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ジェイムズ・ジョイスと織田信長,例えば。

境域に守護者あれば,”自由の牢獄”の番人の居る。そう。
ジェイムズ・ジョイスと織田信長,例えば。思い返すと,
抽象的に何かの,肖像を描こうと思えば,いつも,ジョイス。
”この世”の番人は,堀辰雄=織田信長=平清盛による,牢獄の
世の中なのだ,と。ジョイスと信長,なんて,ロマネスク。こう。
隣の部屋よりの寝息に聴き入れば何とゆう,ヒーリング・ポーション。
ジョイスの名文を朗読された,ムービー・ローディングな音楽を,この
不思議な,なんて不思議な夜のひと時に聞いている。もう,済んだのだ。
済んだ?信長の弔いは何故以て,僕の意味があるかは解らないけれど。
もう,済んだのだ。何故,信長の弔いは終わったのか?よく解らずにも。
今川義元=太宰治=九郎義経の気持になって,ロマネスクな夜。こうして,
ばたり,と倒れた”時代の夜”は過ぎ去ってゆく。こうやって,芥川氏を更に,
殊更に,東照宮家康=芥川氏=源頼朝の,あの女神のようなアマテラスの耀き
にも,以て似て非ならず,源氏と平氏の,芥川氏=太宰治=堀辰雄さんの,
このロマネスクな三角関係に想いを馳せる。点滅する平氏ボタル,明滅の源氏。

馬鹿にして,モノの調子よく語っているような。不謹慎な格好で,また,そう。
弔いの終わったのだ。事は済んだのだ。こう言っては,ジョイスの名文を朗読された,
ムービー・ローディングな音楽を,この不思議な,なんて不思議な夜のひと時に
聞いている。もう,済んだのだ。

ジョイスの気長に追及めいた探究を繰り返してゆこうと,もう活字離れして,この
実吉捷郎・訳のトーマス・マンしか読まなかった昨今,ただ,名訳との出逢い,これを
しか,求めなくなっている。こうやって,活字における,人生の秋のような気分は過ぎ,
活字はヒグラシを鳴らし,ダブリンなアイリッシュな響きをして,もっと耀け,と。

信長KINGと,ジョイス・ガーディアンの響きに,しかしながら,活字の秋は過ぎ,
もうすぐ,高天原の世界は,冬に嵌り込もうとしている。セガンティーニの冬,また。
やかまし村の,ムーミン谷の,ごたごた荘の冬。信長の力持ちも,ジョイスの弁舌豊かな
発想も,ピッピには適わないし,屋根板いちまい瓦を使わないムーミン谷にだって,彼の
技術は持ちこたえない,子供たちの愉快な騒ぎ立てる声も,老成された聖者には,もう,
適わないものだろう。

秋が済んだ,冬が来て,そんな気分のするロマネスクな夜には,記憶も甦って,あの,
不思議な高天原の笑いも,済んだあとにはしんしん,と雪景色。

こんな,不可思議に薄墨を落す様を,世情は遣来って涙を落す,また,寒椿の雪被りの
ように,深紅の『それから』の初まりのように,あの白い重さで覆いかぶさりながら,
ぼと,と血脈を浄化して頂けるような,あの弔いの紅白をまた,待ち侘びながら,きっと
哀しみや決意は,祝い事のように,浄化してゆける。
ジェイムズ・ジョイスと織田信長,例えば。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう