そのもの。

やはり朝の身支度,腸活また古くは乾布摩擦などの
ヨガの習慣の名残など,線香くゆらせ,朝露の日光に
照る苔むす匂いなど,”ベータ派ヒーリング”ともゆうべき
芸術性の精神鍛錬ひきしめの効果ある朝課の由縁か,それは
夢の眠りの世界から戻ってきた脳内の自我を起こす。だから,
”岩石を打ち砕く”,あえて精神観想の機縁とゆうもの,
自らが”夢の中の精神のように自分自身であること”,を指す,
ひたすら精神統一するようなその瞬間は,自分がしている
今の視線の先の”事象”それを自他ともに一体化すること。

『自然一体化』,『朝夕の繰り返し』,『自他一体化』。
このような,そうめんを流しそうめんにする夏の風情や,
かき氷を一瞬の冬に見立てる修験の知恵や,また,風の
吹くところには,出口がある。
その”出口”は,一体どこにあるのか?何なのかとゆう前に,
風の吹くところには,脳の中心の自分のコア。
風穴に自分を探して,薬草人参など取ってくる。そうか,
もう夜は明けるとゆうのに,珈琲を呑んでいる。そうなんだ。
朝夕の繰り返し,とはゆうけど,僕自身の太陽になれば,
日が照って風が吹く。一度,背伸びをして,”まだ夜なんだから。”
精神観想をする…

脱落禅宗。

右脳で見つめる,とゆう監視するより運転するような行為について,心身脱落とは,身体は自分のものであるとゆうより,自分は身体のものではないとゆうことだろうか。レッグレスなセロトニックに心身脱落できるのは,身体は自分のものであるとゆうより,自分は身体のものではないとゆうことだろう。生命のパン種が脳内で発酵しているとゆうのは,人間味のある面白い事で世界の秘密。でも振り返るとそれは,心身脱落することを意味している。脱落してからでは遅いとゆうこと,世界の秘密を味わうことの出来る,パン種は世界の中でしか発酵しない,例えば,心身脱落するとゆうのはこの世ならで,この世ならぬ,自分の身体はもうこの世界のものではない,とゆうことだろう。彼らが脱いでのこした衣服は,大きなカンパーニュとして地球の姿なのだから。もうすぐ,そのカンパーニュは,そっくりそのまま,カレースープに供されて,完食されてしまう。心身脱落とは,身体は自分のものであるとゆうより,自分は身体のものではないとゆうことだろうか。例えば,心身脱落するとゆうのはこの世ならで,この世ならぬ,自分の身体はもうこの世界のものではない,とゆうことだろう。

業の泉縁起,

原人間(アダム・カドモン)などと, カバラの神話学では言うらしい。 それは,誰しも経験する業の泉縁起の 神話学。 もうすぐ,夜が明ける。 鳥たちは翼ばたばた, 寒い,けど飛び立とう。ニュースなどを見て, カルチャーショックを受け, 自立する間も無く欠陥を胸に抱く子は 多い。みなそうだ, とも。胸に空いた風穴を, ピュアな感情は塞ぐこともない, 出来ない。それはそれでカオスはそこに 住むのだから,この時点より人の加速する 業の泉は産まれ湧き出る。そうして, 自我ともイーゴとも呼ばれる芯のある 白米のような独立独尊の わたしなる何らかの知性が身につくと, ユーモア・ペーソスの類, またグルメの嗜好。沢山の興味趣味が 生まれる。僕自身は,趣味を持てなかった。 本当の意味で,文学と趣味は違う。 嗜好趣味と思考文学は別れるから。 皆に自我やイーゴと言われる神は宿るにしても, 嗜好と思考に別れる。別れたにせよ, 嗜好山岳地帯と,思考業の泉とは, 交互に分け隔てなく, 満遍に存在する思春期よりの姿なのだから, もちろん趣味だけには生きられないし, 生活には文学は生きる術として必要だろう。 業の泉は,自動車のよう。 業の泉縁起,つまり車の運転のこと。さみしさは永続しないし, セロトニン過多の筆者は眠ることもできない, 文学青年で。業の泉縁起とはいえ,その目的は, つまり車の運転の目的由縁。 運転の好きなのは文学好きと共通して, 生活嗜好は文学思考と結ばれる。 移動?ドライブ? この一致点には常にさまざまな要点がある。車好きには, 人間の秘密をさぐる文学の, 工業と産業とグルメを裏付ける見事な着眼点があってこそ, Nothing,Truth.無限恬淡。のブルース。 温泉に浸かるなどして,また考えよう, つまるところは,平常日常。所帯じみた所に真実。 でも,タロットカード。ゾンビ映画。仮面の告白。いたる所に文学性を見付けては, 顔を覗かす,JESUS'WALKED INTO LONDON ONE'S ”BEN RED”. とゆうようなエクリチュール, この業の泉縁起,

植生図。

どうやら,人間の植生図のよう。
なにやら,もののけの世界。
そうして,Jesusの原人間。
どうやら,ビースト種を頂いて。
なにやら,『麦死なずは,実らせ。』
そうして,春日の神は『よきかな,』
業の泉に,生命の木の植生図。

早めに,花を咲かせときたかった。
早めに,なるべくは植生したかった。
なるべく,早めに返り咲きたかった。
あるがままのそのままに全体性ながめる
『明日は雪掻きなさそうだ。』草創詩情は
『そろそろ,朝ご飯に,カレーうどんを,』
草創詩情は全体性ながめる。もうすぐに,
妄想は現実に,開花する。
カレーうどんに,カレースパ,カレーパン。
ライスカレーより,カレーはスープの今は
もうすぐ,朝ご飯に。

どうやら,人間の植生図のよう。
なにやら,もののけの世界。
そうして,Jesusの原人間。
どうやら,ビースト種を頂いて。
なにやら,『麦死なずは,実らせ。』
そうして,春日の神は『よきかな,』
業の泉に,生命の木の植生図。


業の湯浴み。

業の泉にひたりきる,
芸術の神になりきる,
火炎に怪物になりきる,但し
運筆のなかで。
焦熱地獄があるとゆう,
針山地獄もあるとゆう,
氷泉地獄があるといえ,
心はいつも焔のなかに。

芸術の神とは如何程か。
凍った表情の裏には,
燃焼した喜悦の思い出。
芸術の中に身を投じて,
業の湯浴み。隔絶された現世から
祈りの隔世から離れはなれて,
怠惰の中にも情熱を,
悲恋の想いに癇癪起こして
離れてください,離れてください,
この方は,ゲイジツの神ですから
離れてください,離れてください。
放言されたとして,

業の泉にひたりきる,
芸術の神になりきる,
火炎に怪物になりきる,但し
運筆のなかで。
焦熱地獄があるとゆう,
針山地獄もあるとゆう,
氷泉地獄があるといえ,
燃える焔は,見せずにいて,
誰にも,かつて,音の無い
眠りのうつむきがあった。



寄道して津軽。

心の痛みはそのままに。
心の痛みは喘息の証。
ガイストの裏には必ず,何らかの
物質の名残り。笑いは分類ラベル,
世界を包括してしきれないから,
貼っておこう,そうして可笑しいのだ。
そのようにして,水中で眼を開く。
喘息も,うつも治ってしまうから,
水中で眼を開く,
心の痛みはそのままに。
心の痛みは喘息の証。

今は文学も使命を終えた。とにかくも
ウェブ上で,常にエッセーを更新する。
出逢いの,春の季節に,夜に酔って,
桜を眺めることが出来たら。文学は,
精神安定剤の登場で,その使命を終えた。
円熟期を再生させるのなら,心の痛みは
そのままに。心の痛みは喘息の証,
ともかくも出逢いを大事にして,そのままの
文化と文化の交流を楽しむのが目下の課題。
文学の再燃は夜桜に酔えるようでなければ,
何も始まらないのだから,そのまま文化とゆう
閉ざされた伝統イメージではなく,活きた伝統
春の匂い,文化は一交流の春の文化のように,
ただ,愚鈍として燗尺玉のように対流している,
心の痛みはそのままに。
心の痛みは喘息の証。
『トーストをダイスカットして,ジャムと
 和えてしまえばいいのに。多分,パンケーキ,
 フレンチトーストなどは,その由縁。』

心の痛みはそのままに。
心の痛みは喘息の証。
ガイストの裏には必ず,何らかの
物質の名残り。笑いは分類ラベル,
世界を包括してしきれないから,
貼っておこう,そうして可笑しいのだ。
そのようにして,水中で眼を開く。
喘息も,うつも治ってしまうから,
水中で眼を開く,
心の痛みはそのままに。
心の痛みは喘息の証。



デカフェ豆乳珈琲。

夜に,デカフェ豆乳珈琲を淹れる。
朝には,芸術のベータ・ヒーリング。
夕には,恬淡のペーソス・TV観賞。
一朝一夕,繰り返し夜には豆乳珈琲。
Blendyのデカフェ豆を持って帰って,
持て余した白湯で器をぬくめてから。
挿し湯のように豆乳を加えておくと,
珈琲を淹れて,一服。漫談とゆうもの,
頓着しない,融通無碍とゆうもの。
思わぬところで,転ばぬ先の杖。
恣意的で活動的なアーティスト性,あるいは
ギャグで適当な,人間性の放心する忘我の,
あるいはまた,温度計を,体温計より水温計だと,
粘って粘って,身体を温めてゆく”生活”よりも
『暮らし』のクラフト継続性,歴史の中には
様々な価値観あれど,最近は天台の英知の
朝課(題目),晩課(念仏)とゆう暮らしの循環,
あの中に,大黒さんの社もそうだったし,清水さんも
そうだったし,比叡山にゆく機会もあって,そこの
お香は見事に嵌ってしまった。あの,公共性,恬淡さ。
無頓着として,平生のなかに上手い具合にペーソス。
行く先々の寺社仏閣の公共性に溢れるその姿は,
夕べに見る,炊事の匂い。芥川のトロッコの思い出。
夕べに動物たちの鼻に香るのは,多分夜更けに見える,
デカフェ豆乳珈琲。僕も,そんな気持ちで雪の夜を,
過ごしている。もうすぐ,春が来るだろう。もうすぐ,
寒さを感じなくもなるだろう。さみしさよりも,
温かさを感じるだろう。けれども,その夜更けの珈琲の
寒さの中に,彷彿とした暗黒の湯気の気配は,もう。
忘れることも,憶えることもない,いつもその湯沸かしの
文化,習俗,湯上りの安心感以上の安堵の中に隠れて,
いつも季節を巡らせている。

雪に当たると照明生命。

ガイスト(霊)とゆうものは
物質と関わりのない所に
ガイストらしさのあるのであって
物質に関わりのある所には
それは,物質にしかない論理がある。
だから,ガイスト(霊),アストラル形姿,
エーテル形姿などにあって,物質にないものは
ある程度の,自由さ,希薄さ,量子的な何かで
あるから,例えば,量子が物質と何の関わりが
あるか,と問えば
『大は小を兼ねる』,とどのつまる
『量子は物質を兼ねない。』

玄関先の雪の屋根から落ちる,それの
落ちそうでおちない,そうして,それは
軒下のセンサー照明をさえ,隠してしまう。
玄関を明るくすると綺麗だ,そう感じて
灯りを消した。すると,また薄黄色い光が
背後で照る。どうも,センサー照明は,動物など
あるいは風など,移る雨などに反応するようだけれど
それは玄関灯の消えた,一瞬の光にも反応するようだ,
よくよく見ると,センサー照明の感知器の前には,
雪ずり前の,雪,雪,雪。雪に当たると照明生命。
『生命はない,』とゆう時の生命観は,そのまま
生命感をあらわしているから,そのままあらわされる
生命はまた,量子的である。言わずもがな,
照明生命もである。

ガイスト(霊)とゆうものは
物質と関わりのない所に
ガイストらしさのあるのであって
物質に関わりのある所には
それは,物質にしかない論理がある。
だから,ガイスト(霊),アストラル形姿,
エーテル形姿などにあって,物質にないものは
ある程度の,自由さ,希薄さ,量子的な何かで
あるから,例えば,量子が物質と何の関わりが
あるか,と問えば
『大は小を兼ねる』,とどのつまる
『量子は物質を兼ねない。』


天台香。

昔から,芥川の香水のような小説は,
好きではなかった。それから,僕自身の
無頓着なところを肯定したくない一心で,
飄々とした風貌も嫌っていた。けれど,
漱石の影響が大きい。と気づく,そうして,
太宰にあてた,大きな石つぶてのような,
そうゆうのも漱石に影響を受けたところの
甚大である,とみる。僕自身がLONDON ONE,
とゆうペンネームを持つくらい,無意識に
現代における漱石の影響は計り知れない。彼は,
芥川を嫌っていたのではないか?
天台香の好きな東照宮を嫌悪したではないか?
また,源氏の頼朝をさえ,また嫌悪したではないか?

嫌悪とゆうより,漱石の怒りは果てしのない,
芥川はその怒りを一身に受けたのではないのか。
何故だろう,僕は乳製品の濃いヨーグルトのことを
いたく気に入っている。そうして,無頓着なところを
いまは長所として,芥川に倣おうとも思っている,
頭で考えればいい。健忘症で構わない,そうしてまた,
忘れっぽい自分は,杓子定規の意味を,頭でっかちで
捉えて構わない。杓子定規は美徳である,と。
アナトール・フランスを慕っていたのは,ヘロディヤの
その名は,サロメーの母である女性のものなのだが,
彼が,『エピクロスの園(フランス)』,『西方の人(芥川)』
などに取りあげられたごとくの,芥川自身のヘロデの役を
演じたからでは,なかったか?
またここで,芥川と,太宰の関係は,
頼朝と,義経(兄と弟)そして,
最澄と,空海(義兄弟のようなもの)であろう。また,
漱石(父)の叱責を受ける芥川(子)は,
太宰(みたま)と兄弟嫉妬喧嘩をして,三角関係(三位一体)。

文学は,その内容を行為しては実行などしていては,
終焉であろう。つまり妄想の裡に留まるそのうちに,
まだもって,自死と思想の内容の中で,平和を演出している,
文学の使命は平和である。
天台香をくゆらす東照宮の傍らには,常に実朝歌集と
真言の密教書があったと推測するのは,彼らが常に想う所に
平和があったからだと言う理由からであって,結局は
恬淡として無頓着に平生の日常を過ごせる心中お察し
申し上げますことには”こころのうちはあらしなので,
少々きょうはご参事お控え申し上げます”とのこと。

人間と全体性。

人間と,とは書いたけれど,
人間の全体性と言ったほうが
よいのかもしれない。途方もない
でかい大きい底知れない。そんな
全体性とゆう巨岩を,私たちは
どう把握できるだろう?それは,
雪の巻き上がるスーパーでの帰り道。
スーパーのレジの袋に詰めながら,
巻き上がる雪の照明にてらされた,
その雪をながめながら,カオスな
数学理論などを持ち出し,その私たち
も,デジタルな何らかの自然になって
しまうのか,いやあ,そんなに人は
弱くないのさ,自然とゆう全体性は
運筆をしながら,見付ける。見詰めて
探して,ようやく掘り当てた何らかの
巨岩を目の前にして,ああ,なんだ。
自と他の境い目なんてなかったのか。
とゆう,人間の,人間による,人間の
ための,全体性は,どこから,何のために
どこへゆくのか。答えは風の中に,そして
私たちは何を学んだのだろう。と,呟く。
果ては,南インドの朝焼け。ようやく,
昆布の揚がった北海道。岬の先端は,巨岩の
見詰める。恬淡として,境い目なくシームレス。
はあ,恬淡として,とは言いつつ,味のない
おしゃぶり昆布を摘むよりも,揚がったばかり
の,昆布の刺身を食べていたい。大の字に
なって夜空とほくそ笑む。世界は変わる,
こうして,大の字になって,そうして,人間と
全体性。変わる世界の中で,運筆をしながら
世界を見詰める。思考を観察する。運筆の
その世界思考は,全体性を自他共になく,
人間と見詰める。私たちは,夜空を失って
しまった,夜空に雪の降る理論的にはあれは
白紙のキャンバスで。まずベージュに塗り
たくってから,出直してきてよ。オレンジと
イエローの油絵の具は用意しとくからさ,
あれはゴッホの模写した落穂拾い,ミレーは
結局,デューラーらとは,ツーカーなのさ,
ロンドンには落穂拾いの蒸気機関車走ってる
のさ,ブレイクなんて冗談じゃない。とっくの
昔に竹馬ツーカーの仲なのさ,ロンドン塔に
柘榴を飾って軒下から眺めましょ。


雪景図,

横になって,隣でスヤスヤ眠る息の
してくると,雪の彫刻つくるみたいに
雪の設計図が,描かれはじめる。
今日は,雪の周りが不可思議に明るい,
静けさも,集音域も通り超して,
明るさまでになった雪景図。それは,
珈琲を淹れた音域より,果ては風呂抜き
する,痩身の眠前に至るより更に,
音のない雪景図。

