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堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。

眩惑と憧れの,心のフィルターの無さより産まれる,その
ロマネスク。阿波踊りも,堀辰雄氏も僕にとってはスセリビメ。
原初の発案を物するヤガミの芥川先生とは打って換って,それは
酷い言い方かもしれないけれど,心のフィルターを除いては,あの
カオスとラスト・ダンスする陶酔のそれはやはり眩惑と憧れ,では
理想と共にあるロマネスクとは,一枚ぐらいフィルターを付けて,
やたらめったら泥酔までして昏睡にいたる文化的陶酔よりも,もっと
先にある,肝臓のほどけてゆく心地の,ロマネスクとは理想の堅牢さ。
酔ってしまう,いいやゑひもせずなので,もっと浴びるのは冷水泉で,
堅牢な理想に護られた空間を,堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。
源泉は不純だ,って詩人は言った,確かにそうだ。不純だからこそ見詰め,
フィルターのあるからこそ湧き出る泉は飲用水になる。ロマネスクにとって
理想の堅牢さを求めるのは,願いによっては独り室の中で眺める積雪寒椿。
寒いから手袋を嵌め,靴下を履き,布団を被り,外を見やる。だから,
理想のロマネスクにとってのフィルターとは雪被りのようなもので,白雪は愛。
フィルターの付いた陶酔をロマネスクと呼び,あのカオスとダンスする季節は
その季節自体をあらわすのではなく,頭の中から呼びかける人間頭蓋の神秘。
ただ,つらつらと滴る雫。

都市においては町屋の意識は本当に理想的である。あるからこそ,ロマネスク。
文化性を護ろうとして,芸術は自然を模写するし,文化を守るために,彼らは
行進を続ける。耽美だ。言ってはいけないが,堀辰雄氏の文学は耽美でもある。
文化的に耽美である。1つ飛び跳ねて文化→芸術→耽美の境をひとっ跳びして,
都市的な町屋意識にまで飛躍する加減,非常にユーモラスで恬淡と無頓着。その,
そんな感じに見えて,再び太宰の視点を持つのに,ユーモラスではあるが”堀”は,
溝の深い崖っぷちの神を識っている。知己であるからこそ怖いし,ライバルとしては
敵わない。敵に見えて,敵に見えないから,ユーモラスで,無頓着な天衣無縫。
スセリ-堀氏と言ったからには太宰-大貴己は化学の結婚を申合せて疾く論調高き登壇し。

『芥川氏,芥川氏のストレート・ティーは美味かった。美味かったのだけれど,
 堀くんは,ロイヤル・ミルク・ティーを初めて造ってくれた。ちなみに私は,
 似たり寄ったりの,チャイ・ティーを物して振る舞ったけど。
 ”太宰君はチャイ,
 あんな桂皮シナモンの濃い立茶をして供してくれたのだから,一矢報いねば”。

そんな評判を経て,東照宮=信長公=義元公の三者の鼎談は始まるのだろう。
 
 芥川氏は凄い。演出家も出来てライバルも役者勝手の良い好敵手を演じてはくれる。
 堀くんも怨めいては春のツンとした花の香りのような,ずっと文化を護っている。
 太宰,私は,ただ務めを果たすばかりで御座います。肝臓先生のおっしゃるとおり。
 花の匂いに酔いまして,本日灯籠何点立っていたのか,篤と目を瞑ながら数えます。』


化学の結婚。余りにimaginaryな突端をして,本当にこの世界に立っているとは,
どうゆうことなのか,不思議に願いながら,堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。
源泉は不純だ,って詩人は言った,確かにそうだ。不純だからこそ見詰め,
フィルターのあるからこそ湧き出る泉は飲用水になる。ロマネスクにとって
理想の堅牢さを求めるのは,願いによっては独り室の中で眺める積雪寒椿。
寒いから手袋を嵌め,靴下を履き,布団を被り,外を見やる。だから,
理想のロマネスクにとってのフィルターとは雪被りのようなもので,白雪は愛。
フィルターの付いた陶酔をロマネスクと呼び,あのカオスとダンスする季節は
その季節自体をあらわすのではなく,頭の中から呼びかける人間頭蓋の神秘。
ただ,つらつらと滴る雫。頭蓋から外を眺めるとは,文化を超えた肉薄のする,
そんな観察で,もう,一瞬淘汰される文化の礎を超えてしまえばロマネスクは太宰の
既視感に到りvisionary=記憶は記憶として放逐されそれはヴィジョンの上ではもはや
現象ではない。記憶は現象を造る記憶はrealityを連れてくるimaginary-visionary-reality
の三羽がらす。もうすぐ卵を抱えて出掛けるよ。薄緑と青と黄色いそれぞれの宝物。
つとにこの祈りを籠めて,堀辰雄氏の願いいわく,源泉の感情とゆう。の,論評を描き
スセリビメとの婚礼を終える太宰=大貴己のrealism-vision,version-imagine,songの
記憶には,既に祈りの心地に彼の神オオナムチは,平穏とゆうより,ライバル視して
花嫁を嗤わせる為,あの手この手で憶えた必勝法を堀さんの文学に投げかけているのだ。
チャイ・ティーの,あの旨さの解る頃にはもうお手上げなさろうと。
ロマネスクの理想的堅牢の微笑むのは,彼自身の鑑となって花嫁の無頓着さを映す時。



こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…