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とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…

万物爾来の,そんな時代に鉱物性の時代。その由来は初夏より

万物爾来の,慣性的に浸透する感性のあるとしたら,それは 業の泉そのまま,渦巻の底辺にあって,上面は乾いたお皿の そうして中間位に湧水のこんこんと現れているだろう,とは こうしてタイピングすることの平和は訪れて,ようやく気持ちは 情念のコントロールより塞ぎそうなこのココロを吹きほどいては くれそうな。真実は,この吹きほどく風と,渦巻く業の泉に巧妙に 隠されてはいるだろう。そこより頑強なひとつの岩を手に触れて, 風邪の悪化する夜中には涼しい部屋に独り逃げ込んで,タップする マグロのつみれをあれを何と言ったのか,そんなネギトロみたいな 軍艦巻きを食べたいのだ,こうして三段払いのように,モーツァルトも 41番の”ジュピター”など聴いてみると,調和はしているが,実に旨く, あまり脂味を隠さず調子を崩さずに酢で締めているような当にネギトロ。 斑の入っている。と植物園では苗の紹介に描いてあって,あれは”ふ”と 呼ぶのだとゆうことは,翌日実母より聴いた。僕は,声を大にして, 『まだら』と言い続けていたけれど,そんなことは解りっこない。けれど 表現の上では植物園でルビを入れることはないだろうし,僕も楽しめた。 ”ふ”と読むのかあ。だけで,”ジュピター”も脂の載ったように感じるのか。 と,そんな余韻で跡を曳く。では,真実とは一体?R.シュタイナーも エーテルの領域は二重の壁に阻まれているなど,確かに語り遺してはいる, エーテルとは生命力の元に,植物性と粘液的なイメージを混ぜ合わせた樹液の 海に沈んだ領域のようではある。ここに情念コントロールの鍵穴はあって, ファンタジーも真実に親付けないのは,この樹液の概念に阻まれるからだろう。 万物爾来の,そんな時代に鉱物性の時代。その由来は初夏より発生して,この 噴火の石灰質を吸い込んでいるごとき夏風邪にあって,いつにもまして妄想を つらつら喋りこんでしまう連続性に思考は働いて,確かに優しさは解体するうち, そのあいだに,何かに気付いては,真実によって見開かれてゆく。これは,多分 妄想性の嗜好より,きっと解除作用の思考である連続性の鉱物分解による思索。 きっとこの辺りで目を開いて,きちんとした形で語り始めたほうが良い,とゆう。
鉱物性の思考とは何だろうか?鉱物的に身体を指向させる,そのベクトルを見極める。 この,植物領域のファンタジーとロゴスを支…

産褥の危機感と、エロスとタナトスには、柔和なハーモニー。

初夏のあたり,六月くらいの冷房には,何だかセレブ感を感じる。 感じるだけで良くて,そうある必要のないところが,奥ゆかしい。 何かに打ちのめされるほど感情を揺さぶられ,それら嬉しいのと, その裏側に,攻撃性を伴うクリエイティブな心象の残される,この 少年のスピリチュアリティと呼ばれるモノのなかに,現在の初夏と 似た,何者かに代えがたくある,セレブ感の理由みたいなのを探る。 攻撃的でもあり、俗悪的ではあるけれども、よく言えばエネルギッシュで 奇跡的な行動もみせる、彼の男性性とゆうものと、少年に対して、あの 自然体で受容するのに長けているのは,攻撃的にあらず,ハーモニーな 彼女の女性性であって,あくまで人間性には両者の煩雑に組入られてる。 犯罪に対しても宥和的で,感情移入することによってしか,理解するのを 容赦しないそういった存在理解においては多分しっかりと,その点での, 都市圏の発展は垣間みられる論拠のあることだろう。女性性と,また他方の 文明は各時点で確実に前者をこそ優先してきたのであって,いいや,風邪を 引いてるためにそんな風潮を感じ始めるのかもしれないけれども,そうゆう 攻撃性には,あえて,涼風は毛虫の食んだ緑葉の死霊の起こした涼しさである と言った,論調を難しくも吹かせてゆきたい,犠牲とはかくゆう姿であるか?
産褥の危機感と、その柔和なハーモニーを思う時には、何も知らずに 男性的な直線的でストレートな、エロスとタナトスなどは、却って、 犠牲を体現しようとして、咳込み、清水を口にして孤独を表現する、 そうだな、感情的に、ハートで感受することの、どれほど大変で大事か? 都市圏は敢えて、それで保全されているのか、とゆうカフェオレの味わい それでいて、お腹で感じてしまう故のエンパス指向などは、既視感として 季節を感じ取ったり、オーガニックな近代的な有機運動には向いているが、 しかし、この下町感には向いていない。コミュニケーションは、ハートで 感受するので、きっと、そうゆう会話のほうが、カフェオレを共にするには 向いてる気のする、あまり考えすぎたのだ。宥和的なのは、きっとそれは、 一度忘れて、おいしい苺バニラパフェなどを、喉元あたりで呑みこんで、 一気に味わいきることなのだ。ミルクバランスだ。乳牛のあの、枯草より 酵素質の母乳を生成される、あの絶対母性とゆうのに、嵌入してしまうのだ。 なので、田舎のパスチャライズのミルクなどを、…

酩酊してるような夏風邪には氷枕のサインパス。

意識的に恬淡を装って、どこかの鎮痛剤のように
サイコパスとエンパスは足して、サインパス。 それで、関門を通過するので、ゲートを抜けると そこは業のあるなし、はどっち?多分、ないのだ けれども、業の泉に浴していたいのは、きっと、 それが唯一に親い、健全への道である、と一度は 確信したため。しかし、その道は、そう思っても 夏風邪などを引いて、解除したみずからの凝りに 対して、安直に水浴びなど許してはくれなかった。 むしろ、無意味に同じくらいの涼風をこの夜中に 氷枕の顔付きのあたりに吹かせてくれるのだから むしろの答えは、業とゆうより、風に吹かれて。
熱が上がっては消え、下がってはまた現れる、と その繰り返しなのだけれど、あるPoint of Viewからして、 座骨のあたりに重心を置いていたから、ある意味 風邪を引いたりしているのだ、と思い立つのだ。 もっと、上半身だけの、ハートに重きをもって、 ただ、ただ。感受するのみに、大分感情的にゆけば、 思わず、上手く行くのでは、と思い立ったのだ。 自然主義、懐疑主義的に、ただ夜風の吹いてる、 と、そう思っていた時の発想だった。咳や熱など 無理をしていたから。グラウンディングと銘打ち 合わない丹田重視などしていたからなのだ、って 感情で感受する生活も、あながち正解なのでは? など、ちょっと誇らしく自慢げに、でも現実味の 伴った行き方かは確認できずに、健康法について いまだ解決しない、この珍グラウンディング道中を、 駆け抜けてゆくのだろう。アイスクリームの食べたい、 わがままを言いながら、買って来ては貰えるかな?
夕方になって、ようやくアイスクリーメ。そんな アイスクリームの夕日の陽の目を浴びるような、 存外にも、冷房なしにはいられなかった、早い、 季節の早い気の少しする、熱は夕刻あたりには、 下がっていたけれど、その分には夢幻の意識には シュペルヴィエル=ミレー=モーツァルトのその 三者の行きつ戻りつ、ドルイドの司祭や、または 獣神ルシファーのように跳び交い、夢の意識より
冴え冴え,熱の下がると,あとは決まって,あの
水源の親くに座りながら,お茶を啜る心地で,また
業の泉とは,都市の中に呼吸するよりも,むしろの
湧水に頼りながら,頼りつつマイナスイオンを呼吸する
ことの意味に確かに強いのだ。業よりは逃げられまい?
けれども,お茶を啜りながらも想うのだった。あんな,
ベゴニアのハルシュタット。客船より見詰める碧い…

茫洋なる夢をみる。我慢づよい耳鳴りには諦めて遠音の汽笛。

右の首筋リンパ腺の凝りをほぐせたな,と思ってたら,最後には 左耳の詰まった感じで,水泳のあとに,あるいは山のくだりに耳を 通すような,地味な風景で,代謝系を治そうとしてる身体の,どこか, 茫洋なる夢をみる。我慢づよい耳鳴りには諦めて遠音の汽笛。とをば, 休みに雑貨店などを訪ねるように,窓を開けて完全に夏模様に換えてから 戸締りをして出発して行くのだった。夏風みたいで気持ちのいい,そして 気が付けば家を出る折,スリッパにはいつの間にか穴の開いていた,なので, 幅の広い足元を気にしながら,いつか良いスリッパにも出逢えるだろう。 なんて,靴もそんな感じでスリッパみたいに探して,そのほうがロマンチック。 水源を捜すのよりも,風の出どころ吹きはじめの場所を見つけるほうが, どっちにしても一緒なのだろうけど,神秘的で抒情の満ちた瞬間だろう。 ”前世ゲーム=書物の渉猟文化”は,エズラパウンドより,ヘミングウェイを 周回しては,またT.マンに到り,耳鳴りへと変ったのだけれども,それで, 果てしなく,ヘッセの聖母性を訪ねて行くのには,肖像を壁紙画像にして, そうしてそこにその庇護の移ってしまう変な気のして来れば,あとは鬼の影の 追ってくる,いいや,自ら嵌入してゆくその絶対父性に対して。シェイクスピア, また,パスカル。そうして,アッシジの聖フランシスコに,アウグスティヌス。 彼ら,文学性に必ず,聖母のまつわる必須事項のロマネスクな文学には,ただ。 その上で,杉の樹を通り抜けて届く夏風を,受けてはアクアの要素を差し込んで, 泡の耀き”ガラス玉演戯”,また,アッシジに”太陽の歌”を口ずさむ,”Moanin'”には アートブレイキーの呟き。あとはパンセに神の国を著した告白の主人は載っては いまいか?勉強しようこんなロマネスクなのには,意味の上でフェミニズムは加わる, 今度出逢った時は文学性を,夏風のごとく吹かせ始めてさしあげますので,と, をば。
豆腐も傷んでるモノを頂くとゆうのは落語みたいなことになる,なんて。いわば,
賞味期限のうちでも,新鮮な,とゆうか,美味しいうちに頂く所存で,夜食に,と。
あまり気付かなかったのだけれど,夜中の冷蔵庫を物色すると,中には外れの豆腐,
らしき変な味のするのもあるのだな,と分別しながら,食べきってしまいたい,とゆう
体で一丁まるごと贅沢なひ…

LOGOSは客体と主観の一致で産まれる,堅い種子の新緑まで。

エロスとタナトスは,ピエタに始まるらしい。聖母の指輪を外せそうな, こんな時だから,訣別の意味で,ピエタに対して,感謝を表したいような。 一人旅の苦手な性質で,何でもない旅程を大げさに映してしまう性格は, 東京を歩いていた時の,あの下町感を覚えたての頃合いで,闊歩したような 気になって,ある旅館で悪夢を見たのを発端に,実家に帰って”聖母の婚姻”。 こんな,例えば神性にウォークインされるような気になる程の大仰さで,旅を 彩る自分の体質には,この時よりの,ほどでもない感じに,とっても驚かされて 何だか疲れていたのか,妙なフェミニストに換わってしまった気のする間際の, この追憶は,何時まできりのないモノ,止めにしよう,など,こうして指輪を 還す時の来たのだ。寂しいとゆうより,少年に戻るスピリチュアルには,戻るあの, エンパスよりの帰還。こうして,庇護されつつも精神性は,じきに,とゆうのか? ようやくのこと,軽く,脱皮するような感じで庇護下より解除されつつ飛翔する。 本当に,蝉か,蛾のような気のする七年期のようだった。何が脱皮まで促すのか? それは,腸活やら。コーヒーの学びとか,再びファスティングの趣味などの感覚。 ミシェル・コルボの”ドイツ・レクイエム”を急に購入するべく捜しだしたり,あとは 有吉佐和子の”新女大学”とゆう古書を探りだしたり,いま全部あらかたのネットにて, 届いてしまう範囲の情報圏内にあって,楽しくもあり,また高値で取引されているのを すぐに確認してしまうと,以前は,近くの古本屋さんで見つけたとか,レンタル落ちで 手にしてた感じを思いだして,何だかつまらなくも思ったりする。けれども,掘りだして 見いだした貴重な過去だとか,そうゆう導きめいた誘発する出逢いみたいな,そんなこと を,大して考えもせず,プレミアムに後で把握できる辺り,すべてそんなことに感謝。
LOGOSは客体と主観の一致で産まれる,堅い種子の新緑まで。エズラパウンドは,また 多重婚のような生活をしていたのを聴いて,それらも,その情熱に比して,自然なことに 感じられたり,その生活と,ヘミングウェイの暮らしを比較してみては,やっぱり,この 情熱とやらは海に流してしまうべきなのか,など。つらつら,想ううちに,やがて流麗な 新緑に対して,あまり記憶を洗い流してしまわないでほしい,といった感傷めいた気…

自我へと嵌入するべきなのか,自我を放棄するのか?庭のカンパネラ咲く

死は存在している。生は確かに意味の上で実在してるようでは
あるけれども,実際はすでに解除されている状態の空想である。
実存である死に対して,攻撃性を抱くことは難しい。むしろ否定より
すすんで,その先の受容と愛による,包括によってすべては忘れられる。
自我へと嵌入するべきなのか,自我を放棄するのか?庭のカンパネラ咲く
ようにして,三島文学に女神の受容のみえる感じを,ことごとく,涼風に
まかせて,庭に生きるべきか?汗かきながら大地に屈するモノなのかとは,
理想を現実に換えるのは,それら純文学に甘い蜜を足してエンタメにする
あたり,もうすぐ世界は頭脳の中心にあるとゆう言説は,広く普及しそう。
なぜなら,この朝にあって,どこかの島国で核の脅威に今さらされている,
『苦しみを体験するのだ。』と呟きながら,その死の瞬間を待機していた,
さなかに目覚めたのは,夢の領域で,核の脅威のその地点は,頭脳の中心。
生命の中心で,ちょうど頭頂部のあたりでそんな夢をみていたことに,朝の
めざめで気づいたのだった。その地点で,ぼくの思想は換わった。むしろ,
この生命は夢においても経験されているがごとく,そうして,目覚めはその
死に対して,何の意味も持たなかったということを,夢の時点で,生命は,
もう失われていたはずだったのは,そうゆうところの,夢の消去ではなく,
記憶の逆流によって,世界をその実在の流入によって,ほとばしる構築に,
生の意味の状態を,はっきり実存へ向けようとゆう,諦念らしき決意に向けて,
むしろはっきりと,生きてゆこう,と。重すぎず,浮き立ち過ぎない,記憶により
生の意味の実存を,確立させてゆこう,として。

喉の痛みは,だるさよりの咳風邪に移って行って,咳によって,治りかけに移ることに
不思議な感じのしては,何だか治りそうなのか?この,夢みるような感慨は長引きそう
なのかは,よくわからない,そんな業の泉作者は,美しさを水面のうちに感じるよりも
そこより龍神の昇ってくることを周知のごとく,水源に向かって潜行してゆく,一匹の
蛙のようで。なので,喰われるよりも,むしろ,鯉ではなく,蛇でもない,何らかのあの
龍神の昇ってゆくその鱗に飛びついて,私も連れてってください!でも,どこへ?それは
知らないのだった。湿り気をおびて,居心地のいい苔の上などに永遠にいられることを,
随分願って蛙…

恋をする夢見の中で,冷ややかに更けてゆく夜の中にはチェリー。

傷痕とゆうモノには,お煎餅や,干し柿の,キャラメリゼのよく似合う。 また,ドライアプリコットやトルコ産のイチジク風味。プルーンなども, ほんとうによく似あうのだろう。乾いて忘れ去られた傷は,いずれ返って 熟した果肉に結実してゆくのだから,安心して良いのだった。傷ついたら 怖くなるものだ。岩戸開きは自然に身の熟すのを,ただ待てば良い時間薬。 恋をする夢見の中で,冷ややかに更けてゆく夜の中にはチェリー。あとは, 夜も更けて運筆をする僕の心持は,命を賭ければ,あとで抑うつ状態には なるのだから,飛び込んでいかなければ見えないサーヴィスなどはあるので その表現に向かって一生懸命なのはわかるけれども,そうやって身を護る術。 連呼して,いつも傷痕を擦れ擦れに露呈しながら,この中で熟すモノは何? 露呈して産まれるロゴス,ロゴス。言の葉の結実は,やがて,陽の目を見る?

皓 優弦とゆうのは,僕のペンネームだ。ギターの弦の陽にあたって優しく, それらのセロトニンを出すように,皓々と響いているさまを映してみたのだ。 そうして,洋名は,セロニアス・モンクに被せて,SerotoniousーKongとして, 港の初夏の風に潮も,溌剌と言葉を重ねてゆけるように,ミネラルな願い以て。 100円均一で一目惚れした青いマグカップと,スマホケースのマラソンブルーと ゆうのは,一緒の青さをみせてくれるので,いつか両者を一緒に撮りたいと思う, 映画の1シーンのように執着して心に残る閃きにも,ぼくはスマホでしか写真を うつさないので,あれま?いつもその一瞬を逃してしまう。シャッターチャンスと インスピレーションとは異なるモノだ。そうやって,言い訳しながら,パラレルの 預言めいた託宣を避けてしまっている。

例えば,風呂や,手洗いや,また水回りの,それにまつわる水の文化とは, 傷を以って更に,また真菌との闘いであるのは否めないのだった。 けれどもハンディの幾らあっても,その争いとの決着は, 同じくも時間薬であるのは間違いないのだった。 これらは,果実の芳香とゆうよりも,むしろ硬質な没香の匂いのような 変化に親いので,全世界的に妄想も現実化しそうなときは,常に線香を焚いて それらより逃れるようにして,やっぱり時間は,そのヴィールスなどを灰汁のように して,消してしまう。グレースケールの悪い訳じゃないので,もっとぼ…

人生スタイル自体の驚天動地ではある,道なき道の中庸に。

右耳当たりのリンパの凝りのほぐれて,それは性格の変化とゆう,
いたって人文的な側面をもってほどかれていった,凝りだったのが
すこし熱も出てきて,喉の腫れて一日ほど。何だか,その始まりは
奈良の唐招提寺に参じて,お香など購って帰る際に,その御影とゆう
年間みられる方の鑑真和上を拝んでよりの何だかチャネルになったようで
三回もその開山堂とゆうところで廻ってはめぐり,まわっては巡るうちに
不可思議にも目茶目茶な笑みのこぼれてくるとゆう不思議を体験して。
本当に楽しく返られた旅程のあれやこれや。すこしずつ喉の腫れてくる
のを感じながらも,一日やすめば治りそうな,ホントに滋養の摂られた
遅めのJourneyだった気のする奈良詣で。立派に,鑑真大和上和讃などを
持ち帰っては違い棚などに飾って,お香を焚く心地は,最澄上人=芥川氏,
=東照宮家康公=藤原道長=孝謙天皇など。チャネルになって,まずは,
私の映し鏡を,と不可思議なる質問をした僕にとっての鑑真和上よりの
答えは,お寺の孝謙天皇による揮毫とゆうのか,その題字による宝蔵館の
唐・招・提・寺の四字による返信の展示のようだった。女系の天皇の御代に
こんなまだ歴史的遺影の数々とゆうのか,展示に限らず本当に遺産としての
建築や芳香の残っていることにノスタルジックに感動してしまったのだった。
人生スタイル自体の驚天動地ではある,道なき道の中庸に。抹香の匂いらしき
例えばコパイバのど飴など,インディオに伝わる「聖木樹液」のキャンディーを
頂いて舐める心地。鑑真香の薫りに親く,喉の痛みもこういった庇護のもとに
訪れてくださるのならば,一命を取り止めたような何だか,むしろの有り難い。

主客同一とはゆうなれど,現象とは客体であって,主観性をも含むので,なので
むしろの有り難い。雑貨屋さんカフェのカフェオレブレンドを久しぶりにデカフェでは
なくって,普通に朝昼頂くためのお土産に購って帰ったのを,ウーロンドリップにて,
豆乳オーレにして呑むのだった。そこのは,何だかスパイシーでカフェオレブレンドとは
珍しくも感じられるくらいのホンデュラス産など混ぜてある面白い風味のモノで,それで
不思議な気持ちで,二つ目の飴を舐めながら,この先は何を待っているのだろう?自己の
願いとゆうのも忘我して解らなくなるような。風邪みたいな早く治って欲しいとも思えは
しな…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

