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水風呂と冷室茶房,集合意識の氾濫。

晩夏に,いたって静かな,水風呂と冷室茶房の爽やかさの,
それだけ,あれば,それで良い。いずれ,暑気あたりに,
夏も終るころ,アイス・ブラックの欲しくなって,集合意識は
氾濫する。いたって静かな,水風呂と冷室茶房の爽やかさの,
それだけ,あれば,それで良い。蟲の神とは言うまでも,ほんとに
かれら暑気あたりの名残は,いつまで経っても現れ吹き出てきて,
『悪神の午後』を,それぞれ謳う,それはまるで,裏側の人間性。
ゆくゆくヴィーナスにさらわれるまで,多分僕は,悪神の踊りを
徹底的に続けているのだろうから,その姿はきっと,嘆息と自失。
茫洋と自失しながら,こう自問しているのだろう,『”我”は何処』。
暑気あたりは,夏バテとも少し意味合いは違ってきて,イライラでも,
くすぶるモヤモヤでもなくって,何だか,自分を忘れたような。その,
茫洋と自失しながら,こう自問しているのだろう,『”我”は何処』。

だから,とりあえずは,ブラック珈琲を淹れて,微温に2,3個氷を,
そうして,グイッと呑む。冷静になって,そうして,次第に冷静に。
ただ,呆然としていよう。本屋に佇んで,どこ吹く風?とぼんやり,
背表紙よりも,書棚のその,樹ではなく森を,ずっと眺めてよう?そう,
落着いて,投げかけるのだ?もうすでに,自分は梢の猿のような気がして
論語を観ながら,リンゴはどこだ~?魔の山をなぞらえながら,笛は?
どこ,に自分がいるのか?やっぱり捜しながら,珈琲の効用の切れるまでは
とりあえず,歩く速度を一定に保ちながら,本のあいだをすり抜けて行く。
クラシカルにロマネスクな,ウッディ―にスモーキーで。あとは,テンダネスな
ステーキのローストされた,クッキー・モンスターに,ダスト・ボックス。
黒人霊歌の謳われたハーレム・スクエアに親い聖堂を眺めれば,ふとトリップ。
いつぞやの,いつものではあるのだけれど,自宅の冷室茶房を用意しつつ,また。
水風呂を,無塩素プール。無塩海水浴と銘打って,もう身も蓋もない。ぽっかり,
イントネーションは,インター・ネイション。集中して安らぎ,時に攻撃的な,
魅力的な時間を過ごして,集合意識の氾濫を抑えている。蛇足だけれど,集合意識は
僕のものではあっても,占有率0.1パーセントに満たない,ごく低い所有率で、無論
コントロールするより,『集合意識の管理人』とは,明らかに詐称であって,むしろ
集合意識の従僕人とゆうのが僕にはふさわしい。だから,曖昧に解脱するよりしない
より,善良でありたいとは図らずも思われず,意図して善良にはなれず,そうして,
その”優柔不断”さは,確かに集合無意識的な物の抑制作用をきたしてはいる。

だから,と言っては,晩夏にブラックは美味しい。我ながら名言だ。そう思うのだ。
抑制作用がある。集合無意識の姿をした何者かを付かず離れず押えておく,何らかの
調整作用のある。だから”優柔不断”は,珈琲から遣って来たごく個人的な僕のその,
オリジナリティであって,集合意識自体のもしかしたら”僕”の集合無意識であって,
その映し出された”優柔不断”さは,僕=集合意識的な何かを結ぶ,仲介師的の飲物。
夏バテして,オリジナルの癖である”優柔不断”さは,表立って現れてきては,それを
厳密と,暑気あたりと区別なんぞしてはやっぱり夏バテして,うだっているのでした。
珈琲の,特にブラックの様子の持ってくる,茫漠さ,これは,宮崎駿監督をして,
神さまの世界は,いつぞや”茫漠とした,”と語らせた,あの神さまの有耶無耶さに,
とっても良く似て,縄文意識とか,日本のアジア的風習のその由来は,遠く珈琲にも,
また求められている。公共性はリパブリック,アジアの文化はパッション。そうして,
遠くアジアより隔たれた,喜望峰の端の先っちょにも,やっぱり珈琲はあるのだ。そんな
感慨に浸されて,読む読書の効用は,また珈琲と合う。
公共性はリパブリック,アジアの文化はパッション。アイス・ブラックを,呑みながら
つとに,想う。それは,夏の過ぎて,凍てつく梢に飄々と風の当たる寒々とした冬を,
私達人類の遺伝子様々,いちように,避けようとして講ずる,南国のパラダイスを想起
してはいないものか?と。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…