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芥川に対峙せり。

どうも,寝枕に芥川さんと東照宮をみたのを
きっかけとして,或いは,お風呂場に,また
バプテスマのヨハネの首が浮き彫りになった壁。
その当時,修道院のような祈りの暮らしを,
思春期は送っていたが故の,アナトール・フランス。
アナトール・フランスは念頭に置いて話したいのだけれど
バプテスマのヨハネと言えば,首を前にするサロメー。
サロメーの父と母は,ヘロデ王と,ヘロディヤ妃で,
僕は,勝手にそれを,芥川とフランス=ヘロデとヘロディヤ。
対照的にタッグを組んでもらって対応させている。
天照さんはまた,芥川の神さまと思っていつも感じているは
いいものの,どうもその芥川氏とゆうのが活きているのなら,
とっても謎めいた『希望』なのだった,王さまと言えば,
そんなもの?凛として,飄々とどこ吹く風,また輝いている。
王さまに支配された,国とゆう詩情は,やっぱり従属に変わらない,
そこがヘロデのずるいところだ。希望を持たせて,従属させる。
当たり前なのは,支配とゆうのはそうゆうもので,希望なくして
実に従属はあり得ない。むしろ言葉が間違っていなければ,
従属とゆうのは,希望を持った詩情,と思わせて『被支配』,
こんな,『従属=希望』的観測を,芥川氏に至って対峙する。
何とゆう,支配からの脱出は,龍馬の脱藩の末路。希望とは,
支配されたことに気付かない,『希望』なんとゆう。そして,
為政とはそうゆうものを言って,また『希望』のない所にて,
脱藩のあり,革命のあり,劇死的な発想のあり,『希望=脱死』。
希望に替わる自己支配的自己,自立支配的自我,何かある?そう,
芥川は,『河童』とゆう作品を奇しくも遺して死んでいる,そう,
カワウソと河童は何時も死闘を繰り広げているとゆう,地底の国で?
カワウソと河童の領域の丁度まんなかに立って,こう言うのだ。もう,
河童ありや,なしや。カワウソはありや,またなしや。そうして,
自立した,地底と天上のあいだ,独白と善良のはざまにて。それら,
龍馬はきっと,桂さんに沖ぶりの塩焼きに眠り薬を呑まされて,その
船上で揺られながら,LONDONの調べを聴いたに違いない。そして,
LONDON ONE,額に傷を負いながら,『則天去私』の理想を授けて,
漱石に歓談しLONDONで笑顔で微笑む龍馬の姿を”想像”するのだ。
まさに九郎義経のジンギス汗伝説のような語り方をもって,または
芥川氏にこう言おう,『為政にはもって希望=説話のありやなしや』と。

こちらは如何?

存在するってのは様式美よりも,門戸のない野原。

自我の領域より飛翔したいとゆうのは,ちと違う。青空は二層にも 分れて,上は真空,地上は温暖に溢れているのだから,もっとあったかく 野性の酵素に満たされているくらいの力強いパワフルな悟性を,もっと。 訓戒は破るためにある,それは依存だったとの由。カビは,潔癖が産むとは 功利に走る感性の,腫れ物に換わってゆく様を想えば,まさに,土着の農業に ミラクルな意地の強さを頂いて,キレイな大理石にはわかるまい,あの祟りの ように,タケミカヅチにはもう解放の予兆。萩原朔太郎の詩性には,孤独の。 上杉謙信には辛口の酒。平敦盛の首塚には,近藤勇の肖像をポケットに歩いた。 猫町横丁を逍遥しながら,妻帯せずもののふの塩辛よ,供養する美青年への悔恨を 結局の優勢,無勢に関わらず,人を助くる所に助られる者なり。と,もう予兆は, 確かに,土着の酵素に適えられて,やはり,ネギの収穫を手伝ってきて良かった。 そこで,得も言われぬパワーを頂いたことは,潔癖症より打ち克つ何よりもの,あの 祟り神とは,本当に(神話は誰にでも当て嵌るように出来ているのだから)リアルの 神がいるとしたら,いいや,リアリティとゆう意味の唯一無二の,現実性のあるなら, それは,祟りの比喩にこそ存在している。嫌ってはいけない,正直であるのに対し。 少しの笑顔で,不思議だなあ,と。理解できない野性的趣味にも,世界の歴史上,まず 野性のあってこそ,存在するのは”白亜”の様態なのだ。この野獣のかんばせをこそ。
ミケランジェロや,漱石山人などが,彫刻を制作する折りには,あるいは大英博物館など 訪れたのちには,親くのお宿などで,石膏の石板などをテイスティングならぬ,毒見した のでは,とゆう白昼夢をみる。創造知性の探索,または西洋文化なる知見を目的として, その無味なフレイバーはきっと夢のなかでも秘密を,ある世界の歴史においての,秘密を あらわしているように感じる。僕には体感的に,それが潔癖症を治す,唯一ほどの手段に 感じるのだ,イマジネーションの上では,そういった,酵素質の話しは差し置いても,の 白磁,青磁の陶器にも至る道程には,なぜかしら”白亜”の生誕の上で,土の鍛錬に結ぶ, そういった工程を,この町で通り過ぎる石膏彫刻の姿に,”デッサン・アート教室”の看板 には,『素晴らしい文化だなあ』町の中で,何か日に照らされて暖かい硬質な花の匂…

ゆきずりの恋を活きる共同体形成の宵明け珈琲。

自己責任の発想は,やっぱりちょっと違う。海外のひとからは ナンセンスと言われる,例えばコモン・センスには,合わないのかも 知れない『日本の”常識”=その噂話=逸脱した集合無意識など』は, 確実に,共同体形成や,防災意識,暮らしの成立,自由の体現などに 必須事項であるはず。ちょうど,ゆきずりの恋に,宵明けの珈琲を啜る みたいに。極端な疲れには,珈琲を呑んで寝る,この発想が,なかなか 疲労自体の裏にある,自己解除作用に結び付いて,ダイエットする精神。 腸活や,リンパケア,遺伝子のONなども,こういった作用に関連して, きっと痩せることが必要ではないかも知れないけれど,精神は痩せていた ほうがずっと良い。なんて,最近は,そうゆう精神肥大について,半ばの ダイエットを始められそうな次第である。大抵は,パートナーが寝ているとき 僕自身の目覚めてアートを楽しんでいる。僕が大いびきをかいて眠るときに 彼女は,その録音をコラージュなどして,ダンス・ミュージックなどに仕立て 起こしながら,朦朧の意識に意地悪など仕掛けてくる。今日は僕が起きてる番。 塩釜をコトコト煮詰めながら,灯油代も,その理由で気にならずに暖を取られる 心地は,冬景色の良い効果だ。半額で,豚ひれ肉のブロックが売り出してあって 醤油みりんで漬け込んでいたのを,じわじわ焼いていたら,簡単なチャーシューが 出来上がった。タイミングよく,父が”キタアカリができた”と届けてくれたので, お礼にすぐにタッパーに入れて,持ち帰ってもらう。実際は,なぜだか自然体で そんな一連の火の調理づきあいのできてるので,こんな精神のダイエット構想には もってこいの火の調理週間であるはず,水回りはキレイにして,しっかりと使おう。
ちょうど,フグの湯引き調理のあとに,床底に暖気のたまるみたいに,業の観念は どうしても内にも外にもただよっているものである。こんな,感情を知的に合わせる もみじおろしみたいに,はっきりと業を認識することは大事である。認識できず,あの ポイズンに当ってしまうこともあるだろう,瀕死の業中毒はよくあることなので,ただ 業が過ぎ去るのを待てば良い。ここで,自己責任にNO,を言うのは,業の付き合い方は ちょうどの,ゆきずりの恋愛ドラマをみるような,そんなあえての”自由の発想”で良い。 中毒になっているときは結構大変なモノ。精神…