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栄養失調とチョコレイトの相互関連に想う快い夜

ひとつのベクトルで良いのだ,と思った。知悉するファンタジーは
モノをクリエイトする情熱は与えてくれるのだけれど,それは見ていて
心地よいとかゆうものではなくって,何だかあくせくしている感じである。
栄養失調とチョコレイトの相互関連に想う快い夜には,創造性は,まずは
哀しみのスタートより以っての誰から見ても嬉しそうなハッピースタイルに
してゆく方向をまるで咆哮のように芳香させる。そんな,快楽主義の夜。
自己執着=自己秩序化をこそ,悪と混然一体となって,知悉する。そんな,
いわゆるカオスの中に,何故そんなに,良心の支軸は,認識云々の確信を
抱いてる?ただの疑問を提起される,そのカオスよりの質疑に定義づけを
試みるのは,詰まり,良心ではなくって,カオスによって,知悉することを。
チンゲン菜と,水菜を,白菜と挟んで,豚肉の小間切れを使って,みりんと
お醤油,ごま油など,とにかく大鍋たっぷりにコトコトしていると,もう,
見る間に四分の一ほどに縮まって,炬燵に潜りながら考える癖は,こんな感じで
水分は,容積と反比例するので,だから,考えることは縮小事態である,なんで
もう少ししたら,休日の仮眠を取る前に,そんな炊き立てのご飯と合わせて頂いて
のんびり,もう諦めてしまおう。カオスにも,嬉しさにも,例えば中心軸もっても,
そんなに,考える事自体には,答えは見当たらない。詰まりは,考える目的は全く
なかった,とゆうことを見つけるために,仮眠をする。これで,ぼくの挑戦は終わった
のだ,あとは,ポエジーでもエスプリでも,フランス文学に任せてしまって,やはり
知悉する事はファンタジーなれども,詩情からエクリチュールにいたる道程は避けては
通れない。けれど,ファンタジックにゆきたいので,眠るのだ。それも,良いだろう。

無の裏にある1つの知性にいたるのならば,混沌と一体にもなり得るのだろう。そんな
栄養失調とチョコレイトの相互関連に想う快い夜には,普段より糖質をオフにしている,
そのつもりもなかったにも関わらず,生チョコなど頂いたからには,急に身体の知悉し
反転して,知性はカオスに向かうものだと気付くのだった。ホンデュラス産の珈琲豆を
淹れながら,このお洒落なシブみたいな香り高さみたいな,こんな味は現代にしか味わえ
ないのだから,そんな夜に限って,妄想だってたくましく,何だか泥棒の這入って来…

おおまかに、甘い珈琲豆乳の方が、春の穏やかさに似合ってる

グルメや戦争経済よりも、暮らしや人間性の方が、ウェイトが大きい。
これは、確実に、幸せの結実を予見し知っているのだからだ。 昨夜の豚肉と水菜のニンニクおろし鍋とゆうのに、豆腐を崩して お正月のお餅を最後に使い切り、なんだかわからない夜食をして、 そうして、外は轟々と吹雪いている。同時進行で、ウーロン茶を 温めて、ヨーロピアンブレンドとゆうので、ドリップをしてから、 無調整豆乳と半々に、割っては、元の通り、こんな嵐の日には 音のしない、音のない反射ストーブの余韻にひたって、あの 雪の日には、なぜか暖かい日和の感じられる不思議な平和を心に 抱いている、この不可思議な夜の珈琲を沸かすウーロン茶には、 水を汲んできて、ミネラルウォーターで造ったのが、本当に良かった など、喉ごしと、平和を誘引する切なさ解除の真っすぐさは、同一の モノである。真っすぐに、あの平和を見詰めたい。それは、 解除の途中で分解されかけた感情を取り戻す修復の最中に、 こんな肉団子みたいな男の子のやってきたものだから、白兎さん、 驚いて、まるで何も知らない男の子のような、シンプルさには 何か別様の解決策を以って、平和を実現する、とろみのような 凝結作用を垣間見られたものだから、そうだな、よし。この、 肉団子は、しっかりサラダと合わせてしまおう、など思い立って 音のない雪降る夜。この静けさの中には、もう戻らないことはないのだ、 心配ないのだ。感情は、ひっしと親くに置いてある。心配ない、 なので、血のにじむような辛苦作業は辞めて、まずは、瞑目し、 あの、炬燵に潜り込んではパワーストーンのブレスレットなどを 嵌めて、帽子を被って眠ってしまおう。あんな夜は二度とない、 そんな、大事なパッション=発想を持って、眠ってしまおう。
首の詰まりを解消したくて、首もとに灸を据えて、2、3日。 リンパの流れを良くするものか、あるいは珈琲なども、自我の滞りを 一瞬に取り去ってしまって、下降する着陸気分のハスキーな感じか、 あるいは、自我の抜けた、浮遊する思想の、一度ならぬ極楽気分の 情緒を持つものか、よくある健康診断の前などは、珈琲を一杯。 傾けては、談義した方が好いかも知れない。いつもは、こういう風じゃ ないんだかなあ。けれど、綺麗にしている私のワタシ感覚は、 これは、いわゆる恋の気分とゆうモノで、恋の綺麗さは、 浮ついた…

社会構成自体の生命ブロックチェーンだったと気付く

生命のあるから、業のある。生命のために、業が廻す感情輪転機は、
まるで、スルメを造る回転機のことかと見違わせるほどに、 お腹の空いても、さほど食べずに、生命自体の目減りを計ろうとする。 やっぱり、枯れた水墨画の景色からは、やる気の現れだとか、 そういったのを、情緒の発端としての、やる気の現れとしての、 その、生命ブロックチェーンとゆう言葉を使うのならば、 カーマローカの世間体は、エネルギーなくしては、廻らないのだった。 お腹空いたなあ、久しぶりに、ベーコンエッグの材料を拝借して、 そんな、阿呆らしい、恬淡な自我自身の諦めに、諧謔的ツッコミを申上げる。 珈琲も沸かそうか?蕎麦公司など、造語できるのならば、この 深夜に、いくら珈琲を煽っても朦朧としてしまう、馬並みの眠気に 釜揚げ蕎麦の夢でも見させてほしい。まず、生蕎麦を買って帰る 習慣を持たないウチの冷蔵庫には、そんな夢は転がってない、 けれど、本当の釜揚げは、実に粉っぽく、粗い蕎麦湯のような、 そんなモノだ、と。出雲國の霊場遺伝子は、そう言って、あの 荒武者のような、静物画家の姿もしながら、啜りだす、彼の不思議な 感情を、ありのまま映しだすのだった。それは、無論の眠気の台頭。

結局のところのありていに説明したのなら,冷蔵庫より古びたアップルタイザーを,
湯のみと共に採りだしてきて,まずは,お客様に供したのこりのバタークッキーを,
ひとかけ摘んでは,まるで,さも当たり前のように,パンケーキのランチのつもりか,
地元の有名な饅頭を白あんにて,乾塩ベーコンに,くるっと巻いて,ひと口で頬張る。
そうして,湯のみにアップルタイザーをゴクリとする。まいった,バタークッキーまで
ベーコン巻にしそうになるのを,押しとどめて,ふいっとひと息つく心地は,そんな
真冬の籠り越冬振りを,まざまざ想起斟酌させる御様子で,侘しいとゆうよりも,愉快
である。最後に片付ける所存で開けた冷蔵庫の中には、また古びた、 ザワークラウトの発酵瓶のあって、ローレルの葉と共にガジガジ、 いつまで経っても、美味い。香味を維持する食品とゆうのは、 実に、いや、まさに造り手の清浄さ=信頼の高さを彷彿させて、 タイザーも、抜けているかと思いきや、芳醇さの増して、本当に 豊かな、怪獣になった晩の、越冬雪ゾリ浪漫夜食譚であったのだった。
かじかむ手に、一対の片手を添えて、もうひとつ…

無目的に食事を1時間ガマンする。この自我に賛成の反対。

クッキーを頬張りながら考えた。ナッツ入りも旨い。が,バターの
それは,まだシンプルに,心に響くから。恋とは,面白いもので,
常に妄想なのだろうけれども,想われているからこそ,想うのであって
それで,出逢いや,地球上の空気感応は,基本的に相思相愛の,もって
第一義である。なんて,完全に妄想の裡に佇んで,けれども,想われ
想う,その理由の『まるで,この世は霊界である。そんな段階に来た。』
これは,年齢的なモノだろう。この感受は,常に地球上の空気感応と
称して,クッキーを頬張りながら考えた。ナッツ入りも旨い。が,バターの
それは,まだシンプルに,心に響くから。などとは,呟きながら,帰り道に
ナッツのような小石を蹴って,あの煙の尖塔より,眺めている自分と,あの
『自分』は,振り返って,私は,ワタシである。無目的に食事を1時間ガマンする。
この自我に賛成の反対。ひとつ,階段を駆け上がれば,その世界は希薄化して,
また現実的には,違う人間関係を創出するそうで,誰に言われてそうゆうわけでも,
決しては,ないのだけれど。なんだか,ちょっと神秘的な気分になったからと言って
昔のパワーストーンなどは身に着けられない。階段をひとつ上がったのだ。そんな,
石油文明でもいいから,あの,尖塔の煙を被って,上層の滞空しているクリアな
感覚を,ひとえに感じきって,何もかも知悉してみたい。

やはり,階段をのぼるのに,ウーロンドリップによる烏龍珈琲は,良かったみたいで,
ある講演会などにゆく道すがら,この話の裡に,天の岩戸開きのようなことの起こる,
そんな開闢の一瞬を垣間見たようで,これは,他者のココロの開きだろう。なんて,
思ってはいたものの,すんでのその革命的な面白さを感じた後で,帰り道の車中で,
『過去の教訓は,いまのところ,両者のスイッチを押すことが控えられ,そうして,
引いて引いて,どちらも,行動を起こさなかったところに何があるのか,みたいのだ。』
とゆう持論を交わしながら,僕自身は,こんな開闢の瞬間を迎えられそうな,以前にあって
身体性のシステム異常はないものか?この業の泉に晒されながら,からだの反応は,きっと
合格ラインを導き出したようだ。この講演会に行く手前,朝の掃除の時間などに,こんな
開闢の手前の,身体の合格ラインを感じた話を,滔々と繰り返しては,やっぱりスイッチは
ONにしたい…

次乗するスキニージーンズの,自浄自縛の経過に想う雪絨毯。

聖書物語と照らし合わせれば,ヘッセの聖母マリアの居て,
そこに,聖アンナは母として,シュヴァイツァーだったりする。 そうして,トーマス・マンの聖ヨゼフの中には,遠くアンナの母君と しての,ヘミングウェイ=St.Clausの姿の浮かんだりしたのだった。
ここで,ヘミングウェイには,白い狼のツルゲーネフや,遠くシュメールの
神であるとゆうアヌンナキ=ノストラダムスなどの影が追いかけられては,
その形姿に僕は,すでにゾッコンなのだった。さあ,ヘミングウェイ?と。
さあ,パイント瓶の形をしたペットボトルにバチルス菌と,きな粉烏龍珈琲を
淹れて呑む心地は,まるで,線虫などが国土を走る様子を,神は龍と呼ぶ?
その,次乗するスキニージーンズの,自浄自縛の経過に想う雪絨毯。まるで,
アイスバーンになって,つるつるの路面を,舞う雪煙に,ああ,うつくしい。
なんて,とろんとした眼つきで,その穏やかな車内と,荒野のような雪原を
眺めて,あれは,ようやく私の不安症の龍神さんの抜けることで,ただの人に,
戻れることの夕餉。今日は,昨夜の味噌鍋で,チゲもつ煮込みをしたら良いものか?


あるいは,ポン酢を温めて酒を抜いておいたので,この間は酔っぱらってしまったけれど
この,お出汁とみりん酒お醤油を,コトコトしたモノに,米酢とレモン果汁を加えて造る
手造りポン酢によって,豚バラ肉と白菜のミルフィーユ鍋には,ウィンナーや白滝を載せて
いつものように,暖かく食べる。食べながら,またたく頂いてしまうその様子には,合掌。
大根おろしなども付けられたら良いのだけれど,それは,ほんとうにあったら良い時なので。
次乗するスキニージーンズの,自浄自縛の経過に想う雪絨毯。国産もつの,あった時などは
思わず目を見張ってしまう癖には,やっぱり,お酒は呑まなくっても,みんなおつまみの
ような,酒の肴メニューは好きなんだな。と,やっぱり,今日は味噌煮込みで,白ゴマの
ペーストなど足して,玉ねぎとキャベツで組み合わせてしまおう,早く料理することの,
『楽しみだ,』こんな。次乗するスキニージーンズの,自浄自縛の経過に想う雪絨毯。
食事をする時間を,まずは楽しみにして,パイント瓶の調子などを伺っている,そんな夕べ。


結局のところ,国産の小腸とゆうのが見つかって,2店舗目で,3パックセットの
そういった購入を適えて,さては,1回の…

ホタルイカの生干しと,梅肉の長芋たんざく。そんな,お茶請け欲す

まるで取り越し苦労による,パラダイムシフトを超えてより,
ホタルイカの生干しと,梅肉の長芋たんざく。そんな,お茶請け欲す
この季節の幽玄ほっかむり,この季節の幽玄ほっかむりを超えては,あの。
有終の美とは,自我の終焉にイコールなれども,その有限性には秘密の鍵が,
ある,としてそれは,愛着と執着の鍵なのだった。歴史はパラダイムシフトした
のだろうか?繰り返し,1%のテロの恐怖より,すすんで60%の貧困不安に,
まずしさは,階級別に計られるものではなし,それは,何を100%にするの,と
ただ,それだけのことなのだった,その100%は,有意義な余裕タイムで,そう。
愛着と執着のテーマをクリアし,その問題と対峙したうえに足し算に対して,ルート。
魅力とゆうのは,何にせよ次乗多乗しているくだりのあるもの,なので,その増産には
ルート,ルートを,どんどん,惚れ込んだ塗り重ねには,けずってやすいて磨いてネ,
と,よく言ったものだ。どんどん,ルートするべきなのだから,それは,全体より身体へ,
戻る必須事項の,例えばウーロンドリップによる珈琲などで,次乗多乗を,降りて行く。
身体に堅い不快感を感じるまで,わたしが私たりうる,そんな必須の世界の体験をする,
それは,とっても必要なことで,僕にとってはその体験は,三島文学とゆうより,その先の
太宰ヒューマニズムを通っては漱石山人のLONDON ONE IRONYへ。ただの,諧謔と皮肉へ
辿り着けば,もうその本望の姿は,いたって漱石山人のテロは見た目の皮肉めいた何かです,
あの視線で,あなたは終わってるなんて,釘を刺されて帰るとき,僕は何故か目覚めてる
のだった,ただそれだけなのだった。だから,皮肉とゆう身体性。
あとは、自分の身体性のそれ自身で解決してゆくものだ。そんな、 感慨が、ぶるぶると心理を揺さぶるのだった。放課後の教室で、 笛の練習を、やがて口笛にだけ換わり、そのまま孤独の種は、 優しさの愛の果実へ結んでゆく、そのさま。ファンタジックな 修道士精神志望の、コンタクトレンズが、スピリチュアルに、 境界線上に、あとは哲学者かの、メルヘンチックな担当ですすむ、 それゆえに多分の役割はあるだろう、あるだろうけれども、あの 結果の、職業は美味しいだけで人の集まるお店造りは、それ以上の システムがモノを言うとゆう、魅力惹起される、その種がモノ言う 酵母造りの、…

ヨモギ蒸しをして想う『地球』は大きなよどみの海あるからこその

善悪の区別はないのだった。むしろ,悪=灰汁=よどみとしての
あの大海に泳ぎ出て行かなければ,地球体験は叶わない,と。
ヨモギ蒸しをして想う『地球』は大きなよどみの海あるからこその,なので
女性性は大海の中を鷹揚に泰平として,泳ぎ切るイルカの群れのように,
右半身を携えれば,論理の左脳をフル活用してこその,直観だろうから。
何よりの,地球体験とは,この人間体質は惑星を失うことさえも,海の
支えによる,悪の縁の下の支えによりそうゆうよどみといったモノの本意を,
こそ,善悪の区別なしに体験する,その地球体験を,大海に宿す道徳知悉論。
ステンレスフィルターなどでドリップするときの集中してなければ,落ちぬ
その感じを想い出しながら,また,ふ,と。おもうのだった。それは,意識。
ヒステリーは、ヒューマニズムと哀切によって、結び付くと、そうは 思っていたのだけれど、食のパラダイム・シフトなる、珈琲豆乳の、あの 豆腐もできる、青くさい有機豆乳に換えて以来、やっぱりまた 甘い匂いの豆乳に戻すのはわかってはいるのだけれど、しかし、もって。 ガスの火調理はあり得るとは言え、ガス釜のように炊ける、グリル焼き容器に 何でもかでも、アクアパッツァや、グリル野菜や、サザエの壷焼き、 あの鉄製のようなトレイに、豚肉のスペアリブなども包み込んで、蓋して グリルに焼く調理器具には、火の力が宿っているので、コンロに鍋とは また違って、ガスオーブンに親いその煮炊きの仕方や、また締めのリゾットも そうやって、グリルのあとにしてしまう、例えば反射式灯油ストーブに、 暖房器具をシフトする感じと、とても近くて、あの感じ、あの女性性とゆう 感情の裏表を知っている、文学にはGo Humanの欠かせないのだった。
画像通貨など、勝手に呼んでいる、Web上に拡がる絵のすべては、 もう、それら自体、本来のエネルギー画幣として、蔓延する発光体で、 交換経済以前に、人間性を交歓しあっているのだから、僕は 世界中の酵素を、私の地球と画家の呼んだように、この自宅周辺域で デジタル写真に撮って、画幣化して、Web中に落とし込むのだった。 地球を、Saucer of Sky Dish=S.S.Dとして、Web中に落とし込む、のは 画像の姿態で、落とし込まれる、宇宙船地球号の酵素地球は、それらの 変換を、転換期に望んでいると想われるのだった。そうして、その 変換された記憶として…

デカフェ烏龍珈琲豆乳で,きなこ砂糖を加えて混ぜる

マハトマ・ガンジーは,彗星の長老だと,荒唐無稽な話をして,
それは,アメノウズメのような尾を曳いて,ナポレオンの英雄譚。
そうして,マリア・テレジアの母君で,エリーザベト・クリスティーネ。
こんな,彗星とアメノウズメの舞踊を兼ね備えて,もう宇宙の外へ,
跳んで行きそうだから,デカフェ烏龍珈琲豆乳で,きなこ砂糖を加えて混ぜる。
そう,全部一緒になってしまえばいい。これは,頭部組織より,足先で考える。
男性性と女性性。また,イロニーとユーモア。思考と嗜好性の,感情一態の,
あの温かい情熱の世界へ。一途に想うことは,想われることと同体であって,
積極性は,受動的消極性と,また表裏カワして一体のモノである。なので,
また,シュペルヴィエルや,ピカソに,追い着いて,ガンジー=ナポレオンの
世間体まで辿り着いたとき,そのバネが弾けそうな時計のゼンマイ仕掛けは,
宇宙に振り切れない,またもや”太宰=龍馬”の”恋愛体質=英雄嗜好体”に戻り,
この宇宙世情の旅程を過ぎて返ってくるのだった。もう,戻れない英雄譚指向は,
良いから,それより”お好しになって,思考の終焉を,自我の降下をめざして。”
落ちることは,必要だろう,いいや高みより,堕落を選択して,下降すべき。
梅の花の咲いて,桜の蕾みの紅くなる頃には,次第に夕暮に花の匂いが交ざるの
だから,そういっていこう,高みより下校する少年の,つむじ風は後押しするのだった。
愛情は、それだけで幸せの効果を発して、その都度パーフェクト。 珈琲による、多幸感に忘我の告白を体験しても、結果は継続性。 なので、自力作善で良い。もちろん、概念的な判断だけれど。 努力して人生の改善を試み、やり切ったから、たぶん無関与に諦め。 極力は、努力による改善などは、情緒的残滓を産むことによって 避けたいなどとゆう、発酵学に似た学問的態度も認められは するのだけど、例えば、忘我による無我恬淡のプロセスをへてより、 やがて、全く自力を避けられるか、などは質問には及ばずなので、 だから、概念的把握とは言え、そういった、自動的に意図する無意識。 この、自律とは呼べるのか、呼吸を感じるときの意思みたいなモノを ただ、求めて、思考態にも応じてゆきたいとは想うそんな雪解けのポタポタ
食事は糖分を摂る幸福のためだったら、食べることのグルメ一般は 快楽主体には捉えられるけれど、その経験をふまえて、エネルギ…

