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”逃げ”のテーマ。

エスケイプとゆう言葉の”意味”の流通していた時は,
良かっただろうと。自己否定=エスケイプ。こんな,
当たり前の自己教育の忘れられた時代性。実際は,そんなに
”逃げ”のテーマに活きている訳ではないのだけれども。
意志だけ残って,無意識下の行動だけ遺る。融合したとは言え,
表現は,自由のもとでもやっぱり珈琲を呑みながらするものであるし。
限定vs.非限定を行きつ戻りつしながら,のこるものはやはり,その
表現そのものであって,無意識下の行動だったりするものだ。なので,
モノづくりの思考態である時は,扇風ファンなどの音は要らないものだ。
焦るのも徳のうち。効率化は摩耗させるもの,けれども,瞬発力は一瞬。
摩耗させるより,瞬間の轟きの雷鳴のなる夜に稲光を観た。それは,
電気は停まる事を知らない回遊魚なのだから,一瞬で片を着けたい自己扇風。

床拭き掃除を毎朝の日課にしている,モップ履きの真っ二つに割れて道具を
失い,ゆるりゆるりと,水拭きのさらりさらり,道具の故障で磨けずに,
おさらい拭きをして思う。『こんなこともあるのかあ。』そうして,実家の
棚にしまってある,瞬間接着剤を見つけて拝借。モップ履きを修復した際の,
なぜだか『こんなこともあるのかあ。』道具や日常のツーリズムに必要なのでは
なくって,ひたすら,無意識下の行動に裏打ちされていたのだ。って,気づく。
何かに追われている?いやあ,感情と”逃げ”のテーマは,裏腹なのだ。だから,
過去と未来性でもあるのだけれど,エンパス指向には,思考の禁じ手も,また
結局,意志だけ残って,無意識下の行動だけ遺る。融合したとは言え,
表現は,自由のもとでもやっぱり珈琲を呑みながらするものであるし。
限定vs.非限定を行きつ戻りつしながら,のこるものはやはり,その
表現そのものであって,無意識下の行動だったりするものだ。なので,
実際は,健康状態の維持には,扇風機のファンは廻り続けるし,灼々熱々,猫の
ファンを必要としている様子を垣間見ながら,心配する,暑さには強いらしい,
けれども,暇なときに扇風機のない気配を見て取れる,自らの生き写しのような。
融合と,”逃げ”と,またエスケイプと,自己否定。そんな意志の残る,活動の源泉には,
時々に,汗かき,また内輪の茶会の心解きほぐされた感慨にはいたって時代性エスケイプ。

もちろん,猫ちゃんの涼しい夜を想っては,夏の夜の夢には,幸せのしっかり映る。
言語論の中には,暑さと涼しさの対比は,暑気あたりと冷泉浴の照らし合わせのように,
まずは,その対照をこそ,摩耗する効率化の論題にかけ合わせては,論証する。けだし,
その論題は『摩耗する効率化は言語論そのもの』のように,アンチ・テーゼと逆説地味て,
だから,”逃げない”とエスケイプは意味は反対に思えて実際は,逆順のような性格の,
論題は,自己提案する際には,もう”答えて”いるべし。そんな正当性に打ち克っては,
いや,克己なのですよ,正反合なのですよ,おそるべし珈琲の正当性。ダベっては,
繰り返す。言語論は,結局,詩とリズムを,弁論術に活かせて現実味を帯びてくるのだから,
珈琲を呑んで,詭弁する。弄しては,反故にする。そうして,スパゲッティは,ロマネッティ。
ロダンか,あれはロダンの言葉。ミカエルの反故にする,ロダン=ジヨット=F.ラブレー,
=スウェーデンボリ=ウェルキンゲトリクスのくびき。彼のオリジナリティは,タワー。
龍神の伝統美を,龍退治に彼の打ち砕くとしたら,それが新しい伝統美であるとしたら,
僕は,珈琲を呑んで,ロマネッティ。片手に付けて,こう呼びたい。『伝統美こそ,彼の
ミカエルのくびき。』正しくも,未来の空白虚空とは,それは,それで,伝統美の故にこそ
存在しえる,言語の実存主義。ダベるのなら,もうちょっとマシな話題にしてよ,と。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…