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宇賀神さん。

    人の思索は,何か外れた所に枠をさがすように,ガタガタの所にフレーム造りするように出来ているらしい,だから,宇賀神さんと言う,三角錐にトグロを巻く人面神の,あのようなフレームの外れたような,大黒さん信仰,黒豆焙じ,酒蒸し餡のような,甘味の文化も出来るのだろう。
    以前,実朝歌集の,源実朝の歌には,秀逸な響きのものが多いと,聞いたはいいものの,剽窃ならぬ,時間のコピー・アンド・ペーストをしたような仮想剽窃的和歌に富んでいる,と伺ったことがある,剽窃とは,強盗のようなものではなく,本来,あの『夜警』の絵のような,滑りだす夜の街に,灯をともすこともなく,市民文化を守る宇賀神のような防衛隊だったに違いない。レンブラントは,画家のそういう,光と陰の剽窃をして,一躍画家らしい絵を描いていたのだから,近代のなかにも古代のなかにも,剽窃的な,ペーソスのギャグに照らされた,一翼の信仰,神のペーソス・キャラクタライズのあって,今日の現代画壇にもいたる,ペーソスと言ったほうが適当か,剽窃的なコラージュや,デジタル写真加工の現代画には実は昔からの無駄にしない人口比率の考慮からなる人工効率化クラフト性の工芸的作品群また,真摯な作家陣のすすんで連座していたこと間違いない。
    人の思索は,何か外れた所に枠をさがすように,ガタガタの所にフレーム造りするように出来ているらしい,だから,宇賀神さんと言う,三角錐にトグロを巻く人面神の,あのようなフレームの外れたような,大黒さん信仰,黒豆焙じ,酒蒸し餡のような,甘味の文化も出来るのだろう。
    恬淡として,とは無頓着にもしてまたはその生活の中に,他力的に生きる何かである,そうして恬淡として,私たちは自然物に親づくのだろう,あるいは森の樹々の中に,より人間性を臨むとして,自然信仰は,むしろ岩石と人の融合した植物の中へ這入ってゆくことなのかもしれない。植物の中に,有限で柔和な更に恬淡さを垣間みることのできればまた,それは,宇賀神さんへの一歩さきへすすむ信仰の進歩なのかもしれません,例えば,眠りの中に生命の酵母発酵をみる,そのうちには植物のいのちの働きや人面神のトグロを巻いた彼のひかりをまたみるかもしれない。
    運筆するとゆうのは,ひとつひとつの働きを,メモできる貴重な体験で,それは働きを活性化する何かの鍵を持っている。酵母の神性は運筆の中に,その働きを活かしているのかもしれないと,源実朝のようにペーソス微笑をしている朝の春けさ。

こちらは如何?

