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若竹煮と珈琲。 エロイカと無伴奏。

業のカスタード・ケーキを頂いて,そうして,あの
春の夜明けに,グリーン・ティでも,いっぱい啜って,
緑の桶の中に浸かり込みたい。緑は咲いている,また
とろけるような調子で砂埃たちは陽光に散らされている,

LONDON ONE,見事に漬かり切った,あのアラベスクの
尖塔突端の,ぼくはシナモン・ビスケットを,あまりにも
多く食べ過ぎていたみたい。そんな,化学反応でもあるのか,
人生に,麦芽の栄養を必要とし過ぎたみたいだ。ネギ抜きを,
収穫のことをそう呼んでいるけれど,ネギ抜きをしていると,
なぜこんなにも,身体が重いのか,ヨークシャテリアの,
よくKnightの称号に,鐘を鳴らした,Ding-Dong...。
あの,だから,BIG BENに潜むリヴァイアサンのような,
BEN REDとゆう神獣さんのまたどうにかして,その存在は,
別様に,命を奪うようなことはしない,生命ありきの存在だ。

だから,フレーバード・ウォーターのような,植物水を,
例えば,キウイのツル,ネギの葉先,ヘチマ水のようなものへ
求めたとして,いたってそれは,ココナッツ・ウォーター。
麦芽の神さまを痛めるような,別様に,いやなにおいもない。
だから,天津神や国津神,平安と鎌倉,埴輪と土偶の違いのような
そんなヤマト・イズモのバランスを言われても,僕は,困って,
ならば,パーテージの少ない方へいつも偏っていこう,と向かって
反対の方へ,Converseへ向かいAdjustmentに”The Star”の
フォーチュン・カードを引こう。

業のカスタード・ケーキを頂いて,そうして,あの
春の夜明けに,グリーン・ティでも,いっぱい啜って,
緑の桶の中に浸かり込みたい。緑は咲いている,また
とろけるような調子で砂埃たちは陽光に散らされている,

どうしたって,大黒さんの背負っていた重い荷物は,
小槌とセットになったって,重たいまんまだから,そうやって
緑の匂いを嗅げる,新緑の初夏に到るまでの青い季節に,
僕らは,他者依存,外界依存,季節依存の中をもぐっていく。
タケノコは今から,”Ding-Dong”若竹煮にして頂こう。これは,
本当に地産地消だ。緑の酵素。これが,青い季節の憚りなく,もう。
美味しい,珈琲と若竹煮。そうして,ベートーヴェンと,あの,
響くようなバッハ無伴奏があれば良い。もってのほかに,ない。そう,
その無伴奏エロイカなる,グールドの変奏曲も限りなく良い。また,
無伴奏はアンナー・ビルスマの演奏は芸の極致だ。

次々,やってくる春。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。