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意識の透徹した人。

意識の透徹した人のいるとすれば,芥川氏だ。また,
アマテラスさんのそうゆう,瑞穂の稲の香りにも似て,
もみ殻は三島文学,玄米にしたって太宰の犠牲。また,
胚芽の発芽すれば芥川氏のようで,精白すれば漱石山人,

未来志向に,清酒に傾ければ『ロダンの言葉』読む,その
”パンタグリュエルとガルガンチュア”のF・ラブレー。また,
R.シュタイナーの読者としては,
ロダン,ジヨット,ラブレー,
スウェーデンボリ,ウェルキンゲトリクスのアーサーキングは,
月の精に寄りかかって,泉に腰を掛けている天使ミカエルのようで,
文学者の五段階を通り抜けて自分の書物の渉猟文化はどこに辿り着くか,

芥川氏の,
EDUCATIONAL ASSIST(教育支援)=CLOUD PRINTING(画像通貨)の
ALL GROUNDING RECORDING(全時代的洞察)に加えれば,個性を,
その教育支援に対して,個性を発達させたいものとして,第四,第五の
三島文学や,パンタグリュエルのF・ラブレーに至る道程みちすがらの,
熱いブラック・コーヒーを淹れて呑んでいればそれで良いのかと,それは,
フェア・トレードの謂れを考慮した全時代的洞察のあの視点を忘れずに。
全時代的とは全酵素的生活とも言えるのだ。そんな余裕のある時つぶやく。
ひたすら,写真を撮ってupしていれば,画像通貨は産まれるのかとは。いえ,
やはり,楽しんでいるのが浮世絵通貨の刷る処の所以,よりどころとなる。
アストラル・トラベル。言われて,昨今。夢の嬉しさの一つ所,犠牲よりも
羽ばたけば,一様に意識の透徹した人。

ただし,執拗に,書物の渉猟を続ける,このしたすら感,会話の中に産まれ,
さあ,話しを吹っかけてみよう,み続けるところから,聴きはじめる心。まだ
杉の樹の葉は落ちない,季節はいつごろかと問われればわからない,けれども,
まだ落ちない,ミカエル大天使の言っていた,言っていたのかは定かでない,
”あの未来志向の,オーガニクス・ナチュラリティは,ヒステリーと人間性の一致。”
『情念を,花に換えては如何だろう,そうすれば,床の間も玄関先も綺麗になる,』
漱石山人の遺志を継いでは,芥川氏。
結局のところ,水風呂に浸る今の河童は僕。
どどーん,とひらめいた時,書物の渉猟文化は終わるのだ。だから,その轟きを待って
いつも,本棚をさぐっている。むろん,心の視点を連ねる書棚の探訪。
もうすこし,
情念のあった方がいいのでは?
そう,問われては,いつ運命の一冊の落ちてくるのか,
『知らんねえ。知らんねえ,から。落ちてくるものを,揺らしては落とす。情念だ。
 うん,なかなか,良いぞ。もうすこしゆけ,もう少し,揺らせ。さあ,落ちてきて。
 願掛けも情念だ。さあ,落ちてきたぞ。うん何だ。』
そうやって,ほこりまみれのおもて表紙をひもとけば,ああ,KARMA SPRING。そう
この情念のきっかけ,興味関心の発信源は,KARMA SPRING=The Dawn in Tenderness。

伊勢神宮のかき氷のようなあの参詣の同志朋輩。
あんな,雰囲気の中で呼び醒まされた,
”認識の限界はないとゆう,セガンティーニ=ペスタロッチー=J・タウラーなどの
 認識の限界はないとゆう,茶褐色のキャンドル,木机,夕日の黄昏。”などのこんな。
純粋に突き進んでゆく僕の黄昏には,いつの時代だって,木の実のジュース。同時に,
トーマス・マン=大ゲーテ=シェイクスピアのパパ・スムージーのような存在にも,
いつも護られて,画を描くセガンティーニ,”隠者の夕暮れ”ペスタロッチーのまた,
ドイツ神秘主義ヨハネス・タウラーによって,もう少し,ロマネスクを綺麗に。より,
パパ・スムージーの木の実ジュースを頂いては堪能してみたい。現代には現代の,あの
隠者の夕暮れ。哀しみの裡にも,朝は遣って来て,また過ぎ去っては,朝の遣って来る
から,もうすこしだけ心の中に夕暮れを持っていたい。彼の夕暮れには,哀しみの裡にも,朝は遣って来て,また過ぎ去っては,朝の遣って来るから,多分そうしたあとに,
口にする木の実のジュースの,だからパパ・スムージーでは,本当にそのあたりを,
文学の黎明に打ち明けて落とし込む事に成功をみた。
電子書籍の一覧には,芥川龍之介全集と,トーマス・マン作品集(実吉捷郎・訳)の
両書を淹れて,オーガニック珈琲のように楽しもう,
『セガンティーニは雪の夜明け,
トーマス・マンの杉の木陰に,芥川氏の朝日の忍び込むので。』






こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…