スキップしてメイン コンテンツに移動

そうゆう次元の,妄想なのだ。

夏の入り口に,アイス・レモングラス・ミントティーを
呑んでしまったのが,業の泉の門を開いたきっかけ。
諧謔のすえに,ロマネスクを求めて,門衛に訊ねたのが,
幾重にもかさなった,何人もの人生をパラレルのように。
ロマネスクの先に,パラレル・ワールドのひろがる。
入り口があれば,出口のある。それは,門衛に道を尋ねなくても,
もう,お家へは帰れる。ドクダミ茶を呑んで,何人もの人生を,
下る河のように訪ねて,無意識の大海へ這入る。
『そうだな,とりあえずは,お家に帰るか。』そう,言って。
『やっぱり,芸術の神は,無意識の構造だなぁ。』そう,言って。
『眠りの国へ,返ってそれは。無意識の構造だなぁ。』そう,言って。
お腹が空くとゆう事は,眠たくなる,とゆう。そうして,それは
無意識に還る事とは,春の気配に恍惚と,浸潤するドクダミ茶の,
頭頂部と,尻尾の生えるあたりが一気につながって,眠りの国へ,
意識を保ちながら,眠りの国へ。そんな,大河の一滴を,夢見ている。


早朝になって,階下に降りて,食材がないので,豆乳リゾットを。
油をひいて,お米をひとにぎり,初めに食塩,コショウ,ダシなど,
振りかけてしまって,一分ほど炒める。水を足して,くつくつ。
途中で,豆乳を足して,くつくつ。さらに隠し味に,お醤油。たぶん,
お塩は多めに入れる位が好い。十五分くらいで食卓に上るから,それは,
もううまくゆけば,”バーベキュー・リゾット”などと,焼き肉の食味を
期待しても良い。と,ゆうことを”とっても美味しいのだな。”と,早朝。
鯛焼きの冷凍庫に一個だけあったのを,それでは寝ず心地のこの憔悴は,
到底満たされないから,と苦肉の策だったけれど。そうゆう,困窮は,
もっと,得てして,優雅さへの入り口で,ジャガイモ料理の礎の上に,
ヨーロピニアリズムは成立したのだ,と日本の豆乳リゾットを想い,
確信に抱く早朝の春。

眠ることではなく寝られないことを人生は選択していたのだな。
”食べ過ぎてはいなかった,けれども,空腹にはなっていない”眠前に,
どうしたって寝られないはずはないのに眠らないことを選択する。
ひたすらに称徳天皇のような弥勒菩薩のような女神ヒステリクスを,
それは芥川や東照宮のような影ではあるにはあるのだけれど,そんな
女神ヒステリクスとゆうような光陰を感じながら,まだしもこんなにも
冗長な女神ヒステリクスの訪れに冗談も言えず,ただ金縛りのように,
高い呻き声を挙げているのだけれど,そうゆう時に限って,僕の中の,
蟻の神さまの裏宇宙地底人を低刺激に刺激する,思わず”トイレ!”と。
起き上がって,一服をして,”もう,4時かぁ。”光陰矢の如し。
絶対知性は,こんな鬱蒼とした身体の中に蓄積されてゆくマイナス電池の
ようなもので,これを今度は蟻さんたちに分与しようと試みる,とにかくも
瞑目しているあいだじゅうも一生懸命なのだ,眠るのに一分も無駄にしたくない。
多分,少しずつお腹は消化しているとゆうメタファーでもあるのだけど,そんな
メタファーより,起き上がって,再度あかりを点けて思うのは,やっぱりその折,
豆乳リゾットを作ってよかった。うすぼらけてくる外気を眺めて,ドクダミ茶。
もうすぐ業の門をアイス・レモングラス・ミントティーより開いてからの,その
情熱の芸術の神への門下にくぐって,ドクダミ茶の冷感を感じて,一時の仮眠。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう