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8月, 2017の投稿を表示しています

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

頻繁に遣って来る氷雨は,もうすぐ。そんな事,考えてた。

テレパシーとゆうものは,知らないのだから言えるのだけれど Wi-Fiと何の違いや区別があるとゆうのか?そんな事は知らない のだから言えるのだけれど一度夢の中でだったのか露知らずも 大きなスペースシップを観たような昨今経験をしたものとして, テレパシーに対しても,急にディスるとか,なんとか言うのでは ないのだから,何の意味もないようなことなのだけど,そこは,きっと 文学の中にある,発信機とゆうような,ロゴスと詩情の何らかの,その 発信機の何がしかは,多分そこには,サイコキネシス。対になって言われる その,半端にはない,なので,発信機と=サイコキネを結ぶ何か,ここに。 念じることを,言葉と重ねる,この何らかの真実について,Truthを考える。
『椰子の実』とゆう童謡がある。僕は,戦時中の何かの記憶を晩夏に促され 茫然としながら,ただ薄い眼でその白眉たる,うたうまいの童謡を聴きながら, ただ,促される,追憶=追悼の何らかの仕草や,言い訳や,記憶の引っ掻きは プライドのように,誇り高きヒューゴのように語られながらも,それはただ。 スセリの膝枕に横たわりながら,まるで堀氏のそうされたように,あの。追憶は ただにゆかしき袴の折を踏みつけよ。発した言葉は啖呵と共に,サイコキネになる ロゴスと想念を繋ぐ何かなのだ。追悼の想いより鼻について離れない遺香 の中,ただ,念珠持って葬る気持ちの中にはそこにロゴスのサイコキネシスに繋がる 必須の要件。あの案件は正に先祖返り。先祖返りこそが,世界を解く鍵。真面目に, 弔い,悼む気持ちを持とう。先祖返りする気はなくっても,もう先に進めもしない。 こんな歴史を持ってこれから産まれてくる次々僕たちの記憶は,進まなくてもいいので 追悼の想いを持つとすればここよりのサイコキネシス論争。
なぜ,ロゴスから発展して,テレパシーを介して,サイコキネシスに這入るのか。と, それは,ただ歴史を持って産まれて,経験を積んで悲母の眼差し以て,当然の事なのだ。 その当然の事を以て産まれてただ得たい,そう願うからなのか,ただに追悼の記憶を, 逆らいながらも慣習よりは,文学に,そうして,エンパス指向を体質に抱いて,惑い, そこより,文学が,身体に降りるのだ,文学が心に折れる,と言っても良い。這入って, 入って来てくれるのだ。当然ながら,卑屈ではある文学の折れた節度の哀切…

残暑過ぎる晩夏夕暮れ。

この頃の季節の暮れごろには,25℃の冷房を掛けて,
贅沢にJazzなどを試聴しながら,ウーロン・ハイは,むしろ
ウーロン茶のままのほうで良い。などと,心地よい空調のあの
送風もとに気を傾けながら。干渉帯のなかでも,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
だから,干渉帯のなかでの自由,このすれすれの,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
ウーロン・ハイは,むしろウーロン茶のままのほうで良い。
など,心地よい空調のあの,送風もとに気を傾けながら。
なので,干渉帯?それは,肩のコリや,肝臓の疲れとして感じる
ピリピリとしたシビれのような。多分,町場干渉帯グリッドの
ここまで地域共同体を意識して,更に理解してしまえばピリピリの
そんな浮腫のような要因なら,理解してしまえば本当に愉しみに。

段々と,地域とゆうものの愉しみの感情的に受け入れられる気の,
確かに,楽しみながら理解のできる,そんな町場共同体意識の,更に
いつの間にか部屋の暗くなっているのに気づいても殊更不安感も煽らず
キーボードを打っていられるのは,紹介して頂いたエディ・ヒギンスの
ポートレイト・イン・ブラック・アンド・ホワイト。この試聴を隈なく
さらっては,さあ,このグルーブ感を,町場共同体に致して活用共有して
ゆきたい。春の夕暮れにも似て,晩夏の夕暮れ時には,まるで花の匂い。
なんなんだろう,夕暮れの安らぎは,ああゆう杉木立のロマンスにも似て,
本当に杉の香の,豊かにしてくるこの彷彿とした,ロマンスの行方。僕は
杉木立のロマンスとダンスしている。むせび咳の出る,あのロマンスと。
太陽光は干渉帯をつくっているのか,本当に昼間の明りとゆうものに,嫉妬
ならぬ,この卑屈な憧れと敵愾感,昼間の行動スタンスとゆうものに対して,
無理解を示す,感情的なロマンス体質にはもう。理解できないよりも,この
理解のできる,すれすれの干渉帯のなかでの自由。夕暮れの杉木立ロマンス。

なので,干渉帯?この不自由さを感じる,妙な木立を揺す振る風の強烈さに,
妙な研究意欲をそそられる,もうその干渉帯は,感情的にむしろのセキュリティ。
物質肉体上のそれは制限によって,把握しておくべき物質肉体上の不制限の,
やはりそれは,干渉帯自身の感情体を護る何かの自由。干渉帯自身の護…

堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。

眩惑と憧れの,心のフィルターの無さより産まれる,その ロマネスク。阿波踊りも,堀辰雄氏も僕にとってはスセリビメ。 原初の発案を物するヤガミの芥川先生とは打って換って,それは 酷い言い方かもしれないけれど,心のフィルターを除いては,あの カオスとラスト・ダンスする陶酔のそれはやはり眩惑と憧れ,では 理想と共にあるロマネスクとは,一枚ぐらいフィルターを付けて, やたらめったら泥酔までして昏睡にいたる文化的陶酔よりも,もっと 先にある,肝臓のほどけてゆく心地の,ロマネスクとは理想の堅牢さ。 酔ってしまう,いいやゑひもせずなので,もっと浴びるのは冷水泉で, 堅牢な理想に護られた空間を,堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。 源泉は不純だ,って詩人は言った,確かにそうだ。不純だからこそ見詰め, フィルターのあるからこそ湧き出る泉は飲用水になる。ロマネスクにとって 理想の堅牢さを求めるのは,願いによっては独り室の中で眺める積雪寒椿。 寒いから手袋を嵌め,靴下を履き,布団を被り,外を見やる。だから, 理想のロマネスクにとってのフィルターとは雪被りのようなもので,白雪は愛。 フィルターの付いた陶酔をロマネスクと呼び,あのカオスとダンスする季節は その季節自体をあらわすのではなく,頭の中から呼びかける人間頭蓋の神秘。 ただ,つらつらと滴る雫。
都市においては町屋の意識は本当に理想的である。あるからこそ,ロマネスク。
文化性を護ろうとして,芸術は自然を模写するし,文化を守るために,彼らは
行進を続ける。耽美だ。言ってはいけないが,堀辰雄氏の文学は耽美でもある。
文化的に耽美である。1つ飛び跳ねて文化→芸術→耽美の境をひとっ跳びして,
都市的な町屋意識にまで飛躍する加減,非常にユーモラスで恬淡と無頓着。その,
そんな感じに見えて,再び太宰の視点を持つのに,ユーモラスではあるが”堀”は,
溝の深い崖っぷちの神を識っている。知己であるからこそ怖いし,ライバルとしては
敵わない。敵に見えて,敵に見えないから,ユーモラスで,無頓着な天衣無縫。
スセリ-堀氏と言ったからには太宰-大貴己は化学の結婚を申合せて疾く論調高き登壇し。

『芥川氏,芥川氏のストレート・ティーは美味かった。美味かったのだけれど,  堀くんは,ロイヤル・ミルク・ティーを初めて造ってくれた。ちなみに私は,  似たり寄ったりの…

イザナミ考と,MEDIAの産褥。

ヨーロピニアリズムは,イザナミに源流を持っている。その,
大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=推古=持統=光明の女神を,
羊飼いを導く,聖ガブリエルやイザナミ太母として捉えて,
かたや,ヘッセ=セネカ=パスカル=ブッダ=プラトン,
=アッシジのフランシスコ=ジャンヌダルク=エリザベス1世,
=アウグスティヌスの系譜を,受胎告知されたマリアとはして
ヨーロピニアリズムは,イザナミに源流を持っている。その,
彼の太母の事を,また比婆ともゆうらしい,その比の字の表す
トランスジェンダアな何をか想像しては,植物的スピリチュアリティの
彼が男性として現われたとしても,やはり彼の本性は大谷崎のような
文豪として姿を顕すのだ。なので,善悪の彼岸,この源流に差掛って,
ふと,僕自身の源流体は,太宰=弘法大師=聖武=九郎義経=今川義元,
=ダヴィデや,また=龍馬などのオオナムチ的な嗜好で遣って来た帰来の
あるふとそんな最中,やっぱり源流を見定めるとして我が定めし源流体は,
堀辰雄=平清盛=嵯峨天皇=南洲翁=信長公=フビライ汗のような浪漫体,
決して誇張ではなく,人間性は肝臓を壊して一向にむかうのは,堀辰雄の
浪漫体に間違いには如かずの,このロマネスクである。

ロボ王国だ,この差掛った王国はロボの支配下。古かしい言い方ではあるけど
ロマネスク機械化風情を物足りず眺めるのなら,植物的スピリチュアリティは
何らかのMEDIAを産み出す産褥のロボ帝国であるはずなのだ。自由はある,その
あるはある,がしかし,統制管のない訳ではない存在するとゆう事の中にこそ
コントロール能力の秘められている。自由は,機械化したロマネスクのいたって
自然に醸し出す存在論管制塔なのである。ロボ王国まで差掛れば半分捨て去った
肝臓先生の繊細な機微の感受性において,もう既に,イザナミの宇宙芸術観にまで
いたって静かな,木目調の香りを融出させているその光りは手すりの木ヤニ。
いまだ女性性の本質まで肉薄のできない道すがら,これくらい言葉尻の上でしか
イザナミ考の接近は出来ないことのやはりロマネスクは近親のダンディズム視野に
配下として置かれているの節を持って,たばこも遣らない,お酒ものまないのなら
勝手なものでそんなものなのだ。ロボ王国まで差掛れば半分捨て去った
肝臓先生の繊細な機微の感受性において,もう既に,イザナミの宇宙芸術観…

男もすなる日記のココロ。

一度,思春期あたりなのか,その辺から肝臓先生の一気に
収れんして,縮こまってちぢこまって,僕は地球まで拡張。
記憶は,全部ガイアの何とかのような巨大な感性まで,
ひろがっては記憶の裡に融けこんでしまいそうな惨めさだった。
それが,肝臓の花が咲いてイソギンチャク。何だかパァーっと,
一挙に肝臓先生の緩んで開花したような感じがして,僕は地球大より
本当のミクロな僕自身に戻れているような気のする,肝硬変とか,そうゆう
陰性の何らかの疲れなのか。疑ってみても診察を受けるわけでもないし。
肝臓先生開花の巻と思って,感受性の一枚岩になれた感じにうひうひ喜んでる。
記憶の地球大に縮こまっているときはそらぁもー大変の一語。記憶の記憶でない,
そんな未知のヴィジョンの度重なって,独りで前世ゲームなどしては,例えば
早見転生譚などゆう,転生表みたいな文学ファンとしてはあくまでもファンタジー。

本当に肝臓の花が咲いて一枚岩。本当は,大分委縮してしまっていたらしい。そう,
記憶とか,感受性の管理番人のヴィジョン統制は本当にパニックだったのだ。例えば
パニックだったのか,卵を温めて孵化させられる堅い皮殻で覆われていたのかも知れない。
だから,ようやく男もすなる日記とゆうものか,エッセイや肝の据わったお話しの
始められ始まるようなだって,今までは”季節感グリッド”と言っては何だけれど,
本当に薄い皮いちまい,白身卵黄にひっついているような酢卵のような漂白さだった。
肝臓の開いて,今のいままでロマネスクとゆう言葉の表す物事は,自然や,クラフトの
そういったシックなロダンの彫刻のような荒削りでもあると思っていたけれど,それが
今度は,もうすぐ本当に魂やハートの中に核となるコロンブスの卵らしき不退転の,その
嗜好めいた思考が産まれる気のする。

それが普通なのか。薄皮いちまいロダンの彫刻にも地球全体の感情で挑んでいた不可思議
その頃よりは,実際に大原美術館などのヨハネ像を確かめて,大蛇のように巻き付いて。
あまりにリアルでコピーではないかと言われたが,実際には一般人体の何点何倍かの比率
で大きさは芸術品として完全な基準だったらしい。実際には人体の二倍くらいの基準で,
僕も気付いたら芸術品自味ていたいのだ。そうやって彫刻の品位をロマネスクではなし,
リアリズムで捉える心地,日記やエッセイで表す日常の起…

お盆過ぎれば穂の影当たるそうめん流し。

お夜食に,納涼のそうめん流しでお土産に貰った,そうめん。 轟く勢いのなかで進む,この時間の流れ=工業製ロマネスク。 まるで時間の流れそのままのように喉元へ注ぎ込めば,また 工業製ロマネスクとは,お盆過ぎれば穂の影当たるそうめん流しの, 多少は暑気あたりに関して,平和になって来たのかとゆうロマネスク。 花火は巨大で,轟音で,その町の主催している豊かな豪勢さでは, 余りに,豊かさを感じてしまって,帰りに『学生時代』などを聴いて, 涙していた。実際は,岩戸開きのように何故かしらの哀しみを過ぎ, ドンドン,とゆうリズムに腹の底ビートとゆう変な快適さを以て, 本当に,すっきりもして帰った感情もあるは,あるし。本当に,この 豊かさを感じて涙してしまうセンチメンタル・カテドラル感傷は,すぐに 返って,理由もわからぬまま陶酔してしまう,こんな空調も付けずとも, Tシャツを着ないで汗つららしてくる最中にも,さっき『○○チャンの, Tシャツ借りたんだけど,チャーシューみたいな匂いがして。』とアンニュイな 笑いをお互い交わして,深夜さなか,お夜食をはさみながら蒟蒻シップなる お手当の手伝いをしてBlogを書いている。パートナーシップに蒟蒻シップ。 こんな,空調を付けずとも過ごせる夜半に,冷たい汗を感じつつ,イメージの 裡にある,豊穣の収穫祭は,段々と身勝手な寂しさを募らせてきて,僕達は, 本当に,身勝手だ。
平和の裡にロマネスクを抱く感受性の確かさは,確かにヒューマニズムの礎かも, 知れないのだが,しかし,初秋のスタート地点に腰を降ろせば,なかなか空砲を 手にして,秋のスタートを切れない。鳴らしたとしたら寂しさに心臓の破裂しそう。 寂寥とした収穫祭。なぜ稲穂はあんなに熟した金木犀の香りと共に凛として切なく 気高さの中に強さを,稲穂の強さを蓄えているのだろう?この栄養源は私達の礎。 犠牲とは,稲穂のセンチメンタル・カテドラル感傷にも似て,すぐにこの強烈な, パッションを,辛口の清酒のような果実の鋭さのようなトゲトゲの酵素を感じさせて なので,これこそが感傷なのだ。そうして,この強靭な感傷と共に訪れる,奉仕の 気念,『アツイ!』と身を起こしたパートナーの,『あ,蒟蒻のドノ辺が?』と, 近づいてシップを動かそうとすると,いや,このシップは熱くないんだけど,寝ぼけて どうしちゃったのか?だか…

季節感グリッドする朝露一滴。曖昧普段の日常より

もうはや秋めいた気持ちさえする,晩夏の入口に立ってみては 空調さえ知らない童子のように窓を開け,実際には熱中気味に なっていることに気付いて,冷室茶房=曖昧普段の日常より,正直に もう何らかの自分の題目のようなマントラひとっつ,自然一体化と 称して,季節感グリッドしていれば良い。そんな,ただ朝露一滴飲干す。 熱中するなら,されるより,自ら少しばかりトラウマなど何かにつけて, エンジンを掛ける,ターボ・ジェットのガソリン燃料などにして熱中して。 そればかり『何故か,こんなに最近暑かっただろうか?』その最近はいつの 事なのかはわからないのだけど。冷室茶房に這入って行かないと過ごせない。 熱中されるより何かに付け,熱中していたいとゆう想い。色彩原像とゆう, 色合いに全てを見出すとゆう二次元的な発想,はなはだ,冷静で平安な。 二次元=冷静さ,と。三次元(立体的)=熱中作用と。こんな,外側より, 頭脳の煮沸されると困るのに,ここは何故かしら,平面的より熱中していたい。 でも,もうそろそろ。季節感グリッドとゆう,朝露一滴飲干す心地の優先されて 冷室茶房=空調の効いた避難所的室内で,ウーロン茶など呑むので,平面的で 冷静な,いたって平安な心地で,平穏なシェルター生活=熱中症予防の避難生活 をして。
ここまで言って想うのは,暑い時は動けない。動けないのは,電気を用いないと 動けないのであって,こうして,水風呂でも抑えつけられない熱帯性気候の,また 熱中症に罹っていても,何かに没頭している自力熱中でも,やはり冷静さには,事を 欠くようではならない,ケガをしたヘミングウェイ,入院中の太宰治の,あの感傷。 この甘露の滴を緑茶で割って頂くような,感傷体,あの緑茶カテキン感傷態に浸って, もう,どうしようもなく曖昧普段の日常より,夢見心地な自然愛好家の浮世遁世態。 それら,甘露に酔うようなノームの鉱石性アートマ感傷態で,カッチコッチ鉱石採掘, 香水のような匂いのしてくる採石場では,ただ鉱物とゆう堅い思考の蓋を取るべく, ノームの妖精たちはココロの扉を開けようとしている。鉱石を言葉に換えて,採石は それをなりはひとして,言葉に,言葉の気体液状のエーテルへ,鉱物のアートマ思考を 変質させている。この高貴なノームの鉱石性アートマ感傷態を,浮世遁世=曖昧普段の 日常より変換させては動き出す。河の…

知覚の攻撃性=色彩の安らぎ。その眼差し

AGGRESSIVE=CONSOLATIONを結ぶ何かの,そうして, 知覚するとは,アストラル・レヴェルにまで制限せよ。と, 色彩は,色欲とつなげるのではなくて,鎮静作用に用いる。 落着き払って,民芸の器などを眺めやる,没香のにおいとは 夏風は,夕立のおこす涼しさを持って来ては,落ち着き払って 民芸の器などを眺めやる,没香のにおいとは,バジルの香り。 ひとの裏を掻いては,冷や汗をかく。そんな危機管理作用を いつも裡に抱いては,飛び込む滝つぼの納涼遊び。こんな, アウトドアなレジャーは,サヴァイバルな何かではなく,やっぱり 暑さを寒さによって取り除く納涼の何かであるのであって,そこは ただ,アイス珈琲をのむだけでも良い。だから,裏を掻くのでは 持たないから,覗き込むのは滝つぼではなくって,器の底にしよ。
心得としては,喉仏に何か詰まっている位の良いとして,なので 視界を死海として,濃度の濃い浮世として,うつろな目でも視る。 座った眼をした,そんな清濁併呑ならぬ,清濁両視するあたりの いちばん良い。座った眼をした,視界にこだわらず,眼を意識せず。 直視するように言うけれど,知覚の世界から,或いは知性の領域より 戻って来て,まず視るそのリアリティは,繊細さよりもっと,極彩色。 そのビビットな世界に持っていかれないように準備してきたのだから, 腰に碇を据えて,落ち着く,陸の上。思った以上に,感情や意思は, ”色彩の”アストラル・レヴェルではドラマティックに創造的だ。また, 視界を直視すると,あえて”直視”すると,観念的に,喉仏の座って来る。 平凡だ,そうして朝日の匂いだ。クジラ雲は,蒼穹の四海を漂い渡って, 筋雲の潮騒を遺して,旅立ってゆく。ざぶーんと着陸する,喉仏の船。
知覚の攻撃性=色彩の安らぎ,それはヒステリックな大海より戻って, 陶器のざらざらした湯呑に注がれた煎茶をくゆらせながら,茶柱の数を 指折り見詰める,何とサンチャゴの落着き払った姿だろう,その眼差し。 ドラスティック,こんなフレーズの浮かんできて,ヘミングウェイの, 或いは上品な詩聖のツルゲーネフとの対比を想っては,ロマネスクの ハードボイルド寄りの変遷,彼らは繋がってゆく。連綿と,歴史の渦中, 白い狼は,そのまま白いクジラ雲へ,一本の茶柱を見詰めるサンチャゴの この白老の湯治や木工を思わせる何らかのド…

水風呂と冷室茶房,集合意識の氾濫。

晩夏に,いたって静かな,水風呂と冷室茶房の爽やかさの, それだけ,あれば,それで良い。いずれ,暑気あたりに, 夏も終るころ,アイス・ブラックの欲しくなって,集合意識は 氾濫する。いたって静かな,水風呂と冷室茶房の爽やかさの, それだけ,あれば,それで良い。蟲の神とは言うまでも,ほんとに かれら暑気あたりの名残は,いつまで経っても現れ吹き出てきて, 『悪神の午後』を,それぞれ謳う,それはまるで,裏側の人間性。 ゆくゆくヴィーナスにさらわれるまで,多分僕は,悪神の踊りを 徹底的に続けているのだろうから,その姿はきっと,嘆息と自失。 茫洋と自失しながら,こう自問しているのだろう,『”我”は何処』。 暑気あたりは,夏バテとも少し意味合いは違ってきて,イライラでも, くすぶるモヤモヤでもなくって,何だか,自分を忘れたような。その, 茫洋と自失しながら,こう自問しているのだろう,『”我”は何処』。
だから,とりあえずは,ブラック珈琲を淹れて,微温に2,3個氷を, そうして,グイッと呑む。冷静になって,そうして,次第に冷静に。 ただ,呆然としていよう。本屋に佇んで,どこ吹く風?とぼんやり, 背表紙よりも,書棚のその,樹ではなく森を,ずっと眺めてよう?そう, 落着いて,投げかけるのだ?もうすでに,自分は梢の猿のような気がして 論語を観ながら,リンゴはどこだ~?魔の山をなぞらえながら,笛は? どこ,に自分がいるのか?やっぱり捜しながら,珈琲の効用の切れるまでは とりあえず,歩く速度を一定に保ちながら,本のあいだをすり抜けて行く。 クラシカルにロマネスクな,ウッディ―にスモーキーで。あとは,テンダネスな ステーキのローストされた,クッキー・モンスターに,ダスト・ボックス。 黒人霊歌の謳われたハーレム・スクエアに親い聖堂を眺めれば,ふとトリップ。 いつぞやの,いつものではあるのだけれど,自宅の冷室茶房を用意しつつ,また。 水風呂を,無塩素プール。無塩海水浴と銘打って,もう身も蓋もない。ぽっかり, イントネーションは,インター・ネイション。集中して安らぎ,時に攻撃的な, 魅力的な時間を過ごして,集合意識の氾濫を抑えている。蛇足だけれど,集合意識は 僕のものではあっても,占有率0.1パーセントに満たない,ごく低い所有率で、無論 コントロールするより,『集合意識の管理人』とは,明らかに詐称…

ゴーヤのシャキシャキ・アカシアの雨の止む。

解ってしまえば,それまでだ。アカシアの雨の止む。本当は 沢庵をかじるようにして,ゴーヤのシャキシャキをつまむそんな。 例えば,織田信長=堀辰雄=嵯峨天皇=西郷隆盛=フビライ汗, そうして,平清盛像のいよいよ現われてきて,さあ,沢庵をまた かじるようにして,アカシアの雨の止む。織田氏の巫病めいた何か, この,ヴェールのように,R.シュタイナーのメルヘンを聴くように, 掻き燻る雨煙のような蒸せる何かのメルヘンを,その氏の薫陶より 聴いている。雲煙,こんな言葉さえも嵌ってゆきそうだ。そう何かの, 肺病に閉ざされて,何をか想う。雨煙も肺臓の中も何もかも良く似て。 いよいよのグルメは軒下にぶら垂がるゴーヤのチャンプルーを咳込み, 咳込みしながら頂く夏風邪の最中。雨も燻って,皿より湯気も揺蕩って, こうして,ぐぐっと,梅のエキスなどをウーロン茶で溶いて呑む心地。 こうだ,こうでなくっちゃあ,菜の花畑を,『草枕』の冒頭,茶屋まで 歩く,あの心地。山間の湯屋に着くまでは時間のかかるなれど,この旅程を 随分に楽しんで歩く心地。病は気から=”気は病”なれば。
この,肺病の転生譚を眺めるにつけ,自らそのテーマを持ち込んで本懐と, なしてゆくゆく道すがら,何がそのテーマなのだろう?この魂の,何をして 救いの神あらば,或いはまた転生を終えられる鍵なのだろう?こんな想像, 肺臓とは,やはり呼気を扱い吸気を求める,”自分のなかの他者”であるのは 例えようもなく違わないので,だから,他者の関わりとゆうテーマを扱って, ”犠牲”=無論,己を無にして人の役に立つ。このテーマを終えて,彼の願いは 終るのだ。何故,人の役に立つ,そんな願いを無意識下にまで持ったのか? 悼みや,優しさの追及,時には両刃の傷をもたらすような,その優しさ。では, 優しさ全般のテーマに往けば,彼の魂は救えそうな気もする。おこがましいので なかなか言えないのだけれど,自己放棄よりの,身魂的な入換え,こんな目的を 言えば,ウォーク・イン=たましいの交換の起きる時の,世間の抜本的な入替わり。 こんな目的性を,きっと肺病や,彼らの脱世間的趣味は伝えているのだろう。この 無我の起こす,魂の入替え,それじゃあ,もう大丈夫だ。何度,気絶放心して, この世の世情と四肢身体を入替えしたことだろう?今となっては,無我恬淡として, まさしく幸福以外…

