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残暑過ぎる晩夏夕暮れ。

この頃の季節の暮れごろには,25℃の冷房を掛けて,
贅沢にJazzなどを試聴しながら,ウーロン・ハイは,むしろ
ウーロン茶のままのほうで良い。などと,心地よい空調のあの
送風もとに気を傾けながら。干渉帯のなかでも,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
だから,干渉帯のなかでの自由,このすれすれの,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
ウーロン・ハイは,むしろウーロン茶のままのほうで良い。
など,心地よい空調のあの,送風もとに気を傾けながら。
なので,干渉帯?それは,肩のコリや,肝臓の疲れとして感じる
ピリピリとしたシビれのような。多分,町場干渉帯グリッドの
ここまで地域共同体を意識して,更に理解してしまえばピリピリの
そんな浮腫のような要因なら,理解してしまえば本当に愉しみに。

段々と,地域とゆうものの愉しみの感情的に受け入れられる気の,
確かに,楽しみながら理解のできる,そんな町場共同体意識の,更に
いつの間にか部屋の暗くなっているのに気づいても殊更不安感も煽らず
キーボードを打っていられるのは,紹介して頂いたエディ・ヒギンスの
ポートレイト・イン・ブラック・アンド・ホワイト。この試聴を隈なく
さらっては,さあ,このグルーブ感を,町場共同体に致して活用共有して
ゆきたい。春の夕暮れにも似て,晩夏の夕暮れ時には,まるで花の匂い。
なんなんだろう,夕暮れの安らぎは,ああゆう杉木立のロマンスにも似て,
本当に杉の香の,豊かにしてくるこの彷彿とした,ロマンスの行方。僕は
杉木立のロマンスとダンスしている。むせび咳の出る,あのロマンスと。
太陽光は干渉帯をつくっているのか,本当に昼間の明りとゆうものに,嫉妬
ならぬ,この卑屈な憧れと敵愾感,昼間の行動スタンスとゆうものに対して,
無理解を示す,感情的なロマンス体質にはもう。理解できないよりも,この
理解のできる,すれすれの干渉帯のなかでの自由。夕暮れの杉木立ロマンス。

なので,干渉帯?この不自由さを感じる,妙な木立を揺す振る風の強烈さに,
妙な研究意欲をそそられる,もうその干渉帯は,感情的にむしろのセキュリティ。
物質肉体上のそれは制限によって,把握しておくべき物質肉体上の不制限の,
やはりそれは,干渉帯自身の感情体を護る何かの自由。干渉帯自身の護る何かは,
物質肉体上の自由を何をかする,前向きに言って,干渉帯のなかのすれすれの自由。
この頃の季節の暮れごろには,25℃の冷房を掛けて,
贅沢にJazzなどを試聴しながら,ウーロン・ハイは,むしろ
ウーロン茶のままのほうで良い。などと,心地よい空調のあの
送風もとに気を傾けながら。干渉帯のなかでも,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
だから,干渉帯のなかでの自由,このすれすれの,Wi-Fiは届く,
階下に居ても,この一室まで階上の発信機は届けてくれる。
ウーロン・ハイは,むしろウーロン茶のままのほうで良い。
など,心地よい空調のあの,送風もとに気を傾けながら。なので,
干渉帯そのものになってみれば?それを不自由とも感じて,なにかすれすれ,と
曖昧普段に唐突に表現するのなら,区別する事なしに,干渉帯と同一化する?その
不自由とは,むしろウーロン茶と空調の裡に佇む僕自身なのでは?そうゆうことに,
して,きっと,こうして観想を書き連ねれば,あの束縛されるような自由に,むしろ
護ってくださる干渉帯の自由に,飛び込んでは,初めて”思考する自分”に気づく。
その,”自由”とは本来,
”思考する自分”の自由だったのだ,って,はっ,としながら。




こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…