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文士遺るは,赤影の蜂の亡骸。

言うは曰くに,勿論,赤影の亡骸を以て。ジェット噴射するスプレー
の,赤影の蜂と勝手におぼしく名付けては,あしなが蜂の巣を至る所,
勝手口の下駄箱付近や,物干しの蔭など,本当に至る所,けれども人の
通うところに秋の入口に立って,盛んに巣をこしらえ始める。もうすぐ,
ムカデの居なくなる頃と安心していた矢先のこの蜂の大軍である。なので
奥さんは『蜂は宇宙の賜物』と,蜜を造らない者たちに限っても,殺虫は
反対なのだけれど。かと言って,刺されて自分が死んでしまっては。もう,
こんな漫談のような対話を続けて購って貰ったジェット噴射するスプレー。
これがモノ凄い迫力で活躍するものだからビビってしまった。それはもう,
はたきでホコリを払うのとはまた違うのだけれど,悪い虫を追い払う,こんな
無邪気な冗談は止めていただきたい。ブシューっと噴射しては追い払うのだから。

そうやって,ベネディクト派のグレゴリオ聖歌などを引っ張り出してきては,また
スピリチュアリティに元の所へ戻っては,残酷性は,また少年性や,精神性のなかへ
克己して敢闘して還ってきた自分の居場所は,ジェット噴射する蜂の駆除スプレー。
最初はムカデのスプレーで弱々しく,シューとして対応していたものだ。往々にして,
毒素の強い害虫には同じような効き目があるのか,ムカデのスプレーには,ゴキブリは
あまり効果のなかったのに,蜂の群れに関してはポロポロとこぼれて行った。虫の息。
家を護る,とゆうのはこうゆうことなのだなぁ。何故かしら,遣ることもない日暮れに
一応の充実感とアクビを共にして,グレゴリオ聖歌を聴いていることも忘れては,
その,残酷性の還ってゆく,何かしらの古里,それは,スピリチュアリティ,少年性。
何か,花の開花してゆく兆しを見るようで,その瞬間には,きっと芳香もはばからぬ,
方向さえ見境いのなく,スパイシーな醇風は,漂い飛散してゆくのだろう。まるで,あの
夜更けに視る灯り。ぼわぁっと夢の中で訪れた芳香は,そうして,夜の頭脳に拡がって。

残酷性の還ってゆく場所。これは,秋の爛熟したイチジク。イチジク以上に,林檎の
あのコンポートに自然必然成ってゆく燦々と陽光の秀でる,スパイシーな芳香には,
爛熟するからこそ蜂の駆除も始まるし,それくらいのスパイスのあるから,だから。
残酷性は,スピリチュアリティと少年性に別れて,夢の旅路を還ってゆくのだ,記憶の
あのこの世に産まれてこようと思った,産褥の決意の場所へと,よく観れば,聖歌は
Salve Regina,聖母を祀る歌だと知った。この不可思議さ,少し酸っぱくなった位の
酵素を貰えば,必然的に豊穣の秋へと心は向かい,

居てもたっても居られないくらいの心は,夜の森へと弾ませて宴の奏でる変奏を聴く。
薪の燃えるその酸化の始まる丁度あかい炎の産まれる所に,すべてのスパイスのある
のだ。薪の,その炎の変奏は,至る所スズメバチ焼酎。珈琲焼酎。100kmの夜間行軍。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…