スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

12月, 2017の投稿を表示しています

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

命運尽きたり、ブルマンの半額ブレンドを購い淹れる。

雪国の朗読を聴いて、なぜあんなに良いのだろう、とわからなかった。スマホに入れて、持ち歩く。イザナミとイザナギは 大谷崎と太宰先生のようで、また、さながら、川端翁と三島さんは 神産巣日と国常立のようである。僕は、三島さんにノーベル賞を 取ってもらいたいかった、と半ば、寒風に干される魚や大根の、 あの、克己感性に肩を持つ、なぜかしら、寅さんの縁日の情景の どれほどに好きだったか、憶いだす。また、倍賞千恵子さんの歌う 学生時代を聴いて、ああ、なんだかなあ、ツタのからまる、 これは、直接的に、太宰先生=龍馬はん=九郎義経へと繋がる、 この、長崎や、一房の葡萄に有島武郎の装丁にみる情感や、 はたまた横浜、直接的に太宰の影を追うのだから、もう。 けれど三島文学=桂小五郎=武蔵坊弁慶の、あの本懐めいた、 この北海真情によって、太宰さんを追うのなら、ニシンの干したのや サーディンを食べながら、徐々に胃も塩辛くなってくる心地には もっとも、その北海真情によって、心情の経過は、胃腸組織の塩分含有を もっと増やさなければいけないなど、この直喩的価値は如何程か? 僕らは卵とベーコンを食べすぎて、牛乳を呑んでは昼寝したから、 そろそろ、あたりめを豪華に頂きながら、直接的隠喩を、この 大地の酵素分、全部頂きますよ、といった具合に、大空と青空の 大地の恵み過多に頼りすぎては、潮の香りを、多くは河も、 天地ひかって、大地より降り注ぐ、あの大海の神秘の様々には。
ブルマンをブレンドした豆を、半額で買ってきて、手挽きして頂く、 深夜半、ちょっと年末で焦ってきて、三島さんも常にこうして年末私情の 彼は焦っていただろう?市立図書館は閉まっていて、年始まで 金閣寺の朗読は借りて、スマホに入れることもできない、この北海真情の 神功というお姫様は、いつか遠征されたとゆうが、太閤も、 また、維新の志士の中にも、遠い大地を治めんなどして、 賭けにでよう、とした、エピソードには、あれは、彼の地の グルメを修めん、としての暴挙だった、とみるのは、如何? 大衆の心を把むには、まず胃袋より、と言って、僕は、白飯に、 豆板醤と卵と、胡麻油を掛けて、良ければゴマを振りかけて 即席で、頂いた折りには、なんて胃袋は大衆的にはシンプルな。 など、気づいて、あたりめをかじる奥さんの気持ちは良く判る。 あれは、闘っている、克己感性の姿のあらわれだったのだ。
国常立は神産巣日を乗り物にしている宇宙船地…

日差しメルクリウスの芋虫、きらきら星の牡牛ギラギラ。

ドリップして頂く深夜のコーヒー、ドライブして帰る茫然に就寝。すずしげな軽快な夢や目覚めの後に、ああ、やり過ぎた思考の あのヨーロピアニズムに親づくには、軽いステップまでに、 運動し続ける思考態の必要である故に、芋虫のままで良い。 夢に親づく程に、金星や月の、あの三島文学に入り切る心地。 けれど、芋虫のままで良い。地球の水星と太陽の混合に、 私達が、わたしたちでありつづけるのには、軽さに裏打ちされた ただの思考ではない、あの思念、頑強な詩人、強靭な狂気の、 そうして、それを食品に求めるなら、ブラウニーとエスプレッソ? いいや、烏龍茶と月餅の、また、甘柿と番茶で良いはずだ。
豆乳とゆう、食品のイデア、大豆粉とゆう、食材のアイデアを、 技術とゆう汎用性は、今の時代、食品食材の、アイデアをイデアまで 高めた、何らかの、食べ合わせを指す。食べ合わせによって、 崩壊に向かいつつ、脆弱な消化器官は、アイデアに貫かれ、 元来の、イデア化した、代謝消化能力を取り戻すのだった。 豆乳烏龍茶や、プーアールドミルクなど、カフェオーレについて、 沢山の楽しみ方を見つけながら、その季節によって、本来の 酵素質を、分類し、種類別に用いても良いはずだろう。しかしながら 食べ合わせによって、酵素質を分解作用に応じて、別種のモノに 換えてゆく作業。これは、みずからの惑星選びに活用できる。 文学性も多様化している、歴史のそれを証明しているので、 私達を、惑星別に分解する、この内蔵別作用性は、季節と食べ合わせに、 つまりは、すべて旬のモノさがし。酵素は季節によって如何に 変わり、変質するより、変換されて、その交替転換される、 それには、気温を、ここまで変容させる、惑星の運行を季節の 食べ合わせに用いて、組み合わせの応用。化学式の転用、組成の組み換えして 食べ合わせは、幾何学の廻転のように、季節の万華鏡を回している。
水星は、太陽と混交して、太宰の地球磁気を管理する、自我の文学。 遠巻きに、ドリップする、最近は左回しに回転させる、珈琲豆を どれだけ抽出させる、その油脂分のコクに注目する。そのコクは ジュピターの王者を彷彿する、BAR ルパンのコーヒーは、 そんな粉っぽいまでの茶灰色のコクをしていたのだろう。とは、 太宰の文学は、今の粉っぽい磁気を昇華させる、なんだか、 人間性の香りを、如何にも芳しくあらわしているのだから。

Londonの遠鳴り聴こえる小京都の煙には。

足を進める先には霧の深くなるばかり、ステーキ屋さんに求めるヒレばかりで、 濃いテリーヌの出てきた時には、タイザー 抱えて、自動車に跳びこむ心地で、眠る前。 跳びこむ心地で、とゆうばかり、ハンドルは 僕が握って帰るから。気絶して眠ることの何が 悪いのか?仮死状態に心を入れ換えられる、 そんなイニシエートの不屈な精神をこそ、あの 楽しみにして、海岸線沿いを走る、寒いのだろう あの海岸線は、そうして波濤とゆうテリーヌを 憶いだしては、額に脂汗を掻く心地、あれは 暑いから?いいや、呼吸が浅いの緊張感より? いいや、ただ、波濤のエナジーには、釣り上げる 脂汗を掻いている。そんなで、錨のオブジェを 縄に結んで、繋いでおけば、きっと、涙のあの 潮の夕べに青い匂いのしてくるだろう、残酷な 涙のあの、思春期には、ニュースに魂は削られ、 自然と獣のような鋭い目付きにはなるだろう。 強靭な精神よりも、自失する身魂の、むしろ 強靭な狂人めいた、私は、茫然自失するのだった。 けれど、笑顔に、気絶して眠る、水出しコーヒーを 温めて、豆乳で割りながら、眠前に湯呑みする。 入れ換わることをこそ、自然はそのシステムとは 精神ゆえの、あの身魂の組織的循環とは、自失し 入れ換わる知的営為の数々の記憶を、愛に転ずる。
これらは、ヨーロッパ美術に贖罪の儀をみて、 むしろ、何らかの画材には、あるいは衣服には 食材天然器質のエネルギーを用いたら?など、 ギャグセンスには天然自然の素朴な素直さをして 枯葉は、すべて入浴剤に、あの、むしろ木酢液の 天然農薬による、発想などは、極力の虫も富むように、 精神の糧はカンの蟲に始まる知性の天然農薬に、 もし、蟲のなくなる瞬間のあるなら、それは、 記憶能力に薄く明るくなる意思を加えて、なので 軽い発想あかるい未来などは記録には残し難い だから、常に日陰にいて、脂汗を掻かずに、また 素描などして知的天然農薬材料を蓄え構築する、 オーガニックファームの日陰には野性の精霊の いつも日陰ぼっこして、カードゲームに興じる。 柚子茶など供えて、私は、茫然と恵みに自失する 農業の方向性などは、いかにデトックスして、 身体のアンモニア気質を抜かれるかの脱脂綿的 除算農法に換えられるかの、分岐点にいるのでは なぜならば、記憶の失われた明るい知性には彼の 想いに応える唯一のスセリビメみたい女王蜂の 彼女をスサノオより頂いて、蜂の子のように親神の 見送る、中つ国の記憶のみ大地の咆哮め…

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。

世界は普通にある。僕も普通の人間なのだから、寝ようと。

週末で、得意げにテレビをみたり、楽しんで考え事をしてたら、耳掃除を終えたくらいで別段なんの取り柄もない朝を迎えた。 けれど、クリスマスらしい。一瞬、考え事の最中に、こて っと、夢をヴィジョンらしく眺めた景色は、あれはハワイの 豚の神さまと言われる何とかゆう木像のような宇宙人みたいな そんな病床に臥す姿を映したクリスマスドリームだったのだ。 耳掃除をしてすっと寒さも爽やかに感じられる朝には、 今日は図書館に太宰の朗読を借りに行くかも知れず、 本当は、金閣寺などの方が良いらしいとゆう事にさえ、 この夜更け夜半過ぎに気づいてしまったとか何とか言って、 すこしようやっと眠りに就こう。とはいえ、自己憐憫のように 自らの聴覚に感じた、とある寂しげな存在には、その 続きに豚の神さまの姿をクリスマスドリームしたが故に、 彼は、イザナミのように思えてならず、明るくなるまで 階下に降りられなかったのも、事実で、クリスマスイヴイヴといった 変な言い方もあるようで、いやないようでもあって、さあ このクリスマスイヴイヴドリームには、なにはともあれ、 明るくなって、爽やかに縁日の合いそうな晴れ間を覗いて、 カーテン越しに、朝を眺めながら、本当に自己憐憫ならぬ、 すこし眠らなければ、太宰を借りるべしか、三島文学の朗読にしたり、 わからなくなるのだろうと、スマホにきっと落とし込む第1弾は、 雪国で、次はしかし、いまからきっと、金閣寺になるだろう、 そうには違いないと、眠る前より決め込んでいる振り様々。 もうすこし、戸惑いながら、自分の次元位相や、困惑した哲学を、 こうやって、宇宙人なのかしらなど、訝しがって自分は? など、言っているうち、庇護下の幸せに気づかず気付いていた。 なので、僕は普通で、世界は普通にある、ってゆうように 耳掃除をして、爽やかな白い朝には、一度忘我して眠り、 あの異界への手まねきのように、イザナミに追われるのも良いのだった。

人間はうまくできているのだから、希望より珈琲。

バランスよくできているのだ、だから世界はあるのだなど、本当に、よくできているのだから、維持保存された知的活動が可能だ など、保存された知的世界、そうして、できているのだから そのなかで活躍するのは知性のヴィールスで良いのだ。って、 なかば平和な気分を想いながら、自らの脳内活動の縮尺地図のよう なかば穏やかな知性の精神じたいとでもゆうようなモノが 耳鳴りとともに訪れて、そうなのだ、そうなのだから、平和の 耳鳴りの内に、できるだけ知性のヴィールスを活躍させるのだ など言って、穏やかにキンキンなる、知的な夕べには、音叉の 共振のような、何だか強烈な不可思議さでひざまずくのは 耳鳴りの聴覚器官による、この精神的な知性自身で、聴覚は 感情をいっさいのこと、含まないものだ、と何だか不可思議な 穏やかさに、この杉の樹の匂いのような共鳴によって、 束の間の、平和とは、知性によって知性が活躍するのはその 良質なヴィールスである、小さな耳鳴りによって訪れる、 それはかつての知的聴覚自身、彼は人間のオリジナルを、 共振によって示している。どこかで海は二つに割れているよう。
オリジナルのなかで、その静謐のうちに、しずかでキンキン鳴る。 その鳴動のさなかに包まれる。大きな力とは共振する高次元波動だ。 ひざまずく知性のあるとしたら、それはヒトの感情ではなし、その 彼の野性の本能自身だろう。なので、彼はひざまずいても、 感情は穏やかで、むしろ共振に埋没して、仮死の睡眠へと、 滑り込んで行きたい夕べ、彼は、彼はと言って、もうすでに 彼は居ないのだった。

眠たいのだけれど、眠れない気もしない訳でもないのだけれど。

豚肉のアレルギーでは、とふと思うこともあるのだった。ひょんな時には、気分が昂じている瞬間など、そうやって 小学生の時分に蕁麻疹の出た事などを想い出して、その 発想にいたる。それはそうと、眠れない夜、それはその 眠られないのではなく、安らかには眠られなさそうとゆう意味の 激昂する月光の気分、融ける杉の樹に月の雫が、スピリッツ。 眠られない夜の珈琲は美味しかったり。また、気分的には ハイになっている程のローズマリーは必須だったりもして。 ローズメアリのこの響きが、何故かウッディに変ずるこの、 薔薇のトゲと、女性性の強さを総合しての、月の精なのだ、と。 機織りの練習をして、いまだに織の作品とゆうのは、どんな 基準でみれば良いのかわからず、観るのは好きだけれど、 結局はキャンバスを織ってアクリル画にしたりして、この 絵のほうにエスケイプするあたり、織には何らかの、変な コンプレックスを抱いているのだった。豚肉のアレルギーも また、コンプレックスなどと親い気のする夕べには、別段 軽いからと言って、気にせず食べる事の彼のコンプレックスを 癒す手立てだとは思えず、心理療法によっても、そんな コンプレックスによる蕁麻疹の快癒するはずもなく、では 夜に寝られないと言って、やはり水出し烏龍珈琲豆乳を造る辺り、 なぜかしら祝祭のように、そんなフレイバード水出しによって、 誤魔化している、自分のアレルギーに対して、これはやはり、 エクスタシー=忘我だと哲学ではいうらしいのだけれど、常に 眠りのいざないを受ける頃合いには、忘我の告白をイメージする 仮死状態によって、眠りは細胞壁を入れ換えるイニシエーションだと したならば、そうしたアレルギーの不安や、コンプレックスに、 記憶の相違や、我執固執執着執著と言ったエゴの塊は、すでに まちがいのない、甘柿の色した月夜の風景を醸し出しては いるのだろう。

不可思議に珈琲を啜る夜はスムーズな

熱めの湯舟に入って、自分は氷だ、すぐに冷める、と願掛けて、無理矢理につかる。こうして、あの 自分は情報なのだ、情報のパンクする夜。情報が、 パンクしそうなので、もう情報によってそうなるの由は 過ぎてしまう。そうして、熱い湯も氷の身体に、 実に温まりきって、上がると歯磨きをして、あの 反射式にヤカンの仕掛けてある、お茶を湯呑みに 汲んでは熱過ぎてのめやしない。しかしながら、 こんな情報フレーズを浮かべながら、自分のポイズニズムと ゆうか、毒に当たるより、矢毒に換えてしまおうとゆう、 あんな、言葉狩猟に出掛ける、自分は情報なのだ、 情報のパンクする夜。頭がすこし重く、鈍いような。 そんな夜に、ゆっくりでなくとも、一気に夢に飛び込みたい。
髪の毛は、湯上りには、ぺったんこで、オールバックみたい。 けれども、朝になれば、くせ毛にふわふわで、あの ダンディズムなど、何処かに消えて、やっぱり僕は ちんちくりんでいいや。切なさも何処吹く風。もうはや そんな風の辿り着く場所は、埋め立て所でも、しまいに 縁の下の蛇の住処でいい。そこには、りんごの実が赤いのだ。 眠りに就く場所を探している。切なさに応えうるロマンを、 特には、求めないので、ポイズニズムによっては、 もっと、珈琲の苦いような、夜明けを微睡みに迎えられる、 穴ぐらの熊みたいな、黒い毛皮にごわついた、そんな 優しいウッディの匂いの方が良いかもしれない。 あの、ダンディズムに、燻製の桜チップなとが似合うのも、 包括された、抱擁する、包容力の、ウッディな香りには そうした、安堵させうる安寧の安心感の隠されている。 ああ、早く寝たいのだけれど、カフェインに照らされた 意識は、眠りを焦らしながら、焦らせた故に、この 目覚めは豊かなのだ。知っている、僕のポイズニズムは。
月が、三日月だ。イスラムの月影は、いずれ666の過剰な進歩を 人類より抑止して、救ったあの三日月の今年は冬至は猫鉤爪。 何だか、三日月の好きなヒトはダントツで多い気のする。 僕の産まれた、フルムーンは、月の裏側までフルムーンになった、と ゆうくらい、印象的に響いてはいるけれど、珈琲の沃夜には もっと、陰の多い、この貴重な明るさを表現して体現する 猫鉤爪に寄せて、飛び切り苦い、烏龍茶出し水出し風珈琲豆乳を 外気に常温晒しで、置いておきます、飛び切りの苦味は スッキリと、アクのない爽やか抜け感で、熱を加えず、 珈琲を、三日月に照らしては陰の部分…

切なさの諸相にはインドアの夜明け冬至湯。

忖度する、とゆう言葉が流行ったが、あれは、問題を 考慮する上で、とりあえず朝食にママレードを舐めて いれば、良いとゆうような至極オシャレな判断めいた、 そんな感情をのこすのは、前もって柑橘系のピールを 食すそんな文化には、金柑、陳皮、柚子ジャムのような そんな文化には、何分オシャレな苦味と香りの相まって 襲ってくる幾重の風味は、これは、本当にオシャレで、 切なさの諸相にはインドアの夜明け冬至湯。また、この 寒さに独り湯に入る心地の何故冬至の時節に孤高の香りの これはああ、もうどんな諸相より文化的にオシャレな。
コーヒー屋さんに入って、隣町の初めての入店で、この 奥さんの用事を終えるまで待っていたところが、 フレンチプレスなる用法で淹れてくれるそう、 珍しがって頼んだところ、店主さんも珍しげに 『美味しいですか、』など訊いてくるのだから、 不思議がって、大分経ったのち、何だ何のことはない、 紅茶のプレス式の淹れ方なのだ、と気付いてすこし、 恥ずかしかった。その思い出とともに、あの時は、 奥さんの用事を終えて、合流した際、ある手帳に 三島事件の記念日に書いてあったところを、彼女が 三島由紀夫は、なぜ死んだの?など、カウンターで 尋ねられると、僕はドキッと久し振りにドキッとして、 色々あるのよ、とボソっと答えたところ、県外客の 盛りの載ったオジさんなどは、機嫌を悪くされて、 帰ってしまったのだった。川端翁も、三島さんも、 イザナミ母神に殺されたのだろう、今も昔も僕は、 そんな印象を持って、芸術のグルメ主事と、文豪のサビなどは 対極の内にそういった争いならね蛇と蛙の捕食の交わりを しているのだ、芸術と切なさの、愛の捕食なのだった。
切なさの柚子に冬至湯。温まるのは至極もっとも。 クリスマスか、とゆうより、冬至か、の方が相応しい。 切なさは冬至の表現で、どちらかといえば、クリスマスは ローストチキンの喜びの例えであって、もちろん、 柑橘ピールの苦味に忘我し、無我恬淡と、茫然自失する、 そんな様子の日本風で良い気のする、何度もゆうけれど 雪国朗読探訪に風情情緒の携えの無いわけではない。 ないのだけれども、切なさの先に何のあるのか、を問いたい、 そうなのだ、茫然自失したのち、気絶するように柚子湯より 眠りに落ちた瞬間、一度ヒトはイニシエーションに入り 意識の戻ったあとに、爽やかな笑顔をみせる、ただの なんてことはない。それだけなのだが、意識の戻る。この、 奇…

芸術は烏龍珈琲の一滴より,調和は女性性に大地母神。

”千葉さな子=坂口安吾=稲荷巻”と言った,こうしたギャグを抱えては, ”坂本龍馬=太宰治=きな粉巻”と言って,大したことも言えず親知無二。 この,文豪二人に,三島文学の透徹されたワビサビを想うことに切なく, まるで,雪の日に,椿を追うのか,火鉢を背負うのか,こんな妄想は,またの 機会に。芸術は烏龍珈琲の一滴より,調和は女性性に大地母神。BARルパンでの あの『織田作~,織田作~。』と言ったような逸話を想うのに,安吾と太宰の そんな知己としての親友度合いは強くつよかった。そして,調べるうちに,太宰の 死は,結局のところ,火鉢を背負いすぎて,背負い投げ出来ず,いかほどとゆううちに, 病に臥した,そんなきらいのある,文学に病んだ者の死であったのか?しかしながら, その臥した病に打ち負かされず,無事に善哉をはんでいることも出来たろう,とゆう お話しも想像できると後世はにらんだのか?あまりに勘違いをし過ぎてきた,この半生に 反省して,後悔先に立たずとも芸術は烏龍珈琲の一滴より,調和は女性性に大地母神。で 芸術に喜び勇んで,その調和する,女性性に愛を。愛を叫べば,自ずから調和なり,と。
雪の日に椿を追い,無頼には赤い椿の花びらに冬至柚子湯に浸かるこの心地。行方知れぬ 切なさ,切なさ。太宰は女性を好きとゆうより切なすぎたのか?ダサいけれど,本当に, かの文豪は,女好きとゆうモノより,ただ切ないとゆうだけ。つまり,恋は切なさより。 節度は皆ある。道徳だってなければ生きていやしない。なので,色の産まれるところには 切なさしかありませぬ。雪の日に椿は,柚子湯に浸かって,雪も融けるのだから。その, 天台晩課の音源などをBGMに深夜更けて,なんだか考えます。切なさの恋煩い。この想い とゆうのは,病より切なさ来りて,切なさより恋の産まれる,その行方は,冬至の風呂。 とりあえず,冬至は涙を誘うのです。稲荷巻に,きな粉巻,合わせて,きっと稲佐巻で。 カッパ巻きは何分,鉄火巻なども芥川先生を想起させるのだけれど,安吾と太宰などの 談話には,嫉妬からかキュウリやマグロのネタは昇らなかったはずだ。レコードは何か? 珈琲を淹れて,心血注ぐような雫を一滴一滴垂らしてくれる,このBARルパンのマスター には,彼のドーナツ音の心臓のトクトクがよく聴こえる。波のせせらぎ,樹々の風そよぐ この珈琲のドリップ音…

長い旅だったけれども,やがては太宰に還る。

太宰氏は川端翁にモノ申す。『千葉さな子は,井伏鱒二氏のようで, むしろ,乾退助の立原道造だろう。いいや,必ず,そうあってほしい』 稲荷神の稲田姫と被らせて,彼女は千葉さなであろうとゆう,異論には 達しない程ではあったのだが,稲荷ずしを摘みつつ珈琲豆乳は如何な ものか,と首をかしげながらはかどらない運筆を,そうして雪景色に 色づくあの赤い実にリンゴパイを訪ねて頂きたいとゆう。童謡牧歌な 堀辰雄氏にいたって,立原君のコノハナサクヤであろうとゆうことに ついても,はなはだ同感である。三島文学はニニギであろうとゆうことに むしろ共感するより,トビナガスネヒコであるように太宰氏は呻吟する。 LONDON ONEのスサノオ(ニギハヤヒ)漱石山人に常に瞠目されては 弥山に登る弘法大師の心地をして,さあ登り切ったところに富岳百景の 朗読など待っていようものか?不可思議ながら,雪国の朗読は用意されては いるものの太宰文学はヒューマニズムに適う分にあまり朗読にまで手の伸びる 代物ではないような,そんな慇懃な情感を彷彿として,さあ雪被る山を見つめて 珈琲の一杯でも啜りだす,そんな透明な冬に一瞥するのだった。珈琲の一杯は, ”挽き立て,淹れたて,甘い水で”とは言いつつ,もうブラックで,烏龍茶割りを ずいぶんと前より試みている,その濃い味は堪らない。むしろ,ウーロンドリップ。 昼寝の過ぎた夜には,アルコールよりも濃い珈琲をして,眠りに就くのだ。
太宰のヒューマニズムは甘い水のしたたる天然無頓着の心地をして,本当に甘い。 ようやくこの甘味にまで帰ってこられた。夕日に耀く漆黒の珈琲一杯を目の前にして さあどこやら,ひょっとこの鳴らす太鼓の風は乗せてくる縁日のどこ吹く風も今日には 暖かい。ひょっとこひょっとこ,どこ吹く風とは,暖かい。グラウンディングする,あの 太宰の甘い温風に。定着し,グラウンディングし,甘い滴を,苦汁一滴になるまで堪能し 苦しみは,依存より産まれるものより,自立心より起こってくること間違いない事の由。 自然相応には,雪国の朗読を携えて歩く心地。これは,やはり川端翁の実力の計り知れず 大器とは,その寒風にも屹然と聳え立つあの雪山の風光明媚な颯爽と吹き荒ぶ嵐にも雪山 の,そんな大器晩成とは言いつつ,それは歴史蒼然と佇まい正してのこってゆく本当の美 である。からには,ヒューマニズ…

愛の色は銀。珈琲豆乳のみながらの稲荷ずし

五輪の書を読みながら,信玄墓について調べる川端翁の執筆は やがて法然和尚の伝記に向かう。『立原道造の稲田姫。まるで, 彼の千葉さなのようであるとは堀辰雄の南洲翁であるごとく, 愛の色は銀。珈琲豆乳のみながらの稲荷ずしには,稲田姫の 愛が銀色の光りにあるごとくの彼は跳び続けるバッタのよう。 ここで,バッタは何者だろうとゆう想いには,またのことでも いいようだけれどバッタは何者とゆう想いには,聖マルコのあの ような,海外に外泊するような心地で,無関連に筆を置く佇まいで 石膏を舐める漱石山人の,立原と縁があるなら,スサノオみたく 振る舞い,ニギハヤヒの三輪山に居続けるすまいには,堀くんの イワナガ姫を迎えての立原氏はコノハナサクヤで。』まるで, ニニギに三島さんを迎え入れることに意義はないかのよう。太宰氏 はトビナガスネヒコのように退いて行き,やがてコノハナサクヤ姫は ナガスネヒコに恋していたことを告げる。ここで,川端氏は,いかに 自身の彼女の呪詛を受けていたか計り知れないこのカラクリを見出して 塩焚きをしてより,ストーブには湯沸かしをしていたほうが温まることを 慣行している,烏龍茶でドリップする珈琲は格別のことで,葬儀は参列せず その慣行的に別世界を強靭な知性故にリアリスティックに視察する洞察の, もう逸脱した自我の,五輪の書を読みながら,信玄墓について調べる 川端翁の執筆はやがて法然和尚の伝記に向かう。と,こんな妄想をしながら, 「雪国」の朗読を図書館より借りて,スマートフォンに移して聴き入る心地。
稲田姫は何故イナリの稲荷神と,稲の穂のイメージを共同しているのか,なんて 不思議に思う。千葉さな子の,こんなイメージと,龍馬や太宰や立原の感情的な 印象を想い起して”想起する”とはこんなイマジネーションのくすぐったい感傷なのだ など逗子アリーナでの氏の自死の謎を想起している。きっと,”愛”に浸って死なれた, そんな歓喜の表情を浮かべるあたり僕の想起力も否定しがたい幸せな銀色をしている, 川端翁の文学が社会と繋がった哀切と交歓した情緒の幸せは多分こんな冬景色にも, どんなにか響いて,切ない,切ないのである。隔絶された境遇とは自ら創出するようで それは自死を択ぶほどの究極の霊界参入のようである。中心軸などもってのほかである, この隔絶された参入様式には,きっとそれはリアリスト…

涙が生理食塩水ならば人間も海である

出雲のヤマタノオロチも,傷ついて殖えた頭の八つ。 奇しくも彼はアマテラスを覆って,岩戸の役割をする。 人の子は,岩窟の聖母によって育ち,『きりひと讃歌』にみる 獣神の医師には,そのバプテスマ受ける,巌の意志。それは, 軍神マルスも実は少年のような好印象の人物で,涙が生理食塩水 ならば人間も海である,祖母を見送り,神の子になろうか?人の子は 神の子になろうか?ただ。ひたすらの吹雪に呟く声を聴く。合掌,の いいや,ウォーク・インを追求するココロより,さらにエッセイ物して, レポートを試みていたい。ペンは剣よりも,強く,軽く,素早いから。 いいや,むしろ彼のウォーク・インのプロセスをレポートしてみたい,彼の とは,冬の寒風に,あられに当っても,風になびかず,ぼぅーっと 立っている,そう,ぼくのブロッケンさんに向けて。
すこし昼までは,イザナミとゆう芸術の神は,境域の門番ではあるだろうが, そのイマジネーションにとことん苛まれてここまで来たのだ。神経症時代の, しかし,なぜだろう?芸術に責め苦される意味は解らなかった。そうして,この 芸術と対峙しつつ,相克する少年性と業の湯浴みとのあいだに立っては想うのだった ”これは,ぼくの方へ原因のある呵責ではないのか?なぜなら,ぼくは獣神のようで” などとはうつつを抜かして,甘柿の旨い時節の,これと珈琲が淹れられれば,それで ”挽き立て,淹れたて,あまい水で”と,間違って裾上げなどで,ジーンズの生地を重ねて 縫ってしまうような,”ミシンの音は,雪の降る音”と,そうして,つながった生地は, 私とワタシのもう一人のあなたなのだと。烏龍茶でドリップする習慣はしかしながらもう 定着してしまって,その最中でおばあちゃんは旅立ったのだった。ほんとうに,軍神の 訪問して,その少年のデーモンの幕開けをみてから,神の子になるような心地をして, 涙が生理食塩水ならば人間も海である,と。身体の神秘は,業による不可思議さと,よく 似ている。このまま,白い雪の音のなかで,一度,荒野の神界に,つららの姿で彷徨して 一度でいいから,神の子になりたい。
業の泉より,業枕の世界へ,市場のコーナーなどで,甘柿の柔らかいのなどがお手頃に 売られていた時など,おもわず手をのばし,そのまま帰宅して,三つくらい頬張るの由。 水分を欲しているのにほしくない夜。健康になりたいのにな…

賢治のリンゴパイ,永訣の朝には烏龍珈琲を利く。

ラファエロの描く,ペテロの改心は,あれは知恵の実の一連の事象。 一度,写真でみた加藤清正の井戸なるものは,あれはリンゴの実だ。 そうして,達磨大師や円空上人の木食する,彼らも皆,リンゴの使徒。 だいぶ冷え込んでこの冬将軍に一瞥する何をかを言いたいとき,その 発言は,自らの魂を差し出してヒトのココロの隙に這入りこみ,情熱を 粗雑な想いよりもリンゴの赤に換えてゆくのは,あれは賢治のペトロの ようにみえる,いまはもう,リンゴポテトパイを焼いて,ウーロンドリップ によって,珈琲烏龍茶抽出を試みる,瓦解する身体,『脱落,脱落』と, 禅宗に答えられる,その精神は,リンゴの果汁の滲み出たときよりの彼ら リンゴポテトにウーロンドリップ,差し引いては,ようやく染み入るので, この知恵の実の一連の事象は,ようやくのこと,昇華されて消化され砕かれ, ヒトの身となり肉となりて,こうして,雪の朝にも,こちらは温かいので。 さては,『雪国』の朗読などを聴いてドライブをする心地,熟した甘柿と 烏龍珈琲を豆乳割りして頂く所存。また,人の世は起きていることほどの それを,昼間に覚醒してある状態に映しては,またこんな奇跡な事柄はない, 昼間の光りは,もうどうしようもないロマネスクだ。
冷えに関しては,足首を暖めておくことを,そうして,インナーウェアは, 裾にきちんと入れておくことを唯一の防寒手段として,あとは下取りにだす スマートフォンの行方を案じてすこし寂しく,きちんと身上整理をしてより 沢山の写真を撮り,様々な文章を連ねて,こうして趣味の高ずる,アートを 楽しめているのだから,これからも,機種の変って,防護ケースは講じては 計算して,傷まないようにこういった精密な相棒ウェアと付き合っていたい。 こうしてAIならぬ,精密機器のどういったところにたましいの宿るのか想像 するのに,そうだなあ,やっぱりプロフィールの部分は宿るべきところだろう と,その部分は,写真フォルダなどの,切り取られた画角の部分。影像の, また,翳の差すところには,暗転した世界の実像の描かれる,そこに誰かの魂。 寒さの染み入る部分とゆうのは,むしろ寒さとは関係のない,無味乾燥とした この冷えを誘発する実体の果たして何もない所のポイントであって,脂肪質の 状態や,動物性たんぱく質の摂り過ぎは無論の冷えに親いのではないか,影像は そ…

存在するってのは様式美よりも,門戸のない野原。

自我の領域より飛翔したいとゆうのは,ちと違う。青空は二層にも 分れて,上は真空,地上は温暖に溢れているのだから,もっとあったかく 野性の酵素に満たされているくらいの力強いパワフルな悟性を,もっと。 訓戒は破るためにある,それは依存だったとの由。カビは,潔癖が産むとは 功利に走る感性の,腫れ物に換わってゆく様を想えば,まさに,土着の農業に ミラクルな意地の強さを頂いて,キレイな大理石にはわかるまい,あの祟りの ように,タケミカヅチにはもう解放の予兆。萩原朔太郎の詩性には,孤独の。 上杉謙信には辛口の酒。平敦盛の首塚には,近藤勇の肖像をポケットに歩いた。 猫町横丁を逍遥しながら,妻帯せずもののふの塩辛よ,供養する美青年への悔恨を 結局の優勢,無勢に関わらず,人を助くる所に助られる者なり。と,もう予兆は, 確かに,土着の酵素に適えられて,やはり,ネギの収穫を手伝ってきて良かった。 そこで,得も言われぬパワーを頂いたことは,潔癖症より打ち克つ何よりもの,あの 祟り神とは,本当に(神話は誰にでも当て嵌るように出来ているのだから)リアルの 神がいるとしたら,いいや,リアリティとゆう意味の唯一無二の,現実性のあるなら, それは,祟りの比喩にこそ存在している。嫌ってはいけない,正直であるのに対し。 少しの笑顔で,不思議だなあ,と。理解できない野性的趣味にも,世界の歴史上,まず 野性のあってこそ,存在するのは”白亜”の様態なのだ。この野獣のかんばせをこそ。
ミケランジェロや,漱石山人などが,彫刻を制作する折りには,あるいは大英博物館など 訪れたのちには,親くのお宿などで,石膏の石板などをテイスティングならぬ,毒見した のでは,とゆう白昼夢をみる。創造知性の探索,または西洋文化なる知見を目的として, その無味なフレイバーはきっと夢のなかでも秘密を,ある世界の歴史においての,秘密を あらわしているように感じる。僕には体感的に,それが潔癖症を治す,唯一ほどの手段に 感じるのだ,イマジネーションの上では,そういった,酵素質の話しは差し置いても,の 白磁,青磁の陶器にも至る道程には,なぜかしら”白亜”の生誕の上で,土の鍛錬に結ぶ, そういった工程を,この町で通り過ぎる石膏彫刻の姿に,”デッサン・アート教室”の看板 には,『素晴らしい文化だなあ』町の中で,何か日に照らされて暖かい硬質な花の匂…

ゆきずりの恋を活きる共同体形成の宵明け珈琲。

自己責任の発想は,やっぱりちょっと違う。海外のひとからは ナンセンスと言われる,例えばコモン・センスには,合わないのかも 知れない『日本の”常識”=その噂話=逸脱した集合無意識など』は, 確実に,共同体形成や,防災意識,暮らしの成立,自由の体現などに 必須事項であるはず。ちょうど,ゆきずりの恋に,宵明けの珈琲を啜る みたいに。極端な疲れには,珈琲を呑んで寝る,この発想が,なかなか 疲労自体の裏にある,自己解除作用に結び付いて,ダイエットする精神。 腸活や,リンパケア,遺伝子のONなども,こういった作用に関連して, きっと痩せることが必要ではないかも知れないけれど,精神は痩せていた ほうがずっと良い。なんて,最近は,そうゆう精神肥大について,半ばの ダイエットを始められそうな次第である。大抵は,パートナーが寝ているとき 僕自身の目覚めてアートを楽しんでいる。僕が大いびきをかいて眠るときに 彼女は,その録音をコラージュなどして,ダンス・ミュージックなどに仕立て 起こしながら,朦朧の意識に意地悪など仕掛けてくる。今日は僕が起きてる番。 塩釜をコトコト煮詰めながら,灯油代も,その理由で気にならずに暖を取られる 心地は,冬景色の良い効果だ。半額で,豚ひれ肉のブロックが売り出してあって 醤油みりんで漬け込んでいたのを,じわじわ焼いていたら,簡単なチャーシューが 出来上がった。タイミングよく,父が”キタアカリができた”と届けてくれたので, お礼にすぐにタッパーに入れて,持ち帰ってもらう。実際は,なぜだか自然体で そんな一連の火の調理づきあいのできてるので,こんな精神のダイエット構想には もってこいの火の調理週間であるはず,水回りはキレイにして,しっかりと使おう。
ちょうど,フグの湯引き調理のあとに,床底に暖気のたまるみたいに,業の観念は どうしても内にも外にもただよっているものである。こんな,感情を知的に合わせる もみじおろしみたいに,はっきりと業を認識することは大事である。認識できず,あの ポイズンに当ってしまうこともあるだろう,瀕死の業中毒はよくあることなので,ただ 業が過ぎ去るのを待てば良い。ここで,自己責任にNO,を言うのは,業の付き合い方は ちょうどの,ゆきずりの恋愛ドラマをみるような,そんなあえての”自由の発想”で良い。 中毒になっているときは結構大変なモノ。精神…

脳細胞のひとつひとつが共同体鏡像姿態で,あの。

多分,鏡のように世界の映るのが心眼だとしたのならば、もう
他人の頭脳まで分け入って這入る必要はないのだろうなあ。
脳細胞のひとつひとつが共同体鏡像姿態で,あの。僕の世界は,
その幾億もの組織のワンオブひとつひとつなのだ。そうやって,
ヤル気と勇気は,火の意識として,業の最中にも,また漂泊する
そんな,ひと粒で一瞬に発火する,山椒のような”薬味”になって
クラフトの態度を熱っぽく煽動する。”神さま”は,きっとヒトの
普通の意識が業を抱え込んで,世界はそのもので,宇宙大な何か,
自分は傷つき世界精神まで膨れ上がった,そんなチーズ発酵のあの
革袋,ワイン袋,貯水袋になった,乾燥した灼熱の荒野を進むには
そんなショートスリーパーの珈琲通の現す,オアシス好天気の気候,
気象条件を必要に,晴れ男,雨男の何でもいいので,きっと世界大。
喉風邪を引いてから,咳が付いて離れない。けれども,これは正直に
我慢していることがあると,発生する咳込みなので,むしろ感情の
パラメーターとして,有効に働いている。そんな金木犀より寒椿。
随分と,底冷えする季節には,このピリピリとした寒さの中に,あの
あかぎれやささくれが自動発生するこの気候の何らかの神秘を感じる。
正直でいられるのだ。そう,正直にいられるのは何よりの神秘作用。
特に,寝不足で,珈琲のウーロン割など呑んでしまう。

基本的に,中毒は順応に帰してしまう。そんな信念を,深淵に隣接する 議事堂の,コミュニティ・プラザみたいな公共の神の境域関門のような 気分で,喫茶風情の咳込む灯油ストーブに安心の嘆息する夕暮れ珈琲。 社会的な視点は,元来日本には馴染まず,縄文の気持ちの残る喫茶の 噂話と,そのコミュニティには,きっとほんとうの暮らしの在り方の 垣間見える。なので,空気のような順応性と,揺蕩う流動性の風体で。 むしろ,その諧謔と剽窃の,イロニーのつるつるした円滑なスタイル。 中毒は,珈琲においても,その飄々とした所の美しさは,人間性の最もな 美学を堪能させる,漂泊する,そう,上滑りに微風に揺蕩うスタイルで, もう,そのままその美しさは,軽妙で,爽やかで,ふんわりと無頓着な そう,なので,そのままで行こう。この旅路は,社会的な外への通り道を ふさいでしまう回路はしていない,その通路は,内側を過ぎ去りつつ,また いつか,すべての執着の離れてゆく,…

青カビのチーズは,なぜか青い薔薇のよう。

ニニギ=神功,アマテラス=武内宿禰,ニギハヤヒ=仲哀,と置き換えて,
彼らをまた,三島文学と芥川氏と漱石山人に並列に,ならべてみては,その
ニギハヤヒによる薫陶を経て,アマテラスの女神性は発揮され,そしてまた
ニニギとゆう,文学による発露にして,訓戒を,神事的に昇華した文化史を,
おもわず計らずとも,ユーモラスにシニカルに皮肉めいた発露をその中に。
稲佐の浜,とゆう実在する国譲りの砂浜に立って,満月の翌日のお潮汲みに
出掛け,三杯ほど汲み入れてからなぜかしらそんなことを考えていた。例えば,
(文学史に置き換えるのが好きなので,)太宰の大黒さんの国譲りする浜を想い,
タケミカヅチとゆう,天孫降臨にも似た,あの大黒に迫りくる,三島文学のような
勢いを察して,ああ,国譲りの力比べとは,あれは何だか,正義において,気迫の
上の勝負だったのか,モラルや,慣例や,正当な判断はもう,踏まえて,その気迫。

例えば,太古の神が何ゆえの譲り渡す理由を探ったのか,とはそれは,もう新自然の
ネオ・ナチュラル・メンタリティなどを見出したからだったのだ。
なので,法則とは,メソッドや,技術によるモノを超えた,
何かをあらたに見つけたとき,
『あれは脱規則的に天然発生的に起こったのだ』って,そう言った
何かの気迫をさえ感じたときに,”譲られた世界において定着”するのだった。
青カビのチーズは,なぜか青い薔薇のよう。こんな感じだった。そうやって,
科学的な何かは,化学的に可逆的に,科学発生的に起源へと還ってゆくのだ。
ケミカルな法則的心理の否定するときに,逆に,自然は世界を譲ってくれる。

汲んできた潮水は,反射式灯油ストーブで,ことこと釜炊き海水塩になるように,
奥さんが楽しそうに,鍋に移していた。正直,盛り塩になどすれば,すごく様になる。
汲んできたこと自体が,僕にとっては神事的で,利用価値などは考えてなかったのだけど
あとで確認してみれば,そういったことだったようだ。もちろん,稲佐の浜に行けたのは
とっても良かった。曾祖父も昔から,元旦近くには,お潮汲みに行っていたそうで,その
信心深さは,評判だったように聴いているし,ほんとうにわるいものではない,それは
変な言い方だけれど,とっても清々しい,お家に海のある感覚。不可思議に伝統的な行事
とは,清々しさ以外にまず表門は飾っていないように感じる。…

人間性の羽虫の飛びかう,世界はそのまま浮遊感。

夢に同化せずに,影になることを択ぶ。また,そうして,薄っぺらい決意の, そのままに,夢に同化するより,そうやってエゴイストの夢の住人よりも, さらに,夢のインプラントを抜けるように促しながら,人間性の羽虫の飛びかう, 世界はそのまま浮遊感。草叢より翔び立つ羽虫の数々が,世界の夢そのままで あることを教えてくれる。夢の姿の虫の知らせ=世界そのままの私の姿。それは 突如のこと身魂鳴動せり,羽虫のように宙を舞う,浮遊感を感じたあとに, 川端文学=菱形信玄墓=五輪書武蔵=放念する法然。ガイストを堀辰雄に任せて 魂を,ヘッセに据えて,身体は川端文学に預けて,宙を舞う。そして,古都には ぼんぼり屋敷と,護摩焚き法要。入江に燻す,何かの匂いのして,水面に映る 幻燈の走馬燈の余りに,終に仕舞うことを思うのなら,川端文学に落着こう,と 室井コアラの『工房の宝石』などを読んでは川面に響く輝きの照り返しを思って 涙する羽虫の群れ「夢に拘泥する気はない。ないのだけれども,夢を楽しむもので。」 浮遊感に任せて,舞い散ることのできれば,夢も意味はなくし,ただ,水汲み場で 感じるような,その浮遊感のみに,想いを託すのだった。
夢みることを止めたら,それは,影になりきったことの証左であるのだ。なぜだか, エゴとか,それに世界とか,人間性や人間自身まで,虫の姿で,夢の姿で抜けてゆく。 責任感は,責任遂行力には換わるはずもない,それは,感情は100%に近づくほど 身体的には宙を浮遊し,影に親づいて,段々と責任感も能力も消えてゆくのだった。 それは,自由である。好きなことを,能力や評価により曇らすエゴより”希薄化”され。 「夢に拘泥する気はない。ないのだけれども,夢を楽しむもので。」段々楽しみだす。 夢は消えていったとゆうより,希薄化して,考えずに気にならなくなって,責任感も うすくなって気づくのは,ああ”好きなことやっているな。”と,影になった,感慨とは。 観照して,感傷的になる,スピリチュアル・センチメンタリズム。お茶も,煎じるとは 花の匂いのして来る凝集化であって,開花するとは濃密に,存在収縮して,ブルーム化。 あんまり収縮されると,お茶も水分を減らして,カオスな種のように少なくなってしまう ので,さあ,ある程度で,また湧水など足していってもいいのかなあ,何だかわからない けど,水分を摂るため…

思考=理想の,概念思考とは,運動する理念。

橋のたもとの衣料店。土手を渡った,パン屋さん。夢のエーテル界で,
結局,夢の住人の業=エーテル形姿を持った僕のダブルは,その本体で
あるらしく,いくらこの”現実”で追憶したとしても,エーテルと物質は,
融合することはない。攻撃と防御の,身体性に起因し帰結してゆく,その
影像神界とも言える,物質の界には,もう,影である”自分”を活きる外ない。

結果,思考は理想であり,業であり,エーテル的である。概念を理念が産む,
それは解るけれども,結局のところ,”概念思考とは,運動する理念のこと”で。
希望される理想の謳歌に臨戦してゆく事が,ポエジー溢れるクリエイティビティ。
影として活きる覚悟を持った,物質の姿した僕らは,意志とゆうより,表象の
むしろ深層よりも表層の,無意志の哲学をさえ捨て去る,”夢”の住人に帰るのだ。

そうやって,我執の強いエゴを”業=エーテル”に引き込み,いずれ表層化してゆく
自我の影自身に気づく,”夢”の法則は,諦めに僕らを引き連れてゆく,笛吹男で。
ハーメルンはそういった,エーテル色の強い街だったのだろう。エーテルの強い,
その本体性の強いエネルギーの中心地である”夢の市街地”には,オーガニックな
生命の眩惑の渦巻いて,もうそれは本当に,”妄想=夢の世界は,桃源郷である”。

夢について,ここで夢の世界の武器である,諸刃の”思考”によって,眩惑の都市を,
思考してみよう。もちろん,現実のイチ都市ではない,夢の未知な街を,嗜好品の
ように,たしなんでみよう。夢はとにかくも,無駄でなければ,夢とは呼べない。
そんな性質を有している。脂肪溜のような存在は,だからこそ,ベーコンや生ハムの
あの,アパタイズされる塩味の絶妙な調和によって,”夢=脂肪”は”思考=塩”によって
微妙な嗜好品文化へと摺り寄せられグルメに変化してゆくのだった。

結局,夢の都市は,アペタイザーのように扱われる軽味で,軽妙なテイストが売りで,
軽薄にさえ感じられる,記憶の片隅の都市であるからこそ,彼の居場所は確保される。
実態は,切り分ける思考態よりすれば,ジットリ重いものだけれど,それらを,軽味に
嗜好品に換える,その辺りの上手さは,絶対に,夢の特許シェフ・テクニークだろう。
夢は,軽い。そうして,思考は重い。こうやって,現実は,エーテルと逆転している。

消化する能力を蓄え,やがて現実を夢に…

神話性には仮説親和を湯に浸かりながら。

三島文学より芥川氏,太宰の門をくぐり,漱石山人の内へスライディング。 自己と犠牲よりの,詩情ポエジー。そうして,人間性より,宇宙自我へ。 自己より,情緒に,そうして,そこから全体主観の全人格的にユニバース。 逆戻りにみえて,物質的にグラウンディングするには,そういった,固形化する 何かのプロセスを必要とするらしいので,”自動化する思考について”は, それでも,お風呂の湯は止めなければ沸き続ける。そうなれば,地球自然の そういった水源は元を辿ればシステムそのものか。漱石山人は太閤秀吉の面影を, 何故ならば,戦国の世に照らし合わせば,その桐の花の咲いたようなスサノオの 彼を,ニギハヤヒとゆうなれば,そんな個性化された一般人間個性は,他にない。 皆,全体的な人格思惟に留まって,自然神のイザナミ=太陽神母に,なじむのなら 何故だか,ボーイッシュな”人間個性”はいかにも大事そうに,ミニマルに扱われる。 漱石山人=小林一茶=太閤秀吉=後醍醐天皇=源実朝=平宗盛=怪僧道鏡, =初代アウグストゥス=バルタザアル(ヘロディヤの父)といった,何の関連性の ない或る仮説神話性を見詰めては,これぞ宇宙自我だ,叫びたくては,風呂に入る。 バルタザアルはヘロディヤの父と仮説物語りすれば,ヘロディヤの娘のサロメーに 討たれた,バプテスマのヨハネに責任を追及される,そういった祖父また父としての 呪詛を受けるだろう,悔悟の前半生もあながち間違いもなく,垣間見られるものである。 『学生時代』には,整った文明開化を迎えるはずの生誕地に,何故か犠牲を求める開花。 木の燻されたような跡には,ロマネスクの干物のような,自己開花のチャペル・プレイヤ その教会群に,ユリの香りと,芳醇なブランディのような匂いの漂う。あれは,告解だ。
だから,寝る前には,かならず三島文学の香りの訪れるのだ。起きれば抜けるようにして 身体から立ち去って行くその芳香に,いいや,もっとスパイシーなその神秘性に,まだ 飽き足らぬ情熱の感慨を抱き締めて。まだ,起きる事のない自然の宇宙大の開花を夢みて その自然の開花した時に見られる壮大な芳香性の発露は,いかにも多分,ユートピアな 何かだろう,それで,珈琲豆乳を呑んで,チャペルの事も何もかも忘れる瞬間。僕は, 幸せだったのだ,そのロマネスク芳香に包まれて,出立する汽車に,いつも乗っていた。 …