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お盆過ぎれば穂の影当たるそうめん流し。

お夜食に,納涼のそうめん流しでお土産に貰った,そうめん。
轟く勢いのなかで進む,この時間の流れ=工業製ロマネスク。
まるで時間の流れそのままのように喉元へ注ぎ込めば,また
工業製ロマネスクとは,お盆過ぎれば穂の影当たるそうめん流しの,
多少は暑気あたりに関して,平和になって来たのかとゆうロマネスク。
花火は巨大で,轟音で,その町の主催している豊かな豪勢さでは,
余りに,豊かさを感じてしまって,帰りに『学生時代』などを聴いて,
涙していた。実際は,岩戸開きのように何故かしらの哀しみを過ぎ,
ドンドン,とゆうリズムに腹の底ビートとゆう変な快適さを以て,
本当に,すっきりもして帰った感情もあるは,あるし。本当に,この
豊かさを感じて涙してしまうセンチメンタル・カテドラル感傷は,すぐに
返って,理由もわからぬまま陶酔してしまう,こんな空調も付けずとも,
Tシャツを着ないで汗つららしてくる最中にも,さっき『○○チャンの,
Tシャツ借りたんだけど,チャーシューみたいな匂いがして。』とアンニュイな
笑いをお互い交わして,深夜さなか,お夜食をはさみながら蒟蒻シップなる
お手当の手伝いをしてBlogを書いている。パートナーシップに蒟蒻シップ。
こんな,空調を付けずとも過ごせる夜半に,冷たい汗を感じつつ,イメージの
裡にある,豊穣の収穫祭は,段々と身勝手な寂しさを募らせてきて,僕達は,
本当に,身勝手だ。

平和の裡にロマネスクを抱く感受性の確かさは,確かにヒューマニズムの礎かも,
知れないのだが,しかし,初秋のスタート地点に腰を降ろせば,なかなか空砲を
手にして,秋のスタートを切れない。鳴らしたとしたら寂しさに心臓の破裂しそう。
寂寥とした収穫祭。なぜ稲穂はあんなに熟した金木犀の香りと共に凛として切なく
気高さの中に強さを,稲穂の強さを蓄えているのだろう?この栄養源は私達の礎。
犠牲とは,稲穂のセンチメンタル・カテドラル感傷にも似て,すぐにこの強烈な,
パッションを,辛口の清酒のような果実の鋭さのようなトゲトゲの酵素を感じさせて
なので,これこそが感傷なのだ。そうして,この強靭な感傷と共に訪れる,奉仕の
気念,『アツイ!』と身を起こしたパートナーの,『あ,蒟蒻のドノ辺が?』と,
近づいてシップを動かそうとすると,いや,このシップは熱くないんだけど,寝ぼけて
どうしちゃったのか?だから,空調付けて?と,ああ,やっぱり冷や汗を感じるとゆう
これは普通に暑いのだ。今日は,有機肥料米のおにぎりと,お豆腐で昼間を過ごしたので
心は快調である,こんな切り出しで僕のおとぼけ加減を少し訂正してみたりもする。では
脱線したけれど,奉仕の気念を概して快く発揮して培う場面,田んぼの稲穂を手にしては
どうしたものか?奉仕の面と,収穫の面は,その”犠牲”。やはり,イノチを刈り取る風習
の,その感傷態で結ばれている。

傷の癒えることを,その癒えて行く感情の事を,概して,感傷とゆう。傷があるので,
センチメンタルなのだ。傷は,概して不幸なので,ロマネスクを欲し,ロマネスクを
糧として,栄養を貯めながら,奉仕の気念を感じて,豊かさに涙するのだ。哀しみの,
あるいは僕は,その哀しみに安らぎの”喜び”を幸福感としてみてとるのだけれど,傷か
この傷とゆう感傷の,身も蓋もない言い方をすれば,なぜか,”犠牲”とは,幸福の傷の
あってこそ起こりうる極端な文学性も見て取れるのだから,不幸の不思議とは,かの,
女流神秘家のシモーヌ・ヴェーユも語ったことだけれど,人生の必須要件なのかも知れぬ。
辛口の清酒の滲みいる一日の傷に,そうして,果実の這入り込む幸せの食事帯に,なので
こうして,お夜食も梅酒になる前の,酵素ウメドリンクを頂いて寝屋に這入る深夜帯,
こうして奉仕の気念で格好良く蒟蒻シップを手伝って,最後にひと拭き冷湿布でお背中
サッとぬぐうのだけれど,氷水で浸したものだから,奥さん驚いて飛び跳ねた。この,
深夜帯,デカフェのコーヒーでは物足りない。かと言って,普通の豆は使い果たして,
昨今,普通のデカフェじゃない豆を夜には呑むことの多かった為か,非常に幸せだった。
チャーシューの匂いのする,とゆうのはTシャツの匂いのする,パートナーシップの会話,
梅の酵素は実にうまく完成するので,僕自身は酵素作りなどは失敗するに違いない,と。
自分の不可能性に確認済みの失意は抱いているためなのか,こうしたお家のシップに乗り
酵素を頂いて眠る夜半,パッションはつとに怨めいて幸福な感傷態を示しながら眠り就く。



こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…