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イザナミ考と,MEDIAの産褥。

ヨーロピニアリズムは,イザナミに源流を持っている。その,
大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=推古=持統=光明の女神を,
羊飼いを導く,聖ガブリエルやイザナミ太母として捉えて,
かたや,ヘッセ=セネカ=パスカル=ブッダ=プラトン,
=アッシジのフランシスコ=ジャンヌダルク=エリザベス1世,
=アウグスティヌスの系譜を,受胎告知されたマリアとはして
ヨーロピニアリズムは,イザナミに源流を持っている。その,
彼の太母の事を,また比婆ともゆうらしい,その比の字の表す
トランスジェンダアな何をか想像しては,植物的スピリチュアリティの
彼が男性として現われたとしても,やはり彼の本性は大谷崎のような
文豪として姿を顕すのだ。なので,善悪の彼岸,この源流に差掛って,
ふと,僕自身の源流体は,太宰=弘法大師=聖武=九郎義経=今川義元,
=ダヴィデや,また=龍馬などのオオナムチ的な嗜好で遣って来た帰来の
あるふとそんな最中,やっぱり源流を見定めるとして我が定めし源流体は,
堀辰雄=平清盛=嵯峨天皇=南洲翁=信長公=フビライ汗のような浪漫体,
決して誇張ではなく,人間性は肝臓を壊して一向にむかうのは,堀辰雄の
浪漫体に間違いには如かずの,このロマネスクである。

ロボ王国だ,この差掛った王国はロボの支配下。古かしい言い方ではあるけど
ロマネスク機械化風情を物足りず眺めるのなら,植物的スピリチュアリティは
何らかのMEDIAを産み出す産褥のロボ帝国であるはずなのだ。自由はある,その
あるはある,がしかし,統制管のない訳ではない存在するとゆう事の中にこそ
コントロール能力の秘められている。自由は,機械化したロマネスクのいたって
自然に醸し出す存在論管制塔なのである。ロボ王国まで差掛れば半分捨て去った
肝臓先生の繊細な機微の感受性において,もう既に,イザナミの宇宙芸術観にまで
いたって静かな,木目調の香りを融出させているその光りは手すりの木ヤニ。
いまだ女性性の本質まで肉薄のできない道すがら,これくらい言葉尻の上でしか
イザナミ考の接近は出来ないことのやはりロマネスクは近親のダンディズム視野に
配下として置かれているの節を持って,たばこも遣らない,お酒ものまないのなら
勝手なものでそんなものなのだ。ロボ王国まで差掛れば半分捨て去った
肝臓先生の繊細な機微の感受性において,もう既に,イザナミの宇宙芸術観にまで
いたって静かな,木目調の香りを融出させているその光りは手すりの木ヤニ。

イザナミ考と木ヤニの雷鳴。轟く快音のすれば通り雨はもうすぐ。何もかも濡れて,
しかしながら焦って洗濯物を取込むそのさながら,通り雨も自身,風神雷神さまの
急ぎ足なのは確かなのだ。ロマネスクの急ぎ足に運筆を試みては,それが生き甲斐の
裡には急ぎ足で通り過ぎる雷鳴後の驟雨をしっかり刻印づけて人生史の歴史にしっかり
刻み遺そうと躍起になっている。急いでいるのではなしに多分,フットワークの軽さ,
1日の長さに比べて,5分の経つことの速さ,しかし彼にとって5分の全てで病なのだ。
立原=秀頼=劉備=千利休=半蔵=一遍=乾退助=橘逸勢=安徳天皇の宮島などを訪れ
何時も感心する,この堀-清盛との縁故を願って,いつぞや夫婦でパートナーシップの
平和記念に訪れた間際の,これは油屋の二人の尋ねているのだ,この故郷は何処ですか?
犀星先生や朔太郎さんなどの何時も居られたら,何と楽しい余韻の続くことだろう。って
決して誇張ではなく,人間性は肝臓を壊して一向にむかうのは,堀辰雄の
浪漫体に間違いには如かずの,このロマネスクである。
紅いワインを呑みほそう,美味いアイスを舐めては堅めのそうめん啜り込もう。彼の,
あの乙女峠などの殉教の地や,オランダ坂や,シッポクや稲荷ずしなどの記憶を逆手に
ブラブラ漂って,南洲翁-信長公のあの傷と幸せの両刃の記憶精製機械を,
ロマネスク機械化風情を物足りず眺めるのなら,植物的スピリチュアリティは
何らかのMEDIAを産み出す産褥のロボ帝国であるはずなのだ。自由はある,その
あるはある,がしかし,統制管のない訳ではない存在するとゆう事の中にこそ
コントロール能力の秘められている。自由は,機械化したロマネスクのいたって
自然に醸し出す存在論管制塔なのである。




こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…