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1/2=1/4=1×25・4。

『堀辰雄=織田信長と,立原道造=千利休の,
 あの立茶に対しての太宰治=古田織部。
 何故,津和野の乙女峠に織部灯籠なる史跡の
 あるのか,不思議だった。そうして,乙女峠の
 殉教の地に織部灯籠のあることに,何故だか,
 妙にはしゃいでしまった自分の可愛さおもい出す,
 織田信長が根の堅州のスサノオ神のようなImageで
 思われるのは,太宰治の常世へ返る黄泉平坂,いま,
 世の夢より醒めんとして,うたかたならぬみずからの,
 オリジナリティーを織部より信長のほうにみえてしまう
 のを。まだ,夢から醒めぬ気か。醒めれば,”終わり”。
 そうやって,みな本物に返ってゆく,常世の国はまだ
 真実であり続けるから,漱石=LONDON ONEは,やっぱり
 この世の荒神さんとして,信長の台座より入れ換わって,
 文学の道標を灯して示し続けるだろう,太宰=織部の常世に
 みずから滅びるとする,それが道程であり,目標を人生に
 掲げるなら,それは”世の夢より,常世に入れ換わることだろう”。』

 片づけをしている時に,半分までしてゆけば,あとの半分は,
四分の一の労力で済んでしまう,とゆうテーゼはあまりに単純で,
実際は,四分の一が終わってから,もう一度再度同じことが繰り返され,
そうして,その後それは正味25回は繰り返す。そうして,それは全て。

お湯挿しサーバーなる,ティーサーバーなどを挿し湯の使い方で,
珈琲を淹れる習慣は,少なからずも着いてしまって,解凍鯛焼きを
焦がしながら,あぁ豆乳と割るのはいい加減にしなきゃなぁ,それは
ドリップの時の熱の伝わり方はそのまま維持して器に移すのだから,
なんとか豆乳も常温に親い仕方で保持しておかなきゃなぁ。

そうやって基本的には腹下しになる前に,あんこを頂いておくのは,
カロリー計算をしながらも,さすがの小倉餡。そうして,食欲よりも
お腹を満たすのは甘味なのだ,と言って,また。今夜は,デカフェの豆を
要り様に感じながら。スーパーに行って思うのは,きっと産地の野菜を,
いかにグリーンサラダなどとして頂けるか,そうゆう腕を組む2秒前に,
身体のなかで溜め息をつくようなそんな,あぐらを組む2秒前のような,
1日の終わりを迎える,あんこはまた夕食前にかならず食む,おやつの,
あんこはまた,夕食前の仮眠のような。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。