さかしらに祈るお寿司。

ロンドン旅行に恋の準備を必ずするのは,BEN RED。この, ロンドンの春は,TGVに乗って,英仏海峡を渡れば,終り。 そのまま,恋の終りではなくって,寒椿被る雪の風情を。 恋も終れば,インドの地に昇る太陽,それはkarmaと呼び。 灯台に吹き荒ぶ冬の嵐を憶い出せば,轟々と夜,燈す灯りに, ロマンチックなそれは,karmaに替る,心に太陽のぼる。
盆踊りをみて還る夜更けの路すがら,何故だかほっこり安心, 撮影隊で荷物持ち,踊るくらいは出来ない訳でも,いいや。 安心したのは,夏の過ぎる夜明けのような,脂肪溜の頭脳より それを餌にする蟲の神や,鰯の弔いから放たれたような,そんな 盆踊りに何故サークルを描いて廻る,夜になっては踊る,そうして。 この,波の曳けて行くような,さざ波のような踊りを繰り返す? すべて,渦潮に巻き込んで,陽性の季節は双子宇宙の裏の静かさ。
お盆の料理は,お惣菜にしても,とっても気品に溢れる物ばかり。 酸味の効いたフルーツ・オードブルから,お菓子のようなお寿司。 プラスチックの展示のようにみえる様々なネタは,シャリも含め, 実はしっとりとして,いつまで経っても新鮮だ。フルーツひと口, 揚げ物のオードブルを品定めしてみても,どれも慎ましやかで, 派手ではない。白っぽく,淡く,安心したのは,夏の過ぎる夜明けのような, 脂肪溜の頭脳よりそれを餌にする蟲の神や,鰯の弔いから放たれたような, そんな,死とゆうテーマは,詩情の振りしていつまでも師匠の影を, 落とし込むテーマは,『一息落ち着いていつも探しなさい。』
さかしらに祈るお寿司。こんな姿を,食した後のお腹のなかも,またして, 屈みながら摘む背広を脱いだ背中に感じるお盆の料理をあれこれ。帰省の 季節を感じる,夜更けに静かなPCの充電の音は,夏虫の囀りにも似て, 夜風涼しく,笛を吹けば,吹いているのは帽子を被ったお月様の陰で, そうだな,ひとごみと,高速道の黒い幻燈と,あるいは楽の音の祭りに, さかしらに祈るお寿司。お盆の最中には,インディアン・サンと,あの, ロンドン・スプリングの夢を,karmaの収束と,恋のおわりに見届けた。
ロンドン旅行に恋の準備を必ずするのは,BEN RED。この, ロンドンの春は,TGVに乗って,英仏海峡を渡れば,終り。 そのまま,恋の終りではなくって,寒椿被る雪の風情を。 恋も終れば,インドの地に昇…

美しさと貪婪さ,

世界の貪婪さ,開高健さんのバック・ペイン。この,カギを握る, 世界の貪婪さ,フィルターのなさの叫ばれて昨今ふかい瞑想時間, 世界の貪婪さ,この,カギを握る,受け容れるとはフィルターの。 美しさの理想は,限りなくフェミニンに,疑いもなくきらびやかに 美しさの理想は,道徳モラルの上でも,限りなくフェミニンに, 美しさの理想は,樹林に潜む陰の芳香を,どこまでも涼やかに。 疑いもなくきらびやかな理想と,昨今叫ばれて久しいフィルターの なさは,世界を含めて身体性の極致を顕す,それは美しさと貪婪さ, 美しさに誘われて神々しさにひざまづく夜更け,はては,健全さを 受け容れるとはフィルターのなさであるように,貪婪さを見詰める。 美しさだけでは,世界の三分の一で,貪婪さのみでも理想以外の三割。 まるで親離れするように,世界は手を放す,もつれた美しさによって。 そうして健全な精神は溌剌と精悍さを示すから,貪婪さはGrounding。
女性性と男性性なのか,美しさと貪婪さ,ホルモン的には解らないけれど。 男性は美しさを求め,女性は他方よりはなれて伺う,何だろう?この訝しく。 一方通行なのが世界のエナジーの方向性だ。上方より高度の降りた方へ,また 受容するフィルターのなさにとっては,健全さと言って辿り着いた最期の沼。 ここは菖蒲や,蓮の咲く悲恋な想いも乱れざき,閉鎖的な日常の悩みも多くは 上品な香りをもたらす不思議な所。ながれ付く先には,箸も漂う,世界を変える。 上方より降りた方へ,何故かしら健全さは大気上空には漂わない,羽ばたきせず, 蕭条バッタとゆう不可思議なメルヘンのように飛び跳ねて鳴いている,美しく。 梅とユリの時期も過ぎれば,蓮も咲き,枝豆ひとっつ,ぷいと飛ばせば,柿の種。 プラムも過ぎれば,桃の皮むき,ぷいと飛ばせば,メロンの根こぎで,お盆饅頭。 美しさの理想は,限りなくフェミニンに,疑いもなくきらびやかに 美しさの理想は,道徳モラルの上でも,限りなくフェミニンに, 美しさの理想は,樹林に潜む陰の芳香を,どこまでも涼やかに。 疑いもなくきらびやかな理想と,昨今叫ばれて久しいフィルターの なさは,世界を含めて身体性の極致を顕す,それは美しさと貪婪さ, お盆だ,お盆なのだ。帰省する方の身体性の光りと影は,祈らずには居られないもう, 初めて,高速のサービス・エリアで深夜帯の静かな影の車体を…

南国阿波パラダイス,

阿波踊りとゆうものを,観てきては,美しさに嘆息。まるで, 号泣したいのに泣けず,笑いをこらえたいのに洩れてくる,こんな。 まるで不可思議な恬淡とした感情を,美しさの静かさは覆っている。 瀬戸大橋のあたり坂出とゆう地名を眺めては,イザナギや大国主の 渡った,黄泉平坂を憶い出し,ウチのちかくにある夜見地方もそんな 語呂合わせで語られることのあるけれど,本当に南国阿波パラダイス。 こんなに天界極楽に親い所があるんだ~,もうまるで,心は暖かい, 一度は,疲れに眠りに落ちた車中,狸になった心地で,四国に受容れられ 珈琲のアイスブラックを頂きながら還る道すがら,いつでもオオナムチの 二度目の受難を受けても良い。”意識を失ってもいいから,楽しみたい。” こんな,古事記のなぞらえられ,南国のあの地を根の堅州国と置き換えて, スサノオはやっぱり優しい,そうして,スセリビメの踊る美しさに参って, ”意識を失ってもいいから,楽しみたい。”これもあながち嘘ではない,あの クラシカルで,ジャズやブルーズを感じさせる,ミュージカルのバラード的な 何だか野暮ったい言葉になるけれど,往時の今川義元になったような気持ちで, 阿波踊りとゆうものを,観てきては,美しさに嘆息。まるで, 号泣したいのに泣けず,笑いをこらえたいのに洩れてくる,こんな。
スイッチのオンになる瞬間,徹夜明けで,翌々朝に還ってくるとゆう強行軍にも, まるで堪えず,ハワイアンのトロピカル音楽などを聴きながらBlogを打つ心地, このまるで不可思議な恬淡とした感情を,美しさの静かさは覆っている。 瀬戸大橋のあたり坂出とゆう地名を眺めては,イザナギや大国主の 渡った,黄泉平坂を憶い出し,ウチのちかくにある夜見地方もそんな 語呂合わせで語られることのあるけれど,本当に南国阿波パラダイス。 こんなに天界極楽に親い所があるんだ~,もうまるで,心は暖かい, あの世に還る,その心地よさは暖かい,あの世とゆうのは,故郷であり,またもや このまるで不可思議な恬淡とした感情を,美しさの静かさは覆っている。 極楽恬淡南国阿波パラダイス,世情の世間世知辛く,今更悩みがちに平常の日常の, あの故郷も,還っては違って見える天国だ,これからしばらくは,天界の心地。 お盆,還ってこられる先祖様方のしてみれば,やっぱりあの世は天国だった。この, 水辺や山肌には行…

曖昧とストラグドブルグ。

野心とゆうものが,名誉利心にむけられるのではなく,ただ 闘志に,戦いに向かうホルモン的には男性性へ向けられるなら なお一層の事よい。struggle=ただ一心にモガくだけの事を, 曖昧に不安定な調子で,悶々と繰り返すこんな生活を,浪漫と。 闘志が猛々しく涌いてくる夜更けなどには,ただそれだけの事。 闘志だけを,ただ悶々と反芻しつつ闘志だけを味わっていたい。 この,静かな夜更けにstruggle=ただ一心にモガくだけの事を, 曖昧に不安定な調子で,悶々と繰り返すこんな生活を,浪漫と。 ただの浪漫と呼んでいたい。幸せで静かな夜だ。そうして,朝焼け の,静かさより小鳥の一声を聴くその瞬間だけ,それまで,ただ。 物音は闘志のゴトゴト,最初に嵌入を淹れる,闘志の初茹で。 僕は,字義の捻じ曲げと言われても良い。最初の印象よりの,あの 陶器にヒビの這入る,最初の貫入とゆうものを,あのヒビを,まるで 象嵌細工のように,嵌入と現したい。水晶も,大きな結晶とまでなれば, 水に浸すだけ,象嵌細工のような,シミの這入る。あれは,まるで, 貫入のようで,嵌入である,液体にもイノチを与えよう。大げさにも, 液体の成分にはイノチは宿る。
ホノ薄むらさきにひかっているようなそんな夜もあるものだ。手洗いに, ふと,夜明けごろ立ち上がって,階下ではガタゴトいつものように,誰も いないはずのキッチンなど鳴いているような気のする夜明けには,手洗いに さあ,出かけよう。大げさに立ち上がると,さては,ひかった。水晶の,あの 薄むらさきにボワアっと目指している,共に手洗いに出かけよう。すぐ降りて, キッチンよりも手前にある,階下直ぐの手洗いに。元来,祖父母の家だった, 父兄弟の生家でもあるこの家は,祖父の生前より居候しながら借りていた。そう, 祖父の亡くなったあと頃より,ほんとうに家の物音は減っていった。ガタゴトと。 もう,怖くなくなった頃とは言え,ほんとうに鎮護の鎮守の森ほども笹の生える, このお家の,祖父は神様にでも還っていったのだろうか?不謹慎ながら,ほんとうに 疑うわけではないのだけど,物音は実際にめっきり減って,鎮静化されていった。 ヒステリクスとゆうこのガタゴトとゆう物音にしたって,あるいは,物音の不審さ, それに継ぐ僕の闘志の顕れにしても,多分は,組織化された何らかの”美”の表現。 それ自体,…

情況浪漫エッセイ,

サヨナラ珈琲,こんな気持ちで,梅雨の再来のような,あの 涼やかで飴玉みたいに甘い,チラチラと虫の音の耀く湿原を, 扇風ファンのガヤガヤとした音色の裏で響く,あの涼やかで 飴玉みたいに甘い,チラチラと虫の音の耀く湿原を,追悼の。 このさなかではお盆前に感じる,ひやひやと美しい虫の音を, そんなに殊更騒ぐほどでもない。けれど,サヨナラ珈琲, こんな気持ちで,梅雨の再来のような,静かな弔いのムードは 幽冥の,一種の安らぎにも親い。ただ,安らぎに任せて,心臓も ぎゅっと掴まれたようなそんな心地で,言葉をうしなう。この, 無抵抗な,あのヒステリクスにはヒステリクスで任せてしまうこの, 元来,ぼやあっとしているには変わりないのだから,任せてしまう。 サナトリウム文学の窓辺のような,哀切の芳香を漂わせる何らかの, 不思議,不可思議。夜は,眠りに就くもので,朝には目覚める,そんな 魂には。夜露を呑むコオロギの気持ちはワカルマイ。宇宙船が跳んで, スペース・シップの鳴く,こんな草原の,夜の演奏会は観らるまい。
哀愁だ,虫の音は哀切な,宇宙も言葉もリズムさえもない,その哀切な, ロゴス=心臓をうしなった世界では,はても無いようで,果てに居るから, もうすぐ晴れやかな気持ちはするにしても,甘いフレイバード・ミルクティ。 ブラウンシュガー・シラップでも掛けて凍えた,両脚を暖めて,バンビ。 凍てつく現場では,そうしたファンシーな文化は起こるものなんだ。やっぱり 究極には,人間性の現場で生きる者にはファンタジック・メルヘンチックな, 何かの芳香的な薬味の必要になってくる。人間性<メルヘンなのだな。こう, 孤独や,嘆息と失語の中に見え隠れするのは,ロシア文学のようなメルヘン。 メルヘンと言っては,凍える事に疎そうに見えるけれども,人間性の夜に, 爆裂音楽のような,クラシカルな調べの起こるのは,そういったバイキングの あるいは貴族的な海賊の以て産まれた癒しの調べなのだろう。ロシアの春, とゆうものがあれば,それは,春地帯でも良いのだけれど,あるいは北欧の, 海の碧さを直視できる一瞬の晴合いでもいいでしょうが,それは,無我の瞬間。 漱石の無我の境地は晩年は常にそうだったのだろう,そうして,堀辰雄よりの, 創作めいた,芥川からの直系で,遠藤周作までの殉教詩譚に移ってゆくのだろう, 喜び?飽和?漫談…

ミルク・バタ飴と,考えないことと。

身体の中のバタ飴を,緑茶で解かしてゆく,それはまるで, 考えないことと,例えば,早朝寝起きにあたって,あの, ひたすらに否定し続けてきた,大地母神のヒステリクスなる, 人間性の礎とも執られがちな,人間臭さのあれやこれやを, 一度,大まかにその,大地母神のヒステリクスに憑りつかれて。 それを,許して,瓦解してゆく,個人的な存在の光りと影。 個体には,存在の光りと,影の両面があるのか?イザナミの, その大地母神の土の光りと,泉の影とのあいだに橋架けて, さあ,本質的に人間臭さとは?この,問いに取り組もう。 ミルク・バタ飴と,考えないことと。ヒステリクスはその, 人間味の本質に,何かのカギを隠していて,そんな風貌に, 嫌気の差して,ヨーロピニアリズムは発展してきたのであるが, やはり,アルベルト・シュヴァイツァーの闘ってきた『眠り病』は 南の島を当時席巻していた大病であったそうですが,そのような 大病めいたヒステリクスとも置き換えられて,その酵素体質は, もう,現代には合わないらしい。イザナミの顔をして目覚めて, 次第に,陽の翳りに,聖母の面持ちをして,ミルク・バタ飴。
人間性の光りと,影。両立する自己同一性を求めて,遣って来たのは 雪月花響く夜辺の凍てつき。インド・カリーを頂いて還る夜などは, 自分が,業の泉と一体化して返るような,非常な自己同一性を感じる。 業の泉と一体化?そう。全てを呑み込むような濁流に在って,世間は 非情な繰り返しである,昼と夜を持って来ては還してゆく。このような 歴史の光りと影をないまぜに包み込んで,やっぱり,それでよかった,と こう,思える時は来ないのだろう。凍てつく夜の,カンカンカン,と手すりの 耀いた音のするかと思いきや,ぱぁーっと月の灯りの閃いて,そうだな, やっぱり,修道院の土壌に活きることは日本でもやっぱり文化めいては, たったひとつのことを護るためにも必須の気のする,凍てつきの雪月花。 傷跡を内包するようなロマネスクも,もう要らない,そうは思えるのだけれど ミルク・バタ飴と,考えないことと。身体の中のバタ飴を,緑茶で解かしてゆく, それはまるで,一度,大まかにその,大地母神のヒステリクスに憑りつかれて。 イザナミの顔をして目覚めて,次第に,陽の翳りに,聖母の面持ちをして。 早く自己同一性の欲しいものだ,聖母の面持ちとは言え,傷跡…

ジェイムズ・ジョイスと織田信長,例えば。

境域に守護者あれば,”自由の牢獄”の番人の居る。そう。 ジェイムズ・ジョイスと織田信長,例えば。思い返すと, 抽象的に何かの,肖像を描こうと思えば,いつも,ジョイス。 ”この世”の番人は,堀辰雄=織田信長=平清盛による,牢獄の 世の中なのだ,と。ジョイスと信長,なんて,ロマネスク。こう。 隣の部屋よりの寝息に聴き入れば何とゆう,ヒーリング・ポーション。 ジョイスの名文を朗読された,ムービー・ローディングな音楽を,この 不思議な,なんて不思議な夜のひと時に聞いている。もう,済んだのだ。 済んだ?信長の弔いは何故以て,僕の意味があるかは解らないけれど。 もう,済んだのだ。何故,信長の弔いは終わったのか?よく解らずにも。 今川義元=太宰治=九郎義経の気持になって,ロマネスクな夜。こうして, ばたり,と倒れた”時代の夜”は過ぎ去ってゆく。こうやって,芥川氏を更に, 殊更に,東照宮家康=芥川氏=源頼朝の,あの女神のようなアマテラスの耀き にも,以て似て非ならず,源氏と平氏の,芥川氏=太宰治=堀辰雄さんの, このロマネスクな三角関係に想いを馳せる。点滅する平氏ボタル,明滅の源氏。
馬鹿にして,モノの調子よく語っているような。不謹慎な格好で,また,そう。
弔いの終わったのだ。事は済んだのだ。こう言っては,ジョイスの名文を朗読された,
ムービー・ローディングな音楽を,この不思議な,なんて不思議な夜のひと時に
聞いている。もう,済んだのだ。

ジョイスの気長に追及めいた探究を繰り返してゆこうと,もう活字離れして,この 実吉捷郎・訳のトーマス・マンしか読まなかった昨今,ただ,名訳との出逢い,これを しか,求めなくなっている。こうやって,活字における,人生の秋のような気分は過ぎ, 活字はヒグラシを鳴らし,ダブリンなアイリッシュな響きをして,もっと耀け,と。
信長KINGと,ジョイス・ガーディアンの響きに,しかしながら,活字の秋は過ぎ, もうすぐ,高天原の世界は,冬に嵌り込もうとしている。セガンティーニの冬,また。 やかまし村の,ムーミン谷の,ごたごた荘の冬。信長の力持ちも,ジョイスの弁舌豊かな 発想も,ピッピには適わないし,屋根板いちまい瓦を使わないムーミン谷にだって,彼の 技術は持ちこたえない,子供たちの愉快な騒ぎ立てる声も,老成された聖者には,もう, 適わないものだろう。
秋が済ん…

クリスタル・トレース。

広島より還って来て,私自身のガーディアン・スピリットの, 裏返って,トンネルの出口に雨が降っている,そんな中で, 追悼,決意の切実な顕れ。裏返って,出口に雨が降っている。 意地だ,意気地だ。哀しみは,裏返って,切実さに,そうして。 富岳百景に放屁なさる井伏鱒二先生の,真になさったのか,或は。 今,まさに議論されるべきかは,そうやって,真になさったのか。 いかにして,車で,山道で,夜道で,冷房の中で,水分を必要に。 いかに,手を合わせたのか,そうして,”それ”を願ったのか?或いは。 ”それ”とは,ここまで夜道山道を過ぎては還ってゆく,私自身の ガーディアン・スピリットの,裏返って,トンネルの出口に雨が 降っている,そんな中で,追悼,決意の切実な顕れ。裏返って, 出口に雨が降っている。”それ”は,出口の雨。還っては,また
クリスタル・トレース。クリスタルのツボ押しを右手に把んで, 宇宙船に乗っかっては,真理の議論。宇宙船は遊園地と化して, そうして”神”に合う。目を開ければ,こんな観想感慨より目覚めて。 なんだか脱力感と共に,開花した古木のチラチラ,舞い散るまでの そんな観想感慨のチェロの無伴奏をレンタル落ちより発注しては。 そうして,オニキスのバングルなどをまた発注しては,おののく。 なんだか脱力感と共に,開花した古木のチラチラ,舞い散るまでの そんな観想感慨のチェロの無伴奏をレンタル落ちより発注しては。 そうして,オニキスのバングルなどをまた発注しては,おののく。 パワーストーンの,或いは”神”の存在に関して,まったく脱力した。 平和観想,安寧Nirvana,安堵平安の裡に住して,関与しない。だから, ”それ”は,情熱であり,刺戟であり,理由であり,キッカケである。 これを,願う事。だから,トレースしては,なくなる脱力を求めて。
広島より還って来て,私自身のガーディアン・スピリットの, 裏返って,トンネルの出口に雨が降っている,そんな中で, 追悼,決意の切実な顕れ。裏返って,出口に雨が降っている。 意地だ,意気地だ。哀しみは,裏返って,切実さに,そうして。 富岳百景に放屁なさる井伏鱒二先生の,真になさったのか,或は。 今,まさに議論されるべきかは,そうやって,真になさったのか。 いかにして,車で,山道で,夜道で,冷房の中で,水分を必要に。 いかに,手を合わせたの…

