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業の泉の上澄取り。


業の泉にさらされたいた。そこより脱け出るのには,多分
上澄みになって,差別意識の区別化まで上澄取りをしてのち
ただ,知性と体的論理の解離を試みて,そうして,普通のごく,
普通の,損得を見別られる主知主義のほうれん草の灰汁のような
そんな人間に戻れるのだ。川を見て思う,あのブイは蓮根のよう,
あるいは,自転車に乗る婦人を眺めて想う,避けて運転する注意。

業の泉にさらされていた。判りすぎるのは,白黒つけているわけでは
ないその真逆で,知性より体的論理に移りすぎて,感情の溢れだしていた
例えば,お肉料理のあとの皿洗いは,フライパンなど右回しにスポンジを
回す,珈琲は左回しにしか淹れられないのに,右回しに油汚れを落とす。
その前段階の料理をいただく際にはもう,まずもってお茶の前に,油のあと
その濃い食事の直後にはすぐさま珈琲を呑み込んでしまう。そうしたいのだ。
しまいには,油汚れのスポンジはゴミ箱に捨てられてしまう癖なのに,まだ。
そうやって,フライパンを洗うときには僕は,お湯を使おう,そう決めて。
そうすれば,先に油残りは落ちてゆくだろう,それからスポンジを使おう。では,
お水でも十分に落ちるのは判っていながら不服だったので,あるとき,こうやって。
お水で流した相変わらずのスポンジ・ベトベトさんを,最後に少しだけスポンジだけ
お湯ですすいで洗ってみたのだ。お水で流して,お湯ですすぎ洗う。これ,Best。



上澄取りされた,ほうれん草の亜鉛の灰汁のような,上澄みになりきった知性的な
人間になって,ただ,胃腸が疲れていただけだったのか。そう,気づきながら,やはり
主知主義的人間,冷徹な程の冷酷でもなくうわべだけの感情的風態でもなく,そのうち
まずもって,感情には感情で対するように,知性には知性で対応できるような,そんな
涼やかな人間でありたい。そうなれば,もう僕は業の泉の管理人で,文学志向でも,
絵画専攻志望でもない政治的傾向を伴った,プロデュース型業の泉の管理人になるのだ。
それで面白いのかは解らないけれども,感情に知性で当たってゆく丸裸の青年は,やはり
腫れ物にはハレモノちっくになる由縁でもあって,知性に知性で対応しよう,今から,
空調を点けたとする必死に考えて,書物の渉猟文化を,文筆家にではなくって,論理的な
物理学者に訊ねたりする,こんな冷静な知性的文化を,冷製パスタをいただくように。
霊性文化の先には,先輩知人の「国破れて山河あり。」



酵素質のデンプンをぬぐい去ったあとにのこる,香りだけを楽しむアロマ・ディフューザー。
前世ゲームはもう終わりだなあ,駆ずり回って収集した本の文章家並々ならぬイリュージョン。
スピーカーには,紙の質感や,木や革の表情,キャンドルの想い連なる黄葉のいろとりどり。
お茶を啜って涙する,こんな夜明けに,感情とは,おさらば。あくまでもリアリストに,
物質主事の,物理学にはイチョウヨウ・エキス。どこまでも,どこまでも宇宙ステーションの
あの飴の宇宙食に間違いなく届くまでは。




こちらは如何?

看護する側に廻り、眠りに落ちる、共に眠りに。

岡本太郎=セザンヌ=バイロンの火星長老による招聘を受ければ、
義朝=石田三成=楠木正成=家茂の聖者の行進を垣間見る藪木の隙間。 セガンティーニ=ヨハネス・タウラー=ペスタロッチー=カラヤンの子羊は、 また、ミレー=シュペルヴィエル=モーツァルトとゆうルシファー獣神の、 〈飄々として哀切とした、剽窃されて漂泊した自我〉なる者かく言う、あの モネ=カント=コロンブス=マルコポーロ=ディオゲネスの冷徹した眼光を、 ただ、火星長老とゆうのは、とつとつと、そう言って区別することにアートを みるのだった。ただ、そうやって、みるだけなのだったとゆう。 野生酵素を摂るように、優しさが残酷じみてゆき、そうやって グラウンディングとゆう呼び名のもとに、怒りや焦燥さえ含んで 我が心は我が身へと変わってゆくものなら、それは嬉しさのモノ。 そうやって、人間性は、ハートでは扱うのでなし、充分に丹念にして、 もっと、腹の底より、怒り、泣き苦しみ、笑おう。とは言う、 つまり、単純に、セクシュアリティによって、怒り、哀しみ、そうして 微笑みを浮かべるのであったら、頭脳ではない、完全に下方よりの 感情を体験できるのなら、それが、グラウンディングである。とは言うモノ、 根を降ろす、とゆう惑星に張ってゆく清濁併呑の心根は、そういった 太陽神経叢によって、考えて知悉し、また、情緒を宿すのだ、とゆう。
そう。例えて、喜びについて、語りたいのだった。それらは、 どんな茶葉でも、豆乳チャイに。そうして、それらは、どんな酵素シロップも 烏龍茶割りにして。眠りに落ちれば、人格は修復され、戻ってくる秀逸な。 ジンジャーハニーは上の空。いつも、どんなタンニンに合わせて行けば、 そう。考えているので、眠りに就いて戻ってくる感覚は、やはり三島文学よりも 太宰のヒューマニズムなのだった。檀香の匂う、龍馬祭壇の例えてあれば、 それは、トビナガスネに、イザナギの黄泉返りのようにして、それで もうすでに、取り返しの付かない記憶錯誤も、錯綜した宮の水のように 桜の香りに、桜餅の夕べ。喜びについて、語りたいのだった。それらは サルタヒコのリルケ=ヒュパティア=ドナテッロ=ラムセス2世とは、 また対置するのも良いことです、それは、よいことで、それでいて。 肝心なのは、眠りに戻っては我輩は太宰である。と、連呼自称しつつ、 この、ジャーニー…

