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ミルク・バタ飴と,考えないことと。

身体の中のバタ飴を,緑茶で解かしてゆく,それはまるで,
考えないことと,例えば,早朝寝起きにあたって,あの,
ひたすらに否定し続けてきた,大地母神のヒステリクスなる,
人間性の礎とも執られがちな,人間臭さのあれやこれやを,
一度,大まかにその,大地母神のヒステリクスに憑りつかれて。
それを,許して,瓦解してゆく,個人的な存在の光りと影。
個体には,存在の光りと,影の両面があるのか?イザナミの,
その大地母神の土の光りと,泉の影とのあいだに橋架けて,
さあ,本質的に人間臭さとは?この,問いに取り組もう。
ミルク・バタ飴と,考えないことと。ヒステリクスはその,
人間味の本質に,何かのカギを隠していて,そんな風貌に,
嫌気の差して,ヨーロピニアリズムは発展してきたのであるが,
やはり,アルベルト・シュヴァイツァーの闘ってきた『眠り病』は
南の島を当時席巻していた大病であったそうですが,そのような
大病めいたヒステリクスとも置き換えられて,その酵素体質は,
もう,現代には合わないらしい。イザナミの顔をして目覚めて,
次第に,陽の翳りに,聖母の面持ちをして,ミルク・バタ飴。

人間性の光りと,影。両立する自己同一性を求めて,遣って来たのは
雪月花響く夜辺の凍てつき。インド・カリーを頂いて還る夜などは,
自分が,業の泉と一体化して返るような,非常な自己同一性を感じる。
業の泉と一体化?そう。全てを呑み込むような濁流に在って,世間は
非情な繰り返しである,昼と夜を持って来ては還してゆく。このような
歴史の光りと影をないまぜに包み込んで,やっぱり,それでよかった,と
こう,思える時は来ないのだろう。凍てつく夜の,カンカンカン,と手すりの
耀いた音のするかと思いきや,ぱぁーっと月の灯りの閃いて,そうだな,
やっぱり,修道院の土壌に活きることは日本でもやっぱり文化めいては,
たったひとつのことを護るためにも必須の気のする,凍てつきの雪月花。
傷跡を内包するようなロマネスクも,もう要らない,そうは思えるのだけれど
ミルク・バタ飴と,考えないことと。身体の中のバタ飴を,緑茶で解かしてゆく,
それはまるで,一度,大まかにその,大地母神のヒステリクスに憑りつかれて。
イザナミの顔をして目覚めて,次第に,陽の翳りに,聖母の面持ちをして。
早く自己同一性の欲しいものだ,聖母の面持ちとは言え,傷跡のロマネスク。

もうすぐ,夜明け前で,虫の音もヒグラシのかなかなに換り,水の夜辺より,
土の光りに替わってゆく,ある静かさの中で,ハンマー投げを見ていると,
体型的には大きくても可愛らしい,そうして,みなど真ん中に投げる安心感。
投げられたハンマーは,リモコン・カーのラジコン・トラックみたいなものに,
がたごと揺られて戻されてゆく。こんな選手の裡にも,菜食主義者の方はある。
そんな,期待めいた可愛らしさを見付ける中で,ああ,自分に親いのだ。一層,
謎めいて,色めき立つ文化的な朝焼けにも嫉妬もしないで見詰める大地母神。
自己同一性?自然一体化,とは叫びつつも,やっぱり中心軸の欲しい,この頃。
朝の明ける前に,大地母神に憑かれる位は最大の進歩と捉えて,まずは聖者の
行進ままならず,聖母の発信たとえようもなく。こんな,清濁併呑する世界に,
もろ手を挙げて,万歳だ。たとえようもなくこんな,水の夜辺と土の光りの,
こんな繰り返しに,昨夜のおつまみなどを抱え込んで,白々と鳴き声のする,
スポーツの朝焼け。身体の中のバタ飴を,緑茶で解かしてゆく,それはまるで,
ミルク・バタ飴と,考えないことと合わせもっては繰り返してゆく夜明けとの,
人生のハンマー投げは,いつも可愛らしいものだ。ミルク・バタ飴と,考えないことと。




こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう