スキップしてメイン コンテンツに移動

パパ殿塩味。

躊躇もしないで,”存在”は迫ってくる,躊躇したなら,
きっと,その”余韻=情緒=記憶”は一層瓦解してしまう。
未だ,瓦解しないで,”存在”していられる,だから,その
”余韻=情緒=記憶”は,感謝していながら,迫ってくる。
弟の,イスキリは,太宰治=坂本龍馬=今川義元=,
九郎義経=弘法大師空海であってとしても,兄のイエスは,
岡潔先生=伊藤博文=古田織部(中江藤樹)=道元禅師,
そして,=妖僧文観だったと言い放ってみても,別段決って,
変ったこともないし,”ある”とすれば,”存在”の呵責は漸う,
軽くなりはしないか投げる伊弉諾の桃の実であったりもする。
最近,格段に,その”余韻=情緒=記憶”の追ってくる何かは,
ヴェニスに旅して命を投げ出すアッシェンバッハ氏のごとく,
海の遠景に熔けだしてしまって見事に円満に,夏の塩飴のような
融け方をして何処かに遊泳されて行ってしまっている。なので,
もうどうしようもなくなってヘッセの独白を紐解く文豪の,あの
ロマネスクはきっともうどうしようもなくなって教養小説に落着く,
あの文豪の白髪めいた秀筆のように恬淡として豊かに彷彿とした,
ロマネスクは述懐へと繋がって,ロマネスクだけに活きられる彼の,
”存在論”によって,躊躇もしないで,”存在”は迫ってくる,躊躇したなら,
きっと,その”余韻=情緒=記憶”は一層瓦解してしまう。
未だ,瓦解しないで,”存在”していられる,だから,その
”余韻=情緒=記憶”は,感謝していながら,迫ってくる。どんどん,
瓦解してしまう”存在論”の執筆模様を,彼は見届けられるだろうか?
記憶は,うすめられ,情緒はカチコチ硬化し,余韻にひたる余暇はもう,
失われる。それは,きっと”存在の不時着めいた降下化”のようないたって,
美味しい料理に舌鼓せよ,LONDON ONE,とは言いつつも,美味しい?
それは,豆の粉で造られた煎餅ではないですか?もう朝焼けにはあれしか,
あのしょっぱい煎餅様のものしか欲しない。いまがた朝方だった心持ちも,
”存在”のさってしまった炎天下の憔悴の中では,でもやっぱり,豆の粉,
深夜更けるフィトンチッドの誘惑する小康状態のロマネスクにも,やっぱり,
朝は遣り来たって,もうすぐ,ロマネスクだけに活きられる彼の,
”存在論”によって,躊躇もしないで,”存在”は迫ってくる,躊躇したなら,
きっと,その”余韻=情緒=記憶”は一層瓦解してしまう。もうすぐ,
ソーダ水の氷割りなら良いかな,いや?それはブルーハワイのかき氷の,
もうまさに解けかける一寸手前のあの氷の加減のことを指してはいても,
誰もわかってくれない,そうはいっても,朝も昼も深夜も更ければ,同じ。

お茶をすすっては水風呂に浸かって,一言。
のど飴をなめて,もうすぐに昼は遣って来そうだ。昼が遣って来たら,空調は
どうしたら良いのか,何を呑んだら良いのか,とっても迷うものだ。不安かな,
不安は何処から遣って来るのか,一般的な感情は何処からとゆうよりも,季節の
あるいは日々の流れの中で遣って来たり,さっていったり。一様に原因はないより,
もっと言えば”真の原因”とゆうものを探そう。それが”時間”だったりもして,その,
時間を受胎して産んだ女神さまの産休期を人生と呼んでいたりする。正確には
時間を孕んでいたのではなくって時間は副産であって,本来,今の赤子であるのは,
もちろん全ての星を包括する”ブラックホール”,だから,”ホワイトホール”は,その
父君のようなものだろうか?』こんな,感情的な問題の,

僕は”ブラックホール”のお守りをしている。いずれ”ホワイトホール”になる赤子の,
その人生の時間をすり抜けて,一様に赤ちゃんの栄養食になるのは人生のお努め。
豆の粉を練って,煎餅にする。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。