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11月, 2017の投稿を表示しています

サマーランドの芥川氏と,恵比須顔の東照宮に寄せて。

水の構造は,傷ついた心の求心力に膨らんだ革袋のようだ。 世界中をめぐる革袋の水力精神には,グリッシーニのような 棒立ちの個性が良く似合う。むしろ,傷ついた心には人間の, 普通の個性が,何より必要だ。とは,時間経過で,チーズに 化してゆく,そういった発酵過程にも良く似て,個性化する その繊細な感性は,個性化する,モッツァレラのような革袋には, 酵母を入れて,桐の花眺めて。プツプツゆう,ドーナツ盤の音源にも そんな酵母を活かしてくれるような余白の,その安心感をみては 函館の坂を登った教会群に,傷痕の神秘性を感じ取っても,また その中に,非常なロマンチシズムを嗅ぎ取るのも,決して間違っては いないのだ。むしろロマンの先立つ一般史観においても,その傷跡の 香りは,前向きに言って,教会群の芳香性は,”世界はまずもって陰性”で, けれどそこより”かならずロマンを産み出す必定の発酵精神”を垣間見させる。 豊穣性なのだとゆう,世界精神は,”生命宇宙”でもあって,もっとプツプツ, 音源は確かにその表現の落ち着いた,あまりに安心感を促す何かで。
一度,ベルフォールのライオン像のような足先のアザに対して,ロマンを, かならずそこには”何かのロマンのあるはず”として,LONDON ONEと銘打って そのライオンを観察してみて思う。僕にとって,ロンドンはアナトール・フランスに よって,あのサロメの母のヘロディヤのようにシニカルにシュッとして響くのだから, ライオンのアザはアナトールのものであった。そうして,それを奪い去って,日本に LONDON ONEを持って帰ったのが,留学時代の漱石山人たる,桐の花の夏目先生だ。 芥川氏は,先生をみて,バルタザアルを訳したのだろう,アマテラスの岩戸開きをして, 世を輝かすのは,芥川氏以外には居ないのだ。ロダンはその時代,地獄の門にうずくまり 出雲の国の大黒さんのように,恵比寿さんと手を組んで,世界の精神トイレを構造化し, 常に,青空にエーテルの輝きを創出して。イザナミ神の大谷崎は,映画の美徳に酔っては 水晶化する大地のロマンを,水の構成とは真逆の遣り方で,三面鏡には真顔の阿修羅。 トーマス・マンは,”人間の父”のような様相で,R.シュタイナーのゆう”人類の代表者” たる,大ゲーテやシェイクスピア,あるいはまたミケランジェロの表情で物書き表現を。 そうし…

到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。

三島と太宰は,弁慶と九郎義経のようだとすれば,彼女が,彼を ストーキングしていたのではなく,その文化人たる場末の湯上げは 決してカラフルな手ぬぐいではなく,やわらかなフンワリしたもの。 世界の音楽は換わって。到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。 妙に,スパゲティを啜りたくなる夜更けに,デカフェの珈琲でさえ,目の 覚めるのは,コダワリよりも,到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。 意味より,意志の文学であるとすれば,そのリズムとブルーズに裏打ちされた, 音楽によればブギウギの出発点に,融解する流動的な”意志”よりも『脱力意志』の 分娩された,数々の希望や,心得を,イザナミは,ストレイトに,巌の意志へ。 宇宙船で流れているような音楽を聴くことのできる時代。本来の町場は,宇宙船の 存在基地で,その実在論は,そのまま,意志の詩学へ,ドリップオン・トリップ。 何か,言葉は『意志の飛翔』を垣間見て,詩学のほうへ一滴一滴抽出されるようなのだ。 脱力しきれば,自我はない。けれども,その何かへ向かう意図のあり方とは,その姿は 巌の意志へ,怒りのない,怒髪天。そうして,鬼の形相の,不動明王の優しきほむら。 到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。そうして,カリカリしゃりしゃり。 繊維質の何かを噛んでは,押し戻す酸味の上に,辟易しては狼狽している姿には,仏の おなぐさみ。そのさわやかな,福音の一種。
もう読経は,アメイジング・グレイスの調べと融合する時代なのだとゆう。抽象的な救い それを,福音と称して受けるものならば。空間にながれるアルコールのような生活経には すでに,グルメのなますなどあふれて来て,それは,洋風のピクルス・ファッションに, ちがいない。エコボトルなどに,常温のお茶をストックしては冬場に親づき,一ケタの, その気温には,すでに冷水のように感じるが,相変わらずお炬燵などをだして来てはその お茶を啜る経過に『ああ,なんだか世代間ギャップにあらず,世代間シンクロなのだな』 納得して,氷を保存しておく。いつまで夏が来なくっても,出来立てのお茶には一粒二粒 入れるでしょう?もう,ソレで良いのだ,とお豆腐に醤油の合うだなんて,誰が決めたの と,僕らは想うその時,むしろ大豆同士で,ほんとうに相性のよく,これほどの適当な物 は,お互いそれ以上にない。そんな風に思えて…

時間推移と,相互矛盾する内実共に才色兼備の理想を以て。

身体を動かしている時ほど,頭は働かないものだ。また, 文学における創作意欲は,スケジュールに追われるほど, すくなく,むしろクリエイティブとはシナリオライティングに おいては,停滞している時の,貯金を更に温め続ける感じ。 時間推移と,相互矛盾する内実共に才色兼備の理想を以て。 すべて,流動的に放出し続けるときほどの,時間推移で。 想いは,むしろ,対極の事実より創作にこそ重きを置いた方が クリエイティブで,時代は動くだろう。そう,時代が動く時は クリエイティブで,欲望の対極にある,事実と向き合った時でも あるのだ。相互矛盾することの大事さ,この対流するストーブの 灯の熱源は,いつも陰と陽を繰り返し推し量りながら,眠りの手前, コーヒーを呑むことも忘れるほどのウツラウツラした瞬間にこそ, この時代の動く,迷妄の蒙昧とした,連綿と連帯した恬淡さで, 動くうごく,時間推移と,相互矛盾する内実共に才色兼備の理想を以て。
特に自動車を壊した訳ではないのに,スクラップにしたような夢を見て,
それは事実,違う惑星ではおこなわれているかのように,リアリティを
以て,迫ってくる。この,夢のような意識の,スクラップとは然り。この
忘れることのない,身体は休息を求めている寓意の,白昼夢なのだろう。
デカフェのコーヒーを呑んだのに,書店で催すくらい,効いている。普段の
寝不足で,力不足の眠前にカフェインの強いコーヒー習慣を忘れるくらいの
スケジュール過多だったように感じるのに,デカフェは思った以上に強壮だ。
今日はロマネスクを忘れた。忘れた以上に,時間とは,文学を奪うものだ。
眠りに落ちた瞬間に,カフェインなど摂っていなかったことに気づいた身体は
休息を許すだろうか?まだ,何か,アート・エンターテイメントを,享受して
写真加工や,色とりどりの表現を堪能したいものだから,なので,この際は,
何をするにあたっても,眠れない時ほどローズマリーを勧める慣習にあっては
わかります,わかりますけれども,きっと,温めることのほうが,そうして
ほぐすことのほうが,より大事だと思いますよ。これから,お茶を啜ったら,
寝室で,しっかり横になって,暖まりましょう。これは,とっくりタートルを
着ているだけでも違っていて,例えば,切なさは命の表現である,など。言って
探っている本質にあっても,もうそれさえも温まり…

少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。

大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=光明皇后=持統天皇=推古天皇は, 日本の白玉のイザナミをあらわしてはいるけれど,それは少彦名。 少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。性愛や,龍神の玉の あの,燕尾服の似合う初老の紳士において,きっと吉宗公にも, 随分と紳士服はお似合いであったろう,と思うのだ。女帝,と 言っては,確かにそうだろうけれども,このツールを以て,その ルーツを道具として捜って行けば。イザナミとゆう発想の女神は 原初の地球にあって,国土そのものであった,その大地母神に, イザナギとゆう浅葱色のUFO来訪者によって,開拓されていく パイオニアのあの客神の,男性性とは来訪者で,
一方,スペシャルティなオリジナルの女性性は,
人格とゆうより,もっと大地と親和した, そうゆう母性な地球そのものなのだった。
なぜだか,一体となる,そんな気のする,
少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。また, その一体化する大地母神の文学ツールなのだった。
そうやって,この大谷崎の全集や,朗読ファイルなどを,
電子書籍版に,そうして,デジタルストリーミングなどに,試みて。
その,太古より女性性のオリジナルなのだった。このツールを使って
情報を旅すれば,文学における,グルメや,性愛の発想,そうして,
犠牲や,歓喜などの循環は,多分のことを以て,喜捨しきった所に,
還元されるといった,そのイザナミ・大地母神は,そんな枯山水に
海外からのサビの論理を吹聴されるような,ほんとうに侘びた風潮を
個々の所に蒸かしてくれる,まるで饅頭にはセイロを必要とする昔の
茶屋のあたりに聴こえる,女性たちの甲高い声のように。

ミシンのカタコト辛い音の連続は,ようやく落ち着いて,この晩は
そういった,谷崎の文学などを捜る気配の,静かな灯油ストーブの
音もない,電気を必要としないストーブのそういった無音の熱源の
喜捨することのなかに,日々の繰返しは多分支えられて存在してる。
廻り巡ってそういったことを感じながら,大谷崎に至るときには,
少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。サドよりマゾッホに,
ずっと親いこの文人のグルメによる茹で卵の笑顔を眺め入った時には
大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=光明皇后=持統天皇=推古天皇は,
日本の白玉のイザナミをあらわしてはいるけれど,それは少彦名。
この発想はやがて,遣って来たのだっ…

バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。

ぼくの好きな歌手のひとは,町中をあるいて,返って一瞬で 描き上げる瞬間を,歌詞や作曲に転用昇華してクリエイトされる ようなのだけれど,そんな瞬間は,どうなのか本当に幸せだろう。 頭の上より電気の蚊は飛立ち,肝臓の疲れは丹田を開くことで治る。 この,睡眠時に放つ,昼間の教訓を,学習塾より帰る子供の気持ちで 米麹のような香りを浮き立たせる夕暮れの路上には,夢の中の幻燈。 バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。その夢の中で 再現するように,再現性の高い,学び取った高次元の,処世訓として。 身に着いた,夜の間の,蟲のような脱皮と,酔い覚めのように肝臓は しっかり,湯舟に浸かって,ヘア・トニックも付けて,歯ブラシ河馬さんの ようにゴシゴシしたらば,そうやって,身に着いた,バツの悪い中学生の ような気持ちと,高校生の知性を。再現性の高い,高次の処世訓に換えて。 ハワイアンのポチキを夜食につまんで,ブルー・チーズを間に挟むのだ。 その前に,豆乳オーレを頂いて,もっと軽い,クリーミーなチーズも。 そうやって原点を探れば,金つばを食前にたべたい欲求はかなわず,兎に角。 お茶をぐびっと呑み込んでは,ミカンをひとつまみして頂いて,待ってた。 コンニャクをラーメンのようにして,おでんのつゆなどで頂く夜の, どんなにか,幸いなことだろう?バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。
奥さんは,マスクを沢山つくっていた。口につけるマスクである。ミシンを,
誕生祝いに買っていたのだ。そう,ぼくは今まで,手つむぎ等を趣味として豪語。
していた代わりに,やっぱり彼女のミシンに躍起になった。率先して,小学生ぶりに
上糸,下糸の準備をして,きっちり縫い方まで調べ上げた。そうやって,合い間に
ジーンズを2本,コール天を1本,裾上げや,マタ下の補強など素晴らしく熱中し,
なんだか,冬の手前にクリスマス・ギフトを早くも頂戴した気分で,本当に良かった。
『お茶です』それが,お茶々です,に変わり,いつのまにか「お茶々おす」と言って
言葉遊びに興ずるようになって,『お茶々牡,お茶々牝。』とゆう造語にまで至った時
ああ,ヒトは,ふと,立ち止まって空を見上げて,そのまま直立歩行したのだ。など
あまり見上げる事のなかった青空の中に,何か虚空の,寂しさとも付かないあの空虚な
ブランクを眺め入った時には…

幸せを煎じると,桐の葉スギナどくだみの味。

燦々と照りかがやく,落葉前の木の葉たちは,またもう, 飛翔する西洋の天使たちにも似て,にこやかに晴れ晴れとした 笑顔で,この天上の楽園にも見まがう秋日の午後を彩って。 奥さんの誕生日が,もう親いのだった。大掃除をはじめて, 毎年のウツワを贈ろうとゆう想いはすこし陰を潜めて,なので チーズを,どれがいい?と訊いて,地元の加工品のそれを択び, 薄めの豆乳オーレと共に,前夜祭を祝うことにしたのだった。 ほんとうにグルメ・レポートみたいになるけれど,高級品と一口に 言ってみては,信じられない程デイリーのモノとはちがうのだな。 そうやって,地元の加工業者さんの食品などを口にすると,それは やっぱりクラフトの想いで造られているのだから,香り,透明さ, この澄んだ部分に関しては,やはりモノづくりに関する作品には 敵うものはいないのだ,と気づいた。そうして,いまは,祖父母の お家より借りている,ホーローの古い鍋を,昨夜ミルフィーユ鍋と ゆう,白菜と豚肉を交互に挟んで敷き詰める,無加水の(直前に焼酎 を,ひとかけするのだけれど)蒸し鍋のような調理で大分底を焦がして しまったのを,重曹でコトコトしながら,奥さんの帰りを待っている。
誕生日には,秋の日の情景を描いた,絵本にすることにしたのだった。 いつも,もうそれは中学生の頃より通っている古書店があって,大手の 文庫本などもシリーズでずっと揃えられているようなところだから,本当に 参考になって,この間は久しぶりにゲオルゲの詩集を購って帰ったばかり。 その時分に既に目を付けていたモノだったのだけれど,ずっと人にオススメを しておいて,僕自身は持っていなかったその秋の日の絵本は,気にかかって, そうだ,これを誕生日のお祝いにするのはどうだろう?オススメする自分のその 気概は,きっと,こうゆう時のために取ってあったのだった。思い込んでは, 自分で趣味にしている写真の水彩加工などで,得意のラッピングを試みては よしよし,と。この日には九州に旅行にゆく事にはなっていたのだけれど,ひょんな 不幸よりちょっと,中止にしたところで,お花代に,と母より預かった費用を使い, 食事に出かけることにして。まだ,時間はあるので,ラッピングを開いてもらって コーヒーでも呑んでから,すこしカッパを着て外出するような体裁で,今日は雨。 九州,と,ラッピングには青い…

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…

恍惚とゆうのは,柿と春菊のヨーグルト・サラダ

早くも,冬の気配を感じるこの頃の,何故だかこうもはやく, 落ち葉は散りきってしまうもの?とは,そうゆう感覚にして, 早くも,冬の気配を感じるこの頃の,恍惚とゆうのは, 柿と春菊のヨーグルト・サラダを,試みに造っていただく,また。 豚キムチとゆうこのストレートな表現にニラも加えて頂いた,その 翌朝に,豚キム丼を造っては,絹ごしにひきわりを載せてまた,頂く。 すこし秋のにおいのような感じの減ってきた気のするのだ,下手に 猫の機嫌を窺って無視されるような変な気の使い方を始めるような。 こんな季節に,冷たい絹ごしは何故だか秋の余韻を強烈にしてくれる。 幸せに,言葉の記憶を紐解いて,恍惚とゆうのは,柿と春菊のヨーグルト・ サラダ。こんなメッセージを,ヨーグルトは塩加減を合わせて,より単純に 熟柿に親い身をほぐして,生の春菊と。そのヨーグルトの酸味に柿の甘味が ドレッシングの作用を担って,春菊に和えて頂いているような,そんな感じで そろそろ,珈琲豆も切れてきたのだけれど,うちはデカフェのものを所望する, 夜派の珈琲習慣の着いている昨今の。シンプルに加工しているモノでも良いから, 美味しく呑める,とゆうことだけは大事にして,珈琲を日々淹れてゆきたいのだ。
ミカンも終にはお茶の間の卓上に昇りだした。ほんとうに,炬燵はもうひと月も
前より出していて,炬燵で寝てしまうこともあったのだけれど,ミカンの昇り始めると
ここまで落ち着いて目の前を直視できるのか?とゆうほど,安らぎの効果を,この
たまのミカンは与えてくれる。非常な世間体の嵐を感じていて,それは,きっと。
メーターの振りきれたように,悩みの尽きるときには,ああ,安らいだ。冬のミカンは
こうした,悩みの振りきれたときに起きる,不可思議な酸味の効いた芳香を発生させる。
発生とゆうより,発声と言ったほうが正しいか?いいや,正しくはないけれど,発生の
発声するように,たまねぎよりも目に沁みるような柑橘系の飛沫には,こんな目頭の堅い
気持ちのような冷徹なココロにも,それはほんとうに美しい声楽のように,目に沁みる。
キャタピラーの木目のようなコロコロとした形で,皮をむくと現われて来る身のミカンは
ご老人の諭し方のように甘い囁きで。とつとつと,うつろうとうつろと,そして安穏とし
ぼやくようにつぶやくような甘さで。それでいて,酸味ときたら,若…

都市街と,山脈地と,個体性と,なんだか疲れた時には,眠たいモノ

お豆腐も,納豆も,ミカンも,ピンからキリである。そうゆうのは, 生産者に対して失礼だ,とゆう文言も想定されるので,使わないのが, 常なのではあるけれども。決して,美味しくないモノのある訳ではない, こんな言いワケじみた,メッセージは,あながち鵜呑みにしておいては, はて,やっぱり地元の工場の,大豆加工品や,地物の野菜市などのミカン。 たまに,そんな食材にありつけると,言いワケじみた気持ちも鵜呑みにして いつも頂いている常用食品に対して申し訳ないながらも,優劣を付ける癖に, 都市街と,山脈地と,個体性と,なんだか疲れた時には,眠たいモノであるので それは,縮小された自我じたいの,拡大された,街や山麓や個人の問題に照らされた こんな,コピーである自分自身のそのままで行きたいと思う。コピーするには, インクは必要であろう?インクとして,必要な,ぼくのコピーなりわいは,こうして グルメに対しても,感謝の第一に,とにもかくにも地産地消のグルメを摂りたいと望む。 地物のミカンなんてシャープな怜悧であるほどの酸味と,酸味の中に鮮やかな甘味は お庭で出来た果物。といった印象でしか語られない,あの独特の鋭さのあるものなのだ。
糖質制限を励行する食習慣を,家庭内に感じて,その風潮を豚肉に先行されて旨味にただ 興じて,お腹周りもスッキリしてきたように感じていたこの頃,龍馬の軍鶏鍋ではないの だけれど,そんな鳥鍋を食べたいなあ,など言ってみたところ,聞いてない振りの彼女は 何かの拍子に一言,豚肉がいいなあ,とつぶやいた。あれれ,そんなにコダワリはないの だけれど,水菜と,春菊と,豆腐に,鳥団子を入れてもらって,豚汁用に取ってあったの を,加えてから,ニンニクごま油の塩鍋にして頂いたところ,結局ぼくは水菜や春菊を, ばかり口にして,鳥や豚は取らなかった。こんな気持ちだったのだ,軍鶏を食う気は全く なかったのだ,龍馬さんはきっと正月に南天の実をほお張るツグミのような気持ちで逆に 鳥をほふって自らの逝き場所を飾ったのだ。すでに青菜の鍋に,清流の感じや,その間の もうクリスマスを祝っているように,感覚をホクホクさせながらも,顔の周りは,すこし 肉づいてきたのが,さらに慶事の時間帯であると思わせながら。この,期間に鍋を頂いて 地物の野菜を砕いてお腹に詰め込んで,さあ,サンタクロースにこんな良い腸…

芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べ

シヴァとサラスヴァティ,また龍馬と小五郎,そうして, 太宰と三島文学の,この和合の杉のような相対する女夫の 芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べに,やっぱりお米を 頂かないと妄想は発生してこないので,お肉ばかり頂いて スッキリと思考の整理の付くような何のハミダシ加減もない, そんな夕べには。『ああ,もうモノを描くこともなさそうな』 と言った,そんな頃合いに,自分の中にある三島文学,その 時代的系譜なのか,熟柿の身をほおばる気持ちの良さを保存して
いまは凍えているのです。と言わんばかりの,熱い珈琲を啜って
現代病のように思春期よりまとわりついて 離れなかった,女神のような三島文学に至って,ああそうか? もう,そのどちらともつかない龍馬=太宰=シヴァのように, 男神のような形式で,ザックバランに,実に人格芸術論を闘せ, ほんとうに身につまされる,この人格哲学を始めて行ったらいい。
珈琲は,熱湯に親い程,鋭いような芳香を発しはじめ,いつも 温湯で淹れてしまったりして,それを常温の豆乳と割ったりして 酵素たっぷりな珈琲豆乳を造っていたりもするのだけれど,いつも お肉を避けていた奥さんは,肉食も受け容れられたりもしはじめる, そうして,今夜は手ごねハンバーグをコテコテと弾いていると何故か とっても心地よかった。玉ねぎを炒めてから混ぜてこねるのだと教わり その熱の伝わりから,真っ赤な挽き肉は絵の具のような発色で,僕には ルビーが耀くようにみえる。皿あらいは予想以上に大変だったけれど
馬油の製品のように,手も潤うのかと思えば,肉料理に冬の天候も体験して すでにアドヴェントのクラスを立て続けに受講しているような天然自然の 暖かい日暮れなのだった。そののちの芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べは 何だかもう喉元を通らないような気さえして。
どこか三島文学に浸された思春期に,身体の芯まで凍えて冷えてしまったような 神功の影さえみえる,その辛辣な教えをもとに,供にしたこの身体の冷え様ざま。 特に,それに気づいてしまえば,至って普通のザックバランさで行けば問題ない, そうタカを括って,臨んでしまう。秋の夕暮は,時に春の訪れさえをも錯覚させて, さて,冷えて凍えた,ふくらはぎや背中の各所のところどころ,すこしずつ,薄明に 向かって,温めて差し上げましょう?デトックスとは我が物顔に言う,身体の各…

頭寒足熱と,心頭滅却する湯舟の中で。

寒暖の差の果てしなく,ただ,冷える事と,それを温め直す事の 両極についてだけ考えて,後のことは言い訳なしにそっちのけに そうやって出来ることが,何より嬉しい。『お風呂に浸かるのは, 身体を煮るようなそんな心地。冷えているから,カチコチなのだ』 そうして,糖質制限を試みて,初めてご飯を炊かなかった夕べの, 何だか妄想はお米より来ていたのではないか,と風評にもなるような そんな気概を持って,なんだかすっきりしている気持ちの清々しさを 晴れやかに頭寒足熱と,心頭滅却する湯舟の中で。例えば,オシャレ なんてものは何とゆうものだろう?と,考える。お腹で考えることの 出来れば,それはオシャレでも土着の勢いのあるモノでも,すでに 心地よいものだろう。と,月が杉の樹に翳って非常に良い晩である。
朝の掃除をしていて語ることのあるのだけれど,語る内容はいつも同じ そうして,語ること自体が,空っぽにするために非常に良い効果を出して くれるので,『モテる床拭き=ファンタジーの床拭き=狙わない床拭き』, など,いきがって普段にない語りをしてしまうのも,空っぽにして床拭きを するのには,いつも決まって無欲に透明なシートを敷いて行くようにして, その一日の行方を願う。それだけなのである,身体=お店の,リンパ=運気の 流れを良くして,帰りには,快調=アウトプットの健やかな結果を願って 一日を過ごすのである。そんなに体力のあるほうではない,いつも眠たいし どちらかと言えば,リンパの流れを良くしたいと願いつつも,そんなポジティブ でもないほうである。嗜好品と言えば,酵素ドリンクや,たまに珈琲豆を購って ジリジリと堪能する程度の,あまりにそこまでは刺戟性を求めないタイプの, 通常通りいけば時間通りに快速でも鈍行でも駅には着くであろう,きっちりと 運行する電車のような性格はしている。そのぶん,レールから外れると,訳が 解らず,動けなくなるようなそんなプロトタイプにテンプレートをかぶせたような 変な平常心を大事にしている形式的に従順なタイプの者である。だから,こんな 杉の樹に香りまで沁みてくるような月夜をみると,何故か思う事がある。
革命は,いつも想っていなくても遂行されるものだろうか?頭で感じることは, いつも現実味を帯びて万人に通達される共有項でもあるか?行動する事,実践家は 明るくされることで,そ…