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季節感グリッドする朝露一滴。曖昧普段の日常より

もうはや秋めいた気持ちさえする,晩夏の入口に立ってみては
空調さえ知らない童子のように窓を開け,実際には熱中気味に
なっていることに気付いて,冷室茶房=曖昧普段の日常より,正直に
もう何らかの自分の題目のようなマントラひとっつ,自然一体化と
称して,季節感グリッドしていれば良い。そんな,ただ朝露一滴飲干す。
熱中するなら,されるより,自ら少しばかりトラウマなど何かにつけて,
エンジンを掛ける,ターボ・ジェットのガソリン燃料などにして熱中して。
そればかり『何故か,こんなに最近暑かっただろうか?』その最近はいつの
事なのかはわからないのだけど。冷室茶房に這入って行かないと過ごせない。
熱中されるより何かに付け,熱中していたいとゆう想い。色彩原像とゆう,
色合いに全てを見出すとゆう二次元的な発想,はなはだ,冷静で平安な。
二次元=冷静さ,と。三次元(立体的)=熱中作用と。こんな,外側より,
頭脳の煮沸されると困るのに,ここは何故かしら,平面的より熱中していたい。
でも,もうそろそろ。季節感グリッドとゆう,朝露一滴飲干す心地の優先されて
冷室茶房=空調の効いた避難所的室内で,ウーロン茶など呑むので,平面的で
冷静な,いたって平安な心地で,平穏なシェルター生活=熱中症予防の避難生活
をして。

ここまで言って想うのは,暑い時は動けない。動けないのは,電気を用いないと
動けないのであって,こうして,水風呂でも抑えつけられない熱帯性気候の,また
熱中症に罹っていても,何かに没頭している自力熱中でも,やはり冷静さには,事を
欠くようではならない,ケガをしたヘミングウェイ,入院中の太宰治の,あの感傷。
この甘露の滴を緑茶で割って頂くような,感傷体,あの緑茶カテキン感傷態に浸って,
もう,どうしようもなく曖昧普段の日常より,夢見心地な自然愛好家の浮世遁世態。
それら,甘露に酔うようなノームの鉱石性アートマ感傷態で,カッチコッチ鉱石採掘,
香水のような匂いのしてくる採石場では,ただ鉱物とゆう堅い思考の蓋を取るべく,
ノームの妖精たちはココロの扉を開けようとしている。鉱石を言葉に換えて,採石は
それをなりはひとして,言葉に,言葉の気体液状のエーテルへ,鉱物のアートマ思考を
変質させている。この高貴なノームの鉱石性アートマ感傷態を,浮世遁世=曖昧普段の
日常より変換させては動き出す。河の流れは一滴の言葉の朝露より。産まれ出ては,この
思考体は果てしない旅路を海の神々しさまで辿り着く。行方はすべて風水まかせで,
エーテル的な言葉の流れとは,風の運行と水の潮流によって辿り着く,神々しい海まで。
熱中症は,なので,さながら鉱石採掘の地熱噴出源とゆう所。

だから,夢見心地でゆこう。そう思うのだ,エンパス指向は,気体液状の言葉の影に,
陰謀論を見出して,或いは自然態の影,またエナジー融出点に苛まれるとはゆうけれど
アートマ,それは人間性の最上位とゆうものらしい,思考態と鉱物性の何らかまで,
飛翔していって,荒野でも構わない。もっと,孤独を感受性にまで与えるべきだ。荒涼と
思考は神界まで飛立って良いはずだ。だから,夢見心地でゆこう。皆,熱中気味で堪えて
久しく,Impathie=思考の定点までゆけば,言葉の液状陰謀論も自然のエーテル的幻想も
常に鉱物を食べるくらい硫黄の明るさで黄鉄鉱の耀きであれ,と。本当に無我恬淡の思考,
あの夢見心地の世捨て人の発想までゆけば,それを平和的なセロトニン傾向とも捉えられ
果てない,荒涼とした原野へ,もちろんそれは肥沃な情緒の蓄えられた抽象的地下資源の
宝庫であって。平和観想,広島を訪れていつも思う,フトコロの巨大な自然の大地は,
ここまでどうして,耀きの復興を地球に促して,追悼の一語に専念させる,思考態のあの
秩序,整理された感情の平和。
思考と情緒,このふたつを陰謀論にも負けず,抽象的熱中症候群にも堪えず,または
そのような指向を抱かない必須の要件として,冷室茶房=曖昧普段の日常より,
正直にもう何らかの自分の題目のようなマントラひとっつ,自然一体化と称して,
季節感グリッドしていれば良い。そんな,ただ朝露一滴飲干す。
秋の訪れ,楽しみで,ノームの季節に相応しいのはその豊穣とした果実の爛熟,その裡,
寒さの現われて来れば,言葉の液状化したエナジーを求めるはずだ。なので今だからこそ
陰謀論とゆう抽象的熱中症と向き合える,暑気あたりには冷室茶房には避難しつつ,暦は
静かに繰り返す,季節の平穏な拠り所を。

こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…