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(そんな気がする)聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。

『とにかくも,”意識”を保ち続けることだ。意識を,ただ
 集中して,堅持維持,ハッキリ保ち続けることだ。』って
何だか,そんなことばかり考えている昼間だった。珈琲を,
そうして,眠りどころではない,聖か,俗か?腸づまりのロマネスク
このあいだ,ひょんなことで,スイカの酵素造りをさせてもらって,
完全に完成したのを少し,残していただいたら,それを黒茶と割って,
これが,また良かった。聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。つまり,
俗なのである。いくらロマネスクより乖離してみた所で,スイカ酵素を
頂いても,つまりは俗であって,いいはず。性聖説より,性俗説に,まず
とりあえずの,一票。それを,腸活を以て,自己腸一性,そうして本当の
自分=”腸”探し。聖汚混濁の,これをして,カルマ・ヨーガ的な,答え。
としてみたいのだけれど,業とゆうものを鎧として身に付ければ敵なし。
とゆうか,それは至極当然で常識じみた事柄ではあるのだけれど,聖か,俗か?
腸づまりのロマネスク。の中にあって,これは,非常に”聖性”とゆうモノに,
サンクチュアリの在処に関して,”自分”やら”自由”やら,”真実”と掛けて遣って
来ては,それは”業”なのであった。身体性じたいの,”業”なのであった。そうして
それらを,常識に鎧めいて身体性に結びつけられた時,腸活は終わり,始まる。

瞑眩作用の強く出ているこんな夜更け最中であるからこそ,幸福は存在し,Karma,
などとゆう,大それたテーゼも常に含みつつ祝祭還元の如く,演じられ,語れる。
ほんとうはセンタリングなどとゆうキーワードも,カギは”腸活”であるのだ。って,
今気づいた次第。食事の際にも,よくフルーツを食べられるくらい気遣いの出来る,
そんな食卓を演出できるようになった。瞑眩作用,これは,今までで,三回目くらいになる。
一度は,ハーブティーを呑んだ時,異常に疲れている自分を感じた。二度目は,どうだった
ろう?何年も前だろうが,何かで,登山がえりか何かの折に,強くそういった,くるくる
目眩のするような気持ちのよい瓦解する身体性を感じた。それ以来,何故だか,冷めてしまって
腸づまりのロマネスクばっかり,”考えて”きたようだ。これが,僕自身のスイカ酵素の,更に
黒茶割によって,完全に胃腸は,空っぽとゆうか,入換えできたような感じがするのだ。
胃腸の入換えとは言うが,ここまで,”腸”は第二の脳。とゆう名フレーズを追認出来る気の
する夜辺はなかった。瞑眩,とゆうより,本当に整腸作用に消化不良の快癒を感じて,まず
胃腸の活性化のできたことに,空砲のような乾杯!!

ここまで,胃腸の抑制されているのは,今更常識めいて,気付かなかったし,正直のところ,
美味しい健康飲料を呑んで賦活されているだけで,きっと,明日にはロマネスク大臣に,
つい,と戻ってる気もしないわけではないし,以上の話からもそう簡単に意中のひとを,
射止めるような,おいしい”胃腸の入換え”話の転がっているはずもないのだから,けれど
勝手に瞑眩作用と銘打って幸せにホコロビを繕うような,そんな咆哮を,心のうちで挙げて,
慎ましやかに眠ればいいものを,もう少し,起きてよう。お腹のグルグルする。品のない,
そんな話で失敬千万ですが。何だか,悩みも終りそうな,そうして,業の泉も”普段着”に
返られそうな。聖か,俗か?腸づまりのロマネスクつまり,聖も俗もないのだ。なので,
聖フランシスの”私をあなたの道具として使って”とゆう,あのセルフ・サクリファイスな
祈りを,さあ,そういえば思春期の頃より,何故かずっと,心中抱いていたのは,むしろ
聖フランシスは”腸活をしていたのか?されば,”とゆう,私の神経症的,ロンドン留学の
ようなこの卑下する,聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。とゆうようなテーマは,いかに
ここまで響いてくるのか?祈りとロマネスクは,結びつかない。ここでは,仮定より断定。
終に,祈りは,”業”を鎧として身に付けて,聖か,俗か?腸づまりのロマネスク。その,
俗世人としての祈りの在り方を問うTERMに来ている。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…