不可思議電波を受けているような,無論,浸透圧のけたたましく響くよう。

ひさしぶりに昼間に文章を打ち始めている。いつもは夜半に多く, お喋りをするには夜中になってからが一番よい。として,特には 文章でお喋りするのには夜半に這入ってからよりの楽しいはずだ。 けれどもこうして明るい昼間に文章を打ち始めるこの心地は幸せ。 明るいなかでべらべら喋れることに関して,何だか遠足に来たような そんな心地の感じられて幸せなのだった。一つ所に住居を持てば,この 遺跡公園の近くにあるあたり,浸透する自らの身体は,遺跡とも共同体で あると,じわりじわり感じられてその印象に関して,肩の凝ったり,また 身体の重かったりする感じ。自分は,三島文学の薫陶を受けた自我を抱いては いるのじゃないか?そんな悲愴感をまで把みつつ行くこの感じ。これは,多分 いたって不幸である。がしかしの,そんな不幸は思考を強め,それでいて幸せを また,幸せについて,深く感じさせもする浸透圧の中で泳いでいる。そうして, 凝り固まった濃度の高い感性は,すこしずつほどけてゆくような,そんな気にも してくる,昼間のしずけさに,風の荒い波音しかしない,かつてはここも海だった。 なにが右肩を痺れさせるほどの,こんな烈しい印象をなびかせてはいるのだろう? とっても不思議なのだった。それは,宇宙船のどこかで揺蕩うように浮かんでいる。 そんな不可思議電波を受けているような,無論,浸透圧のけたたましく響くよう。 いつかここで生きていた遺跡の住人たちは,すでに宙へ還っているのだろうなんて。
ふいに、近藤勇=萩原朔太郎=平敦盛=上杉謙信の、この系譜によって 僕自身の業みたいな祟りは起こっているような、そうして、まさにいま その神は猪の神さまに、ちょうど戻ろうとしているような、そんな気の してくる、昼下がりに風は少しく寒くなってきて、日は翳りながら 沢山の花粉と、種子をばら撒いている。そんな、気のしてくるのだった。 ちょうどいま、その精神やらは、聖書のピラトや、タケミナカタと 言った、戦士的な発想を以って浮かび上がってくる。なべての獣神は 酵素質を身体に宿して、晴れやかな天気を想像する、そしてクリエイト。 天気と同調して、なべての獣達は、晴れやかさをクリエイトする。そこで、 酵素は胞子を漂わせながら、全ての人間性ともシンクロしているはずなのだ。 ここに、休日の真昼において、昼食を終えて横になる、風は強い。 そうして詩集を編む如くの、詩性の落ち着いてきて受粉する。この、 あり…

こうやってドリップし 珈琲に何かを求めては,リラックスとゆうよりも

昔より祖母の使っていた,ボウルに透き格子のようなのが開いた
米とぎ用の調理器を使って,さらさらとお米を流し研げば,すぐに
炊飯器は予約セットされる。今にも雨模様でエアコンの室外機の上,
ばたばたと雨どいよりの漏れだして,室外機の壊れちゃいはしないか?
心配だけれど,雨の止むまで待つしかない。また,珈琲を手挽きミルに
がらがらと廻せば,雨上がりを臨んで,もうこんな季節は夏じゃないか。
ふ,とそんな渋味,酸味を豆乳で割って静かに想いをしたためる頃に。
段々,痩せてきた身体に,もうすぐエンパスも完全に解けて,いや,
完全には上手くゆかなくても,それを巧く活用すればいい,などとは
婉曲的にスムーズにゆくように願うからこそ,あのドリンクメニューの
スムージーなどあるのだろう。内科検診に通院して,なんだか薬もなあ,
とは言いつつ,そこで体調に関して灸を据えられたような,そんな感じは
まったく良かったとしか言えまいに。ゆっくりして,こうやってドリップし
珈琲に何かを求めては,リラックスとゆうよりもそれらは,安堵嘆息の願いで
あったものなのだ。少し前にハス畑を訪ねた折に,種を交ぜ込んだお香の
扱われていたのを玄関で焚くようにしていたものが,宣教師の方などの各家を
廻られているのに対応しては,例えば聖書に馴染みの薄いや濃いののあっても
お香などはペルシャを通じてシルクロードに万国共通,など実体験には薄い
観照を抱きつつ,僕自身の信仰とゆうより,人文的に思索に通うようになった
思考回路のこの習慣に関して。まあ,いいや?一緒なことなのだ。そうやって
想いもつうじて,昨夜に響いていた月夜の,あの夜の香りなどに,追憶を任し
最後のひと口珈琲を啜るのだった。

デカフェの珈琲をばかり呑んでいる。生豆を焦げる前の天使のみえそうな瞬間に 停めるのだけれど,それはお菓子作り用のオーブンで焙煎しながらの手筈なのだ。 天使のみえそうな,これはホントにそんな感じだ。明白に何もみえず,さらには 音のすべては跳びでてきそうなその感じ。すべて弾きだしそうなその寸前の時に 多分何も音のしない,天使のみえそうな瞬間。これを迎えるのだけれど,その間の 静けさと抑揚の始まる手前は幸せの絶頂でもある。意味というものを介在しないのだ。 それはいかなる場合にでも起こるから,常に天使のみえそうで,みえない辺りを廻る そんな旅程を思考空間に愉しんでいよう,とそう思うのだった。 例えば、性…

A・フランスと、T・マンの関係に、超感覚的思惟は必要ない?

抒情や、センチメンタリズムも必要ない?とは、 ここで、アイスティーに氷はいかが?ほどのことでは あるにして、もちろん、耳つぼ灸などの功を奏して エンパスの吹き去ってしまえれば、氷は要らないのだった。 太宰=イスキリによる、視点のあやういのだった。 トーマスマン=ヨゼフに、アナトールフランス=ヘロディヤの このたくましい二者による宣告ならば、それはきっと、 このエンパス指向を吹き荒ぶ知性やロゴスによって、 掻き消してしまう何か。抒情やセンチメンタリズム?ほう、 あの耳つぼの扉を開けば、もう肝臓の炎は猛り狂って、 この人間性とやらを、一度灰燼化してしまう。なので、 もうイヤとゆうほどの蜂蜜をお茶に混ぜて、その結果は モルトのような遺香を与えて去って行く、これらのファウスト氏の 煤けた研究所へ、ようこそとばかり、僕はヴァグナー氏。 ローリエの葉に蜂蜜漬けで,一瞬のカッパドキアへ旅をすれば, 世のSF作品は科学至上主義で,そうしてノートPCの音連れは, またもミニチュアなSFで,それで,僕はアナトールハポンなどと 言っては賢く,SFより脱け出して来ようっと,もう,あんな灰燼の 種まきの際に和えればすぐに芽吹くだろうって,スモークドチーズと ウィンナーを一本。もうすぐ,切なさに筍ご飯のお握り,ひとつ。
さすがに世の女性陣の手料理とやら,近所の奥さん,実家の母親の すぐに切分け,鉄板のレシピなどの精悍に豊かなたくましいこと, みごとたくましいこと。奥が深い,と手料理全般に唸ることに対して 良し,として。何か欠乏している,何をか欠乏してる,と感じる僕の 感性にして,これは恋慕でもなく,また,情熱でもなく,やっぱり何か 中心性とは,A・フランスと、T・マンの関係に、超感覚的思惟は必要ない? ない,とは言っても,やっぱりロマネスクや酔い加減の嬉しい心地は,以て 多分の”必要”,ではあるらしかった,氷も盛り付けに”必要”,なのだった。 氷めいて冷えた心持には情熱も恋慕も満たすことのない何かのロマネスクをこそ 求めてて,それは手料理の慣例的で奇跡的な熟練によって見出された”ON”になる この螺旋は哀切によって廻る。この”切ないなあ”って,結局太宰衛門に戻ってる。 知性vs.エンパスのこの構図。何でもないのだけれど,この構図は,多分知性によれば 切ない。エンパスに寄り添ってゆけばロマンチックではあるのだ。氷をいかが?そう。 もともと,冷えていたかったの…

簡単です、人間性よりも理智そのものを大事に。

一度,卒倒などすれば,訳もわからなくなるモノらしい。 イニシエートは卒倒を繰り越して,その秘儀とやらに嵌入する, とやら,なんとやら。ですが,エクリチュール。そのほうが, 夜明け前に詩の描けるような。自由に,詩の描けるような,そんな 気のして来るので,訳のわからぬことは,いいのだそうな。そんな 簡単です、人間性よりも理智そのものを大事に。初めに,恋のあって 次に,ようやく保身の訪れて,そうして,きっと訳のわからない自分。 そんな,崩壊して終焉している自我に気づくのだった。確かにトラウマは そういったモノであるらしい。しかしながら,保身だけでもないらしい。 珈琲豆を,オーブンでローストしてみる。意外と,焦げる前に取り出せば, 家で呑む分には良いらしい,そんな感じ。耳ツボなどと言った,身体の鍵に お灸を差せば,カチッと扉の開いて,意外と保身だけではないらしいのだ,と みずから鍵を開けて,エンパスも治って,そうしてまた,崩壊した自我は,その 自我の終焉,と哲人の言った,彼の無目的のもとにあつまる,それらは星辰の, きらめき,あと涼風。吹き通る新緑もサワサワと,この珈琲の匂いに自分の中には 優柔不断と諦めと,あと少しの爽やかな嗜好と。これが感情の体験に対する嗜好だ,と ふいに気づくのです。あとは,自我のよくわからない,結果論としては無目的である。 ひんやりとした夜風に当るので,それ位でちょうど良いらしいのです。
お茶を啜って,ホーリーホックの表紙の農業講座を眺めて。タチアオイとゆうらしいので
内モンゴルのほうへ植林ツアーへ参加した際。まだ高校生だった時分にその花をみていた
記憶は確かにあって,それ以来,実家のあたりでも次々咲いている様子を見かけるように
なったのだった。けれども,それは次元相互のまた,記憶の産みだすヴィジョンとやら,
なんとやら。僕には,気に掛ることは,とっても記憶とマッチして,そういった現実へ,
結びつくモノやら,など考える癖に,次第に段々と身に着いていった,このみずからの,
なくなれば世界も消えるのか?など,絵本仕立てに描いてみた思春期の,この雑想などに
大豆の粉を,例えばお湯に解いて利かせれば,それはひとつのドリンクメニューにもなる
など。そういった記憶相互の伝達の,はかばかしく懐かしく,なぜなら洗練されたことは
記憶の上では鮮やかであれば研ぎ澄ま…

思索に時間は要するけれど,運筆には瞬く間の抽象表現

芥川先生を武内宿禰のように,ミラレパなどをサナトクマラのように
捉えてきたけれど,漱石山人を,そのように宿禰公や,クマラのように
考え直して,元来漱石は”仲哀=ニギハヤヒ=スサノオ”だと思っていたが
それらは,『サナトクマラ=武内宿禰』のようなトライバルな存在だ,と
見詰めなおしてみるのだった。かたや,キャタピラ青虫のように,あの確か
不空上人=井伊直弼公を繋いでいたしずかな柱も倒してしまう,それらは
自我の確立。むしろ漱石より,イーゴとしての三島文学にまたも返り咲く。
オーブンレンジで珈琲の焙煎を試みるのは,果たして,深煎りまで持っていく
のには,僕には適した遣り方だと感じるこのブラウニーな薫りのうちにあって,
まだまだ,「若きサムライのために」や「葉隠入門」などを適しているように,
そうやって感じる春の陽気を訪れさせる彼の自我確定期に,古銭の阿修羅神像など
京念珠を手の平に掛けて遣って,こうして,少しずつ深い煎り方へ換わってゆく
こうした春の訪れを垣間見る。朧月夜にまた,菜の花の時節なり,また深煎り。

連続してすすむ,黒い珈琲豆の選別のように廻転する,芥川先生のたまわく,まるで
”愛とは媚徳に外ならない,その故にグラウンディングする愛。”などとは,その辺り
”チャーはまるで完全態だよね,”など言われては駆け込むお手洗いに向かって,その
意味は?それは午後にケーキでも食べたいな?など,妄想して,帽子への執着も今は
もう解けて,ウィンドウショッピングしたい欲求も,いいや。手洗いで,”imagine”。
思索に時間は要するけれど,運筆には瞬く間の抽象表現には,いいや。まだ,まだ
辿り着くことのない漂着するべきあの白砂青松の畔まで,いいや。まだ,まだ。すすむ
この悠久なひと時を,媚態ではなく,松の青い針で,刺激する歯ぐきなど,思考などを。
そうして,思索はイザナミへと向かう。大谷崎=イザナミ,また,太宰伯=イザナギの
この対比を以って,最大限の愛情を掲げてのイザナミ女神へのこの興味関心は続いて,
こうして朝になって感じるそのヒステリクス=ヒューマニズムを超えた何かの,悲母の
ごとき瞑想の内に座す静かな集中その,メディテーション=リラクゼーションを跨いだ
このイマジネーション=ヴィジョンそうして強い願望実現のマジカルミステリーについて
ただ黙々と興味関心をあらわす太宰伯…

看護する側に廻り、眠りに落ちる、共に眠りに。

岡本太郎=セザンヌ=バイロンの火星長老による招聘を受ければ、
義朝=石田三成=楠木正成=家茂の聖者の行進を垣間見る藪木の隙間。 セガンティーニ=ヨハネス・タウラー=ペスタロッチー=カラヤンの子羊は、 また、ミレー=シュペルヴィエル=モーツァルトとゆうルシファー獣神の、 〈飄々として哀切とした、剽窃されて漂泊した自我〉なる者かく言う、あの モネ=カント=コロンブス=マルコポーロ=ディオゲネスの冷徹した眼光を、 ただ、火星長老とゆうのは、とつとつと、そう言って区別することにアートを みるのだった。ただ、そうやって、みるだけなのだったとゆう。 野生酵素を摂るように、優しさが残酷じみてゆき、そうやって グラウンディングとゆう呼び名のもとに、怒りや焦燥さえ含んで 我が心は我が身へと変わってゆくものなら、それは嬉しさのモノ。 そうやって、人間性は、ハートでは扱うのでなし、充分に丹念にして、 もっと、腹の底より、怒り、泣き苦しみ、笑おう。とは言う、 つまり、単純に、セクシュアリティによって、怒り、哀しみ、そうして 微笑みを浮かべるのであったら、頭脳ではない、完全に下方よりの 感情を体験できるのなら、それが、グラウンディングである。とは言うモノ、 根を降ろす、とゆう惑星に張ってゆく清濁併呑の心根は、そういった 太陽神経叢によって、考えて知悉し、また、情緒を宿すのだ、とゆう。
そう。例えて、喜びについて、語りたいのだった。それらは、 どんな茶葉でも、豆乳チャイに。そうして、それらは、どんな酵素シロップも 烏龍茶割りにして。眠りに落ちれば、人格は修復され、戻ってくる秀逸な。 ジンジャーハニーは上の空。いつも、どんなタンニンに合わせて行けば、 そう。考えているので、眠りに就いて戻ってくる感覚は、やはり三島文学よりも 太宰のヒューマニズムなのだった。檀香の匂う、龍馬祭壇の例えてあれば、 それは、トビナガスネに、イザナギの黄泉返りのようにして、それで もうすでに、取り返しの付かない記憶錯誤も、錯綜した宮の水のように 桜の香りに、桜餅の夕べ。喜びについて、語りたいのだった。それらは サルタヒコのリルケ=ヒュパティア=ドナテッロ=ラムセス2世とは、 また対置するのも良いことです、それは、よいことで、それでいて。 肝心なのは、眠りに戻っては我輩は太宰である。と、連呼自称しつつ、 この、ジャーニー…

