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鉄の胸板意識,

確かに,太宰のキーワード自体は,そもそもの発端としての
”前世ゲーム=書物の渉猟文化”にとって,最大の功をなし給い,
傷跡のあるがなしかの労によって不屈の狩猟闊歩を成し遂げた。
とは言いつつも,その太宰の傷跡の深さゆえの炯眼を目前に,
昨今,京都のSYMPHONYを聴いて,杉の香をたのしむ始末,その
発端には”町屋意識よりの創造を目指して,定式=常識”などの,
キーフレーズをものにして,鉄の胸板意識,怒っている訳ではない,
そうなのだけれど,I am KING. などのフレーズと相伴って,それは
ただ響いてくるのだ。クリスマスの夜にチラチラ降って来る,その晩。
傷跡のクリスマスと,水風呂の杉の香。ロマネスクは一端に瓦解して,
傷跡も閉じ,水風呂も抜いて,久しく暑かった夜明けの心地いい。

瞑目しては,午前五時の鳥の戯れ楽しそうで。蝉の鳴き声はるか,
果てなくは,たくましくあって。風がそよいで,ロマネスクとは
別の次元に。あの,I am KING. の心地。一般人間の鉄の胸板に,
取っては替わる,もうすぐ背中の大穴も塞ぎそうなのだ。一晩にして,
ロマネスクは崩壊してしまった。ツユの様,モヤの様。あの季節感,
季節感グリッドと呼ばれた,零細な非常に美しくあった感性の,見事に
閉じてしまったのではないのか?これも,忘却して,世界の変わる,
この季節と同じような,零細な幸せの薄明である。一度ロマネスクの感性,
例えば,慣性的に傾いて降りて行く体力の衰えのような,虚弱であった僕の
閃いては合板のように堅い何かの強い鈍感さを,なびいては消え,傾いては
向かってゆく傾斜具合に諭されて得た何らかの強い感性を目の前に据えては,
鉄の胸板意識。虚弱体質とは,何らかの栄養失調より始まるものか,とさえ
感じつつ,食べているから元気なのか?あの,お赤飯の小豆の,やっぱり,
この虚弱に効いたのかさえ本当に想う。

確かに,太宰の感性は,非常な洞察を僕にくれて,その傷跡の深さに酩酊し,
放心し陶酔しながらも,この,季節感グリッド・ロマネスクの過ぎ去った今。
物質系なのか,鉱物質なのか,むしろ霊化して鉱物化してしまったかの如く,
黎明に,はてしなく堅くなっていった私の感性。こうしよう,ああしよう。その,
意志の関連ではなかったのだ,意志する事の鉱石=石ismとつながる由縁は,
きっと,硬化した自分の内面は,いつか外側を固まらせ(頑強にさえし,)いつか,
むしろカチコチになって,動けない外部の傾向は,その分,内向的に固着させる。
なので,こうして想っていると,時間の観想。光陰矢の如し,季節もめぐり,また
山紫水明は刹那に届ける,意志の黎明。

まさしく,鉄の胸板意識,堅くなっては共感もしづらいことの故,なにぶん先に
固くなることは避けらるるべし,に,あって。なお,堅くなった感性には,その
慣性的完成でもした,崑崙融通同断不断ともゆうべき,あの岩石的嗜好,かつて,
岩窟思考とでも呼んだような,ロマネスクに苔を生えさせては大事に庭仕事に励む,
あの感性,浪漫的抒情に,ブランディーでも注いだ何らかのホロ酔いでも必要だ。





こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…