真実さぐりあてるは信玄墓。

川端康成=宮本武蔵=武田信玄=法然和尚の純和系譜を辿るのに,
それはA.フランス=クライスト=アランソン公=クラウディウスの
ヘロディヤとしての声明に浸されて導かれる過程の裡に,あって。
きっと,元を辿れば,何かしらのエスプリめいたシニカルな何か,
シュールを現実を超えた何かとして,美しさしめす何らかのBeauty,
そこに端を発して決して,柔らかくないイカの燻製のような,酒肴。

相変わらずのパインとカフェオレを合わせてしまう夜の茶会において, こんな思索は産まれてくるのだった。ロマネスクより,脱会して,その 蕭条とした茶会に加わって更に問題視される,有意義な理由=意味とゆう ものを,文学性談義として排してゆけるかを『意味するとは,問題視される べき,テーマとは言ってもなあ。こんなことを語らうことに,意味ある?』 そんなものなのだ。眠っているのではない,デカフェの珈琲に酔っている。 なので,A.フランスと川端先生は気が合うのだろう,きっと。
ひとつは,古代の荒野に遺跡ありて,イニシエーションを体現するほどの 秘跡めいたものの表現は,フランスにおいて白眉たる。そうして,それを 体験するべき文学性のウツワを持っている川端文学においては,そういった 何らかの神秘性を,墓にまで持っていける産土性のその連呼する連帯性土壌。 ひつまぶしや,土瓶蒸しの茸の匂いのようなものか,とはいえ意味するべき, お腹に這入ってしまえば一緒だろう?いいや,そうではない,記憶の裡にも 排泄過程=忘却のあるように,そこより産まれる土壌菌に幸あれ。
フルーツを購ってかえるのに,そんなに甲乙つけるべき基準はなかったけれど,
価格に応じてよりも,ほんとうに裂きイカ,揚げ裂きなどにいたっては,中には
酸化しているようなものまであり,好きな適当に購えるイカの肴は,ほんとうに
限られてくる。美味しいものは旨い。これは,甲乙つけるべきとゆうより,その
観点には,何か海の匂いとゆうようなものもあって,好きな肴は,きっと記憶に
合っている。記憶に合っているのは,その海に何らかの骨を埋めているような。

いつもこんな,どこに骨を埋めているのだろう。とゆう,前世ゲームを=書物渉猟 と合わせて,楽しんでいる。楽しんでいる,とゆうのは,自分探し=自己同一性の 自己を,自然と,どうやって一致させられるかの自然一体化問題でもあっ…

あんぽ柿を大吟醸で,燭台の黄緑と,マグカップの薄紫。

実家に帰ると,とんでもないお酒を頂くことのできる,あの
大吟醸で無濾過生酒など,地酒の甘いこと甘いこと。辛口とは
描いてあるけれど,どこか甘いのだった。そんなモノを,あんぽ柿の
干し柿熟柿に合わせて,あいだで肴をたべながら,ちゃんぽんで赤の
ボジョレーを頂いた。今日はグルメの香味スパイスめぐりとゆうことで
山間部の道の駅などを廻って,三種類の梅干しと,スティックブロッコリーを
購って帰る折の,そんな賞味期限切れかけの塩ベーコンと炒めてワインに,
実家の燭台は黄緑色の真鍮製で,そのコースターも黄緑の刺し子織りのモノ。
また,お茶を淹れるマグもラベンダー色のカップに,コースターは偶然,その
ラベンダーの刺し子である。身体中を龍神の駆け巡るような幻想を憶えて,
三種のブレスレットを嵌めて横になる。久しぶりに寝落ちとゆう奴を経験しそう
なのだった。ミカエルは,アマゾンよりヨーロッパへ。ウリエルは,アフリカより
アメリカへ。ガブリエルは黄河流域より日本へも拡がり,またもラファエルは,
チグリスユーフラテスよりメコン川インドそうしてイギリスにいたって,春。
そんな夢を見て,ちゃんぽん思想に師走並みにぐでんとしながら起き上がって
それで,十五穀米とゆう紫っぽいご飯に,オリーブ油と醤油で,納豆かけにして,
その方がむしろ卵よりつなぎには良いのかもしれない,など,ゆっくりとして,
例えば,オリオンの宮沢賢治のいて,ニーチェ=マザーテレサの修道士の苦行に,
倫敦者のアイザックニュートンは男性的に自我を与えてくれるのを,さて芥川氏は
女性性に守護して介抱をする野辺の寄宿には,彼らの中心は,孟子=スターリンを
結ぶ何らかの,革命指向なのだと気付くのだった。殉教した聖ヴァレンタインの遺した
あの,香ばしいカカオの実の焙煎のようなものなのだろう。

まるで、そこかしこの庭の地下より、赤いトマト果汁の ようなマグマか、硫酸の血潮みたいな地球の声を聴くと、 それは、フェミニストパッションならぬ、南国のフルーツは、 あそこに溶岩ドーム温泉などあるから、あんなパッショネイトの そんなような往生する浄土のような気概を一身に受けたり もする。木目調に脂の載った、イザナミシュタイナーとも 呼ぶべき、日本の神秘学受容は、まるで妖怪以前に、神さまの 居場所は、まさにそんなマグマ帯の中に、含まれていたよう。 ペレ…