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芥川のコンパス,三島のドラ。

芥川の羅針盤の示す方へ,三島の情熱に駆られて。
『近江屋事件のあった当夜,龍馬の脳髄には,
 桂小五郎の訪れを見た瞬間凍り付いた記憶が。
 桂の姿を見た時,龍馬の心中お察し申し上げる。』
こんな,その夜,龍馬の供にした食事の中に,塩ブリ
のあったことを,そうして,その裏に睡眠薬の貼ってあった
ことなどを察して,僕は,ひたすら彼がLONDONまでの
道程を,船底にムシロに横になって朧ながら波の打つ音。
『芥川=ヘロデ王は,頼朝の時世,武家政権を建てた時分に
 もう,人の役に立つことを決めた。龍馬=九郎義経を以降,
 討つ気配はないのだから,ヘロデ王の自作自演のイスキリの
 パノラマのような。三島は三島で,太宰を訪ねた時には,もう
 殺意はなかった。そもそもなかった。三島=桂氏は,
 太宰=龍馬の盟友。』で,
芥川の羅針盤の示す方へ,三島の情熱に駆られて。
そもそも,太宰=龍馬=九郎義経=空海の,それは復活劇として,
はたまた,岡潔=伊藤博文=チンギス汗=妖僧文観との対応に。
以上なコダワリを見せては,やはりイスキリ(イエス・キリスト)の
復活劇を連想させる彼は結局何人もの役を妖僧としてもとめたのだ。
イスキリとは例えば諏訪湖に眠るとゆう菱形の信玄墓のように。
大国魂とゆう言い方は変だなあと思っていた。伝説としてある意味,
ああゆう信玄墓のようなシェルターを通してしか大国魂にはなれない。
伝説を言説として説話としてみるにつけ,神話らしい神話には,あまり
常識らしい常識は通用しない。オーガニックでも,信仰でも,眠りでも,
余裕をもって生きる事でもない,伝説を活きるとは,黄金伝説のように。
堅牢に頑強で集中して『一変感謝。』本当に,ありがとう!とそう言って,
辞世を奏でるような。GOLDとはかくゆう求められる象徴のように出来て,
何が本当だろう?敢えて訊きたい。業=芸術?嗜好=暮らし?そうして,また
換気=清浄のような自然?なので,ほんとうに芥川のコンパス,とはゆうけれど
伝教大師=最澄上人による,朝=題目の,夜=念仏に,昼=炊飯がよいのだけど,
芸術から暮らしより自然に到るこんな朝昼夜の季節変遷を辿る,芥川のコンパス。
だから,ヨーロピニアリズムに,フラ・アンジェリコの天使画や,マッキャベリの
生き方。そうしてサド侯爵に至るまでのありとある,赤レンガの丸屋根天井の姿。
この,木戸孝允のヨーロピニアリズムに,伝統美の三島文学を足してこその,
『芥川の羅針盤の示す方へ,三島の情熱に駆られて。Europeanist&Buddhist』
漱石先生と太宰の影に,龍馬のキリシタンvs.太閤秀吉の姿をみた時なども,
アロエを火傷に効くからと言って,大黒さんの傷はアロエ・ヨーグルト。など,
呟いてみるのも,三島文学の裏の記憶にはヤコブ・ピラトゥスのような,あの
赤く灼けた岩の記憶。赤子岩とも呼ばれる彼の焼けた記憶の中に戦禍をくぐる,
ハンス・カストルプの幻影を常に意識していたからではないのだろうか?マンは,
ヨゼフ的な父性の記憶を宿しているけれど。灼けることと水で冷やすことと,また
動物=野性と,植物=裏宇宙の対比のような,もっとマクロな視点でみれば,
人間の右脳と左脳の換わり方の端を発して,昼と夜の宇宙的観照に移り,つまりは
表と裏。宇宙は表側と裏側を有しているとの視点。朝から昼,夜に移り換わり,その
芸術から暮らしより自然に到る。自然のレンズ状になったお椀を,暮らしの水が湛える
芸術の神とは朝に訪れるLONDONの汽笛の遠鳴り。煙ではないよ。煙ではない。白い,
あれは蒸気なのだ。水蒸気。こうやって,若き漱石と話しながら歓談し珈琲を呑む。
こんな彼が来たときは同じ想いをしたものだ。則天去私は喜びの放棄ではなきにしも,
情熱のLONDONを観たあとでは,もう暮らしの羅針盤は要りませぬ。そうして,自然へ
還る。こんな灼け岩に水は無駄だから,眠りに夜を慰めに。もう,いつかそうやって,
話したことは,『芥川の羅針盤の示す方へ,三島の情熱に駆られて。Europeanist&Buddhist』,
多分英仏海峡を渡って何時も贈ってる。


こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…