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酒粕の匂いに沸き立つ我が身体。

この身体自体の酒粕であったと言って過言でない。そんな,
オリジナリティを,吾輩は太宰である。と,太宰的な何か,
そうゆう地上的な業の泉に浮かべていたのは,酒粕の漱石。
アウグストゥス=LONDON ONE,こういった詩的仮説を唱え,
太宰は実に地球の王で,時にマルス(軍神),あるいはガイア。
地上の半神半人,彼(彼女)らを総称して,太宰=地球の王。
昨今の古事記=オオナムチ神話の対照・対応対象・比較論は,
こうして自らをバルタザアル=アウグストゥス=漱石山人の
仮説を唱え始めた所で修了(終了)したい。ところだけれど。
地球の王さまだけあって,かれを例えば,太宰的な人生をして,
追ってゆけば,確かに『業の泉』に憑りつかれる。なので,私は,
といったところで,吾輩は太宰である,こんな流暢に創唱しなければ,
何も始まらない。諧謔である。ペーソスである。そうして,残酷にも
文学性は,諧謔により終わり,ペーソスによって修まる。こうやって
僕も,人生論を小箱に納めて行くのだな。LONDON ONE,確かに。

正直に,もう”カルマ・ベータ・ヒーリング”など,持論をもって,そこに
浸りきる,地球自身の行き方など,辟易狼狽,疲弊してしまいながら,
やがて,漱石スサノオ山人のもとに,駆け込み訴え。決して,太宰に対して
反旗を抱いている訳ではない。それに,これは寓意とゆうもので霊性とゆうか
そうゆうリアリティにも掛けてはいるのだけれども,人間的な行き方ではない。
諧謔・ペーソス。詭弁ではないか?漱石山人の描いた姿は,すべて詭弁家の,
あれやこれや。そうだ,アグリッパにでも言い残して,聖書伝説もああやって,
詭弁家じみた遣り方で,ねえ,アウグストゥス=LONDON ONE,あるいは,
バルタザアル=漱石山人,あなたは,骨身に沁みる,哀切=ペーソスをこうして
胃潰瘍おこすまで蓄えながら,滅びていったのですね。そうして,私にまで。

私にまで,遺した。諧謔,諧謔。こういった事を考えさせる,漱石山人のズラし,
スライドさせて,フェードさせる音量のあれやこれや,これ,何て言ったっけ?
シュールな,哀切に満ちた,それを,そうか,皮肉=イロニーだ。そうやった,
ウナギよりも穴子の方を好む。それは史実かは解らないけれど,だから,酒種の
生地で発酵した餡パンをより好み,耐えてたえて,もう後世に遺すまい,そう決意
しながらも,瓦解して酒になってゆく,Osake Funji=酒種酵母の行き方は果たして,
漱石山人=平宗盛=源実朝=太閤秀吉=後醍醐=道鏡=一茶(あくまで,持論)の
アウグストゥス=バルタザアル=LONDON ONE的行き方に親い。これはシンボリズム
か,あるいは寓意化なのかは判別しづらいし,そもそも転生自体にリアリティはない,
そうゆうものは,リアリティではなくユーモア=諧謔である。とは,信じているので
あえてそれは酒粕的ギャグと思って嗅いで頂きたい。

一応は,もう転生譚でもなんでもなくなっているのだけれど,歴史小説的展開を以て,
太宰=弘法大師=九郎義経=龍馬=聖武=今川義元=独眼竜=北条高時=中臣鎌足,
=徳川綱吉公とゆう十人の登場人物をもって,彼らを大黒さん(オオナムチ)や,
シヴァ(またサラスヴァティ),艮金神さんやトビナガスネヒコ,イシス・ダヴィデ王。
こんなトランス・ジェンダリックな,半神半人。時に,マルスの軍神,そうしてガイアの
地球の王。そう,差し置いて,この古事記譚性展開論をもうすぐ終えようと思う。
こんな事,何でもないのだけれど,最後は諧謔には持ってゆけない重い話になりそう。
なので,納戸に扇風ファンをしまって,空調は掛けながらオデンを冷ますので,コンロ
掛けながら様子をみる。まかないに三つの大鍋はやっぱり秋口のこの季節,傷まないよう
神経使う。ちょっと眠れないので羽毛布団被ってもう目を瞑りたいくらい。
とにもかくにも太宰的地球の王は,漱石スサノオ山人にとっては諧謔に付すことも出来ぬ
真面目なお方で,かと言って諧謔の神,ギリシャのユピテルみたいな山人は,決してこの
惑星の住人ではない,ので気持ちは解らない。なんだよでは何で出逢っているのだろう?
これが文学の面白い所でもう醒めそうにもない。
一笑に付すとしたら,酒粕の匂いに沸き立つ我が身体。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…