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あたりめと珈琲。

山麓で生やしたグリーン・リーフと,小キャベツの
ジューサーで砕いて,昨日のパスタ・ソースに足した。

昨日は,午前より奥さんをマッサージに連れて,
その帰りにリサイクルなどにアルミ缶や,洋服などを出しに
回って,開いてたりあいてなかったりする業者さんの,そんな
様子をぐるぐると廻転しながら通り過ぎると,そんなこんなで,
名店の油っこい,野菜つけ麺の,半チャーハンと同じく頂いて。
(一度目の)水汲みに山の麓に,ぐびぐびと過ぎてゆくと。

山麓で生やしたグリーン・リーフと,小キャベツの,そのままで
頂いてドライブにぐいっと登っていったけれど,一時間くらい,
山麓から,緑の道を走ってゆくと,『世界中の葉っぱを,全部,
口にして含めたら,きっと,グリーン・リーフの頭になるの?』,
そうやって想像しながら,リゾート群のあるペンション村のあたり
ソフトクリームを寄って,瓶牛乳も貰って,水の滴る良い車?あれ,
水のボトル・パックのCLOSED~OPENの目盛りが移り変わってる。
半分くらいこぼれてしまっているので,近くの冷泉まで近寄って。
最期は”LONG YELLOW ROAD,ROLL ROLLER ROAD”徹夜明けの
ぼやけた意識の中で,水風呂に這入って,帰宅後の仮眠を取った。

そうして昨日は,寝ていなかったので,徹夜など構わずに,父の日に
一日遅れで,贈り物をしていなかった,”トマト・クリーム・ソース”の
夢を持って,ホール・トマトと,豚のミンチと,ズッキーニ,玉ねぎ,
ニンニク・スライスを,炒めたあとホワイト・ソース缶の加えた一緒に,
すこしだけ煮込んでいた。そんな,渋みと軽い柔和の感じが,まずもって,
”あたりめと珈琲”のようなのである,酸味の分離などの注意の必要は,もう
つゆ知れず,見事な丸いミートソースなどの風合いになっていった。

スムージーのようにして,吞みたいなど想ってやったのだけれど,
緑クサいので,これはペーストなのだ,あのモッタリしたクリーミーな
ソースに加えようなど,考えて,これはくつくつコトコトするべしなのか,
塩分を足して,スパイシーにまとめていいものかどうか,どうかすると,
山麓の水の流れを,妨げてしまう予感を打ち消すようにして,霧のかかる,
心のモヤを,森の中のかすみに換えないように気を付けながら調理する。

赤鬼を追い払う,女神のヒステリクスを抱いて,調理する時間に一緒に,
共同してくれるパートナー・シップを想う。ネフェルティティの気持ち,
西太后の気持ち,ダヴィデとネフェルティティの,溥儀と西太后の,
また,イシスとオシリスとは,卑弥呼とオオナムチのそれに似て,なので,
御馳走を,魔女の煮釜で煮た,ハーブフル・ソースな,そんな感じで,
一緒にごはんを食べてくれる,パートナーの行方を心の中で案じている。






こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…