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三島アルカポネリスム。

トーマス・マンに与することは多いだろうけれど,その
『魔の山』にモチーフ化された富士療養所の闘病紀行文は
日本のロマネスクのモチーフに源泉として響いていた。
三島はフグのテッサのように調理されて世を去って逝ったのだ
木戸孝允はタイのハヌマンのような壮絶な終りのゆきかた
サド侯爵,ああ彼は,まるでロマンチシズムのみなもとで。
マッキャベリズムと修道士のフラアンジェリコを足して2で割り,
そうして出来上がったのは日本の美なのだ。確かに,集合魂的では
ある,日本の食文化からヒューマニズムに換わる何かにさえ,ほんとに
集合的なあり方をしている。だから,それらを変えるとゆうテーマでなしに
包括的に集合するその物事以上に,何かを変える手段は敢えてない。
融け合う,これだけなのだ。自然を神として祀る,これ以上に本来の
マッキャベリズムを超える,あるいは同化している何かはあり得ない。
自分たちの卑下とゆうスタートではないのだけれど,酵素的な人間自立以前に
それらは,やはり水の低い所にながれる。あの,それはもう,融け合う外ない。

固定してしまうとする,例えば年齢に応じて,僕は固定してしまうとする,自らの
反射機能や,その精神自態を。そうして,ロイヤルの獅子の意味を探るのだ。その
中には,ロマネスク以上に,何らかの加持祈祷なる回帰飛翔など含まれている。そう,
だから,回帰飛翔などに相対して,自らの固定された反射機能や,その構造などは
だから,元来飛翔さるべきものとして,獅子の像を形成している”そんな夢”を,または
木の目の照り返った陽光に比された闘病記的ジャパンロマネスクに到着点を定める。
やっぱり何かしらの宇宙飛行して次の宇宙に移るとき,それは全快した決着する酵素の
桑実態と何かで聴いたことはあるけれど,自らの2度産まれ2度なくなる,その間には,
精神構造その実体自態が構造として産まれる,脱皮ではない,細胞分裂の以前に,その
ホムンクルス嗜好の高い,産まれる時に新しい精神の生まれる。そうゆうロイヤリティを
是非とも体験したいのだ。胃腸全快,天地爽快,泰山自若の山河翠明,その滝の停まる,
停まった先には,花鳥風月も停止する。そんな瞬間を心待ちにして2度産まれるのだ。
珈琲は熱いが良しとする。そうゆうことではないときもある。ショコラータにしたい。
そうゆうことだってあるのだ。停滞して,ロマネスクに舌鼓する。こうゆうことって,
あるのじゃないか。

こちらは如何?

てんさい糖の蜜を頂く,手挽き・ドリップ・豆乳のあとに

懐手に,差し込んでみたいとは思いつつ,及ぶことなしに
それでもついて行きたいと感じる,そんな精神体のあることで,
本当は,打ち上げ花火を揚げたいので,そんな想いを感じているのか?
精神体を追いかけて,廃墟をくぐり抜けて,そんなサナカに,ふっと
打ち上げ花火を連想して,なんだ,お祭りがしたいだけだったのか。
我に返って,こんなことを思うのだ。風邪を引いているので,手挽きの
珈琲豆は扱えなかった。このきついのを毎晩のんでいたための,アレルギー
だったのか,と疑いもしつつ,それは生産者的な想いでの意味ではなく,
掃除を,ただして終わった後の脱力自味た心理を,そうそう庇いもせず,
ろくに珈琲も呑ませなかった,自分への八つ当たりを,今もしている。
そうやって,凝りなども溜まっていくのだろう。
自分のなかには,お祭り好きの,欲求のあふれていることに気づいた瞬間に,
何事も自分のうちからは無くなってしまった。
無くなった,いいや,空っぽに,現つ筒抜け,解りがたい難問をクリアした後で,
風邪を引き,いつになったら,珈琲を頂けるのやら?体調と,質問を繰り返しては,
こうやって,てんさい糖の蜜を頂く,手挽き・ドリップ・豆乳のあとに
などのことなど,思い浮かべ夢みるのである。

恋心,などのことを,描いているうち,それは心の奥で,やっぱり業の在処である,
そうやって,太田治子氏の『明るい方へ』なども,もういちど紐解いてみよう。彼は,
太宰は,とは言って,歴史上”太宰”と呼ばれる,津島さんは,その,作家名の独り歩きする
現代を,どう見ているのだろうか?

虚構だな,そして上滑りしていく夢のうえにも砂上の楼閣のようだ。
だから,恋心は,それはあなた,罪悪感の名残ですよ,と言われた時には
そうゆうことも,そうゆうヴァージョンの恋心もあるだろう,
とは思いつつ,それもそう。

お祭り好きの感性を発見してよりのちの人間性は,罪悪感で惚れるとゆうことの意味が,
まるで解らなくなって。

ブンガクに惚れるのでしょう,詩情に魅惑されるのでしょう。
この方が,魅惑される分のポエジーや,どんどん惚れてゆく芸術的な文言に対して,
少々のヤッカミや,眩惑を感じたにせよ,やはり転じてそれは,魅力に映るのだから。

