スキップしてメイン コンテンツに移動

”夜の賛歌”中心に寄せて。

世界は,すべて,そのまま”百薬の長”として,目の前に,
あるとは言え,そのままの”世界”に居て。そのまま,の
ラベンダー水を呑んで,旅をしている。世界は”そのまま”。
中心は何処?中心は何時もない,
ないのだけれど,
探し続ける,中心のない,”そのまま”の世界。時たま,その
花粉症の時代だから,と言って,オレンジ・ジュース。あの,
ご相伴に預かりまして,お神酒を頂くみたいに,預かります
あの,”世界”の中心は何処にあるのでしょう?そんな問いには,
少し花粉症に酔っている位が好いなどとは突き放される,あの,
全世界の呵責には苛まれていたのですが,『わかるよ,はい。』
いやあ,わかりました。この”世界”の中心,ない,ものはない。
いつも,眠るときに世界が解体される瞬間,昼にはファッション,
夕べにはクッキング,軽さを追求して,そのまた”世界”の中心。
みなお墓にゆくときは,地下世界のグノームになるに違いないから,
生を執着するのより,世界の中心はない,そうゆうもので,蛍火は
科学の結晶で粋を集めたもの。送り火に掲げるお線香の匂いに,
ああ科学が支配する。純粋思考の言葉や,唯物史観や,明晰さを
煙る浄化作用に預けて,さあもうすぐ,夏は親づく。なんだろう?
オレンジ・ジュース。切なさに,酸味を投影して,逆にも言えるけれど
願いに,橙色を授けて,そのうちまた,ないものは”ない”。って,もう
呑気に眠りに解体される夢見心地に居るから,大抵のことは眠りの地下に
眠りのグノーム達に預けるから,そうやって地底の夜と,地上の昼の軽さを
追求してはやっぱり,『夜』って,すごい。『自由』。
ノヴァーリスに”夜の賛歌”ってあるけど,あれは,第九につながる,
自由への賛歌だったのだな,何だか消し掛けるようだけれど,古事記の
スサノオが寝てしまって,夜の国から大黒さんが逃げて行く,とゆうか
門出に建つ出発の夜明けのような展開は,またセガンティーニの画。
白黒のはっきりしたものが嫌いではないので,と言って中途半端が一番。
結局,アントロのハーモニアスな標準時に戻ってくる,中心は”ない”って,
信じてはいるけど。地下世界に”登りつめている”。そうして,またもや。
世界の照準を見定める如く,耳より鉄砲水のあふれ出て,死海風呂に浸かった,
”夜の賛歌”に寄せて,『自由』を与えてくれる夜,ありがとう,と。
お昼に”中心”を授かってまた,軽さの追求をする願いの黎明に,感謝する,
全世界の呵責なんて,恩寵だ。夜と昼の,繰り返し,田園風景と墓地を往復し,
”中心”はない,そんなオレンジ・ジュース。とは,言っても。


コメント

このブログの人気の投稿

発想する八艘。

フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,
生きて行ける。ソクラテス=マルティン・ルター=キケロー
=ベートーベン=トルストイ=諸葛亮孔明のそんな系譜を,
聖アンナ母子像のアンナの祖父は”神”であった。などと,
ほくそ笑いして,アンナの父母は,カストロ議長とヘミングウェイ,
聖アンナとその夫,つまりMotherMaryの父と母は岡潔先生と
シュヴァイツァー,マリアとヨゼフは,ヘッセとトーマス・マン。
だから,ソクラテスやトルストイの美談とまで言われる,”悪妻”の
クサンチッペなどは,もう”かみさん”で仕方ないので,”神のかみさん”。
愛していたのだなぁ,愛していたのだ,”神のかみさん”。創作次第には,
フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,生きて行ける。
船中八策ならぬ,発想する八艘。”赤壁の賦”を詠む詩聖,蘇東坡の心地に
なって,初夏の匂いを寿ぐ,それは,ベートーベンの情緒,限りない,
バッハ=ヘミングウェイの音楽=詩性をつなぐ何らかの”照葉樹林”。

よくよく考えていた,クールベやコロー,ドービニーなどの,心理風景画しか,
創作の出発点や”終着点”,あくまで戻ってくるべきアートの指標も,風景画。
だから,中学の写生スケッチの思い出などはもう,GOLD。黄金期の創作で
あるし,魂の風景画しか,なにがしかの表現は,僕にとってない。だから,
フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,
生きて行ける。
風景画と,メッセージ(この世=業の流れ的発想),あと楽しんでもらうための
環境づくりを試してゆけたら。守破離=正反合=後先中の想いあふれて,まるで
シナモン=桂皮の匂いをシュトーレンにこころみるような,マルティン・ルターの
信仰告白上の賛歌を,『フランツ・クライン画伯のベートーベンMaskのあるから,
グレン・グールド先生のベートーベン変奏曲があるから,
生きて行ける。』と言って,投げ出していけたら,そっくりそのまま,善と悪のあいだに
立って,聖アンナに世を託してゆけたら,このまま清濁併呑,シナモン=桂皮の香りは,
夏の虫下しに,”照葉樹林”を呑むようにして,非常に深…

たぶんとんでも。

知り合いがいなければ,描けないような拭き心地の窓ガラスに。


アウグストゥスは初代ローマ皇帝,Royal Lionの爽やかな精悍さ。
バルタザアルとは,彼の謂れ。アグリッパ,カエサルなど,聖書の
時代に,よくも同居した立法者。そうして,傷跡は双子宇宙だから,
ツイン・ソウルなどと呼ばれる,彼らの傷は,桃色の恋。それで,
漱石は,Royalだったと感じる,則天去私だから,LONDON ONE。

小林一茶は回転するわだちを残せば,Chariot。とっても激情する。

太閤秀吉には,やはり回転するわだちの以前にカリスマの東洋美。
天狗のような鼻をして,西洋人らしい顔立ちの,直立するカリスマ。

源実朝には,金槐和歌集なる作品があるけれど,飄々と冗談のような,
コミカルなギャグを跳ばしている彼だから,鶴岡八幡宮の境内を,
山犬に乗ってきゃはきゃはと翔けまわっていたような。冗談めいて。

平宗盛には,酔い加減の酩酊状態を,平凡さで呼ばれたけれど,彼の
知性はその霊媒的な体質だろう,霊能者,霊能者,彼の本質とは,酔拳。

後醍醐天皇に至っては,指一本に触れるまで空気がその機微に凍るような,
非常に繊細な優美さを感じる。

それ以前に,道鏡なる僧侶が居たと伝えられるが,彼のそんな天性にしても,
もう逸脱性ほどの個性を当時のカリスマとは怪僧,彼自体が街であった。
空間を動かすとはこうした呪術性に隠匿性,そうして神秘主義的な傾向。

桃色の恋は,だから傷跡のツイン・ソウルの証だから,肉体には双子宇宙。
本質論に至れば,この世の本質とは,まるで因襲。取り憑くのほど因襲の,
本質論に至れば,世界の実質とは,骨身に沁みる因襲。桃色の恋は,伴侶。

知り合いがいなければ,描けないような拭き心地の窓ガラスに。

アウグストゥスは初代ローマ皇帝,Royal Lionの爽やかな精悍さ。
バルタザアルとは,彼の謂れ。アグリッパ,カエサルなど,聖書の
時代に,よくも同居した立法者。そうして,傷跡は双子宇宙だから,
ツイン・ソウルなどと呼ばれる,彼らの傷は,桃色の恋。それで,


因襲があるとすれば,生活に影響を与える,それは明智光秀のような,
謀反に終わる,人生の機微に切なさを,行動に向かう前に,もうすこし,
考える暇のあれば,など切にそう感じる。勢い任せだから,いつも焦ってる。

詩人が土佐勤王党に斎藤道三の墓を訪ねれ…

月と,この星。

雨上がりの春の夜明けには,小鳥たちのさえずりがなつかしく
輝きはかがやいて,ピタピタと,響いてくる。
こんな雫の落ちる最中,地球に溜まった水分の酵素質は,きっと
神秘学にゆう”ルシファー”的な要素で,また隠れはしているけれど,
太陽に潜む熱射線のような熱体質は”アーリマン”なのだと,気付く。
この月と,この星を活きる僕たちには両者を取り入れていきることは,
必須項目のように感じられ,それが,現代のまた,”ソラト水”と”アスラ陽”の
間を行ったり来たりするこの,Groundingとゆう意味のことなのだ,と知る。
自ら”悪”として,Groundingしていきるとゆうことは,ただシンプルな,
この星と光りと水の中に潜む酵素質の中を活きる,とゆうそれだけの事なのだ。
雨水で珈琲を淹れるような,そんなことはまさかしないまでも,雨水で飴を
まさか練りはしないまでも,雨水が,小鳥たちに珈琲を淹れてあげたり,
炊飯などしているイメージは容易にするから,浄血作用や,排毒手順などを
講じる前に,雨上がりの春の夜明けには,小鳥たちのさえずりがなつかしく
輝きはかがやいて,ピタピタと,響いてくる。

パンタグリュエルのラブレー。霊界日記のスウェーデンボリ。ウェルキンゲトリクスは
緑の萌える砦の上で必死に妖精の匂いを嗅いで,ジョットの天文学的絵画要塞,そして
ロダンによる言葉の日本における数々の軌跡のそれはMichael,彼はミカエルの姿。

