スキップしてメイン コンテンツに移動

肉迫する,モミジの木洩れ日

B.ラッセル=国王ルイ16世=I.ニュートン=N.クザーヌス,
そうして,彼らは始祖にソロモン王の王冠を,いただいて。
E.ブロッホ=マリー・アントワネット=L.ダヴィンチ=T.アキナス,
なので,彼女らは王冠にシバの女王の花を手向けて,なので,そう。
『自然の中に,境界線を超えて嵌入してゆくと,解るモミジの色は
 すでにもう。肉迫する,モミジの木洩れ日に耀いて,葉の裏には。』
お茶とゆうものに,肉迫した感性は和らいで,凄みのある茶葉には
そういった脱水を逃れさせる快さの一種。根本的な解決法をみるのだ,
山に挑戦するとゆうのは宇宙大戦を勝ち抜いて行くことのように難易の
高い,相当な支配構造へのTryin'をみてとるのだ。山に登るは怖ろしい。
夜更けて夜明けよりの,とんでもないこの挑戦式に対する果報の届け先,
間違ってはいませんか,いいや間違いにチガイないのだから,もうすぐ。
お茶を啜っては迎える夜辺のあたって,もうすぐ,解放系の報せは届く。
Groundingってこうゆうものだったかしらんあのうしりませんかこれは

B.ラッセル=国王ルイ16世=I.ニュートン=N.クザーヌス,
そうして,彼らは始祖にソロモン王の王冠を,いただいて。
E.ブロッホ=マリー・アントワネット=L.ダヴィンチ=T.アキナス,
なので,彼女らは王冠にシバの女王の花を手向けて,なので,そう。
『結局は,業の泉に,バザールに都市圏の雑踏に,紛れて暮らすのだ
 この感性以後の,ですから間違ってはいませんこれは幸せの届け出』
自らの中より自然の抜けて行く。肉迫した,あのモミジの液汁の,果実の
またそれのように甘い芳醇さで抜けて行く。Moanin'さまざまなArrange,
口々に呟くその言葉は,もう言の葉には違いないが,意味は持たぬ響きの
だから,相当な意味で呟くのでない限りもう無意味に帰すそのLOGOS態は
そもそも”言葉”とは,もう響き以上の,数学的な”音韻”ではなかったか?
化学の結婚ならず”数学の”結婚。British Completing Marriageだったのなら
私達は,ソロモン王とシバの女王,ひいてはB.ラッセルとE.ブロッホの,また
N.クザーヌスにT.アキナス。I.ニュートンとL.ダヴィンチ,そうして,あの。
ルイ16世とマリー・アントワネットのカップリングをして,で以て,産まれて
来たのだ。そうゆう産褥の決意を表したいのだ。それで,で以てまとまるのだ。

こうゆうことにしておきたい。転生の秘密があるとしたらば,前世ゲームは,
書物の渉猟文化そのものほかのなにものでもなく,転生は自分で択び取るのだ。
僕は,親くの庭園にニュートンのリンゴの木を見付けて以来,ほんとうにその,
リンゴの若木を愛してしまって,知性的な純粋に哲学的で爾来的な,そうゆう。
イギリスの完成者のB.ラッセル=国王ルイ16世=I.ニュートン=N.クザーヌス,
そうして,彼らは始祖にソロモン王の王冠を,いただいて。
E.ブロッホ=マリー・アントワネット=L.ダヴィンチ=T.アキナス,
なので,彼女らは王冠にシバの女王の花を手向けて,なので,そう。そうして,
彼らの数学者の婚姻をみて,完成品として書物の渉猟=前世ゲームののち,
自らに授けたのだ。こうして,哲学的買書地獄は,宝物を蔵する書物の玉手箱に
収束していく,納まってゆく。なので,本を購うのは良いことだ。忘れずに,中に
何が合ったのかさえパズルのワン・ピースとして持って歩いて行くそういった態度に
言わずと知れた,文学の太宰,芥川,漱石山人にいたる様々な書家文人の集ってきては
書棚に一服を掲げて”対話”して還ってゆく。こんな,言わずも呟きを,
『いい時代になったな。こんなにも文字が舞っている。』
残しながら彼らも,一つひとつの字義に戻ってゆくのだ,会話はもうすぐ一徹。
して,肉迫する,モミジの木洩れ日。
モミジの液汁の,果実のまたそれのように甘い芳醇さで抜けて行く。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…