アイスクリームを二個も食べてニコニコしてしまう風邪ひき習慣。
習慣にしてはみっともなく,けれどももう永続性まで感じてきてし…

栗の実に文章構成はありますか?と,問われ着る夕べにはチャンチャンコの

風邪を引いて,熱や頭痛を超えて,喉の腫れに到った時,それの
発破してしまわないように気を付けながら,ある意味,この正解。
イオン式加湿器を持って来て,寝室に置いて,まわしてみると,これ
呼吸も気にならずに出来るし,あまりにすがすがしく心地よかったので
眠れたはずのタイミングも目を開いて,黙想してしまったのだった。
風邪を引くと,迷惑をかけるモノだなあ。とか,身体が重たくなるのは
これは本当に,動けなくて辛いものだ。など,普段から怠け者で重病みたく
ロマンを追ってばかりいる事のそれとは比較にならない,やっぱり風邪って
痛いほど辛さの身に滲みるものだ。なので,加湿器を持ってきた途端に,
すっかり心地よくなって,いろいろと考えていた。今となっては,耳鳴りの
諸症状なのかもしれず,解らないなりにだけれど,小学生の後半あたりから
妙にヒステリックに右の側頭部に違和感を感じ,癇癪も酷くなってきた想い
のあって,暴力性の否定とか,スピリチュアルに哲学してゆく格好良く言えば
そうゆう思春期を過ごしてきて,暴力の否定。とゆうものに,焦点を向けてきた。

狐にはわるいのだけれど,狐憑きのようなモノ?とは,言っても自分の側頭部,
そうそう客観的にもなれなかった。そうして,昨晩は,そんな想いは,たぶん,
この辺りは,遺跡地帯,弥生のイザナミ文化に対して,ぼくは縄文ヒーリング。
男性性でゆきたいためか,縄文的にゆこう,そう決意した時だった。するする,と
耳の穴の開いて,何か出たと思ったら,それは,分泌液か何かだと推測するけれども
そんな縄文ヒーリング露知らず,ロマンも逃げて,一気に先ほどの事なのだけれど,
耳鳴りの諸症状とあとで枠づけては,そうゆうヒステリーは一応の解除を申し渡された
ところなのだった。

そうして,栗の実に文章構成はありますか?いまにもチャンチャンコを着ておもてに
でそうな感じのするこのフレーズに。今となっては,文章構成なんて,まっぴらゴメン!
ロマンも,『錠門=縄文の鍵を開く唯一の,堀辰雄ロマネスク』などと謳っていた,あの
イザナミもヒステリクスも飛び去ってしまって,お見舞いのチョコ・ミントアイスを頂き
ながら,あんまり甘いものを食べすぎたけど,あとで返ってきそうなこの糖分には,でも,
そんなアイスクリームの美味しい風邪ひき珍道中だった。今更ながら,心地よく耳も抜け
眠らず…

いろいろとは,あるけれど。五穀豊穣の折合いに触れて。

段々,めざすものの在り処を掴めるような気のしてきた,この
秋口に。リンパ液の全身を,掴めるのならば,とにかく頭脳の
中をさえ廻るようなその気概を以て,自己同一性と,自然一体化の
混沌的陶酔感。自然の裡に座してしまうのは,クリスチャニティより
してみれば,邪悪なものなのかも知れないけれども,自分自身のあの
樹の一本になって葉を茂らせる中を通り抜ける水の一音壱音になって,
根本的に当然のように,カオス=静謐さの一致点にある,その在り処。

自然の裡に座す,これがグラウンディングとゆうものではなかった?
とにかく身体を温める,玉子酒は要らない,ブランディーももしくは
あまり欲さないので,ケーキにもあくまで全粒粉の粉っぽさののこる,
そんな感じでよいので,だから,ときには一本の麦になる,この頭脳。
どうしたら,いいやそれは健全かは露知れず。けれども,どうしたら,
全身をリンパ液の廻るような,いたって心身陶然としてグラウンディング,
するあの心地になれるのか?いたって平凡に趣味する不可思議さのはてな。

熱源なのだな,そうして瞑眩なのだな。そうやって,情熱に向かって,
とっさに翻る,目下の牛若丸のような跳びすさり。この月夜に没香の,
しずかな匂いのするような黄葉した樹々の萌えるような匂いを,ここで
感じる弁慶のくだり,に彼の武骨さはこの芳香にヤられたので,あって
強さを求めていたわけではない。元来,武骨さは強さは理想にあらず。
かぐわしい夜の月明りにほれ込む,あのビシッとした身なりの翻りにて。

段々と,夜の匂いにほろ酔いでくるようだ,と。そんなこと,を言って。
弁慶は九郎義経について行ったそうな,また,草団子,お番茶を啜っては,
ほろ苦い照れ笑いをするくだり,そんなものがあったのかどうか露知らぬ。
樹々の香りに無上の笑みを起こすその喜悦に対して,いかに無感動なれど。
この自己同一性と,自然一体化の混沌的陶酔感はすでにあった物事どもを
計らずも付いてこさせる神秘的な風情。もちろんには,草団子も,お茶も
旨かったから外ならぬ故。

もう,水風呂もとんと這入らず,はいられず。そうして,夢の居場所も,もう。
実践面には移さず,影響もされず。このまま,樹々の匂いに溶けてしまおう,と。
そんなとこから,始まって自己同一性と,自然一体化の混沌的陶酔感には,もう。
これで,これはそれで,それでし…