Experience of Humanism, プライベートな突然変異

きっと、外格みたいな自己自身、あの究極の虎の女神みたいな自分に、 戻れる日があったなら。と、ずっと思っていた。それは、何だか大きな山を 抱えて、壁をいだくように進み始めてからは、住人の棲家としての虎には、 その、内面の繊細さを、むしろ逆に輪郭線をくっきりとして、まざまざと 寂しく、細々く、僕はそんな道をアンニュイに辿ってきたのだった。 身体性の証左として、活動によって嗜好の砕ける瞬間には、この行動によっては 運筆さえも雲散霧消するところまで、僕の思考は身体になった。まるで、 ソフトクリームにパラソル型にポップなシュガーを掛けるみたい、 カフェラテに、ジンジャー加えるような、そんな心地においては、 もうすぐ、酵素にパラレルなスムージーを造る際には、何をか、 やはり豆乳がベスト。シャリシャリにするのが、良いね!など、多分に 色々と試してみたいのだった。パラレルとは言えども、それは 朝型か、夜型かの違いに他ならないので、どちらかの生活自体へと シフトすれば、それは1つの記憶に絞られるのだから、どちらかを 択ぶなどとゆう、そんな提案と、あるいは記憶領域について、その上で 夢の強さを活動自体に明るさで支配し、薄めれば良いのだった。
仏壇とゆうか、違い棚みたいなところに、古銭で造形された仏像のあって 仏舎利のようなモノまで入っているのでは?など、モノモノしくも 感じられる、その横には、セージ葉を日本酒に漬けたり、または 毎日のお茶などを供えているのだった。それは、曽祖母の若い遺影の 置いてあった、事実上かつての仏壇であったので、そうした 記憶の一端に、何かしら僕の記憶を仕事に換えるほどの転換ポイントを ONスイッチに押し掛けておいては、また、このラビリンスざまの自分に。 自分の人生にスタイルなどあったのなら、軸のないケイオスに対して。 もどかしい、情念の夜の世界に訣別してゆく、これは、眠りに入れば、 必ずも忘れられる類の記憶であるので、むしろの無論のことには、 決して忘れられることのなかったカーマローカを、もうすぐに。 眠りに就いて忘れてしまう。そう、そうなのだ。そうなのだった。
沢山のドリンクメニューを、考えていた。ホワイトカプチーノ、 クリームチーズオレ。デカフェ烏龍ドリップ珈琲豆乳のきな粉砂糖添え。 そろそろアイスドリンクに替える前には、デトックスざまのホットなのは …

エーテル的観照とは何なのか?鉱石ラジオにとっての電波。

基本的には人類の頭脳が抱えられて、重心の上方知的に営まれてから、
人類には、ラジオ電波受信の行き方は要らなくなったのだった。例えば、 それら、エーテル的観照とでも置いて、それを鉱石ラジオのようなモノと してみれば、知的把握な生き方からは、到底計り知れない闇の論理を、 受信形態には、覗き見ることになるのだった。そうして,また受信する生態心理にとって 人類一般の営みは、地獄のようなのである。それらは、クラゲにとって 知性とゆうロゴス体現みたいなことは、刺激の露骨にはげしい電熱線の そんなのに、映るに違いないのだ。しかしながら,まさに人類にとっての
あの,軟体生物の南国刺激系パッションフルーツのような,冥暗の交響楽は
これがまたヤミツキになる,生命論理と呼べる秘密の鍵を隠している花園で。
それらは,事実としての”軟体生物=腸内環境=生命論理”に対して,例えての
”ロゴスナノPC=頭脳知性=エンタメ感情態”のようにして対比できるものなら,
あの出雲おおやしろの大鳥居を潜って,境内の馬鹿デカい情緒に触れるような,
そんな心地で観照に浸る。この,遊興にはエンタメ感情態とゆう参道詣でのあり,
そうして,全体性としては,一貫して神々しいエーテル的生命論理の被覆してる,
この,上空に近く僅かの脳髄に支配されているようでオプティミズム。そのまた,
地球の鉱石ラジオは,アースキーパーとして生命を支配してる,いや,保護する。
なので,人体は,楽観的にエンタメと,中央知性に与するべきではある,しかし,
知性には,根本的に,知性を支えるカオス理論のあることを然るべきモノとして。

また,傷を体得しようとする慣習は何かしらあるようである。それは,僕をして,
裏宇宙の住人のような気にもさせる何かで。恋するトキメキに疲れて,緊張不安に
苛まれる心配性に飽和されていつしか全体主観に煩う指向に,辟易もして翁みたく,
もう無我恬淡に落ち着く心持を呈してくるのも否めなくもない。キリスト教神秘主義に
どこかしら,カオス理論へ嵌り込ませて,挙げ句システム的モラルへ帰還させる向きと
変りなくどこかそれは,奥州平泉に藤原清衡の花咲かせ,法然の無念態へと跳躍させる
北畠親房の趣好は仏師めいていてまたその,信玄墓に菱形のモノあれど,それは栄華の
証拠として遺品とすれば良いのだと,五輪書には描かれているのごとくにして。松…

ミシャグチ荒神ミナカヌシ、ドゥルガー女神のような虎とは?

トグロを巻いた蛇に芯のように、積極的でヤル気の神は、重心に位置する虎である。積極的に生きるのは、段々と解除されて、いまや、空間に呆然と融けている。 ソフトクリームを食べて、にんまり笑顔でいれば、そうやってにこやかに、 すこしずつ溶けているのは、私でなく、やはり、ソフトクリームなのだ。 なぜか、お店番をして相手にしていたお客さんにお礼を言っているあいだに 別のお客さんにカシャッと激写されたことに、料理の装い方に間違いが? など、疑問があったり、または、お茶の出し方の合格ラインだったのか? など、そんな妄想を繰り越して、段々と解除されては、1日は過ぎるのだった。 たまの休憩に、お茶をすすって、基本的にはお手洗いには一度くらいしか 通っていなかったことに、ふ、と夕暮れに気付いたりして、給仕する生業など、 きっとそれはクラフトに親いような、何のクラフトか、と言えば会話の記憶。
夕暮れすぎ、小麦のお菓子が欲しくなって、世界に融けてしまえば、 ミシャグチなども輪郭のみ、その姿は中心の虎の影を落として、まずは 炎の後背に、まず我が身を捧げる不死鳥らしいドゥルガー女神の 虎の像のあれば、それはやはり柔らかいコミュニケーションの その裏に、そのまま鏡の映す形姿はコンスタントを追究する 事務作業的継続精神で、義務感責任感のたぐいで、それでまた、 朝型の暮らしにして想う、あの神経症の快癒は早朝のお湯に浸かって、 ソフトクリームを食べんと欲す、そういやあ、もう忘れてしまって、 身体の温め方を、どうやってどこまで上げたら暖めたのか、そんな 大蛇の行き方は、居場所論の上では、きっともう中心点の虎の積極性に 還ってゆく、それらは温まった身体を保証して、多分またそれは、 懐かしの本来の居場所論に、接客のクラフトに還ってゆくのだった。
キッチンでは、炎の燃え立ち荒神さんは、やっぱり女神や虎のミナカヌシに 共通の下降線を描いて、大豆などはほぐれながら、たんぱく質の元へ、 戻ってゆくのだった。炎の性質などは、もうすぐに五穀豊穣を示現して、 その本質は、夕暮れの精神安定する放心めいた、安堵の脱力感へ納まる。 夜更けて、お笑いの番組をみながら、お喋りを始める心地は、もう 途中で就寝時間を迎えながら、週末は皆もう温浴状態の放心めいて、 リズム、テンポ、ライム、天ぷら、茶碗蒸し。テンペも納豆めいた、 大豆食品だったなあ。夜に渡って、無意識に会話する休息のカルマヨーガ…