出口,雨。

事実(詩実?)を列挙だけする整然さも必要ないことのように, 織田信長は,平清盛と,また,西郷隆盛と,堀辰雄氏と。 今川義元公は,また源九郎義経を,坂本龍馬に太宰先生と。 千利休は,安徳天皇と,そうして乾退助と,立原道造君と。 前者は,広島の宮島にイチキシマヒメとして,アメノウズメとも。 中者は,三輪山にトビナガスネヒコとして,大国主ともして, 後者はまた,アメノウズメの夫としての春日大神,猿田彦。そう, その三者を以て,和として,事をなきように。こんな,わからずな 妄想を掲げては,祈る。
真名井の泉の湧水を汲んできて,台風の目前を,通り過ぎては一滴を。 残らず,また氷にしては氷水にして注いで夜の喉を潤す。拝啓,織田さま。 かようにしてはめっそうもなきことのようにおもわれますがゆえの口には したくなきことのゆえ,真名井の泉の湧水を汲んできて,台風の目前を, 通り過ぎては一滴を。残らず,また氷にしては氷水にして注いで夜の喉を潤す。 拝啓,織田さま。いのりはかようにして強引に結託して執り行われます横を, すすりなく泉のようにして注がれるかようなかよわきもの。もうすぐ,何が? 何が,たとえもなく頼りがい在り。そうして,購買に能うモノかは,いますぐ。 理解しようにも理解されざる音の調べと,リズム&ビートのパッション・ミューズ。 真名井の泉の湧水を汲んできて,台風の目前を,通り過ぎては一滴を。 残らず,また氷にしては氷水にして注いで夜の喉を潤す。拝啓,織田さま。 あがなうべきものがありましたらのことですが,夜更け前には荒れだす,まほろば。 文化は水源にして,業の在処も蓄電池。さようのこと,存じておりますゆえ。
事実(詩実?)を列挙だけする整然さも必要ないことのように,
織田信長は,平清盛と,また,西郷隆盛と,堀辰雄氏と。
今川義元公は,また源九郎義経を,坂本龍馬に太宰先生と。
千利休は,安徳天皇と,そうして乾退助と,立原道造君と。
前者は,広島の宮島にイチキシマヒメとして,アメノウズメとも。
中者は,三輪山にトビナガスネヒコとして,大国主ともして,
後者はまた,アメノウズメの夫としての春日大神,猿田彦。そう,
その三者を以て,和として,事をなきように。こんな,わからずな
妄想を掲げては,祈る。

ひとっつ注目したく想うのに,広島を鎮護するロマネスクの守護神の居るとして, そのロマネスク神に,サットヴァ・ディクシ…

浪漫情景チック。

ブーブーブーブー,エンジン音の鳴り響いて,もう。 眼を醒ますと,あれは,あれ,扇風ファンの音だったかの, 不可思議な余韻。なんだか,エンパス指向と言って,あの, 未来予測や,出逢う予感めいた,何らかのクリーニング作用を, 不可思議な余韻。そうゆうイヴェントの終わった後。ふ~っと ファンの音で目覚める,不可思議な余韻。聖母マリアの転生譚を, ブッダ=プラトン=マリア=セネカ=アウグスティヌス, ジャンヌ・ダルク=アッシジのフランチェスコ=エリザベス一世, ブレーズ・パスカル=ヘルマン・ヘッセの裡にながめている。 そんな,書店を巡って,三島文学の憤怒の情より,ヘミングウェイ, それからヘッセの聖母像のほうまで伺っている,この浪漫情景チック。
確かに,一度の人生を繰り返す,同じものはなく一度のその人生は, 地獄だ。だから,転生譚などありえない。なんでこの浪漫情景チック。 恋愛像と親い,エンパス指向は恋愛に非常に親密で,聖母の妖婦性とは いかがわしいとは言われつつも,人間性とヒステリクスを結ぶ何らかの マジック=魔術性でもあるので,エンパス指向=恋愛の何らかの繋がりも。 融和性を慣性の丸球の転がってゆく,摩擦のゼロ地点まで行ってしまう。 感謝と恋愛の似ていると言ってもいい,この融和性だけれども,結ぶ何らかの ヒステリクスより人間性に訪れてゆくヒューマニズムの黎明は,基本的なその エンパス指向の融和性を,ヒューマニズムの視点から,分析解除してゆくのだ。 聖母の妖婦性とは,そこから産まれた発想であって,必死にヒステリクスを 人間性に結んでゆく,祈りの外の何でもないのだ。
ヘッセの転換期にみられる,魔術性,そんなものが吹聴されているのだから,
その発想を何処からイメージしているか,妖婦性,いいや,これは祈りだ。
ヒステリクスの源流まで溯ってみようと枯れた泉を掘削してみる。そうだ?
この,泉の発端は,ヒステリクスを産みだす,あの朝食の始まりの,叫び。
叫び,なのだ?昼間のスタートはヒステリクスの開始点。ベータ・ヒーリング。
この,日常,普遍,公共性。この冷静さは至って普段のヒステリクスの源流で。
眠りの追及に目覚めて,あの夜に黎明を感じる,夜明け前のいちばんの暗さを,
これが,真実,じつにリアルなヒューマニズムの発端であるような,そんな気が,
昼の冥さに,夜のほの明るさを計って…

漬物をかじる。

薄青いシャツを着て,漬物をかじる。すぐに,シワの
多い,”シワくちゃだ!”と言われて,洗濯モノの間に,
湿気挟みで,アイロンの代わりになるからと,一枚干し。
味噌ラーメンを啜っては,ウーロン茶を温めて,一服。
コンプレックスとは飽和すると”生きる力”になる,放念し。
”生きる力?世界を一瞬で変えられるとして,何故変化?”
業の泉に浸るその理由は,生命力が,すべての書物の源。
放念して,出来た,”生きる力”のきっかけは,前世ゲームの
書物の渉猟。その文化は,そのまま生命力で,疑念なしに,
何処か見詰めてる?そう。その,生命力の,世界エーテルの
地球を覆う生命力の想像力の鑑のように見える,一枚岩の,
弘法大師?この説話は何処か似ている。業の泉に浸っている
ように,高野山に納まった空海の貴魂にして言えば,Purity
2人の間に貴いConversationのあったとすれば,その会話は,
俗塵=業の泉と独白=瞑目の間にある,精神体の交際体験。

本当に,海の中に浸かって,水平線を眺めてきた。暑かったけど, 火照る黒々とした,鼻の頭を見守ってゆく,懐かしいのは,何故。 柔和にフザけてこないと,言葉にならない。真面目でやさしい,の 解るけれど。なので,言葉にならないことにより,精神病理や,或は コンプレックスを人に問合せて,解決しない問題を我が物にするとや? ふいと,そうした折りに,怒りだ?怒りだ,そう。怒りの涌いてくる。 そうゆうのは,反骨心や,突進力や,破裂する想い,そうゆうのの中に。 怒りの僧正の中に怒りの相貌や,お怒りのみほとけのあるかは,わからぬ わからぬが,しかしながら。この鑑の弘法大師は,常に九郎義経や,そうして, 神々ならぬ,石切に犠牲を孕んで目的は,達成されないまでも”怒りに換る。” 鑑の怒り,そう,そうなのだ。破裂した印象の真実をこのフトコロに孕んで。 Heart Break,ここから始めて,Hard Bread,そうして,Herb Blood,この 精神性を,心に秘めて,直むきに,河川敷への下り坂おりてゆこう。
怒りの具体性。巌をこころに秘めている。Huge Rock,バイアスは非常に。 心に秘めた,コンプレックスに巌=Huge Rockを嵌め込んで,こうして今も, 両脚を伸ばし,熱気を外気に放り出しているのだけど,こういったままの, シャボン玉の出来そう…