冷却の雪の日の早朝,虫干しのお布団より脱け出す最中

教訓は、むしろ身体に滲み着くモノで、例えば身体性の変容は、記憶の彼方。
いつも、忘却の中に消えてゆくモノこそ、教訓の証左になるものである。 むしろのこと、どんどんと忘れていって、青空のなかに消えゆく。 この、息をしている自分の身体の、青空はその証拠たりうるもの。 感受性の強い身体にとっては、処世訓みたいなモノは、どこで、 憶い出せば良いものか解らない、そんな仕組みで転がっているドラム缶の 音色のようで、まるで今の時代に樽のディオゲネスの語るのならば、 『いいよ、いいよ、カオスのなかでモノは産まれるのだから。転がって。   この樽では火を熾せなかった、この缶では、冬の夜中に油で燃やして   その缶の周りで歌っているだろう。そのロマンは、もし今。あの、   缶のディオゲネスのいるとしたなら、歌っているだろうよ。きっと、』 など、喋る矢先に、霊歌を口ずさみ出す、ドラム缶のディオゲネスの、 もしや、ラスコーリニコフの罪と罰は、冬の夜のゴスペルを、彼の 四辻に接吻を、して懺悔するのを、免れさせるほどのモノでは? 冬の夜中に辻馬車は走らない、ただ。ヒッソリ、ウィスパーざまに呟く、あの 霊歌をこそ、『聴きたまえ』。缶を目前にして、哲人たちは歌うのだった。
手鍋に、二合の米と、水を汲んできて、一番の弱火でトロトロ60分。 炊き立ての白飯に、鰹節を盛って、お醤油を足らせば、おかか飯の、 そんな時には卵を1個落とすのだけれど、そんな余裕も要らぬ。 右耳の神経的な詰まりを常に小学生以来感じてきて、ようやく 免疫の出来上がって、排毒に及んでこのかた、そんな食事が、 やたらめったら美味いのだった。猫耳の小さな、あんなキティたちの 眼だけクッキリ大きな、そんな可愛さの堪らない。勿論、本当の 仔猫たちのことを言っているつもりでは、あるのだけれども、なので これからは、神経性の強みとやら、きっと眼力の方のシフトチェンジ。 パッチリ目を開けて、しっかり見て行きたい。この、処世訓のまさに、 有り得ない世界そのもの。エーテル的に甚大で広大な沃野とゆう、 精神心理的に、記憶の源泉を現している古代の葬いをこそ、僕はマイ、 ライフテーマにしては、見て行くだろう。神経性の問題とゆうのは、 往々にして、一応、鷹揚にそういったモノであるだろうから。 炊き立てのご飯に、おかか飯の、とりあえずは、二週間くらいは それ…

結局のところは攻撃性と受容れる心の対比に

雪のためにいつも帽子をかぶっている。朝は,久しぶりに 珈琲を淹れて,ゆっくりと氷を3個いれては,ブラックで ぐびっと呑んでしまった。結局のところは攻撃性と受容れる 心の対比に,なってみて答えは,きっとアイスコーヒーの。 ロマンティックに朝を迎えられるのかとは,思うほどに, 夜のあいだになにか見つけた気分で,起き出す一歩,二歩の あのとき,何と答えたらよかったろう?あの問い合わせは, ゆっくり休んでいますか?と訊かれて,そうして,ええ。 とっても大丈夫なので。そうやって,答えて,いつも2人の 関係は相手を思い遣る心地と返答に優しく大丈夫。と,言う その間柄には,なにもウォーリーすることはないのだった。 冷たい窓の寒風の音しかしない日は,ストーブを点けずに, 炬燵だけで,アイスコーヒーをたっぷり呑んで,罪と罰,の 朗読を聴きながら改めて良く活きるための自分の処世訓を, 描きだす頭の中で。
2杯目の珈琲を淹れて,豆乳と割って,静かに机に置いているので, そんなに,悩むことはなかったなど,今更想う事ではないのだけれど, 寒さ故の,不安や焦燥感の心配などは取り越し苦労とはゆうなれども むしろの事は寒さに冷えた身体を心配する自らの身体性であろうとは 避けて通られぬ悩みであるので,初老の男が,やがて身を滅ぼすのは きっと恋に故の事であろう,とゆう朗読を聴きながら,やはりその事。 出版の方へ向かう,手切れのお金の話題などを,彼の罪と罰に感じながらも やや,不詳な話しぶりではあるけれど,そういった寒さの想いはどこかしら 地球を想えば,寒さは至極である。けれども,経済の隆盛を担えば,その 薄着で笑う気持ちは,どこかの業に呑み込まれてしまう。なので,この スヴィドリガイロフとゆうおじさんに,自らの業を重ね合わせながら,やがて 寒さに嗤う私の気持ちを,やっぱりいつも,この罪と罰の裡に,神のテーマは 例えば,第三者的神の視点で罪と罰を眺めるのならば,なんだか,意味がありそうで 結局のところは攻撃性と受容れる心の対比に,業による罪と罰は,無意味ではないのか? 無意味でありそうで,無であることの意味を示すそのあたりの,無の現われるあたりが 神の視点を想起させる世界文学の,轟々と世界は吹雪いているのだけれど, なぜ産まれるとゆうこの事自体の,活きた蟹を食べたら,熱病に罹るとゆうジンクスなど を感じながら,生きるテーマといったモノがあるのならば,ひとつひとつの…

ロマンティシズムは,風林火山の宇宙開口,天地開通

エーテルな外殻を破らなければ,外の神界天国には行けない,と。
ラディカルな抒情はあるけれど,いわゆるそれは,耽美的ロマネスクで
堀辰雄文学は,それである,また,諧謔とは,本来ユーモア+ペーソスの
本来的に,哀切を含むものである,と。あの北斎の芭蕉同一論を想って,
何故だか知悉する。そういった,諧謔による,地球の全体性ロマネスクは
軽井沢の追分駅を降りた所の,記念館に眠る,馬酔木(あせび)の文字に
またたび,と。勘違いもして,読みながら帰る道すがらの,猫のアクビは
ロマンティシズムは,風林火山の宇宙開口,天地開通である,もう少しは,
ラディカルであっても良い,いいや,抒情であろう。そうやっては,もすこし
耽美的なロマネスクを,燃える椎の樹の雷鳴の夜に当て嵌めて,眠っていて。
茶柱が立っていたって,それは,緑茶煎茶でなくっても,例えばジャスミンの
何かの枝だって立っているだろう『無茶です,むちゃデスよ。ああそれなら。
番茶と緑茶煎茶とジャスミン花の全部を一緒の間に淹れたらいいんデス。なら,
絶妙なカテキンの中にフレイバラブルタンニンの混ざって良い感じデショウ。
なんなら,ご紹介をして差し上げマス,これは,罪と罰のラスコリニコフ茶と,
呼ばれる,ローズヒップ緑茶ブレンドなのですが,如何でしょう?』などとは,
飲茶茶房の御主人のベトナム人男性などとは,会話できないのだろうか?など。
うつらうつら,そんな霧中散歩にストーブ湯気沸いて,エーテルの壁。これは,
まさしく肝臓細胞の再誕生の瞬間を垣間みている最中の出来事なのだ。これで,
僕らは,ロマンティシズムは,風林火山の宇宙開口,天地開通の証左となる。