物書きを証左する,情熱と悲壮にはソフトクリーム。

溶けやすいシャリシャリのアイスクリームのような,
そんな感じがベストと言えばベストだ。あんな感じは
潔癖症になっている感性に対して,何をか,諭してる。
環境問題とはゆうけれども,環境がヒトを造り,そして
ヒトの想いは,また固着させる環境造りを推し進めて。
もちろんのこと,先立っては環境の始めにある,として
歴史は何に先立つのかは置いておいて,まず身体性は
環境のまずもって用意されてて産まれてくるのだから。
環境によってヒトは造られ,環境をヒトの想いによって。
スタートしたスパイラルは止められないのだけれど,また
それらを換える異端もまた産まれてくるのはヒトの世の常。
この連鎖に対して,共感体質によって,何らかのONになった
スイッチにより地域性=環境を,体現しつつ無化するような
そんな器質で転換させる存在もまた,現在誕生しつつあろう。
どこかで,遠鳴りのようにサイレンの聴こえる,デトックス。

ケルトの文化や,ドルイドのストーンヘンジのように,結界によって
悪魔を妖精に安定させ,妖精を悪魔に帰還させないそんな受容もまた
必ずしも捨てられるべき嗜好ではないのだろう。一度,デトックスの
起こって,市街地の安定した一個の界隈では,そんな魔術的な会話も
発生してもあながち驚かれることではない。緑茶の葉を好きこのんで
噛みながら,あの碧の匂いに浸される初老の貴族紳士のように,この
一隅では鉱物精製の何か忘れさせてしまう何らかのマジカルな発想を,
こうした植物的なスピリチュアリティによって,初夏の陽差しに溢れた
ノスタルジック・ウッディな境涯へと飛翔させる,それは熱波の訪れ。
なので,お茶の研究に没頭する時間など,庭にプランターで育てながら
ハーブや薬膳の研究没頭して,熱波の訪問を探りながら日を浴びるあの
瞬間などは,とっても大事であるように思われるのだった。基本的には
細胞分裂の終わった,日本人としての体質には,終わったと言うなれど
成長時期を修めたと表しても良い,その食文化期を過ぎたのならば,あとは
お茶の嗜好研鑽に努めても好い気のする夕べ。これはグルメによって身体を
造る時期よりの夕べ。本来の嗜好や食事などはここより始まるといっていい。
これらを,お茶っ葉を胡麻油などで炒めて食べるあの調理などと比較する。

例えば,天之御中主=藤原清衡=法然和尚=北畠親房=武田信玄=宮本武…

鈍重とゆう言葉は,仔馬と鼻突合せ,白梅に嗅ぎ付ける心地

灯油缶を補充することも少なくなってきた日柄よりの,その
プッシュしなければ沢山の給油はできない空気圧のように,
アイデア=またイデアなども至って鈍重に貯め込んでいた方が
一瞬の閃きなどの瞬発力は,きっと,高いのに決まっている。
鈍重とゆう言葉は,仔馬と鼻突合せ,白梅に嗅ぎ付ける心地で,
そのゆっくりとした姿勢を保持しながら,至って穏やかに進む。
プラテーロとわたし,あのヒメネスの詩にあって,タンポポの
白い綿毛の隠喩や,そのホカホカとアマンドなメタファーは,
もう,そのゆったりとした知的な構え方を理想的に諭すのだ。
灯油を注いで,黄色いタンポポになった気持ちで,世界の中心に
座してみる。これは,春の陽気にわたしだけしかいない,あんな
位置する所の座席すべての,この我が地球となるのは,意外だ。
これは,自家製フェイジョア&キウイの酵素シロップを、納豆菌のリンゴ果汁酵母で合わせて、ウーロン茶で割る、 何かエリキシール・モクテルとでも呼べるような飲み物で、 週末のねぎらいに、呑んでから、9時までに眠る生活にて、 納豆と豆腐に、お味噌汁で、夜は済ませて、三十路半ばにもなれば 消化も、細胞分裂の終わった身体に必要ないものは摂らない、 けれども、誕生日の祝いに頂いた、お寿司のセットを、 明朝4時くらいにはたべようと、そうやって荷物をすこしずつ 降ろしてゆくのだった。
子供たちが、マザーテレサや、キング牧師の話をして、 ガンジーの話題で、不服従とゆう言葉を語るときの、 僕の安心と信頼感は、計り知れないのだが、 そういった話をすることの出来る年頃の姪っ子などに、まだ 先の誕生日には何を贈ろう、などと鑑みる心地は、例えば アナトール・フランスの少年少女は、三好達治・訳による、 素晴らしい本だし、R.シュタイナーの、泉の不思議とゆうメルヘンも 季節感を感じられて、実際には、この初夏をこれから感じるには もってこいのファンタジーである、と感じるのだった。
ひとつの世界のなくなる、とは、その記憶を忘れる。とゆうことに 等しいはずで、イザナミの国を出る男神の記憶はその時点で なくなっている。僕には、朝活によって、ひとつの世界の失われた 気のする、軽い心持ちの早晩もうすぐには、記憶を忘れる そんな瞬間の訪れる春の夜である。さざなみのごとく 梢はゆれて、しずかな新緑の匂いの渡ってくるときには、 僕らは、そうして培って来た、ひとつの青春を失…

