スキップしてメイン コンテンツに移動

気ままな湯上りのお茶。

社会に適応する,とか”成功”するとか,あるいは,
受ける賑わいを貰える”受け手に嬉しい。”とは,そんな,
真面目なことは幸いにbest,とは思いこんでいたものの,
多分,アイデンティティ=自分探し,って
”真面目になることでは,なかった”。一般的ではないものの,
多分,アイデンティティ=”本当”の自分って”不真面目”だ。
湯上りの週末だけ呑める温かいお茶を頂いて。
”本当”の自分は気ままなのだから,暑いからとぬるめのお湯を
浴びて,そのままスタコラ熱いお茶を呑みに来ると良い。そう,
電波疲れしている脳髄には,摂取と排泄とゆうやつ,あれの,
ぬるま湯と熱いお茶の繰り返しの一番良いのだから。あれは,
感極まって,芸術志す,行方知れず。

妻は,ネット・オークションに嵌っている。そうして,
僕も,写真加工の風景画を造ることに熱心だ。長らく閉じていた,
心の扉を,何とか捻じ開けようとして,瞑想などに取り組む?うん,
いちばん効いたのは,とゆうのは開くとゆうよりは感性の日常性を,
SPIRITUAL ESSAYとは言いつつも,全体的主観を閉じてゆく逆行。
そんな開く,閉じるを繰り返すのは,いちばんお伝えしたいのは,きっと
朝食を食べることと,なにぶん夜でもキーボードの前に立つとは言いながら,
眠たくなったら,決まったベッドなりの上で定期的に仮眠でも摂る。こんな,
気楽な”朝”食べ,”夜”寝床の常套的な発想は,とっても祈りやクリーニング。
殻を厚くしたオニグルミみたいなナッツ・シンドロームには,”朝・夜”の
季節感はとっても良い。季節感グリッドの呼び名でいつも季節に共感していたい。
定番の暮らしは”嫌”だから,常に芸術を志していたい。そうして祈りには豊かに,
ただその時熱中できる何かの呼び名を叫ぶ。珈琲のドリップや,朝の掃除や,その
珈琲の朝の一服など加えてとても気持ちよいものだった。

社会に適応する,とか”成功”するとか,あるいは,
受ける賑わいを貰える”受け手に嬉しい。”とは,そんな,
真面目なことは幸いにbest,とは思いこんでいたものの,
多分,アイデンティティ=自分探し,って
”真面目になることでは,なかった”。一般的ではないものの,
多分,アイデンティティ=”本当”の自分って”不真面目”だ。
湯上りの週末だけ呑める温かいお茶を頂いて。
”本当”の自分は気ままなのだから,暑いからとぬるめのお湯を
浴びて,そのままスタコラ熱いお茶を呑みに来ると良い。そう,
電波疲れしている脳髄には,摂取と排泄とゆうやつ,あれの,
ぬるま湯と熱いお茶の繰り返しの一番良いのだから。あれは,
感極まって,芸術志す,行方知れず。

コトコト,遅めの炬燵の前にキーボードを叩いて,最近テレビとゆうのは
良いイマジネーションを連れてきてくれる,春の中ごろからそうだな。って,
不思議と画面が青い色一色になっているのに気が付かない。なんだろう?そうゆう,
波動みたいなものにフォーカスしているので,もう観ないような習慣づけにでも,
なっているのだろう。基本的に,豆乳と白米とお水とお塩があれば,豆乳リゾット風。
十分ほど中火で五分がゆを仕掛け,フライパンにて豆乳と加えて水気のなくなるまで。
こんなシンプルなノンオイル・リゾットのあっただろうか?”風”ではあるけれども,また
そんなメソッドに味噌なども加えたりして,お塩はお粥の時にもう加えておくのだった。
おばあさんは,もうテレビを観ないから。とゆうことなのか,大きなテレビを譲って,
今のこの炬燵の前に置き換えられるとゆうことなのだけれど,大きなテレビが貰えたら
もうそれは宇宙旅行の居間にいるだけでスペース・シップ化するように想像もされる。
ただしきっと,じっと見ているのではなくって,宇宙船にのっているとゆう誤魔化し
など最大限に楽しみながら,『宇宙船の切符を頂いてしまった。』とそう言って,その
宇宙旅行に行く前にどうやって,夜を迎えよう,なんて,いけないことではあるのだけど
簡易豆乳リゾットを造ろうかどうかなど,夜食に真剣に考える真夜中なども殊によくある
んじゃないのかなぁ。大根サラダとシャキシャキ感を楽しむ位で良しにしとこう。こんな
気ままな湯上りのお茶を呑みながらひたすらに想うのである。そうゆう,話しは,”あとで
朝してくれたらいいんじゃないかな?”ネット・オークションにも飽きて,奥さんは,もう
夢うつつである。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…