エーテルの出口が開いて、扉のひらくと、マクロなコスモスへと、 旅立つプランしか予想してなかった心が、不可思議と、自らへの 関心や、歴史への嵌入へ歩をすすめることに気づく。忘我の、あの 自己放棄へと旅立ってゆくような気のする、思考癖は、結果として 私を知りたい。それは、自己放棄の自由より先立って、システムを 択ぶとゆう、システムと幸せを択ぶのだとゆう、身体性への 回帰、無事戻った故郷へ帰還した私を待っている。わたしというEGO。 アイスを2個購ってかえる道すがら、こんなに寒いのに、そんな ひとはいないよなあ、などとは想うのだけれど、返って頬張る、 その心地。少しの暖を取って、甘いも…

ヴァレリーのエーテルオーラは擬人化された地球。

アベルやアブラハムの肖像を描くターナーのような、あの人格はベタニヤのマリアの香油そそぐ、擬人化された地球のオーラ。 エーテルの殻を剥いだ時には、真空の青い円盤が、弧を残して 輝いている、芝草の上を歩いたソックスの置いてあるこの人格に。 ヴァレリーの草稿をモノにして、この篆刻にも似た活版印刷のまた。 薄いコーヒーをウーロンドリップでいれながら、この世界の不思議は 結局SKY DISHをSaucer of Socksで運ぶ人格神の心地は、その結果。 世界のDAZAIが、ベタニヤのヴァレリーに、エーテル態の香油を、 存分に沢山そそがれて、潤沢に性格の心地を無我恬淡に忘我させられ。 この夕べの湯上りにはシャボンの全体的主観性の発露されるので、 温かい、夜辺の猫達は呆然と眠りこけて。その代り、蝋梅の匂いする。
LONDON ONEとは誰なのだろう?漱石山人?だとか、あれ。 ツタンカーメンのまた、モーツァルトの、またミレーの、そうして シュペルヴィエルさんの、そういった、系譜の存在を夢想する。 ザルツブルクのベゴニアの花、岩塩とともに頂く、スコーンの 紅茶にまざった、香りの含む、巌になったよう、巌になった。 ヨゼフのマンと、マリアのヘッセ。バプテスマのシュタイナーによって 太宰のイスキリの大部分存分に、この謎解きLONDON ONEを。 プリンキピアを解読する、ラッセル教授の辛苦を想えば、あの トマス=ダヴィンチ=ブロッホの、桜見に1月の夜桜スコーンに、 酔うのであって、神秘とは、一枚岩になった二重人格の、 とりあえずは、ヴァレリーエーテルの殻をめくっては、また。 春の夜の微睡み。これは、ずっと獅子のmoleの謎解きよ、彼の LONDON ONEの正体を捜すのだった。
人の酔うのは、みずから異星人であるとか、異邦人であるのだと、 そうゆう、一瞬の忘我を求めてのことだろう。と、しては 一度、惑星をはなれてゆく、放心して放棄する地図の上に、とある 異質な自己ならね自我をみとめる地点、このポイント部分を、 わたしである、とみとめよう、とロマネスクの語るのだった。 はっとして、業とゆう、必要以上に、とゆうか、平均以上に、とゆう、 執拗な真面目さを持った、業の上に知悉するLONDON ONEの、 この枕にヨダレのこして起き上がるときの、あの顔面寂寂として。 真面目さとは誰か?この問いに換わって、切なさは誰か?とは 哀切さとは誰なのか?とゆう質問に替…

ロマンスにミルクティーかざしてながむるは朝。

ロマンティシズムに知悉しすぎて、リンゴの皮をむくのには
例えば、アマデウス=ミレー=シュペルヴィエルなどのような、 やはり、それも思考の果皮に過ぎず、歴史の趣味に変わりはしない。 獣神の親父さんのルシファーパパの面持ちが浮かんでも、ただの 宇宙船地球号の乗員としては、昼夜の自然法則に適うように、 夜には就寝に床に横たわる、この気持ちを果皮をむく、知悉画蒐の 歴史の趣味は、天然理念=自然の証拠集めである。として、 ロマンスにミルクティーかざしてながむるは朝。なにごとも、 なかったかのようにして、サディズムは攻撃性ではない、愛の表現とゆう そのあたり、芸術はずるいところをいだいては、その大海原には 難破した船がたゆたっているだろう。どんな、木片にも、あの うるしくらいの勢いの強さはあるのだから、生姜と焼酎と胡麻油の 即席湿布で、木片の毒による腐敗を抑えるとゆう、あれはまた ただの生姜焼きのレシピだったそうな。かぶれを避ける生姜焼きの "うるしよりかぶれを避ける生姜焼"と来て、季語ははたして わからずも、はからずの秋めいて、あの青空はまた彼の紅潮を呼ぶ。


水餃子には,油を使わず調理して,溶けだす小麦の皮包(かわづつみ)に 舌つづみをする心地。糸こんにゃくも,あまりローファットな食品であるから, それで,白菜のミルフィーユ鍋などこしらえて頂く際には,蓋をするようにして 上辺に置き,湯気の吹き出すまでゆっくり熱を加えて行くのだった。例えば,あの 世界全体を考慮しているものだから,吸血鬼のように寝てしまう,思考癖とやらを また,水餃子とミルフィーユ鍋のように,ノンオイルで調理するような按配で,さて お風呂釜が焚けてきたので,タイマーの鳴るように食後の夕べには,もう意味のある 何らかの夕餉の匂いなどは,寒風に去ってゆき,いまはウーロン茶によるドリップで 珈琲を啜っては,無意味の世界を包括する,その嗅覚を失うほどのあまりに,思考癖。 かと言って,チョコミントや,クッキークリームや,キャラメリゼに押されてしまって すっかり少なくなった,チョコレートのアイスクリームとやらに,なぜだか身体の暖まる そんな季節の変わり目を見詰める風情によって,その薔薇やラベンダーやジャスミンにも 並ぶようなフレーバーにて,チョコアイスを頬張る。
ポン酢は家でも作れることに気づいてからは,お醤油とみりんと…

愛する樹の葉が、光の子どもを宿す、木漏れ日の哀切こもごも

悪意は常に,攻撃的とゆうより,お節介で,なので善意は常に,
受け身でだから,攻勢にでるときなどは,その受け身のピークに
至った時である。とは確かならぬ,確信を不幸の裡に授かるモノ。
なので,逆に言えば,被虐の中にその”確かならぬ,確信”を得た
のならば,常にそれは,宇宙の引っくり返って,右脳が左脳に,
奴隷制が貴族社会に,また自由が絶望の内に失意より暗黒の幕を
引き,知性とそのグリッドに掛けて,耐えることを良とする法則。
零れ堕ちる目から鱗の数々。耐えることにより,知性をゲットし,
その逆説において,また,貴族社会が奴隷制に置換えられないよう。
ぽろぽろと,目から鱗に,絶望が諦念めいてあの,知性に換わるよう。

”自我の表明”は,他の区別なく『私』は,その世界であるとゆう宣言で。
カンディンスキーの抽象的な原色や,ロシアの知性にその源流を求める。
あれは,確かにドストエフスキー。『罪と罰』を借りて来て,朗読の
ファイルをスマホに移す。彼は,確実にキューバ革命の中にも,また,
サンクトペテルブルグの治世にも居たのだった。山師カリオストロとゆう
響きに,どれだけ震顫したことか?また,聖テレーズの宣言は”自我の表明”。
彼らに,うわさ話の集団魂の使命を聴いたのならば,一気に一括個的処理を,
その,知性に巌は打ち砕かれるので,転石苔を生ぜずとは,元来転ぶ石自体の
何処にもなかったのだった。
さては、女神のような上杉謙信公と、美少年の敦盛像に、あの 局長時代の近藤勇の肖像と、そうして、猫町の萩原朔太郎氏など、 自らの業は瑞々しく解けて行く、祟り神の因縁の想いに親くて、 まだまだ、身体の中には、そういった、フェミニズムの葉隠の、 蒼々と流れては行かない、堂々としながら、青くさい匂いの、 こんな、流動的な業の姿を見るに付け、眺めている山頂の景色に、 どれだけ、どれほどの、貯水源である雪原の積み重なるのかを、 椅子に座って、湧き水を啜りながら思い馳せるのだった。また、 大学の構内に、手すりの脂の載った木目調を見詰めることの、 また椅子に座りながら、おでんを啜り上げることの、薩摩揚げ。 あれが、一番いい。と。言って、とりもなおさず、雪原を 我が物顔に跳梁する、心地は、雪景情感の、事の由かな。と、
木目調の照り返す階段の手すりに触れてから、おでんの具に ありったけの赤貝や、ゆで卵などを、加えて、味噌と練り胡麻で、 …

知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。

猫分けとゆう世界の不思議は,最後すこし残りをあげる事によって, その先に食べるかどうかは別として,残りものの福としての,あの 世界の不思議。知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。 なので,業とゆうものを見分けた際の,猫分けのような,自身の透視は 『残っている福とゆうのは,”結局,赤の他人で,また自分自身である”』 と,そんな,”ギフト”であり,歴史の遺香のごとく自動的にデジタルな, 僕にとって,この一概に青豆の薄皮みたいな記憶の触感は,こんなまるで 記憶領域内のデジタルな贈り物なのだった。さては,分け入って,こんな デジタルな自分史の扉を紐解いてみよう。
桜田門外の井伊直弼翁は,非常にてっちり鍋のような分厚い,重厚な,その
徳の篤さに,頭脳の厚さも幾重にも強い将軍様だったように感じるのだ。
薩摩藩士の1人含まれていた,と伝わる,水戸脱藩藩士による企てによって,
この,雪の夜の考察の時間には,あの事件の経過が,ふと想い起されるのだった。
雪景を,ながめて諦念する呼吸の,また一概に言えない景色の無常さに, また僕は,異様なほどの太母の介入めいた精神を感じて,井伊公は, 本当に,諦念のかたまりだった。など、相槌をその高杉晋作や龍馬の 面々に打っているのだった。この,雪の降る太母の夜更けに,僕は 何だか,珈琲の抜けて行く真実味のある,しんしんと降雪音を感じ, 免疫とは,記憶の交錯に内側から語りかける,そんな物語りなのだ。 合点のゆくまま,ノートを閉じて,ふたたび,プーアールドミルクなど 傾けて,諦念。諦念,のこの二文字によく,時と情緒の十字架を みるのだった。時間は横軸,縦軸に情緒の来て,ようやく切なさは晴れる。

晦渋の切なさが身に滲みて溜息に換わる,雪の夜の話しに,むしろ渋い珈琲豆乳を 組み合わせの悪い,ジャスミン珈琲などに替えて,センブリ茶のように啜るとき, またこうして寒さも感じないほどに珈琲の抜けてゆく感じを物ともしないさらには 雪の夜の静けさよ。もう,渋味は諦念とゆう,性格のシブに換わって行くのだから, さては,言葉通りのあきらめて,ふっと一息ついて,ダンディーな嘆息に更けよう。 究極の所は,記憶の残らないところに,過去とは隠れるのだ。
あきらめ,あきらめ。溜息,嘆息。珈琲の抜けて行く感じは,こんな風景を身体に 染み入れさせる。ヴィジュアルで言え…

狐のDomestic PropertyとハートのWhite Holeは宇宙ボムを交換するのだった

珈琲を深夜に淹れて呑む多幸感を、例えばスサノオの天詔琴や、
オロチの尻尾より現れ出た宝剣のごとく扱って、総称して、 宇宙ボム、と呼んでしまう。或いは、イザナギの黄泉返りによる、 産土の祝詞と替えても良いだろう。なぜなら、Domestic Property野の、 このヒステリクスによる側頭葉より、宇宙ボムは、破壊神にしか 扱われないので、(以前、右側頭葉は、Domestic Propertyと描かれて、) そんな扱いを、避けて宝剣を振りかざすのなら、White Holeの、例えば ハートの優しさや諦念によって、ただ、概念交換にだけ想い馳せて 取り扱う。そんな岩戸開きのような想いで、産土や天詔琴を鳴らす。 この祝詞のように響き鳴らす、開放的な宇宙開闢宣言は、やがて このKARMA SPRINGを明示して、僕の心の闇を照らす、珈琲の多幸感。 闇が深ければ、また光も輝き出すので、あって逆説的に"それ"を用いて、 情報運用をしていたのが、KARMA SPRINGだとゆう太母モノクローム。 イザナミ母神より乖離して、まるで、小さなインプラント免疫を付けて その闇より抜け出すのだった、けれど、KARMA SPRINGとは、 そういった、心の闇による、稲光りの輪郭を表現する作業だと 気付いた時には、その諦念も、これらの文章と共に薄明に消えてゆく。 いずれ、輪郭もハッキリする必要もなくなった、真昼の明るい世界には 宇宙ボムの幻影も跡かたなく希薄にかすんでゆき、その 多幸感による、深夜珈琲ドリップの鎮痛剤的な効果は、一瞬の 腰痛ばなれを達成して、良かった。寒さはエネルギーを奪うが、 けれども、記憶の面で、KARMA SPRINGは、宇宙ボムの 開放処理を試みたとゆう事だけ、明記する。なんだか、珈琲の メタファーは、あまりに複雑で、明示するにしても難解なのだった。
この先は、どこへ行くのだろう?あまりに、指先は冷えて、 お腹の空いた、脳内空腹感は、知的な観照だけで、 ひと段落した後は、ゆったりブランケットにくるまっていよう。 宇宙開闢?そうだ、そんな感覚を憶えた、記憶のリラックス領域は、 この冷えによるエネルギー消費も暖めてくれるから、もうその 冷えのようすは気にしなくっても良いだろう。雪が積もれば 郵便配達の大変になるだろう、と言ったことだけ気に留めて、 すこし仮眠を摂るのだった。水…

自然物との邂逅は落葉の衣擦れ。自動的な水汲みに

腰が完全にやられてしまった、寒さと食べすぎのためか。しかしながらの、水汲みに出掛けるのだから、完全にとは、 信じてもらえない地味な根性である。できれば横になって、 と、炬燵に這入って、リクライニングのようにして、この間 このゆっくりしている時間の、どれほどの幸せを実感するのか、 こんな、自動的な感情の発露は、水汲み場のシステマチックな 自動的給水感覚にいたって、初めて、自力作善は、作為的に 動き出す天然理念=自然の働きとなって、機能し出す。幸せ実感。 カサカサ、と落ち葉の滑り出す瞬間、僕は不吉な予感をいつも 感じるのだけれど、そのカサカサにも、動揺せずにいると、 それは、自然物との邂逅。不吉なモノと逢う瞬間の、あの動じずに ロマネスクへと転じる予感の中には、早く逃げ出さなければ ゆけないのに、ギリギリまで水汲みに居て、そうして立ち去る そのさなか、ロマネスクには時限のある話はそうなのだけれど 決して、それが、熊でもイノシシであっても、ロマネスクとは 腰痛の一瞬に炬燵の実感。そうして、駆け出すさなかに、危険は 一瞬の芳醇さを現すのだとゆう、ブランディーのような、 暖かな静けさを、水汲み場にも、自動的な、自動作善の理を見て取る。
ちょっと横になると、ほんとうに楽になるものだ、として、 お風呂に浸かろうとゆう気にもなってくる。心配いらないって、 その、自力作善は自動作善の理となって、すべてほぐしてくれる。 むりしないように、そうやって、自覚しない苦しみとゆうのは あとで、振り返してくるので、注意が必要だ。まるで、あの 自然物との邂逅に、よく似ている。ロマネスクを感じている、あの 自然物の、そこかしこのウラおもてには、烏龍珈琲豆乳を頂きながら あとで誘発する腰痛のような、しかしながらのその腰痛によっては 身体の機能は回復している、そのある奇跡の多分の大事なことは、 天国かみになく、ただ地にこそありけれ、と願った心情吐露の裡には 地上の楽園はトロピカルな所に立たされているのだけれどしかし、 それでいい、それでいい。って、地上の楽園を、トロピカルに彩る。
大事なことはトロピカルな奇抜な酵素へと帰納されてゆくのだと、 そう考えると、還元された僕らの脳内構造にある何かも、きっと 楽になって、ゆっくり湯舟にも浸かれるだろう。とは、なので、 大事なことはトロピカルなのだ。と、言ってなんだか解らない 楽園への入口は、カルマクリーニングの洗濯模様を超え…

集合魂=集合意識を繋げるモノは『愛情+知性=theVoice』の定式で,

全体主観によって,街を包括してしまいたい衝動に,殊に,あの
もちろんエネルギー体としては地球の方が高いかも知れないけれど
なぜか出来うることなら,とぐろを巻いた大蛇の車輪みたいなモノに
取り組みながら,地球へとまた一度消化してしまいたい。”地球”=『地球』へ。
集合魂=集合意識を繋げるモノは『愛情+知性=theVoice』の定式で,その
theVoiceとゆうものを,知性の働きとして,また愛情のオリジナルへの回帰として,
そこより逆行して,”地球”に『地球』のオブラートが,かぶさっているとゆうことの
証明する魂の叫びを,theVoiceと呼ぶのである,いやはや,砂風呂に這入っている,
自分は,生卵だったけれど,気持ちの表面上は,薄い茹で玉子に換わっているのだった。
西洋文化とゆう堅い呼び方をすれば,西洋建築みたく,響くモノだけれど,例えばあの,
パン食を,昼ごはんにも,フルーツと黒パンなどにする場合も含めて,どんな小麦を使う
とゆう素直な疑問を掲げるので,けれど,それは,きっと米食によれば,そういった気に
入った素材択びは,常に習慣にあるように。きっと,小麦の食材選択も,率直に,多分は
良いモノを使っているのだろう。それは,多分建築様式にもそうで,日本には日本の,
炬燵のあぐら模様や,椅子の風景に炬燵のない姿など想像できない,冬の景色には,もう
腹式にチカラを入れて,あぐらをかいて集中している,テレビや,Blogや,お茶の風景。
それらを,theVoiceと呼んで,なので,僕らは,集合魂=集合意識を繋げるモノは
『愛情+知性=theVoice』の定式で,といった,生活必須の魂の叫びを求めているのだ。

明日は,水を汲みに行こう。今日は,デカフェの珈琲豆や,豆乳などが揃った良い日で, あとは,水を汲みに行こう。最初は40リットルだった水量も,次回は60リットルになり, やがて終いには80リットルまでに増量されそうだ。お茶のパックが少ないので気になる ところだけれど,そう考えると,水分補給にまとめられるのか,”お茶”のことばっかり, 気にしているようで。ウーロン茶ドリップで薄いデカフェを淹れて呑む気持ちは,ただ お茶を啜るだけではない,水分補給の新しいカタチを教えてくれたし,そのウーロン茶を 沸かすための,水を汲みに行くのも,なんだか薄暮のあたり,水汲み場にはもうひとっこ …

