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JohnLennonの首飾り,


ダンテ=プルースト=フェルメール=エル・グレコ,
=C.D.フリードリッヒはサタニズム分解の土星住人,
God=dogを謳ったJohnLennonの精神史のようで。
ウリエルとは夏の大天使を言うらしい,夏の大天使,
炎よりも,濃緑に親い,濃緑よりも,泉に似ているから,
青いドラゴンの背中を映した版画の絵には,夏の大天使,
諧謔の外に,真面目さを抱えてはグルメする,パニーニの
BLT(ベーコン・レタス・トマト)は何処まで行っても,
ロマネスクにデカフェのラッテ呑んでない,クラフトのあの
職人請け合い,日常の作陶のようにお茶をしているストリート。
ストリートよりみる,冬には雪ぼこり,秋にはメイプル風の,
春にはドライな感じに,なんでだか夏の初めと終りには何もない。


ストロベリー・クランチは甘いからいつも食べない。何もないあの
夏の初めと終りの頃には,眉間にシワのバンバンジーを頼んでる。
StatueOfLiberty?そんなの知らないよ,リセットしたから憶えてない。
一度,話してしまったユーモラスな感情や,シリアスな気色の悪さなど,
自らの陽極電子のぶるぶる振動する,リセタブルな記憶は,いつか何処かへ,
記憶自体は残るものではない。宇宙図書館は客観の中に残るもので,なので。
情景賛美,放出された数学的史観は,いまだもって,活版印刷所原始デジタルの
そんな印字形式に,イマジネーショナルにヴィジョン化統括されている。


極度の疲れないと眠れない,自然睡眠は気持ちのよいもので,だから。この,
笹餅の姿を過ぎて,酵素質に自然にくつろいで帰る,山麓の道すがら。そんな,
山道の匂いは崑崙融通,山脈の中を通り抜けるよりもフンワリやわらかだ。この,
今夜は,水風呂に浴びたい。そんな泉の不思議に夜にはこの,賑やかな喫茶のあとに
珈琲を呑んだ後の,酵素質の湧き水を足した感じの呑み心地の良いのか,または。あの,
マヌカ・ハニーを足した山の香りの辛味のあるような喉の痛いくらいのリセット感の,
あの倫敦有終,スパイス・ビューティの弁証法的存在論には,ハニー・ソイ・コナの
そんなごっちゃ交ぜのハイ・インパルス,こんな今夜は,水風呂に浴びたい。
そんな泉の不思議に夜にはこの,賑やかな喫茶のあとに珈琲を呑んだ後の,
極度の疲れないと眠れない,自然睡眠は気持ちのよいもので,だから。




こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…