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ゴーヤのシャキシャキ・アカシアの雨の止む。

解ってしまえば,それまでだ。アカシアの雨の止む。本当は
沢庵をかじるようにして,ゴーヤのシャキシャキをつまむそんな。
例えば,織田信長=堀辰雄=嵯峨天皇=西郷隆盛=フビライ汗,
そうして,平清盛像のいよいよ現われてきて,さあ,沢庵をまた
かじるようにして,アカシアの雨の止む。織田氏の巫病めいた何か,
この,ヴェールのように,R.シュタイナーのメルヘンを聴くように,
掻き燻る雨煙のような蒸せる何かのメルヘンを,その氏の薫陶より
聴いている。雲煙,こんな言葉さえも嵌ってゆきそうだ。そう何かの,
肺病に閉ざされて,何をか想う。雨煙も肺臓の中も何もかも良く似て。
いよいよのグルメは軒下にぶら垂がるゴーヤのチャンプルーを咳込み,
咳込みしながら頂く夏風邪の最中。雨も燻って,皿より湯気も揺蕩って,
こうして,ぐぐっと,梅のエキスなどをウーロン茶で溶いて呑む心地。
こうだ,こうでなくっちゃあ,菜の花畑を,『草枕』の冒頭,茶屋まで
歩く,あの心地。山間の湯屋に着くまでは時間のかかるなれど,この旅程を
随分に楽しんで歩く心地。病は気から=”気は病”なれば。

この,肺病の転生譚を眺めるにつけ,自らそのテーマを持ち込んで本懐と,
なしてゆくゆく道すがら,何がそのテーマなのだろう?この魂の,何をして
救いの神あらば,或いはまた転生を終えられる鍵なのだろう?こんな想像,
肺臓とは,やはり呼気を扱い吸気を求める,”自分のなかの他者”であるのは
例えようもなく違わないので,だから,他者の関わりとゆうテーマを扱って,
”犠牲”=無論,己を無にして人の役に立つ。このテーマを終えて,彼の願いは
終るのだ。何故,人の役に立つ,そんな願いを無意識下にまで持ったのか?
悼みや,優しさの追及,時には両刃の傷をもたらすような,その優しさ。では,
優しさ全般のテーマに往けば,彼の魂は救えそうな気もする。おこがましいので
なかなか言えないのだけれど,自己放棄よりの,身魂的な入換え,こんな目的を
言えば,ウォーク・イン=たましいの交換の起きる時の,世間の抜本的な入替わり。
こんな目的性を,きっと肺病や,彼らの脱世間的趣味は伝えているのだろう。この
無我の起こす,魂の入替え,それじゃあ,もう大丈夫だ。何度,気絶放心して,
この世の世情と四肢身体を入替えしたことだろう?今となっては,無我恬淡として,
まさしく幸福以外のなにものでもない。

ロマネスクとは,だから,ウォーク・イン的な合目的性を常に裡にはらんでいる。
樹々の匂い,樹林のなかにくぐる通り過ぎれば薪の匂い,甘しずくの下を抜けて,
ただに涼しさは,自然の没香を鼻先まで届かせてくれる。この,雨粒と霧煙のだから
思わず,側頭葉の龍の耳のような部分が,ぱかっと蓋を開けて,静かに微笑むのだから,
森のなかに佇んで,秋雨などを感じながら嘆息をする瞬間,ひとえにこれは幸福なのだ。
お盆過ぎても,まだ水風呂は,とにかくも心持の良い習慣で,やっぱり龍の耳の開いては
無塩素プール,無塩海水浴など,何とでも言えるだろうけれど,そのまま自然を取り込み
囁きながら追悼する,あの樹の陰に漂う蟲の神に向けて,やっぱり樹林の奇跡は本物だ。
雨と,森。このふたつがあれば,とにかくも,人間性のヒューマニティの追憶は癒される
この不思議。また,そうして,ここより甘露の地下水源の始まる由縁は,ロマネスクのまた
明るい源流を現してもいる。こうして,水のしたたる樹林の陰からは,冷静な落ち着きと
水本来の匂い,それは人間本来の芳香を以て推て知るべしなオリジナルの愛のある,この
愛なれば,犠牲の姿は既に緑の色元来にあたえてくれる,脆さと儚さ,ひいては強さと,
この永遠性を垣間見させてくれる。優しさは緑の蔭より産まれてきては,もうすぐ涌く
あのような水源の珈琲をも,また口先に運んでくれる。幹のような腕で以て,葉の手の平
を動かして,根っこの首筋はもう微動だにしない,そうして森と雨の珈琲を頂く。何て,
優し気なロマネスク。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…