存在するってのは様式美よりも,門戸のない野原。

自我の領域より飛翔したいとゆうのは,ちと違う。青空は二層にも 分れて,上は真空,地上は温暖に溢れているのだから,もっとあったかく 野性の酵素に満たされているくらいの力強いパワフルな悟性を,もっと。 訓戒は破るためにある,それは依存だったとの由。カビは,潔癖が産むとは 功利に走る感性の,腫れ物に換わってゆく様を想えば,まさに,土着の農業に ミラクルな意地の強さを頂いて,キレイな大理石にはわかるまい,あの祟りの ように,タケミカヅチにはもう解放の予兆。萩原朔太郎の詩性には,孤独の。 上杉謙信には辛口の酒。平敦盛の首塚には,近藤勇の肖像をポケットに歩いた。 猫町横丁を逍遥しながら,妻帯せずもののふの塩辛よ,供養する美青年への悔恨を 結局の優勢,無勢に関わらず,人を助くる所に助られる者なり。と,もう予兆は, 確かに,土着の酵素に適えられて,やはり,ネギの収穫を手伝ってきて良かった。 そこで,得も言われぬパワーを頂いたことは,潔癖症より打ち克つ何よりもの,あの 祟り神とは,本当に(神話は誰にでも当て嵌るように出来ているのだから)リアルの 神がいるとしたら,いいや,リアリティとゆう意味の唯一無二の,現実性のあるなら, それは,祟りの比喩にこそ存在している。嫌ってはいけない,正直であるのに対し。 少しの笑顔で,不思議だなあ,と。理解できない野性的趣味にも,世界の歴史上,まず 野性のあってこそ,存在するのは”白亜”の様態なのだ。この野獣のかんばせをこそ。
ミケランジェロや,漱石山人などが,彫刻を制作する折りには,あるいは大英博物館など 訪れたのちには,親くのお宿などで,石膏の石板などをテイスティングならぬ,毒見した のでは,とゆう白昼夢をみる。創造知性の探索,または西洋文化なる知見を目的として, その無味なフレイバーはきっと夢のなかでも秘密を,ある世界の歴史においての,秘密を あらわしているように感じる。僕には体感的に,それが潔癖症を治す,唯一ほどの手段に 感じるのだ,イマジネーションの上では,そういった,酵素質の話しは差し置いても,の 白磁,青磁の陶器にも至る道程には,なぜかしら”白亜”の生誕の上で,土の鍛錬に結ぶ, そういった工程を,この町で通り過ぎる石膏彫刻の姿に,”デッサン・アート教室”の看板 には,『素晴らしい文化だなあ』町の中で,何か日に照らされて暖かい硬質な花の匂…

ゆきずりの恋を活きる共同体形成の宵明け珈琲。

自己責任の発想は,やっぱりちょっと違う。海外のひとからは ナンセンスと言われる,例えばコモン・センスには,合わないのかも 知れない『日本の”常識”=その噂話=逸脱した集合無意識など』は, 確実に,共同体形成や,防災意識,暮らしの成立,自由の体現などに 必須事項であるはず。ちょうど,ゆきずりの恋に,宵明けの珈琲を啜る みたいに。極端な疲れには,珈琲を呑んで寝る,この発想が,なかなか 疲労自体の裏にある,自己解除作用に結び付いて,ダイエットする精神。 腸活や,リンパケア,遺伝子のONなども,こういった作用に関連して, きっと痩せることが必要ではないかも知れないけれど,精神は痩せていた ほうがずっと良い。なんて,最近は,そうゆう精神肥大について,半ばの ダイエットを始められそうな次第である。大抵は,パートナーが寝ているとき 僕自身の目覚めてアートを楽しんでいる。僕が大いびきをかいて眠るときに 彼女は,その録音をコラージュなどして,ダンス・ミュージックなどに仕立て 起こしながら,朦朧の意識に意地悪など仕掛けてくる。今日は僕が起きてる番。 塩釜をコトコト煮詰めながら,灯油代も,その理由で気にならずに暖を取られる 心地は,冬景色の良い効果だ。半額で,豚ひれ肉のブロックが売り出してあって 醤油みりんで漬け込んでいたのを,じわじわ焼いていたら,簡単なチャーシューが 出来上がった。タイミングよく,父が”キタアカリができた”と届けてくれたので, お礼にすぐにタッパーに入れて,持ち帰ってもらう。実際は,なぜだか自然体で そんな一連の火の調理づきあいのできてるので,こんな精神のダイエット構想には もってこいの火の調理週間であるはず,水回りはキレイにして,しっかりと使おう。
ちょうど,フグの湯引き調理のあとに,床底に暖気のたまるみたいに,業の観念は どうしても内にも外にもただよっているものである。こんな,感情を知的に合わせる もみじおろしみたいに,はっきりと業を認識することは大事である。認識できず,あの ポイズンに当ってしまうこともあるだろう,瀕死の業中毒はよくあることなので,ただ 業が過ぎ去るのを待てば良い。ここで,自己責任にNO,を言うのは,業の付き合い方は ちょうどの,ゆきずりの恋愛ドラマをみるような,そんなあえての”自由の発想”で良い。 中毒になっているときは結構大変なモノ。精神…