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幸せより,御簾あわせ

人生変わる所なく,季節は巡るけれど。何故だか,身体の
あちらこちらは,干渉された電波障害みたいに,何故だか。
電波は見えないだろうけれど身体のあちらこちらは感じる
ことができるので,思わず野草の酵素ジュースを呑みながら
冷風を強く浴びて,涼し気な環境に渋い面持ちをしながら。

”環境を感じることのできるようになった”とゆう具合いには
落着かないのだろうか?自他即天然自然と言ったように,また
いままでどれほどの想いで『自我の強烈な分布図を計らずも置き,
更には,狂暴なまでの言葉のあらしを焚き込みあばれさせたい。』
と,臨んでいたのか言葉のあらしに身体の無意識は気付き始め,
Take1,2でインタヴュー形式に行けば捉われずに自然一体化,と
表明するだろう僕の知性の部分も,無意識の身体は叫びを,そう。

思わず野草の酵素ジュースを呑みながら
冷風を強く浴びて,涼し気な環境に渋い面持ちをしながら。
冷風を浴びていても,真夏のあいだに合たった,熱い視線を,
太陽のもとに還すことも出来ないで,唸る様にうめいている。
そんな時期なのだから,自分の我ながら無意識の計算意図に,
気付きながらも,気づいてもどうしようもない。
”環境を感じることのできるようになった”とゆう具合いには
落着かないのだろうか?自他即天然自然と言ったように,また
そんなように落着いて,不可思議に氷枕などして,あのとき,
アイスのんは本当に便利だ,気付いたことにさえ,祝福を。

幸せより,御簾あわせ

月の合間から下ってくるしずかな視線を感じる事さえ,嬉しくて
そんなことなら,Squared Pandra,拡大閉鎖された,”幸せ”よりも
蔭ながら応援してくれて,ゆるゆると夏の間の物陰に,ひっそり,と
蓄えられた涼しさの恩寵を,さあ,もうすぐあなたたちの時代ですよ。
そう言って,そう言われている気のしてきては,手を挙げてこう語る。

これこれ,こうした,気の速みは,変わることはないな。そんなら,
桜見の見物に来なった観客勢にも甘酒と,麩饅頭を笹に丸めてな。こう,

僕は,明治の時代に産まれた太宰の過去に,龍馬-独眼竜-今川公-高時-,
九郎義経-弘法大師-聖武の翳をみては,歴史小説の端くれを齧るところ。

謂れは,こうにも,どうにもこうにも。歴史は小説のように発端を無視して
人間味の自由を臭みを以て出掛ける由。どうにもこうにもゆかないな。

月の合間から下ってくるしずかな視線を感じる事さえ,嬉しくて
そんなことなら,Squared Pandra,拡大閉鎖された,”幸せ”よりも
蔭ながら応援してくれて,ゆるゆると夏の間の物陰に,ひっそり,と
蓄えられた涼しさの恩寵を,さあ,もうすぐあなたたちの時代ですよ。
そう言って,そう言われている気のしてきては,手を挙げてこう語る。


こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…