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さかしらに祈るお寿司。

ロンドン旅行に恋の準備を必ずするのは,BEN RED。この,
ロンドンの春は,TGVに乗って,英仏海峡を渡れば,終り。
そのまま,恋の終りではなくって,寒椿被る雪の風情を。
恋も終れば,インドの地に昇る太陽,それはkarmaと呼び。
灯台に吹き荒ぶ冬の嵐を憶い出せば,轟々と夜,燈す灯りに,
ロマンチックなそれは,karmaに替る,心に太陽のぼる。

盆踊りをみて還る夜更けの路すがら,何故だかほっこり安心,
撮影隊で荷物持ち,踊るくらいは出来ない訳でも,いいや。
安心したのは,夏の過ぎる夜明けのような,脂肪溜の頭脳より
それを餌にする蟲の神や,鰯の弔いから放たれたような,そんな
盆踊りに何故サークルを描いて廻る,夜になっては踊る,そうして。
この,波の曳けて行くような,さざ波のような踊りを繰り返す?
すべて,渦潮に巻き込んで,陽性の季節は双子宇宙の裏の静かさ。

お盆の料理は,お惣菜にしても,とっても気品に溢れる物ばかり。
酸味の効いたフルーツ・オードブルから,お菓子のようなお寿司。
プラスチックの展示のようにみえる様々なネタは,シャリも含め,
実はしっとりとして,いつまで経っても新鮮だ。フルーツひと口,
揚げ物のオードブルを品定めしてみても,どれも慎ましやかで,
派手ではない。白っぽく,淡く,安心したのは,夏の過ぎる夜明けのような,
脂肪溜の頭脳よりそれを餌にする蟲の神や,鰯の弔いから放たれたような,
そんな,死とゆうテーマは,詩情の振りしていつまでも師匠の影を,
落とし込むテーマは,『一息落ち着いていつも探しなさい。』

さかしらに祈るお寿司。こんな姿を,食した後のお腹のなかも,またして,
屈みながら摘む背広を脱いだ背中に感じるお盆の料理をあれこれ。帰省の
季節を感じる,夜更けに静かなPCの充電の音は,夏虫の囀りにも似て,
夜風涼しく,笛を吹けば,吹いているのは帽子を被ったお月様の陰で,
そうだな,ひとごみと,高速道の黒い幻燈と,あるいは楽の音の祭りに,
さかしらに祈るお寿司。お盆の最中には,インディアン・サンと,あの,
ロンドン・スプリングの夢を,karmaの収束と,恋のおわりに見届けた。

ロンドン旅行に恋の準備を必ずするのは,BEN RED。この,
ロンドンの春は,TGVに乗って,英仏海峡を渡れば,終り。
そのまま,恋の終りではなくって,寒椿被る雪の風情を。
恋も終れば,インドの地に昇る太陽,それはkarmaと呼び。
灯台に吹き荒ぶ冬の嵐を憶い出せば,轟々と夜,燈す灯りに,
ロマンチックなそれは,karmaに替る,心に太陽のぼる。



こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…