リゾットにジャコと,お醤油を掛ける自失しそうなお昼に

白菜の中華スープが残っていたので,オリーブ油とミルクと,
あと,明太のソースを加えて,リゾットを調理してゆくのだった。 そうして,ジャコに醤油を振り掛けて,頂く昼には,春のノドカさ, 茫然自失してしまいそうな,春のノドカさ,意識を失ってしまえば 例えば,良いモノでもないのだけれど。この不可思議な茫然さには, 何故かコメディ調にバッハ:クラヴィーア曲集の響く,やっぱり念願の グールドによる演奏を集めて,ストリーミングさせて頂いております。
意識を失ってしまえば,とゆうのも,ここでは何と言うか,あの脱落と 禅では呼ばれる感覚によって,例えば世界のガラリと換わる瞬間のあれば, それらはことごとく,この自失する感覚なのでは?など,諧謔を込めて語る 禅語とゆうのは,それは茫然自失も這入るのでは?など,発想を詰めて喋る
明太の中華リゾットは,そんな昼にも,もってこいの中和した幻想誘発体で, それは,それでいて。お茶をぐいっと食後に飲んだら,あとは,日暮れまで あのヒバリの飛翔を待ちわびて耳を傾ける。自失する前に,低血糖だったのか? リゾットを食べればガゼン目の覚めてきて,さっぱり意識は頑強に戻って行く。
リゾットにジャコと,お醤油を掛ける自失しそうなお昼に,魔境とは常識的に ストイックさそのものであり,自失しそうな低血糖を,苦行そのもので解決する, 克己感性の賜物。上昇志向の,また,禁欲主義によって,意識を転換しよう,と 試みる,一種の茫然自失関連の何語かを,禅林句集の中に検索してみよう,と思う。
緑のハンガー(衣文掛け)が好きで,ふと,食後の緑のエコボトルの傾いて倒れる。 この瞬間に,エゴは折れたのだ。折れたエゴは葦の一本で,知性的には人間と化した。 そうやって,克己する自らのストイシズムと,グルメ志向によって,闘って行く。 孤独な,あるいは一人でゆく,食事に関するデトックスと整腸問題の闘いは,誰よりも 自己自身の解決法によって,解除して行く,トラウマと歴史と浄化作用のテーマである。

アセンションとゆう言い方の流行状態にあって,実はディセンジョンの方にこそ
秘密の鍵は隠されていると気付いた人は,きっと,ご飯が好きで,油揚げのお気に入りな
稲荷神のような方だったと推測する。意識の転換は,望めば誰にでも可能でそれは剽窃を
飄々と行うような,シンプルで簡略する道である,とをば,気…

寝ヨガなるモノを実践して寝グセを着けるシャーマンの

地球とゆうこの大きな泰山を抱えて眠るのは、 巫病と呼ばれるシャーマン気質に推されてすすむ まるで、身体を十字のはしるような、気分解除。 本来は、スピリットの付き合いも、友達同士の面と 向かって、お茶をする感じで、帰依などする必要は ないのかも知れない。手挽きミル挽きも,メモ書きも 画像編集など,写真を私家通貨に換える作業も,何故か 満腹の時にしか行えないのは不思議なのだけれど。また, その風邪を引かないために,防寒着を着こむことに関して 薄着に倣ってしまうボーイッシュな健康着もあるわけで, 一概に良いものは限定できないのだった。健康解除,或は 身体を十字の走った先には,三島文学の木戸孝允旧宅を訪れた 追憶との多重感覚,とは。マキャベリズムに,フィレンツェの 丸屋根サーモンピンク照り返る夕暮れ時の安宅関に勧進帳と, 天使画を描く修道士には,堅牢な文学お籠り。弁慶,サド。 また,点描するフラ・アンジェリコ。秘密の庭園でフローラ。
何故かしら,川端翁より,三島文学にいたるのは,不可思議な 道程ではないように感じるけれど,ネタを貯めこむことには, 一切に疑問の余地はないにせよ,訪れる春の陽気にのどかに, 脳のフィルターも融け込んでしまう,そんな湧水の汲み所の 周囲に散歩しながら感じる忘我の一瞬もあって良い気のする。 それは,気の付いた頃に目覚めの起きるために,天神さんの 用意してくれた,ギフト・オブ・プレゼンス。のどかさに, 我を忘れてしまいましょう。寒暖の差は,暖まるためにある。 そうやって,日の過ぎる頃に一日の振り返りをしてみると,また あの,芥川先生も仰っていた,折節に現れる女性の影像。彼女は 神功?また,イザナミ母神?そうして,アマテラスさん?など, 女性の原型は,その産褥などのシンボル形象に当って,必ず贖罪の モチーフにならざるえない人生訓のあって,そうして,こうして 神社やフラワーパークなどを歩いて,自分の罪業について考える。 アレクセイ・ミハイロヴィチとゆうモスクワ大公の肖像に我が映し鏡は 語ってくれたり,しかしながら,ベートーヴェンや,トルストイ,また ソクラテスなどの,貴族の源流は背負いきれない重荷から,すぐに想像を 止めてしまう。降ろした荷物からは,やはり,イザナミ母神のように, 細雪の谷崎,白化粧の高杉晋作。八代吉宗や,光明皇后などのまかないきれな…

カップ&ソーサーに木漏れ日の鏡に映る肖像

思い通りにいかない、ゆかないようにするのが
良いと言うより、不感症気味なのが仕合わせである。 とは、みごとに青春より朱夏への入り口に立つ人の 言い得て妙なる言説だったのだ、と。早晩、あの カップ&ソーサーに木漏れ日が落ちて、鏡面の自画像を みるに当たって、思う。ただ、思い通りに描いて、 表現することに、ただ自由と喜びを感じる分には 表現することに関しては、思い通りはベストなの かもしれなかった。
この世は、金星の三島=芥川の世界領域と、 あるいは火星の太宰=漱石山人の管理領域に、 分れて、それぞれ金星の知性とまた火星の感性情景による、 双子宇宙に両立されては存在する、知性への傾きにすすむ、 ロックとクラシカルに丁度、ジャズで中間領域をすすむ、 地球の架橋によって。そうして、その結び目の地球の番人には 大谷崎=萩原朔太郎式のイザナミ=大猪神などの山が そびえてるような、そんな景色を想起するのだった。
火星の冥界付近には、北斎=真田丸の、デモーニッシュな 鬼才も集まる、そういった熱い場所もあるだろうけど、 みたまやオロチなどの信実まっ直ぐな想いそのものも 存在してこその、知性や感情の在処である訳です。 また、垂直に、月の原型状態を示す、堀=立原の友情には 薔薇の咲くような棘と痛みを跨ぐ、ロマネスクのありて、 そうして、何処かに彗星の尾を曳いてしめすのは 核心のコアを秘める、何処かの星の、あの固着する、 物質的スピリットの、川端翁=坂口安吾らによる、 肝臓を、して臓腑に世界を宿らせる野性酵素の法則を 運んでいるような、世界の始まりを思い起こさせるのです。
僕はもう、ペシミストよりセンチメンタリスムスを 眺望する過ごし方に、少々食傷してしまっている 飽和し、手放している趣味を、こうして、神話は 振り返るキッカケを与えてくれるので、餡入りトーストを 頂きながら、ただ単純に、肝臓はミクロにマクロを 包括する、大宇宙はここに、閉塞し、そうして解除されれば もう、すぐには還らないまでも、僕の古里はこの 信州ならず、信州めいた風を吹かす、五輪書を法然院にて ながむる信玄墓とばかり、古都や、美しい日本の私など、 読み耽る追憶の彼方に、聖マルコや、ホムダワケの、ああ それで、いつも神功の影を追っていた心意気のあったのだ、と。
ついぞ、出雲神話に女性の影をひそめてどこかで、 追従する暮れの遥か、その産褥の元は、この応神悲誕の 今昔おもひ…