サイクリングする緑の音はどうだろう。
せせらぎの中に香る緑の陰はどう。
虫や鳥が囁く5月の昼下がりにも,いや
そうして,それはまた,ヘッセを読んで
早朝に歩く,初夏のヒグラシのさえずり。
夕方,暮れてゆく日に,すべての終わった
焼け付く匂い。永遠に,そうして遠鳴りする
トロッコのヒグラシ。造り酒屋に,殉じた
少女の影をみた城跡津和野。文雅であるも
なぜ悲劇に英知を抱いて人は進歩する?
一瞬で終わってしまう雪景図。そんな,
眠りの中の雪の設計図。

横になって,隣でスヤスヤ眠る息の
してくると,雪の彫刻つくるみたいに
雪の設計図が,描かれはじめる。
今日は,雪の周りが不可思議に明るい,
静けさも,集音域も通り超して,
明るさまでになった雪景図。それは,
珈琲を淹れた音域より,果ては風呂抜き
する,痩身の眠前に至るより更に,
音のない雪景図。



中央点,

紅眼ヒステリックの次は,
ロマネスクと,中央点の交わる所。
つまりは
サンクトペテルブルクーパリの
湖水ハルシュタットの
チベットー東京間の
詰まる所,フランス文学から
絵画の黎明に到るまでの
ヴァン湖の畔からセーヌ河沿いの
プロムナード。霊的ツンドラの,
タイガより,シダの葉茂る草創の
むせびより。来たる宇宙の琴線は
ぶるぶる,震える音叉のしずく。

雪の,しど,しど。
降る軒の下。恋のめぐみは
シガー飴の粉の甘さ。この間,
鉄不足で始まった,絵画の目醒め。
中央点は,失うことで気付かせる,
消化機能の酵素活性。そうして,また
不断の努力を続ける。
ピカソの描き続けた理由,また
それはインナー&アウターの結ぶ。
中央点,それは

紅眼ヒステリックの次は,
ロマネスクと,中央点の交わる所。
つまりは
サンクトペテルブルクーパリの
湖水ハルシュタットの
チベットー東京間の
詰まる所,フランス文学から
絵画の黎明に到るまでの
ヴァン湖の畔からセーヌ河沿いの
プロムナード。霊的ツンドラの,
タイガより,シダの葉茂る草創の
むせびより。来たる宇宙の琴線は
ぶるぶる,震える音叉のしずく。




紅眼ヒステリック。

思い起こせば,紅眼ヒステリック。
小学5年生位の頃からだったと思う。
あれは,飼育係の小屋のあるあたり,
何故だか,あの紅い眼がやってきた。
ヒステリクスのやってきた。あるいは,
ひとつは,サロメの母ヘロディヤから,
アナトール・フランスに到る系譜,また,
あるいは,ツルゲーネフのヘミングウェイと
つながる系統,さまざまなimageの去来する,
ひとつには,漱石から,フランス,そうして,
アルベルト・シュテッフェンに至る道すじ
などを想定してみたり。
今日,歯医者に行ってみると,高位なそこは
趣味をしていられるか,イザナギとイザナミの
神話絵本の置いてある。

イザナギ,ふっと,
治すことのできない,親知らずのじんじん,
響いた。太宰,やっぱり。諭されたように,
太宰,なぜだか,Yellowtail(ブリ)の味わい。
世界精神とはよくヘーゲルの唱えたような。
彼らから諭された,そうイザナギとは,目的の
ダンディズムに適う。適うとはそこかしこ,
ダンディズムを目的にしていたことにさえ,
気付く。早く,お風呂に入って眠ろう。太宰は,
眠ることより,放蕩していたことを望んだろうが
それは,ここかしこ諦めや,無心のまなざしを,
心得ていたからで,あれは,放心することの中に,
平和をまさに,平和をもたらして虫歯ポーズ。
”運筆,運筆。とはよくゆうけれど,あのまなざし。”
”空を飛んで,帰ってきては,描いていたな。”

思い起こせば,紅眼ヒステリック。
小学5年生位の頃からだったと思う。
あれは,飼育係の小屋のあるあたり,
何故だか,あの紅い眼がやってきた。
ヒステリクスのやってきた。あるいは,
ひとつは,サロメの母ヘロディヤから,
アナトール・フランスに到る系譜,また,
あるいは,ツルゲーネフのヘミングウェイと
つながる系統,さまざまなimageの去来する,
ひとつには,漱石から,フランス,そうして,
アルベルト・シュテッフェンに至る道すじ
などを想定してみたり。
今日,歯医者に行ってみると,高位なそこは
趣味をしていられるか,イザナギとイザナミの
神話絵本の置いてある。

珈琲とハム。

左のガスコンロにはスパゲッティー。
他方にはJWTを沸かしていたから,
沸騰したての薄いお茶で,珈琲を
淹れた。前々から,美味しいとは,
思ってた。JWT珈琲。そうして,ぽつぽつ,
落ちる水滴をよそ眼に,タラモ・スパゲッティー。
TVでは,ヒグマがワンちゃんみたいにハー,ハー,
言いながら,雪の上で涼んでいた。そりゃ,
いろんな仕事があるだろう,彼らは人前に出る以外,
ものすごい『なめとこ山の熊』みたいな仕事を,して
いるのだ。肝が売られたって,どうしようもない,
あれは,その仕事の成果だ。思考を嗜好で,
念じつつ,練り上げ練り上げ,肝となる。
ふ,っと
そうした時,ピカソやモディリアーニのすごい魅力,
あの目醒めたパッシオンは,やっぱり,枠を外した,
目醒めた外気から,あのフランスの持つ力は,
やっぱり相当に強い。ツルゲーネフが老いて,
パリに棲んだ,その理由が,『白い獅子,』彼が,
ベルフォールのライオン像から,ロンシャンまで。
マンハッタンから,自由の女神像まで。その行程の
その発案者たる由縁だとしたなら,ヘミングウェイの,
キーウェストの温暖な緑の香りを,照葉樹林のように
嗜むまた,逢う日まで,そう確かに,珈琲とハムは,
よく合う,こうして朝を迎えられる,とどのつまりは
朝を迎えられる。ベータ・ヒーリングとはかくゆう,
ドーパミン・ベータ・ヒーリングの,ノルアドレナリンの
かくゆう,ノルアドレナリン。朝を迎えるのは,
目醒めた,珈琲とハム。

左のガスコンロにはスパゲッティー。
他方にはJWTを沸かしていたから,
沸騰したての薄いお茶で,珈琲を
淹れた。前々から,美味しいとは,
思ってた。JWT珈琲。そうして,ぽつぽつ,
落ちる水滴をよそ眼に,タラモ・スパゲッティー。
TVでは,ヒグマがワンちゃんみたいにハー,ハー,
言いながら,雪の上で涼んでいた。そりゃ,
いろんな仕事があるだろう,彼らは人前に出る以外,
ものすごい『なめとこ山の熊』みたいな仕事を,して
いるのだ。肝が売られたって,どうしようもない,
あれは,その仕事の成果だ。思考を嗜好で,
念じつつ,練り上げ練り上げ,肝となる。

愛情の沢山,

想いを外すと,不安になる,
想いとは,世界との共有する,
何がしかの抱擁力で包容の
必要と,する不安もそこから。
印象派の絵画は理解されなかった,
そんな理由も何処吹く風,いまは
陽光の木漏れ日の美しさ,語られ。
淡水の魚のフライを頂いとけば,
よかった。岩塩を振って,とっても
美味しそうだったのに,心は拒否。
ウナギを返って鱈腹たべるのか,とは
問われれば,そんな体たらくには
なれるはずもなく。文学,例えばブンガク。
世界を変えるのは,文学だと,そう思う。
インナーとアウターを結ぶ何かの,雪夜に
音のない温かさを,その中に,蜜柑を放る。
何か冷たくなった身をたべると,雪の日の
温かさ,感じる。その何がしかの温かさ。
それをブンガク。をして,頂く。つまり,
生ぬるい何かの安定。体温の暖かさ。何か
そうゆうものがブンガク。で,生成過程を
促す細胞分裂の鍵は,愛情の沢山,生ぬるさ,
ブンガク。何だ,文学は健康医学なのだ,身体の
細胞分裂を安定化させる,それは,そのまま
インナーとアウターを結ぶ。それは,そうして
世界を変える。パン種の発酵過程に似てる,
あの発酵の順調に進む発酵過程。あの順温に,
パン種の生命,パン種の生命。健康医学に
生命の核が意識的に働くと,それはやっぱり
意識的発酵。ぷつぷつ,プツプツ泡立つ
発酵過程は,あの順温にして常に管理しなきゃ。
発酵過程を管理する。それこそが,ブンガク。
愛情の沢山,発酵の健康医学。




