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蒟蒻のないオデンは,パワフル

心理学に他者の余地はなくていいのかもしれない。むしろ,
それは当然のことであって,他者の介入する心理などはなく,
水が慣性に従って宙を舞うように,惰性的にでも生命は余地を
残さずして,『私』を鏡のように反射しているに過ぎないのだ。
芥川氏=東照宮=藤原道長=称徳天皇=最澄上人=源頼朝のような
アマテラスさん恵比寿さんを象徴するような姫神の女神たちは,
そういったパワーのある様子で,非常に体力的に”僕”を映す。これも,
また何かの余興かと思いつつ,芥川えびす氏は,心ならずも,この心
を映す,鏡なので,朝の洗濯物を干す我が手つきに,哀れ蚊も寄れば,
生き残った女王蜂も姿を現して,とんでもなく淋しそうである。なので,
その手つきは,足つきに寄って来る哀れ蚊と言いつつとてつもなくパワフルな
彼を,寄せ付けては放っておくただの気概さで,淡々と物干しへ乾してゆく。
今日は,たくさんの洗濯物で,衣文掛けはそれくらいに家には一杯あった。
お祭りの残りの材料で,ことことコトコト,オデンを煮込もうとして火にかけ,
醤油,お出汁,ミリンだけ加えて,あとは小一時間の様子をみるので,大根は
しっかり火の通る頃にお昼だ。お腹の調子は敢えて残暑疲れなのか疑うほどの
少食なので,もしかしたら食べないかもしれない。

ゴッホの耳の傷痕のような,耳栓をしたようなトラウマを抱えていたけれど,
そんな妄想に任せて,V.ゴッホ=M.ロベスピエール=A.シレジウス=J.カエサルの
4者を並列に寄せて,そんな時に芥川氏の訪れた,とゆうより浮き上がって来たのだ。
もちろんそれは,カエサルの4者とは脈絡のない発展だけれど,耳栓の抜けたような,
これで彼は,ゴーギャンとの軋轢確執とも晴れて,妄想上訣別したのだ,とタカ括り,
そうして我に還れば,芥川氏=東照宮=藤原道長=称徳天皇=最澄上人=源頼朝の
体力の源泉が待っていた。鏡として映し出される心理。だからこそ,他者に目を向け,
夢をみたいのだろうが,心理において他者は禁物であって,むろん心理上=感性上は,
他者より無論,自分を映し出しているに過ぎない。だから,そうすると他者以上に,より
自分自身の,無に親づいてゆくのに気づいて行く。そうして,こうしている裡にも,あの
大根は,弱火に掛かって,ことことコトコト,少しずつ甘い汁を煮出され,繊維も柔らい
ふんわり海綿状の鏡のように自分自身に親づいてゆく。調理するのは,加熱に関して言えば,
酸化などと言うにしても,還元的にみられることの多い感じ,これは,本当に,
水が慣性に従って宙を舞うように,惰性的にでも生命は余地を残さずして
柑橘の果汁のほとばしるように,ようやく体力的に宇宙空間に発信されて,交流。
1個に天体化して自分はもうまさに,蒟蒻を入れ忘れたことに唖然としながらも,
むしろその材料は残っていなかった。なかったにせよ,具材に蒟蒻なし。こんな,
返って無心に嘆く瞬間ってあるのだろうか?

にしても,蒟蒻のないオデンは,パワフルで,煮卵に茹でた玉子はいれたし,あとは
モノのこれはご褒美,お餅巾着,そうして外れたラインでウィンナー,それで大根。
本当にこれだけで多量に残っていたので,自信満々にオデンと称して,醤油,お出汁,
ミリンだけ加えて,あとは小一時間の様子をみるので,大根はしっかり火の通る頃に
お昼だ。お腹具合はさておいて,造ることは自由で楽しい。それで,化学変化のような
食物の現れ方も実にロマンチックで,無から有を産み出しているよう。だから,転生譚。
この,並列に人物をならべる遊びも,きっとこれは調理するような感じの化学反応の,
お腹に入って,食事のあとでごちそうが必死で栄養価の高いパワーに変わろうとしている
その状況にも酷似して,こんな転生譚化学反応を,無から有を産み出す感じで,楽しんで
それは,現在は芥川氏に移っているのは良いけれど,それを自分の鏡と論考しているのは
厄介だ。オデンを頂いたら,そんなことはスッカリさっぱり忘れているのだろう。それは
興味本位とゆうより,書物の渉猟=前世ゲームとして,読書鍛錬の研究にとっては必須,
なくてはなからざるものとして君臨する存在論的嗜好である。
にしても,蒟蒻のないオデンは,パワフルで,きっと,少なめに入れた醤油の出汁と
合わさって,地元産の大根の煮汁と相まって,良いコクを出しているだろう。
お腹の調子は敢えて残暑疲れなのか疑うほどの少食なので,もしかしたら食べないかも
しれない。こんなことを言いながら,前世ゲームの書物の渉猟文化に対しても,いつも
そんな感じで向き合っているので多分,お出汁を啜ってその時点で,何かは変わる。で,
芥川氏や,V.ゴッホもいつものごとく,仲良く普段通り旅立って,炊事場の窓より飛翔,
ぼくは微睡んで,出汁を啜る。こんなことで,いつまでも出しっぱなしの扇風ファンを,
いつかしまえるようになったらと,季節感に先行優先したくて変な焦りを感じている。



こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…