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作り置きアイスコーヒー

濃い目に淹れたアイスコーヒー,保存していてその,
ホットが良いと,手鍋で温めたら,またこれが美味い
その訳は,やっぱり”常識=定式”。質量保存は,業の
意味でも使われると,以前とある天使論の本で読み
さながら,アイスコーヒーをゴボウチップスと落雁,
合わせて頂くかのように味わいながら,その意味は
”前世ゲーム=書物の渉猟”文化の表れだとして,その
趣味は,平凡なありきたりの所に隠れてる,そのまま
奇想天外を諭さずに,またこうして,平凡な中を届ける。
計算上は,そのまま冷やしておいた方が珈琲も美味い。
けれども温めて,何故だか美味いので,こうした趣味は,
”真実はどこにあるか”ではなくって,”真実の見つけた”
あの,ロマネスクの趣好雰囲気にある。常に反芻して。

”常識=定式”。ここに意図があるとすれば,”意味=浪漫”。
ロマネスクの追及を基にして。意味は,反復する中枢の,
ただ集中して,ロマネスクを追及するそんな所に,解決の
”真実の見つけた”。自他同然の趣好をめぐる,WOODY。
反復する中枢に,働きかける,VISIONは他人まかせでも。
中枢は,働き続ける,中枢の思考,集中する嗜好。また,
どんな所でも,浪漫的集中力は有難いので,もっての外は
アイスコーヒーの渋みに,何かを加える事なのだ。氷で良。
綺麗ごとエスプリに身を任せてグルメーに
舌鼓すれば,そのアイスコーヒーの渋みは遣って来ないので,
もっての外は腸活に合わない脂肪分は摂ることのないようにするべし。
このグルメーの油身は,解消される”迷うのは,子羊”。のため。
本当に考えた,ひとめぐりしてかんがえた,奇をてらったもの
奇想天外な嗜好の中には,VISIONはあってもWOODYなしの
だから,温めなおした作り置きアイスコーヒーの偶然性には,
ひとめぐりした旨味の拡がっているのだろう。この期待感。

アナトール・フランスのエスプリに迷ったことがあった。本当に
彷徨った。犬猿の仲のあるとすれば,ドイッチュ・シュタイナーと
フランス・フランソワは,犬と猿,山と海のようなものなのだ。
簡単に考えていた,食あたりしないと思っていたのだけれども,
食べ方を間違えないように読んでいても,食傷気味である。正直に
犬=山と,猿=海のどちらも食あたりしてしまう。この感じ,なので
あたらないようにグルメーのフランスを読み,無添加のようにしてあの
R.シュタイナーの渋みをてらう。てらうのは,やっぱり自分の趣味は
フランス,いくら,ミクロ=綺麗ごとエスプリでも,任せてグルメーに
舌鼓すれば,そのアイスコーヒーの渋みは遣って来ないので,
もっての外は腸活に合わない脂肪分は摂ることのないようにするべし。
このグルメーの油身は,解消される”迷うのは,子羊”。しっかり山の幸と
海の幸を使い分けることだ。元気の出るWOODYな燻し酵素。あるいは,
快方させるVISIONARYお刺身。塩分を摂る朝方の四阿(あずまや)に
ゲーテ=トーマス・マン=シェイクスピアの影。ほらほら,そうした
トマトの塩振掛けて梅の甘露煮見付けて。冷や奴に,ヒキワリ納豆の
カボチャの煮付けもあったとな。

もうすぐ,日の明ける,四阿の薄暗がりには。




こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…