電気,蜂蜜,ダルマ。

電気抜きしながら,
蜂蜜ヨーグルト掻き雑ぜ,
ダルマ観賞する,そんな
『自然一体化』。
豆乳珈琲カフェインレスを
頂きながら,お風呂上がりに,
お炬燵に嵌る,こんな
『自然一体化』。
要点は一つしかないように,
お腹が空いているくらい,
落ち着いているのが丁度良い。
何時も高校の音楽室を
おもい出す。なぜだろう?なぜ
何時も高校の音楽室を
おもい出す,いちばんの自由を,
多分感じられたのは,音楽室。
この間,ご多分にもれず,とゆう
感じで頂くことのできた担々麺は,
何故だか,頭の中で温泉のように,
寛いでいる,胡麻の香りなのか,
あのペースト状の胡麻の
何故だか,頭の中で温泉のように,
寛いでいる,胡麻の香りなのか。
自然のクリーミーな味わいを,頭の
リラックス趣味は欲しているようだ,
なかなか高価で手に入るイメージの無い
自然のクリーミーな味わいは,例えば
豆乳,胡麻,蜂蜜,珈琲,お茶,
全部合わせてしまうと,何だか新しい,
何だか新しいタイプの嗜好品の現れる。
そんな気のする『自然一体化』。
もっと,温めればいいのだ,もっと,
横になればいいのだ,そうして,
もっとモットーに活きればいいのだ,
そうして多分現れる,
電気,蜂蜜,ダルマ。
豆乳,珈琲,温泉。もっと,多分,
そんな自然一体化を計れば。多分,
入れ替わりグリューネヴァルトのような
キリスト像の現れるのだ,布団の上に,
星屑の夜空に翳りながら,フワフワと,
影像の姿が。

印度呼吸,

いっつもヨガの修行みたいな,呼吸。
ヨガの修行みたいな,呼吸をしていたい。
自分の枠内に留まっているばかりでは
クリエイティヴとは言えないし,そのあいだ
何を考えていたのか,とゆう問いほど
自分の無い嗜好はない。例えば,その
写真はどうやって撮ったのか。考える内,
常に映像を切り取るような感覚が付いてくる。
ドキュメンタリーは,ある現実と触れたとき,
妙にアートじみて見えていたりするものだ。
ガイスト(霊)を切り取るだけでは,まるで
流行りものにならないのが,悔しい。新しい,
それは新しい,とゆうのはミーハーなことでは
なくって,思考する自分を枠内から解き放つ,
とゆうただそれだけの事だ。

だから,新しい。新しいとゆうために,まるで
古代的なヨガの呼吸を常に試みていたい。
枠内から外れる。とゆう感覚には,死をもって,
死を愛す,そうゆうイニシエーショナルな,その
黄泉返り的な発想がある。衰退しているから,
そんな発想を持つのではなくって,あまりに
生命力の強くなってくるその最中に仮死発想。
生命力の強くなってくる最中のその仮死発想。
自分を外界に融けださせたい,とは,そんな
自然一体化,あるいはオープンソース・コード化。
美しさは,常に必要だから,森に行って熊を獲りに
などはゆかない,それは既に銀色の盃を仰いでから
恬淡として,停滞していた自分を解き放つ。視覚,
或いは聴覚,味覚,嗅覚,触覚,その先に,盲視とゆう,
ブラインド・サイトのあるならば。暗闇の中にいて
躊躇することなく綿棒の一本を掬い上げる。そうゆう,
眠る前に,お風呂上がりに習慣化している,何らかの
安堵感や充実感や,達成感について話そう。

いっつもヨガの修行みたいな,呼吸。
ヨガの修行みたいな,呼吸をしていたい。
自分の枠内に留まっているばかりでは
クリエイティヴとは言えないし,そのあいだ
何を考えていたのか,とゆう問いほど
自分の無い嗜好はない。例えば,その
写真はどうやって撮ったのか。考える内,
常に映像を切り取るような感覚が付いてくる。
ドキュメンタリーは,ある現実と触れたとき,
妙にアートじみて見えていたりするものだ。
ガイスト(霊)を切り取るだけでは,まるで
流行りものにならないのが,悔しい。新しい,
それは新しい,とゆうのはミーハーなことでは
なくって,思考する自分を枠内から解き放つ,
とゆうただそれだけの事だ。

