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美しさと貪婪さ,

世界の貪婪さ,開高健さんのバック・ペイン。この,カギを握る,
世界の貪婪さ,フィルターのなさの叫ばれて昨今ふかい瞑想時間,
世界の貪婪さ,この,カギを握る,受け容れるとはフィルターの。
美しさの理想は,限りなくフェミニンに,疑いもなくきらびやかに
美しさの理想は,道徳モラルの上でも,限りなくフェミニンに,
美しさの理想は,樹林に潜む陰の芳香を,どこまでも涼やかに。
疑いもなくきらびやかな理想と,昨今叫ばれて久しいフィルターの
なさは,世界を含めて身体性の極致を顕す,それは美しさと貪婪さ,
美しさに誘われて神々しさにひざまづく夜更け,はては,健全さを
受け容れるとはフィルターのなさであるように,貪婪さを見詰める。
美しさだけでは,世界の三分の一で,貪婪さのみでも理想以外の三割。
まるで親離れするように,世界は手を放す,もつれた美しさによって。
そうして健全な精神は溌剌と精悍さを示すから,貪婪さはGrounding。

女性性と男性性なのか,美しさと貪婪さ,ホルモン的には解らないけれど。
男性は美しさを求め,女性は他方よりはなれて伺う,何だろう?この訝しく。
一方通行なのが世界のエナジーの方向性だ。上方より高度の降りた方へ,また
受容するフィルターのなさにとっては,健全さと言って辿り着いた最期の沼。
ここは菖蒲や,蓮の咲く悲恋な想いも乱れざき,閉鎖的な日常の悩みも多くは
上品な香りをもたらす不思議な所。ながれ付く先には,箸も漂う,世界を変える。
上方より降りた方へ,何故かしら健全さは大気上空には漂わない,羽ばたきせず,
蕭条バッタとゆう不可思議なメルヘンのように飛び跳ねて鳴いている,美しく。
梅とユリの時期も過ぎれば,蓮も咲き,枝豆ひとっつ,ぷいと飛ばせば,柿の種。
プラムも過ぎれば,桃の皮むき,ぷいと飛ばせば,メロンの根こぎで,お盆饅頭。
美しさの理想は,限りなくフェミニンに,疑いもなくきらびやかに
美しさの理想は,道徳モラルの上でも,限りなくフェミニンに,
美しさの理想は,樹林に潜む陰の芳香を,どこまでも涼やかに。
疑いもなくきらびやかな理想と,昨今叫ばれて久しいフィルターの
なさは,世界を含めて身体性の極致を顕す,それは美しさと貪婪さ,
お盆だ,お盆なのだ。帰省する方の身体性の光りと影は,祈らずには居られないもう,
初めて,高速のサービス・エリアで深夜帯の静かな影の車体をみて,大乗的な平和を。

コダワリの上に願いの想われて,そうして,婉曲的に判断する抹香らしさに平和は,
他者と,当時的な感性,例えば,他者の理想と,僕たちの世界をみ比べれば,それが
ほんとうの現れ方のする”フィルター”の取り付け方でもあって,両面凸レンズの表裏を
同一に裏表どちらもおんなじようにみられる,自他一体説ありうれば,これが平穏。
いつもひとりでいられればそうゆうことも言われるはずだ,そうなのだ,そうなのだ。
なぜかそれでも,以て僕たちがもとめているのはほんとうはそうゆうことなのでは。など
こんな季節には思ってしまう。何だか,人間の身体はこんなにちいさくて,それでも,
日本地図などを記憶している,あのI.C.,この給油はわすれずに。手洗いも便利になった。
そうして,また,喉の渇きは,ここでは癒す。アイス・コーヒーも帰省ラッシュには。
少し日帰りで,200キロほどの片道往復をしてみて思うのも,コーヒーの便利さだ。
普及するのも解かるし,こんなにオイシク飲めるのも本当に不思議な位,美味しいので,
フェア・トレードと諭されておもうのはホントにこれは世界の奇跡。技術力の高さ,この
不思議トレード日本。世界は莫大で,規模の小さな私ぼっちりには掴めない不思議さで。
だからより知識の普及に伴って諭されてゆく個人力の冷静さの需要の裡に,こうして,
冷静に,珈琲の勉強もしていきたい,と思う。美しさと貪婪さ,珈琲の香りと酷。それで
もちろんお盆過ぎれば,涼風も果実の爛熟また芽吹いてくる春の訪れに,冬の大地は白。
もう,こうして,階下に降りて,疲れの溜った深夜に眠前のカフェインを敢えての一杯。
お盆過ぎれば,美しさと貪婪さ。天高く馬肥ゆるので,また柿の生ジュースでも呑んで,
何故だか身体性の涙をこぼす,花の匂い,沈丁花~クチナシ~金木犀への変遷を,以て,
世界は哀しみに悲母のまなざし。


こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…