Emotionalな知悉する太宰とマグダレーナ・マラルメは稲荷巻考案

何だか訳の解らない題名になってしまったけれど,例えば 三島文学に「雪国」の要素があったとしたら,それは情緒の 介入する隙間を見つけた時で,耽美耽美とはゆうけれど,その 情緒の雪解けの水のあるとすれば,”美”のなかには,飯盒を 炊くためだけの雪しか存在しないのだった。イエスの系譜には Emotionalな知悉する太宰とマグダレーナ・マラルメは稲荷巻考案 とゆうダイナミックな全体主観あるいは包括的主観があって,けれど ”雪”をテーマとする文学には,ヒューマニストとしての感情態は以て 必要ないのだった。小豆をコトコトと煮る心地は,反射式ストーブの 上に置いて,火もそんなに大きくはしていないのだから,そのままの 堅い部分や,砕けた箇所をないまぜにして,感情は,そのまま知性へ, 理解するとゆうことに,嵌入する気持ちではなくって,巌の据わるように その業を理解したいのだった。カルマクリーニングとひとはゆう。何か, 聴き慣れないようにも感じるのだけれど,その情緒の手前にある,感情態の 姿を見詰める際には,やっぱり取り込まれるのはヒューマニズムではないか, Emotionalな知悉する太宰とマグダレーナ・マラルメは稲荷巻考案 とは言えども,マグダレーナ・マラルメとゆう比喩的な影像を借りて,言語の 捉え方には,稲荷巻って何だろう,思い付いたけれど造ることのできない変な 感じで,太宰はヒューマニズムの権化である,しかしながら,マグダレーナも 狐の神も,カルマクリーニングも,エモーションの始まる所に何故かしらの 全体主観を植え付けて帰ってゆくのだから,しばらく”もう,いいや”って気付いたら このヒューマニスティックな感情態は,マントを”えいやっ!”と投げ飛ばしてしまおう。
不思議なもので,ほんとうに不可思議なくらいの,感情の隆々とした粒々の胞子は
色々なところへと伝播しては結びつけてこのwebとゆう蜘蛛の巣の喩えは感情態の
なかにも存在している。ひとつは個々の存在意義のなかにもwebの原因は内在していて
眠りのなかにその種子は隠されている,種子とか胞子とかの喩えは曖昧だけれども,あの
タンポポに白い綿毛を放つような,そんなヒューマニズムの風に乗って,この全世界的な
エーテルの海上旅行体はさまざまに地球大自然を航海していたのだった。感情態のwebの
こんな言葉の浮かんできて,しかし,ヒュー…

シリアスに求める交互の眠り目醒めの,忘我にこそ離れ。

蓋を閉めることは,感情をくさいものとしてしまうと, 殻を堅くするより,実は,収集日に独り黙想して捨ててしまう, この方が良くって,当たり前だったかもしれないけれど,その 静かな部屋で,身体の殻を緩めて,わたしを放念する,忘我の 瞬間を常に持つことを憶えたのだった。その前後の私はワタシでは なくなる,そんな気概を以て捨ててしまうのだった。わたしの記憶を。 特別な事ではないのだけれど,集中して考えたりすると,記憶の殻は 堅くなって,エンパス指向の,主観的な分厚さは強くなるのだとして, ただ,『きっと考えることは,もう必要ないのだ。それは,忘我の』 といった感じで,ただ”考える”ことを止める時間を持つとゆうことを, 緩めて,その弛緩する普段の自分は瞬間的に放棄して,自分は居なくっても, といった感じで,わたしを放す=忘我する。といった感じで。考える癖,の こんな集中する事によって,そんなに忘我する=緩める瞬間だけが,必須の 情緒的エッキスになるなんて想わなかったし,悪癖であるとは思ってなかった のだけれど。良い経験だった,って感じで”考える”ことは修了したい気分。 そんなプロセスを語りたい時間を現す体験記みたいな投稿をしたかった。
”考える時間のプロセス”を修了すると,必然的に放念する緩やかな身体性を迎える
のだと。珈琲を呑む習慣は,忘我=諦念じみた気持ちに通じるひとつの好い作用を
感じられて,この桎梏の自然の厳しさと,そうして,文化的教養のロマネスクの間に
挟まれて,それは,太宰より三島への道程で,イザナギよりイザナミへの理解と向かう,
挟まれて自分を失う瞬間,ウーロン茶でドリップして,考える事を止める最中には,
必要ではあった,考える集中力から,離れては,シリアスに求める交互の眠り目醒めの,
忘我にこそ離れ。なので,離れて揺蕩うのみ,むしろ収集日に感情の波間に揺られては
そこに自宅へ戻っては,考える,はずの時間はむしろの”集中力”を,嘆息に換えるのだ。
たぶん,考えることは嘆息を衝き続ければ,終るとゆう,逆行した感じは,優先して
まず”几帳面”はうつのキーワードになるけれど,放念して,不眠症も”思考”し続ければ
治る,とゆう逆説に,それは,とにかくも”思考”し続けて,終いに眠れば,やがて止む,
このSTOPはADJUSTMENTに,ADJUSTMENTはLOOPす…

ドライにてゆきたいのだけれど、頭もたげる芥川町家意識。

恵比寿顔の芥川氏があらわれて、町家意識の流暢な金言をかなでて通り過ぎ、龍のようなウロコを持った三島文学の天国と地獄篇の彼方に 休暇に著したとゆう日記形式の文化芸術論を読み過ごしては、 アップルタイザーを口に含めて、山岳の雪景色の中に水の流れを 感じる。そのニニギや、国常立や、神功皇后のような渓流の叱咤を 桂小五郎と武蔵坊、マッキャベリとフラアンジェリコ、三島文学にサド侯爵。 そろそろ、ヨーロピアニズムに、恵比寿顔の芥川氏が対峙して、 流言飛語の踊りだす祝宴の効果は、影響すくなくして、知的峻厳さの中で ウロコを落として、昇る龍の滝壺は冷たく、それだけ削がれてゆく快さ。 町家意識とは結局僕には解らない、山の上に暮らす男性性の滝壺には。 足先をぶつけて痛めたり、ジャケットのほつれを壁に擦り寄せたり。
烏龍珈琲と言って、ウーロン茶で淹れるコーヒーは、何であっても 美味い事を発見して、呑める香水のような、ジャストフレイバラブル。 三が日は、混沌より産まれる希望を感じて、いまだ動きださざる、 白帯や心を結んで初詣とばかり、詣でる事は喪中なので行けないのだ けれど、切なさを超して、革命精神まで辿り着けそうな、その コミュニティを超えてゆけば、それは、省き省かれて、そのまま 自我の高価な独りぼっちの革命へ到る道。コミュニティは、そこまで 拘泥する必要などないもの。むしろ必須高雅なモノあるとすれば、 鋭い声を挙げて羽ばたき落ちる、キジの姿のように、グラウンディングを 試みる、そんな犠牲の貴さを立証する凍える真冬の厳しさ。 叱咤桎梏に、個性の誕生を指向するのであれば、そのコミュニティを こそ、省き進む事で、独りぼっちになってしまえば、自分の姿は 見えてくる。自立しない、しかし依存しない。そんなバランスには 雪の中に杭を差して、崩れて解ける証拠をのこさないそのさまには、 烏龍珈琲を、呑んで知的男性性のロマネスクを頂ける自律するリズム感。 ここで、芥川の孤独と、三島文学の精悍さは繋がる気がするのだった。
いつも、食べ合わせ=組み合わせシステマチックな事の探求をして、 蕎麦湯烏龍割りとゆうのも良いかなと思いつつ、大晦日に、 蕎麦湯で胃もたれしたのかなど、疑いを持ちつつ、荒れては この環境を癒すのは、システムの組み合わせ学によってだと。 そう、想像を繰り返して、例えば、組み合わせ学を越える時には 何か、想像の至る所はあるのかな、ってストレートなレモネー…

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…