アレクセイ・ミハイロヴィチはピョートル大帝とエカチェリーナ1世の父君だけれど,
白金に光るその清純な軌跡はまた,貫徹する意志の奇跡の礎。また,カール・マルテルの
籠城しても敬虔に耐え抜く兵士の方たちの純真さには,やはり神の奇跡。そうして,また
その敬虔さは,彼ら”神”を称えたMichaelのウェルキンゲトリクスへと直結する。
深緑からの森の匂い。そこから遣ってくる数々の理性的直感。もうすぐ,遣ってくるだろう,
夏に備えて,衣替えをする自然の姿。

LONDON ONE,漱石=道鏡=太閤秀吉=小林一茶=源実朝=平宗盛=後醍醐天皇の
そのままその姿は”アウグストゥス=バルタザアル賢者”のライオン像。とんでもな話,
それは,そうだけれど今はない高輪のホテルに滞留していたその姿を思うたびに,それが
誰であれ,”アウグストゥス=バルタザアル賢者”だなぁ,と感慨深く,…

頭の回転=思考角質化。

頭の回転を良くしながらも,思考の角質化を防ぐ,そんな在りかを探そうとして,珈琲を呑む。忘我を,例えば無我の境地で散策するようにして,とある,その冒険のような1日を過ごすとして。淡々,恬淡,飄々を,標榜して,頭の回転を良くしながらも,思考の角質化を,防ぐ。カリオストロの父性を,プルーストの神性に照らす,ウィリアム・ブレイクのディレクションに掲げれば,そのマグダレーナの聖母に還る,またバルタザアルに順ずる。浸潤するその過程で,フィルターが形づくられる,それは,角質化思考の高速回転する頭脳ではなくって,父性から,神性をディレクション概念化の移す。みたまでは脆弱だ。しかしながら,みたまの風の吹かなければ申し訳ない。 基本的に,エンジニアリングのない想定内でコミュニティはつくられていくものだから,いつも写真共有をしながら,周知の事実としての評価確認としての自己評価によって,写真評価のポイント制通貨に交換経済的な発想に,農業者も加わって食材のシェアをすると良い。エンジニアリング,農業,写真通貨の三本立てで農業者も気のはやる美味しい経済のできると良い。菜食主事とは言わないまでも,現在のコミュニティにエンジニアリングの加わらない所を観じるに,健やかな食事,健やかな食事,写真2枚とサツマイモの交換できるような経済の胃腸にさわやかな,それはやっぱり忘我の告白的な発想が良い。それは,珈琲を呑むときの。みたまとゆうのは,思考に栄養を加えるが,とどのつまりはコラーゲン的な,犠牲者像の親い者である。祈りの思惑に,取って付いてくれた恩寵のようではあるけれど,まるでその追悼は慈悲深さを連れてくるそんなみたま。みたまでは脆弱だ。しかしながら,みたまの風の吹かなければ申し訳ない。それは,もう良いじゃないか?そう,呟くのである。もう良いじゃないか?そう,償いとはまた,世界の業の運び手,到着したのだ,荷造りは解いて,水浴ホテルに泊まろう。

豆乳は畑のお肉。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。ぽつ,ぽつと
祈りは雨粒のような調子をしながら地面まで届いてゆく,さあれ
もうすぐ地上につきそうな,そんな調子で降り切らない,とんだ
厄介者もいる。それは人間の姿で僕の生き写しなので,調子とは
言えば,やはり家の壺に這入ってしまって,身体を持たない,とんだ
はぐれ者の妖精さんを想像しては,やっぱり人間の下部組織とは言え,
胃腸を持つ,消化器官を抱くその四肢五体のどれほどに地上的で,その
Groundingしているものか,身体を持つとは,壺に這入った”壺中天”では
ない辺りの本当に美しく愛おしい。

身体のどよめきだって,それは貨幣制度の終わりにあるTowerの崩れる,
そんなざわつきにもよく似て,貨幣も消化器官と同じくして胃腸組織の
ようなありかたをしてれば,いずれ古くなることはあっても,古の知恵,
そうやって,崩れることはないのだろうに,経済制度?うん,いいや。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。

浮かび上がってくるのは,船藻とも呼ばれる,航海を経た知性なのか,
はたまた,生命のホムンクルス,新しき桑実態。誕生する息吹なのか,
それかもしくは,赤いあのなんだとか言ったな,護衛艦の見学の際,
波止場に浮いていたあのアカアシクラゲのような猛毒を帯びたやつ,
あんなたくましくスパイシーな存在なのか,そうあってほしくはない,
けれども,やっぱり大豆粉を練って,白湯と合わし,テンサイシュガーと
加えて呑んだような,非常に最近は,五分がゆから,出汁,豆乳で,
くつくつと煮込んだ豆乳リゾット風などに惹かれて,また味噌を加えれば
それは畑のお肉だ。動物性とゆう表現にどれほどの意味があるのか,訝しく
昨今は可逆的にまた,豆乳の植物性に垣間見る”畑のお肉”調理システムを