オープンソース・コード。

自分をオープンソース・コード化する。
それが,自然一体化である。
自分をオープンソース・コード化する。
それが,ダイエットである。
自分をオープンソース・コード化する。
それが,脱落禅宗である。

薄茶を立てながら,臨済録にながらながらの
まるひとっつ,描いてみては和菓子啄む
自分をオープンソース・コード化する。
白磁に,呉須で彩色してある何かの紋様,
あれは,チョークで黒板に描くのと同様,
いつまでも校舎には黒板の佇むにおい。
自分をオープンソース・コード化する。
瀬戸内芸術祭ならぬ,農民芸術祭にも
賢治の磁器彩色のにおいのする,
あれは
あの童話に隠されたオリオンのまた,あの
自分をオープンソース・コード化する。

のこったものが,自分のオリジナルだ,
のこったものが,思考力と想像力で,また
のこったものが,チョークの粉の
のこったものが,自分のオリジナルだ。
何度遣っても,戻ってくる。それが,その
自分のオリジナル。思考力と想像力で,
チョークの粉の,オリジナルだ。

ロマネスクとゆう言葉は,今では聴かない。
けれど,冬の日も石窯でパンを焼くのはその
パンを焼くのに冬虫夏草のような発酵を
試みる雪の結晶が,細雪の受胎告知,発酵を
白壁漆喰の夜景散策。羊飼いのミレーに,
落穂拾いを晩鐘の。

何をすれば,晩餐の羊のソテーが肯定される,
それはピュリティ,優しさは愛情深さより,
それはピュリティ,貴賤の差があるものでなし。
ただ。優しさの,ロマネスクのみある。ので,
お肉を頂く晩餐は,純粋な子供達の,ただ。
優しさの,ロマネスクのみ,あるから,その
自分をオープンソース・コード化するその,
自分はただ。純粋な子供達の,お肉を頂く晩餐は
私が私自身を頂くのだその私は,祝われた,
オープンソース・コード化されたピュリティ,
優しさの,ロマネスクのみである,多分そうなの
だから。


大国魂は信玄墓。

あるとき,R.シュタイナーによる,
マルコ福音書講義の読書会に参加し
それはクリスマスの夜だったけれど,
あの頃より川端康成の影を追っている。
三島由紀夫との対談の折,
それはノーベル文学賞の受賞の時の
映像だったけれど,まるで三島の,
川端のことを宮本武蔵にでも例えたかのよう
それはそのまま
大国魂は信玄墓。親鸞の法然に師事したかの
ような,それはそのまま
念仏の行。

なぜ文豪に追われ,文豪を訪ねる。
イザナギの不思議とは
その文学少年のなぜそのまま文学青年に
成長してゆく,文豪に追われるのなら。
残酷性が文学の特徴であるとすれば,
その残忍さは,悪なのではなく,印度カリー。
業の泉にひたって,そのまま強くいきたいと,
強くいきたい,何も感じなくなるくらい,
強くいきたい。例えば,その強くあるとは,
文豪に追われる。
イザナミに追われる。
怒りと共に自らを脱する。

あるとき,R.シュタイナーによる,
マルコ福音書講義の読書会に参加し
それはクリスマスの夜だったけれど,
あの頃より川端康成の影を追っている。
三島由紀夫との対談の折,
それはノーベル文学賞の受賞の時の
映像だったけれど,まるで三島の,
川端のことを宮本武蔵にでも例えたかのよう
それはそのまま
大国魂は信玄墓。親鸞の法然に師事したかの
ような,それはそのまま
念仏の行。

痛みのわるい訳ではない。
追い込みの辛い訳ではなく,
自らを逸するとは
怒りとゆう逸脱に,世界をみる,
みることによって穴をあける,その
開いた穴からイザナギを逃してあげる,
僕の中の青年,青春の春が抜けた,
サナギの殻を飛ばしてあげる。その
風穴から,イザナミとゆう女性性に,
イザナミとゆう蝶々に。そうして,また
春とゆう名の,うごめきよりの
啓蟄に,フキの芽タケノコつくしの類,
わらびゼンマイこごみの食彩。
そう,
訪れる春の
グルメを嗜む。